(↑写真:仕事場へ向かう道の正面の、まぶしすぎる西日)
森田宏幸です。
今日は、2009年12月25日です。
私の2009年は、例によって忙しく暮れていくようです。
2年前「ぼくらの」をやってた時みたいに、寝袋で泊まり込むようなことはないけれど、
生活の時間帯が、ジリジリと後ろにずれてきつつあって、でもなんとか踏みとどまっているような、そんな感じです。
今日は「13話によせて」を書くつもりだったのですが、準備が固まっていなくて気が重たいので、のちのち書こうと思ってた、17話の支配者のことについて、書こうと思います。
と、その前に、
べつに、「『11話によせて』を書きました」に届いた、上から6番目の失礼なコメントに応えようというのではない。
この手の名無しは、どうせ二度と読みに来ないとも思うし。
だけれど、今になっても「支配者について書いて欲しい」」と書いてくる、この誰かのコメントは、私のブログに集まる多くのコメントの一部で、ある種の傾向を示した、分かりやすい例だと思ったので。それを指摘します。
かつて、私が、乱暴な言葉で自分の考えを書いたせいで、多くの皆さんが怒った。それは私のせいだから、仕方がない。
けれど、ある時期から、いろいろな手を使って、なんとか、私を貶めようと、工夫の凝らされたコメントが目立つようになって、それも全然いいのですが、
その手口に、ある種の傾向が見られるようになって、それが気になりました。
それは、まるで、「役所に苦情を言うみたいなコメント」のことです。公共の機関だとか、政治家に苦情を言うみたいな。
「納得のいく説明をして欲しい」とか、いう書き方がそれです。
私は、公務員や政治家とはちがう、普通の人です。だから面倒な建前も持たない。
おそらく、私は、ここを読みに来る皆さんが、想像されているよりも、ずっと自由です。
そして、皆さんの、支持を得られなければしょうがないという、覚悟も持っている。
自由にものを作って、書いて、やることがなくなったら、潔く姿を消す。
支配者でも、売春婦のことでも、ヤクザの話でも、ジアースの目の数も、何話かで、キリエを書き忘れたことも、だいたい、正直に書けます。
少なくとも、作品の内容について、隠さなければならないことなど、ほとんどない。
たしかに、スタッフや関係者の、特定の個人に迷惑をかけるようなことは、書けないけれど、
自分自身の、考え方については、書けないことはない。
タモツや支配者のことに触れられたら、森田は困るだろう、と、鬼の首を取ったように、自信たっぷりに、このコメントの誰かは思ったのでしょうが、全然。
あと、私のまわりに、複雑な「オトナの事情」を空想したコメントも時々ある。
いろいろな好ましくないしがらみに、大人たちが縛られていると思いたいらしい。
過激な内容は放送できないから、こう変えたのだろうとか、私の制作姿勢を、揶揄したつもりだろうけど、なんのことやらさっぱり。
「放送できるか出来ないか問題」にあるように、たしかに、「放送的には大丈夫?」とかいう対話は、現場でよく交わします。
放送は、視聴者に一方的に流されるものなので、そのへんの配慮です。
しかし、それは、前向きに乗り越えるべきこととしてしか意識しないし、
制約があっての仕事だし、そもそも、細かい話でしか、そうした制約はないのです。
アニメーション作りの現場というものは、比較的自由なのです。
これは、実写との比較でも言われることで、アニメーションは、絵ですから、そもそも最初から表現が抽象的で、昔、ヨーロッパの国々などで、全体主義が横行した時代でも、アニメーションは比較的自由が許されたとか、そんな話も聞きました。
「アニメ」は嘗められている、ということでもあるかも知れませんが。
私は、最近、実写映画の現場の話を聞くことがあるのですが、たしかに、実写映画のほうが、アニメーションより、外からの制約が厳しいようです。
だけれど、そうした問題で、大人というものは、堂々と、膝詰めで話し合って、前進する。
