つれづれ雑記

つれづれ:することが無くて退屈なこと
雑記:日常のことを何でも書きつづる

戸狩 高原院

2012-06-26 | 旅行
駅の案内所で聞くと高原荘のあるお寺まで歩くと30分くらいかかるという。 そうするとスキーに来た時は駅からバスで行ったのだろうが全く覚えていない。 イラスト地図をもらったが距離が正確じゃ無さそうだったのでタクシーで近くまで行くことにした。 美しい水田の中の農道を真っ直ぐ走ってスキー場付近の集落に直ぐに着いた。 高原院はこの集落の最も高い所でスキー場の脇にある。 この時期はあじさい寺として知られているようだ。

農業以外何もなかったこの地域にスキー場を開発したのは昭和35年。 高原院の住職らが中心となって企画し、民宿第1号も高原荘だったと、私が行った昭和46、7年当時よく聞かされた。 開設当初の民宿は1泊3食で300円の採算度外視で、お客を呼び込んだのが奏功し、スキー場は年々拡大してこの地域では野沢に次ぐ屈指のスキー場になった。 でも最近はスキー人口が減少し、近くの黒岩は閉鎖になり戸狩も危機に瀕していたのだろう。 平成3年には6年越しの温泉プロジェクトが成功し、今は全民宿に温泉が引かれ、戸狩温泉として通年の集客をしている。

私が行ったときも横浜の中学生の団体が大型バス7台で来ていて校外研修をしていた。 妙高や志賀高原はスキーでしか行ったことがないが、何処のスキー場も夏場のこの時期も集客に懸命で、やはり温泉は重要な魅力ポイントの1つだ。 集落を挙げて生き残りに賭けたプロジェクトがうまく成功したのだろう。

参道の石段を登り立派な山門をくぐって境内に出たが全く覚えていない。 記憶にあるのはスキーを終えて民宿に帰ってきたとき、お腹が空いていたので柿の木に取り忘れられた熟した柿をストックで落とし、雪と一緒に食べたことだ。 その柿の木は台風で枝が折れたそうで小さくなっていたが、まだ健在だった。 

野沢温泉側から見た戸狩スキー場


スキー場に続く農道


美しい水田が広がっている


高原院の山門 あじさいには少し早かった


民宿 高原荘


民宿前の柿の木


民宿の食堂 これも覚えていなかった


スキー場 横浜の中学生が大勢来ていた


スキー場のロッジ付近 ここは覚えがあった

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