MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1898 日韓の歴史を清算するために

2021年07月08日 | 国際・政治


 「中央日報」と言えば、1965年に創刊された韓国三星財閥系の日刊紙で、韓国内で発行されている代表的な保守系有力紙として知られています。

 一方、そもそもの夕刊紙としての成り立ちから、その主張は実利主義・現実主義を標榜しており、朝鮮日報や東亜日報に比べれば政治的な立ち位置はさほど明確でなく、保守色は(若干)弱いという評価もあるようです。

 そうした中央日報の6月29日の日本語版サイトに、作家のキム・ギュハン氏の筆による「コンプレックス民族主義と歴史清算(中央時評)」と題する論考記事が掲載されているのを目にしました。

 戦前の日本統治下における植民地支配への賠償問題に加え、大戦中の(いわゆる)慰安婦や徴用工の問題など、何か感情的になりやすい日韓関係の(特に韓国側の)見方について、ある意味落ち着いて自制的に整理されていると感じたので、備忘の意味で概要を残しておきたいと思います。

 今日の社会と意識を歴史的状況にかぶせること自体、これはもはや歴史解釈ではなく「脚色」あるいは「創作」だとこの論考でキム氏は指摘しています。

 朝鮮人旧日本軍慰安婦を民族の聖女と称えたり、自発的売春女性だと貶めたりすることについても例外ではない。慰安婦となった女性たちの悲惨な過去をもたらした最も主要なアイデンティティは、「貧困」と「女性」だというのが氏の強調するところです。

 裕福な慰安婦も、男性の慰安婦もいない。慰安婦は「貧しい家の娘たち」だった。娘を売る貧しい父親が多かった。そして、そのような父親を理解する人々が多かった。もちろん、売買を仲介する朝鮮人業者も多かったと氏は言います。

 売られる娘たちの歴史は旧日本軍慰安婦で終わらなかった。こうした状況は、解放後も米軍慰安婦と戦争によって引き継がれ、韓国軍慰安婦の歴史として続いていく。研究者は韓国政府が米軍慰安婦と韓国軍慰安婦を非常に積極的に管理したという事実を明らかにしている。そして、売られる娘たち、女性人身売買は、その後も売春産業の主要な供給方式になったということです。

 近ごろ、多くの韓国市民が「ナヌムの家」と「正義連」(「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の行状に憤怒した。これは、旧日本軍慰安婦女性を支援し彼らと共に戦うという名分の下に、私益を追求したとみることができるような情況が明らかになったためだと氏はしています。

 もちろん、そうした団体も初めからそのような目的を持っていたわけではなかったはず。それでは彼らは、なぜ変質したのか。キム氏はその主要な条件として、「コンプレックス民族主義」の存在を挙げています。

 韓国人が反日感情を持つ理由は言うまでもなく植民地の歴史のためだ。しかし、それは朝鮮民族全体と日本民族全体の間のことではなかったと氏は言います。

 現在まで続く問題の多くは、日本支配階級(帝国主義勢力)と朝鮮民衆の間で生まれた。大多数の日本民衆も戦争に動員されて搾取される被害者である一方で、朝鮮の支配階級は日本支配階級と協調して安楽を維持したというのがキム氏の見解です。

 そして解放後、韓国支配階級は、「その歴史」を民族全体のものとして作り直したと氏はこの論考に記しています。

 李承晩は反民特委(反民族行為特別調査委員会)を壊しながらも、反日政策を固守した。日本軍歌を好んで歌ったサムライ朴正熙は、それでも日本文化を厳格に禁じた。

 なぜなら、彼らはそのような政策のおかげで韓国内のさまざまな矛盾的状況の相当部分を覆うことができたから。「反日感情」は、その後半世紀にわたって国内極右独裁勢力の手軽かつ効果的な支配手法だったということです。

 そして今では、彼らに対抗して民主化運動をしたことを前面に掲げる現政権がこれを受け継ぎ、竹槍歌を歌い抗日を叫んでいるというのが氏の指摘するところです。

 「コンプレックス民族主義」とは、日本で歴史関連の発言が登場しただけで突然怒りを噴出させたり、日本とのスポーツ競技を「対日戦争」に見立てて過度な執着をみせたりするような被害意識のこと。これは、韓国男性特有の、特に家父長的被害意識と関連があるというのがキム氏の認識です。

 「最も民族的なものが最も世界的なもの」というゲーテの言葉も、この国では意味が変わる。ゲーテの言葉では「世界的」は人類の普遍性を意味するが、韓国でその言葉は他の民族との比較と優劣を表現するものだということです。

 民族は実在し無視されることはできないが、普遍性を失った民族主義はいつも例外なく悪用される。コンプレックス民族主義が蔓延するとき、消されるのは民族内の階級(格差)の現実であり、現実的な階級の普遍性に基盤を置いた人類愛だと、氏はこの論考で厳しく指摘しています。

 平凡な韓国労働者の友は同族の李健熙(←サムスン電気元会長)なのか、それとも平凡な日本労働者なのか。今こそ、コンプレックス民族主義から脱し、普遍的人類愛を持つ個々人として立つ時ではないかと、キム氏はこの論考の最後に綴っています。

 今日の韓国市民には、当然それに相応しい資格がある。子供たちは初めからそのように生きていくように助けてやるべきであり、それが真の歴史清算であり回復だとこの論考を結ぶキム氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。



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