そのようなものなのです。若い皆さんには、それを学んで欲しい。
スポンサーとの関係とかなんとか、オトナの社会なんて、所詮、こういうもの、みたいな、態度のコメントにはうんざりです。
語弊を承知で書きますが、これはきっと、日本の学校教育が、失敗しているのだと思います。
といって、学校の先生方を悪く言うつもりはありません。
学校というところは、社会からとても大きな責任を負わされていて、その、組織の、しくみが、複雑にならざるを得ない。
学校の先生方は、そうした組織のしがらみや、建前にしばられて、子どもたちの前で自由に振る舞えないケースが多いのではないか。
それを横目に見た若い皆さんは、「オトナというものは、どのような時に困るか」ということについて、分かったような気になって、
その方法論をもって、私にコメントを書いてくる。
そのようなことではないかと、勝手に想像しています。
そうした、国の、教育のしくみに、飼い慣らされたように見える、このブログの一部の読者の皆さんが、私は心配です。
支配者の話でした。
まず、この支配者は、私たちと同じ、人間だということです。神でもなんでもない。
地球の人間と同じ姿をしている。
そして、大きな家族を持ち、愛情を持って暮らしている。
相当に頭がいいという以外は、会えばとてもいい人たちですが、
自分たち家族の利害を守るために、外へ向けては何でもする。
シリーズ構成に取りかかったスケジュールの最初の頃から、このコンセプトは、私の頭の中にあったのですが、
絵的なイメージはありませんでした。
彼らはどんな姿をしているのですか?というスタッフの質問に、私は、その場を乗り切るための思いつきで、
「ゴッドファーザーの、イタリアマフィアのファミリーみたいな連中じゃないか?」
と、言いました、すると、それが、意外にも、反応が良くて、ビジュアルイメージのとっかかりになりました。
特定の人種ではないほうがいいから、まぜこぜの有色人種ということにしたけど、迷って、肌を暗くし過ぎてしまった。
肌色は微妙なので、決めるのが難しいのです。
DVDバージョンでは、少し明るくしてます。
インド人か?という指摘が、コメントにあって、それがそのまま、私の演出センスを揶揄する言葉になりましたが、よく分かりません。
前にも書きましたが、インド人というのは、悪くない想像です。インダス文明と、仏教と、数学の基本的な概念が、たしか生み出された地域の人たちですよね。日本人なんかより、意識の高い、優秀な人たちだと思います。これから、中国やインドなどの、アジアの時代になる、とも云うし。
少なくとも、私たちの社会の、上層に君臨する権威を、特別な、人間ではない存在だと思いたがる世界観に、私は興味がありません。なので支配者は、普通の人間となりました。
たくさん集まったコメントの一部の、ある種の、特徴的な傾向について書きましたが、現実の社会の支配層も含め、大人の社会はあくまで自由だと、このブログを読んでいる若い皆さんに伝えて、今日は終わりです。
森田宏幸です。
今日は、2009年12月25日です。
私の2009年は、例によって忙しく暮れていくようです。
2年前「ぼくらの」をやってた時みたいに、寝袋で泊まり込むようなことはないけれど、
生活の時間帯が、ジリジリと後ろにずれてきつつあって、でもなんとか踏みとどまっているような、そんな感じです。
今日は「13話によせて」を書くつもりだったのですが、準備が固まっていなくて気が重たいので、のちのち書こうと思ってた、17話の支配者のことについて、書こうと思います。
と、その前に、
べつに、「『11話によせて』を書きました」に届いた、上から6番目の失礼なコメントに応えようというのではない。
この手の名無しは、どうせ二度と読みに来ないとも思うし。
だけれど、今になっても「支配者について書いて欲しい」」と書いてくる、この誰かのコメントは、私のブログに集まる多くのコメントの一部で、ある種の傾向を示した、分かりやすい例だと思ったので。それを指摘します。
