「大好きが虫はタダシくんの」阿部共実/秋田書店がヤバい。

内容は著者のブログで↓。
http://blog.livedoor.jp/ikaruga99999/archives/cat_50041748.html
そもそも題名がヤバい。
おそらく正しくは「タダシくんは虫が大好き」だろう。
と書きながら、いや、「虫が大好きタダシくん」かもしれない
という気がしてきた。
もしかしたら「タダシくんの虫が大好き」か?
ファンタジックに「虫はタダシくんが大好き」もありか?
それならシュールに「大好きなタダシくんは虫」も許容内か?
…やめよう、基準がブレてきた。
と、このように日本語、特に発語の不愉快さに
遭遇してしまう漫画なのである。
私達が発している日本語がいかに不確かで
会話がいかに不毛であるかに気付かされてしまう。
主人公の発語には、色々なツッコミどころがあるが、
流れのままに会話を追っていると細かい間違いに気がつかない。
そのうえ、復唱するだけにも関わらず、
なんとなく会話が成立しているように見える不毛さ。
お互いに意思疎通が出来ていないことは
明らかだというのに。
かつての親友の高校での友達が登場すると、
別の問題が立ち現れる。
発語のブレは発語者の世界観のブレと見なされる、という事だ。
なぜなら、悲しい私達は
自分の世界を表す術を言葉以外に持っていないからだ。
つまり、理論でも感情でも、
アウトプットする時は言葉に変換するしかない。
変換が正常に行われなければ、
変換元になる理論も感情もブレていると認識されてしまう。
それがどんなに正当なものであっても。
この主人公の場合、感情は壊れていない。
理性は壊れかけている。正確にいえば壊れかけているがまだ壊れていない。
(状況は理解出来るが会話内容は理解出来ない、まだら理解の状態である。)
発語機能は壊れた。全く働いていない。
復唱の吹き出しと真っ白の吹き出しは、
自身の思考をアウトプット出来ないという意味で同義である。
そして、発語機能が著しくツブれているが為に、
「壊れている人」と認識されるに至る。

力なく道に膝をついた主人公が
かつての親友との会話をひとり反芻する場面。
かつての親友の「会えてうれしー」の一言に
自分を取り戻し、絶望の中にあっても再び歩き出す主人公は
ひどくまともな感性の持ち主に見える。
しかし彼女は社会的には「壊れている人」だ。
この辺りをどう取るか。
つまり「壊れたのに歩き出す健気な人」なのか
「壊れたのに歩き出すあぶない人」なのかが、
作品の好き嫌いを分けるポイントになるだろう。
所で、もう一点この作品について気になる事がある。
この作品はインパクトの強さもあって、
様々なブログやサイトに取り上げられている。
そこに寄せられるコメントが気になる。
もっと言えば、気にするべきだと思っている。
「コワい」「イミフ」「つまらない」等のコメントは想像の範疇だが、
一方で「これ解る」「オレこれ」「泣いた」等のコメントが意外に多いのである。
コミュニケーションに何らかの不安を抱えている人は案外多いという事だろう。
だとすれば、重要な問題を扱った作品だ。

内容は著者のブログで↓。
http://blog.livedoor.jp/ikaruga99999/archives/cat_50041748.html
そもそも題名がヤバい。
おそらく正しくは「タダシくんは虫が大好き」だろう。
と書きながら、いや、「虫が大好きタダシくん」かもしれない
という気がしてきた。
もしかしたら「タダシくんの虫が大好き」か?
ファンタジックに「虫はタダシくんが大好き」もありか?
それならシュールに「大好きなタダシくんは虫」も許容内か?
…やめよう、基準がブレてきた。
と、このように日本語、特に発語の不愉快さに
遭遇してしまう漫画なのである。
私達が発している日本語がいかに不確かで
会話がいかに不毛であるかに気付かされてしまう。
主人公の発語には、色々なツッコミどころがあるが、
流れのままに会話を追っていると細かい間違いに気がつかない。
そのうえ、復唱するだけにも関わらず、
なんとなく会話が成立しているように見える不毛さ。
お互いに意思疎通が出来ていないことは
明らかだというのに。
かつての親友の高校での友達が登場すると、
別の問題が立ち現れる。
発語のブレは発語者の世界観のブレと見なされる、という事だ。
なぜなら、悲しい私達は
自分の世界を表す術を言葉以外に持っていないからだ。
つまり、理論でも感情でも、
アウトプットする時は言葉に変換するしかない。
変換が正常に行われなければ、
変換元になる理論も感情もブレていると認識されてしまう。
それがどんなに正当なものであっても。
この主人公の場合、感情は壊れていない。
理性は壊れかけている。正確にいえば壊れかけているがまだ壊れていない。
(状況は理解出来るが会話内容は理解出来ない、まだら理解の状態である。)
発語機能は壊れた。全く働いていない。
復唱の吹き出しと真っ白の吹き出しは、
自身の思考をアウトプット出来ないという意味で同義である。
そして、発語機能が著しくツブれているが為に、
「壊れている人」と認識されるに至る。

力なく道に膝をついた主人公が
かつての親友との会話をひとり反芻する場面。
かつての親友の「会えてうれしー」の一言に
自分を取り戻し、絶望の中にあっても再び歩き出す主人公は
ひどくまともな感性の持ち主に見える。
しかし彼女は社会的には「壊れている人」だ。
この辺りをどう取るか。
つまり「壊れたのに歩き出す健気な人」なのか
「壊れたのに歩き出すあぶない人」なのかが、
作品の好き嫌いを分けるポイントになるだろう。
所で、もう一点この作品について気になる事がある。
この作品はインパクトの強さもあって、
様々なブログやサイトに取り上げられている。
そこに寄せられるコメントが気になる。
もっと言えば、気にするべきだと思っている。
「コワい」「イミフ」「つまらない」等のコメントは想像の範疇だが、
一方で「これ解る」「オレこれ」「泣いた」等のコメントが意外に多いのである。
コミュニケーションに何らかの不安を抱えている人は案外多いという事だろう。
だとすれば、重要な問題を扱った作品だ。