冷静であるよりも、(やたらと)「怒る」政治家が世界中で人気を得ているように見える昨今。感情をあらわにして訴えかけることが、なぜこれほどまでに現代人の心に響くようになったのでしょうか。
「アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治」(講談社現代新書)の著者で同志社大教授の吉田徹氏は、朝日新聞の紙面(2024.9.30)で「現代の政治は『感情の時代』に入っている」と指摘しています。今世紀に入り顕著となった、ヨーロッパでの極右政党の躍進や世界的なポピュリズムの台頭。多くの先進国でラディカルな政治の蔓延が一般化し、怒りを持った政治家が出てくるようになったのは、そこに「需要が存在する」からだと吉田氏はインタビューに答えています。
先進国でグローバル化が加速した1980年代頃から、製造業の衰退とともに中間層の没落が始まった。新たに雇用が創出されても、サービス業を中心とした質と賃金の低いものへと置き換えられていく中、「自分だけが損をしている」という相対的な剝奪感を感じる人たちが、政治的な党派を問わず増えていったと吉田氏は話しています。
氏によれば、そうした不満層をターゲットにしたポピュリズムは、「明日は今日より良くなるはず」という、戦後を支えた進歩の観念が決定的に失われたことで訴求力を持つようになった由。背景には、グローバル化以前の中間層が豊かだった時代を経験している人々の間に広がる、(その時代を原風景とした)「あの頃を取り戻してほしい」という後ろ向きの変革を求める心情があるということです。
激動の「現在」に強い不安や不満を感じるがゆえ、手探りの「未来」に希望を持てず、「あの頃は良かった…」と懐かしい過去に楽園を見出しているということでしょうか。確かに言われてみれば、今の世界の政治の動きの中では、「○○を取り戻す」というキーワードが随分と幅を利かせているようにも見えてきます。
そうした折、1月8日の日本経済新聞が、同紙コメンテーターの小竹洋之氏による『エモクラシーに悩む世界(感情に支配されない政治を)』と題する論考記事を掲載しているので、参考までに指摘の一部を小欄に残しておきたいと思います。
目まぐるしい時代の変遷を経て権威主義の国々がその影響力を増す中、米国、欧州、日本を中心とする民主主義陣営の動揺もまた、看過できぬ問題になっていると小林氏はこの論考の冒頭に記しています。
70以上の国・地域が重要な選挙を実施した2024年。民主主義陣営の多くで現職の首脳や与党に厳しい審判が下り、政権の交代や少数与党への転落を強いられた。先進12カ国の与党の得票率が軒並み低下したのは過去約120年間で初めてで、長期のインフレや移民の増加などにいら立った国民が、現状にノーを突きつけたからにほかならないということです。
ポピュリズム(大衆迎合主義)が加速する自由陣営。米国は異端のトランプ氏が再選。フランスではマクロン大統領率いる中道の与党連合が左派連合に及ばず、極右の台頭で政権運営に窮している。日本でも石破茂首相が少数与党の壁に苦しむ一方、聞こえのよい公約を掲げる政党が力を増していると氏は言います。
辞意を表明したカナダのトルドー首相しかり、2月の総選挙で敗れたドイツのショルツ首相しかり。そんな先進国で勢いづくのは、過激な排斥主義や無責任なバラマキだというのが氏の指摘するところです。
健全な「デモクラシー(民主主義)」ではなく、エモーション(感情)がリーズン(理性)に勝る「エモクラシー」が世界を覆っているというのが氏の認識です。事実よりムードが先行し、既存の指導者を安易に罰する民意とこれを扇動するポピュリストが共鳴して、狭量で乱暴な政治の扉を開く。空前の選挙イヤーが浮き彫りにしたのは、より構造的なエモクラシーの弊害かもしれないということです。
小林氏はここで、『「好きか嫌いか」「快か不快か」を基準に反応する情動社会と、民意の受け売りで即決するファスト政治の流れが鮮明化し、この日本でも(米欧ほどではないが)、輿論(よろん=公的意見)を尊重するデモクラシーより、世論(せろん=大衆感情)に迎合するポピュリズムが勝りつつある』…とする、佐藤卓己・上智大学教授の言葉を紹介しています。
民意はますます移ろいやすくなり、指導者に対する期待はすぐに失望へと変わる。政権が頻繁に交代する「ピンポンゲーム」を演じる国・地域も少なくない中、賞味期限が短く、権力基盤の維持に腐心する政治の常態化は、中長期的な改革への意欲を鈍らせ、近視眼的な拡張財政や保護貿易などへの傾斜を助長しかねないということです。
民主主義陣営の劣化に歯止めをかけるにはどうしたら良いか。格差の解消や治安の回復、エリート支配の是正といった抜本的な対応はもちろん、様々な工夫でエモクラシーの抑制に努めたいと小林氏は話しています。
(小林氏によれば)そこで(前述の)佐藤氏が説くのが、善悪や優劣の判断を急がず、曖昧さに耐える「ネガティブリテラシー(耐性思考)」を鍛えること…とのこと。即断しない、うのみにしない、偏らない、中だけ見ないという、「ソ・ウ・カ・ナ」の姿勢でメディアに接するなど、古典的な懐疑主義で民主主義を立て直すしかないと話しているということです。
中腰でいるのは誰だってつらいもの。それでも誰もが一人の主権者として、それぞれ主体的に自分の頭で(じっくり)考え、ポリティカルに行動するということでしょうか。ネットを騒がす煽情的な言葉の数々やまことしやかな陰謀論の真偽を、まずは「ちょっと待てよ」と疑い、読み直すだけの理性や知性が求められているということでしょう。
民主主義は次善の政体であり、未完の政体でもある。指導者だけでなく有権者もメディアも、時代の要請に合わせた更新の知恵を縛り、改良を繰り返すしかないと小林氏はこの記事の最後に指摘しています。21世紀に入って、気が付けば既に四半世紀。(これこそが)ポピュリズムが世界を徘徊する25年の重い宿題だと話す氏の言葉を、私も重く受け止めたところです。
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