かつて、私が、乱暴な言葉で自分の考えを書いたせいで、多くの皆さんが怒った。それは私のせいだから、仕方がない。
けれど、ある時期から、いろいろな手を使って、なんとか、私を貶めようと、工夫の凝らされたコメントが目立つようになって、それも全然いいのですが、
その手口に、ある種の傾向が見られるようになって、それが気になりました。
それは、まるで、「役所に苦情を言うみたいなコメント」のことです。公共の機関だとか、政治家に苦情を言うみたいな。
「納得のいく説明をして欲しい」とか、いう書き方がそれです。
私は、公務員や政治家とはちがう、普通の人です。だから面倒な建前も持たない。
おそらく、私は、ここを読みに来る皆さんが、想像されているよりも、ずっと自由です。
そして、皆さんの、支持を得られなければしょうがないという、覚悟も持っている。
自由にものを作って、書いて、やることがなくなったら、潔く姿を消す。
支配者でも、売春婦のことでも、ヤクザの話でも、ジアースの目の数も、何話かで、キリエを書き忘れたことも、だいたい、正直に書けます。
少なくとも、作品の内容について、隠さなければならないことなど、ほとんどない。
たしかに、スタッフや関係者の、特定の個人に迷惑をかけるようなことは、書けないけれど、
自分自身の、考え方については、書けないことはない。
タモツや支配者のことに触れられたら、森田は困るだろう、と、鬼の首を取ったように、自信たっぷりに、このコメントの誰かは思ったのでしょうが、全然。
あと、私のまわりに、複雑な「オトナの事情」を空想したコメントも時々ある。
いろいろな好ましくないしがらみに、大人たちが縛られていると思いたいらしい。
過激な内容は放送できないから、こう変えたのだろうとか、私の制作姿勢を、揶揄したつもりだろうけど、なんのことやらさっぱり。
「放送できるか出来ないか問題」にあるように、たしかに、「放送的には大丈夫?」とかいう対話は、現場でよく交わします。
放送は、視聴者に一方的に流されるものなので、そのへんの配慮です。
しかし、それは、前向きに乗り越えるべきこととしてしか意識しないし、
制約があっての仕事だし、そもそも、細かい話でしか、そうした制約はないのです。
アニメーション作りの現場というものは、比較的自由なのです。
これは、実写との比較でも言われることで、アニメーションは、絵ですから、そもそも最初から表現が抽象的で、昔、ヨーロッパの国々などで、全体主義が横行した時代でも、アニメーションは比較的自由が許されたとか、そんな話も聞きました。
「アニメ」は嘗められている、ということでもあるかも知れませんが。
私は、最近、実写映画の現場の話を聞くことがあるのですが、たしかに、実写映画のほうが、アニメーションより、外からの制約が厳しいようです。
だけれど、そうした問題で、大人というものは、堂々と、膝詰めで話し合って、前進する。
そのようなものなのです。若い皆さんには、それを学んで欲しい。
スポンサーとの関係とかなんとか、オトナの社会なんて、所詮、こういうもの、みたいな、態度のコメントにはうんざりです。
語弊を承知で書きますが、これはきっと、日本の学校教育が、失敗しているのだと思います。
といって、学校の先生方を悪く言うつもりはありません。
学校というところは、社会からとても大きな責任を負わされていて、その、組織の、しくみが、複雑にならざるを得ない。
学校の先生方は、そうした組織のしがらみや、建前にしばられて、子どもたちの前で自由に振る舞えないケースが多いのではないか。
それを横目に見た若い皆さんは、「オトナというものは、どのような時に困るか」ということについて、分かったような気になって、
その方法論をもって、私にコメントを書いてくる。
そのようなことではないかと、勝手に想像しています。
そうした、国の、教育のしくみに、飼い慣らされたように見える、このブログの一部の読者の皆さんが、私は心配です。
支配者の話でした。
まず、この支配者は、私たちと同じ、人間だということです。神でもなんでもない。
