ながの おさみ 1880年6月15日生 - 1947年1月5日没
日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。(ウィキペディア 『永野修身』 のページから)
1941年9月6日の御前会議後、永野修身が統帥部を代表する形で語った内容が下記。
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。 しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。 しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。 戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。 そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
永野はアメリカという国を知る者として、軍事的外交の専門家として、会議の場では常に決まったいくつかの助言している。
まず、中途半端な態度で臥薪嘗胆をして交渉を長引かせたとしても何の解決にもならず、軍事、外交上、日本の立場を不利にするだけであること、
臥薪嘗胆で行くなら腹を据えてアメリカに譲歩するつもりで挑んだ方が良いこと、
戦うなら今以外に戦機はこないこと、
但し、海軍としては戦った場合、国力の問題から2年以後は戦う自信がないことなどである。
また、首相と外相には開戦に至らない様にする覚悟と勇気が政府にあるか言明を求めていた。
11月1日に行われた連絡会議で、最後の国策方針を決める際、東條首相が慣習に沿って、これまでに挙げられた
- 戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
- 直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する
- 戦争決意の下、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める
この時、永野は、第4案として「日米不戦」を提案。この際、陸海軍は矛を収めて政府に協力し、交渉だけで問題を解決する方針を提示した。
これに対し、東條英機首相兼陸軍大臣は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされた。
因みに東條陸軍大臣兼首相は、日米開戦の焦点となった支那駐兵問題については撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や木戸幸一内大臣と連帯関係にあった。
第1案に賛成したのは東郷茂徳外務大臣と賀屋興宣大蔵大臣だけだった。
これに対し、永野は政府が武力発動を放棄して外交だけで問題を解決することを言明しない以上、責任はもてないとして第1案には反対した。
この時、既に米国政府は日本本土に対する先制攻撃作戦を許可していた。
海軍は、日本周辺に大量のB25をはじめとする爆撃機が配備されつつあること、来年初頭には米陸軍の戦力配備が完了し、打つ手がなくなることをつかんでいた(『フライングタイガース隊』 を参照)。
永野は、幕末期の薩英戦争や下関戦争などに見られるように統制が利かない日本が主戦派主導のもと戦機を逸脱して日本各地で戦闘を実施し、なし崩し的に先の見えない戦争(本土決戦)が勃発していくことを恐れていたという。
第2案に賛成する者はなく。陸軍は作戦準備のため、第3案を選択。
結果、東條内閣(政府と統帥部)の方針は第3案「戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める」に決まり、外務省が出した乙案を基に日米外交が一方で行われることになり、国策方針が決定した。
◆ 私たち今の日本人に、護国に徹した日本精神 は残っているのだろうか。