地球の人間と同じ姿をしている。
そして、大きな家族を持ち、愛情を持って暮らしている。
相当に頭がいいという以外は、会えばとてもいい人たちですが、
自分たち家族の利害を守るために、外へ向けては何でもする。
シリーズ構成に取りかかったスケジュールの最初の頃から、このコンセプトは、私の頭の中にあったのですが、
絵的なイメージはありませんでした。
彼らはどんな姿をしているのですか?というスタッフの質問に、私は、その場を乗り切るための思いつきで、
「ゴッドファーザーの、イタリアマフィアのファミリーみたいな連中じゃないか?」
と、言いました、すると、それが、意外にも、反応が良くて、ビジュアルイメージのとっかかりになりました。
特定の人種ではないほうがいいから、まぜこぜの有色人種ということにしたけど、迷って、肌を暗くし過ぎてしまった。
肌色は微妙なので、決めるのが難しいのです。
DVDバージョンでは、少し明るくしてます。
インド人か?という指摘が、コメントにあって、それがそのまま、私の演出センスを揶揄する言葉になりましたが、よく分かりません。
前にも書きましたが、インド人というのは、悪くない想像です。インダス文明と、仏教と、数学の基本的な概念が、たしか生み出された地域の人たちですよね。日本人なんかより、意識の高い、優秀な人たちだと思います。これから、中国やインドなどの、アジアの時代になる、とも云うし。
少なくとも、私たちの社会の、上層に君臨する権威を、特別な、人間ではない存在だと思いたがる世界観に、私は興味がありません。なので支配者は、普通の人間となりました。
たくさん集まったコメントの一部の、ある種の、特徴的な傾向について書きましたが、現実の社会の支配層も含め、大人の社会はあくまで自由だと、このブログを読んでいる若い皆さんに伝えて、今日は終わりです。
日本人もインド人も色々なのに何で一括りにするの
可愛いそう。犯罪者の本棚に、自分の書物が
あった、みたいな。
原作…正体とか謎だけど俺たちには関係ないから気楽に戦おうぜ
アニメ…あのオッサン達なんだか解らんが勝てそうにない
そういう印象に感じた
それと同様に、支配者も彼らの認識では自分の宇宙、もしくは一定数の宇宙を存続させるための必要悪として、完全に割り切って宇宙を淘汰させて、生きているのかもしれない。と、勝手に想像したりして、自分も楽しめました。
同じ地球上でも、違う国の人達が死にそうな生活をしていようが無関心な人が大半ですし、そういった人から、自給率も低く、特にそういった人々から搾取して生きてるのが日本人です。
そう考えていくと様々な事に納得がいきました。
原作を逸脱しようが良いものは良い。
私の主観ではそう感じました。
いい大人の人たちのだったのではないでしょうか。役所に苦情を言うのは何も知らないこどもではなく大人ですから。
>日本人なんかより、意識の高い、優秀な人たち
こういう言葉に対して何も思っていらっしゃないのでしょうね。
嫌味でも何でもなく、この言葉が重く感じました。
クリエイティブなものって、どこかそれまでのタブーみたいなものを、新しい価値観で壊していく側面があると思うんですけど、なんか、こうやって表に出てくる意見って、学校のホームルームみたいになっちゃうというか…。誰それに迷惑がかかるからやめなさいみたいな。
なんなんだろうな、そのほうが数を味方につけられると思ってるのかな?でも数を扇動して自分の意見を押し付けるって、ファシズムですよね。
教育の問題なのかどうかはわからないですけど、時代の閉塞感なのかな。
僕なんか、ニコニコ動画にアップした動画でちょっと挑発しただけで、フリーのアニメ制作ソフトの作者に謝れみたいな勢いで罵倒されましたよ。こんなことに使いやがって、みたいなノリで……。
「ぼくらの」と関係ないコメントですみません。
支配者の発想の貧弱さには何もいうことはありません・・・。
ヤクザに関してもこんな調子っだたんだろうと簡単に想像できました。
監督さんなりの信念を貫き、思いを込めた良い作品だと思いしました。
監督さんのコンセプトを貫く姿勢を勝手と仰るかたもいますが。
勝手なのは私たち視聴者も同じことです。
私たち視聴者と同じく制作される方々も人間です。
支配者が普通の人間であることと同じく。
作品にたいする思いは私たちと同じ筈です。
大抵の作品は構成やアイデアよりもキャラで引っ張っています。これはストーリーが上手いと言われている作品にも言えることです。
ヤクザを出してもキャラに魅力があれば全く問題なかったと思います。
しかし原作者に比べてキャラの作りが下手でした。逆にアニメの前半は原作者のキャラをプラスの方に改変できたので文句をいう方がいなかったんだと思います。
よく原作を改変して失敗したり、作品の2期や後半がつまらなくなった作品のは魅力あるキャラを壊している場合が多いです。それだけキャラっていうのは大切です。
これはゴンゾ作品全般に言えることが多いと思います。それで結局おもしろそうなのは前半だけで後半はイライラするだけという状態です。これは江川達也と同じで作家としての信用を失う行為です。
キャラの魅力を壊さずにストーリーを続けるのはすごく大変な作業です。これを長編にかけて続けられる作家というのは漫画家も含めて数えるほどしかいないと思います。
あえて言いたい。
本当のことだから仕方ないじゃん。
三流仁侠映画に出てくるようなヤクザや、
必要性など感じない支配者の存在。
それでどれだけバッシングを受けたか
お忘れですか?
とくに前者は、監督の力量を疑わざるを得ません。
好きだから出した、程度ならオリジナル作品で
どうぞ。原作つきで遊ばないでください。
原作者に失礼ではありませんか?
初詣に行って来ました
今年もご活躍を楽しみにしています
本当は森田監督に年賀状を出したいのですが何処に送ったらいいかわからずに今年も断念…
ファンレターもここになっちゃうのかな
>「キャラデザとゆるい部分を変える」
それ言ったのは、そんな大口たたいてオリジナル作って大ゴケして監督も降ろされた別の人だよ。
まぁでもその人は、オリジナルで勝負しようとしただけマシじゃないかな。
それ「自由」じゃない
「勝手」や!
なぜ『ぼくらの』のアニメに怒った人がいたのか、森田さんのコメントに多くの人が食いついたのか。
「原作」というものに対してあまりにもリスペクトが足りないというか、素材としか思ってないように思えます。原作と違うものをやりたいのなら、オリジナルをやればいいのです。
森田さんが他作品、ぼかしてはいますが該当する作品が1つしかない「ラノベ原作でゆるいアニメで割と売れて2期が確定した」の監督になるかどうかで提示したとご自分でおっしゃっていた「キャラデザとゆるい部分を変える」っていうのを、覚えていらっしゃいますか? そこは変えたら駄目な部分なんですよ。『ぼくらの』を『らきすた』みたいにしたり、『らきすた』を『ぼくらの』みたいにしたら駄目だっていうのはさすがにわかると思うんですが……。
全般的に、原作への理解と、原作ファンがどこをどう楽しみにしているかに対して無頓着すぎます。それは作品全体にあらわれていて、ジアースが重々しく「動くべきだ」なんてのもそうです。あれは情報セルの書き換えでおそらく動いているものなんだから、物理法則にしたがって「大きいから遅いはずなんだ」なんてことはないのです。売春婦に関しても全部そう。「違う考えがある」「原作者はこう描いていた」っていうのを咀嚼しきれず、自分で理解できるようにしかしない。ここに問題があるのです。
原作がアニメ化するっていうのは、人気がある、支持されているっていうことなんですよ。その支持されている理由を考えずに変えて、原作より良くなるわけがないでしょう。原作より面白いものができるというのなら、小説でも書いてベストセラーにしてみせればいいのです。原作の力を借りずにね。
森田監督はセカイ系という言葉が(否定を含め)大変お好きのようで作品のテーマにすら優先するようですね
例のヤクザの下りで飛び交ったメアリー・スーという単語も調べてみると良いと思います
支配者の正体(何人で人となりがどうとかなんて表面的かつ低レベルでなく)のヒントもソコにある気がします
いずれ該当箇所の解説があるでしょうから楽しみにしてます
監督は実力ある方とお見受けしたので、次回作を楽しみにしております。
そんなんでリクエストというかなんというか。
ご存じかもわかりませんが、今度は完結しているところで
「愛人(アイレン)」田中ユタカ著
なんてどうでしょう。
今なら愛蔵版も出ております。
滅び行く世界でも人を愛することに意味はあるのか、と問う名著ですよ。
よろしかったら是非一読を。
あんまり過去にこだわってても意味ないですんで、次いきましょ、次。
原作が完結したんで一気読みし、ついでにアニメもレンタルで一気見しました。
ナカマの話とか、よかったな~。
上でなんかごちゃごちゃ言ってますが、漫画には漫画の、アニメにはアニメの良い部分があって、いいんじゃないですかね。
視聴者は感動に素直ですよ。
あのバカげたヤクザマンセーさえ無ければ
「好きなマンガがアニメになってそこそこ面白かったな」
で終わってたと思う。
支配者出しちゃった★なんて全然w
アニメ化なんてそんなもんだw
光点の数とかキリエとか単なる作画ミスじゃん
そんなとこつついてるのはバカだけだから気にしなくていい
>かつて、私が、乱暴な言葉で自分の考えを書いたせいで、多くの皆さんが怒った。
>それは私のせいだから、仕方がない。
あんな発言は単なるキッカケにすぎない。
あの
クソくだらない
ヤクザ展開さえ入れなければ
叩かれることもなかった。
これ間違いない。断言してやんよ。いちばん反感買ったのはアレだよ。
アレが面白いと思ったの?
引くわ
今さらぼくらのの話題持ち出してなにがしたいんでしょうか。
ヤクザやりたいならテメーで白紙から作れ
いい大人が、仕事でやってる原作付きアニメで遊ぶな
と腹を立てたのがもう2年前なんですね。
あんなに見たことを後悔したアニメは他にありません。
あんなものを知らずに原作を読みたかったなあ。
原作はみんなが納得する結末を迎えました。
よかったですね。
「支配者ってなんだ』って質問は
そう言う事じゃないと思いますよ。
間違ったシナリオだと言ってるんです。
そのシナリオの解説を求めてるんじゃ有りません。
「鬼の首取ったような連中」はソコがあなたが答えに窮する弱点で有ると思ってソコを突くのでしょう。
そこが酷い破綻だと言ってる視聴者と自信満々の監督は予想どうり噛み合ってませんね。
折角だから「作品」の反芻はしたいと思う。
もうクダラナイなじり合いなんか望んでないし
お互いに自重しようよ。
お互いにね。
さて
今回の話。
アニメには関係ない事だけれど
原作者はゲームの理由を「自然の摂理」にした。(ネタバレいいよね?)
これは「予定調和」かもしれないし
moriphyの「功績」かもしれないww
いずれにせよ原作者は偶像化を避け物語を結んだ。
それに対し
貴方は「支配者」という存在を現出させ
明確なヴィジュアルを与えたのだ。
当然SFファンはソコに食いつくし
エネルギー転送の為の既存科学を凌駕する理論や
それによる地球資源の略奪や枯渇など
世界観の理論側面の構築を期待していたのだ。
だからソコを「素通り」されると
2年前と同じく
「それは解ったから、その先が聞きたい!!」
となってしまうんだ。
その「優しそうだが絶対権力をふるう一族」の
目的は何なの?
って事。
放送当時、このブログでまともなコメントが出来た人というのは本当にごく一部の人だけだった気がします。
ほとんどの人がある種の熱に浮かされて作品を冷静に見ることが出来なくなっていたように思えます。
だから、森田さん、批判コメントをされた方、批判をさらに批判された方、その誰に責任を負わすことも間違いな気がします。
ただ当時誰かを傷つけていたということだけを自分は反省したいです。
もうそれで充分だと思います。