メディアの発信する情報が、新型コロナウイルス感染拡大に関するもので埋められるようになって既に3か月以上がたとうとしています。
この間、テレビを始めとしたいわゆるマスコミには、個別のメディアごとに(その色に合った)多くの「専門家」や「コメンテーター」などが登場し、政府の対応などについて様々な視点から検証を行ってきました。
中でも、テレビの在京キー局が昼間の時間帯に放送するワイドショーなどを中心に、政府や自治体の行う「規制」や「検査数」に関して欧米先進国などとの違いをあげつらうことを主眼とした番組構成が多く見られたことを否定することはできないでしょう。
それぞれの番組が、政府の対応は甘いのではないか、「パチンコ屋騒動」や「自粛警察」に代表されるように)日本はもっと厳しい規制をかけるべきではないか、そして、PCR検査を無症状に人にも広げるべきではないかといった巷の声をこれでもかと拾い、それに後押しされるような形で世論が形成されていく。
そうした報道を見ながら、なぜ日本の人々はこれほどまでにお上による規制を求め、たまたま感染してしまった人の人権に思いを寄せることがないのか、理解に苦しむ気持にさせられたのも(私自身)一度や二度ではなかったような気がします。
人々の間にウイルス感染への不安や長期化する自粛生活への不満が高まる中、私たちが今最も大切にすべきなのは「自由な議論に基づく寛容な社会の維持」ではないかと指摘する「週刊東洋経済」コラムニストの大崎明子氏の論考を、(前回に引き続き)この機会にもう少し追ってみたいと思います。(2020.5.26東洋経済オンライン「コロナよりも恐ろしく私たちが回避すべきもの」)
実際のところ、日本は新型コロナにかかわる人口対比の死者数がアメリカや欧州諸国に比べて圧倒的に少ないと大崎氏はこの論考で説明しています。
ところが、ネット上には「ロックダウンをしていない日本は危ない」「PCR検査が不十分な日本はもう終わった」などという記事があふれている。日本よりもずっと人口対比の死者数を多く出している国の対策と比較して、「日本はダメだ」という記事のオンパレードだということです。
もちろん、権力の乱用を防ぐための政府批判は活発に行うべきなのは言うまでもない。税金の無駄遣いと思えるアベノマスク、政権寄りの検察官の定年延長を可能にする検察庁法改正案への批判などはその一例だと氏は言います。
しかし、政府に対し極端な私権制限を要請するメディアや一部の学者たちと、それに同調する人々の動きには到底賛成できない。むしろ、大変危険な兆候のように感じるというのが氏の懸念するところです。
韓国や中国など海外で実施されている厳格な新型コロナ感染症対策の裏側では、個人の自由やプライバシーが大きく侵害されていることも冷静に考えるべきだと氏は指摘しています。
私たちは本当にかの国のような管理国家を望むのか。既に日本は、新型コロナで家族を亡くした人がそのことを親しい友人にも言えない国、感染者が家族にいるということも、子どものいじめなどを恐れて友人に話せないような不自由な国になってしまっているというのが氏の認識です。
「陽性者は隔離」という一見わかりやすい主張は、そうした一連の発想の中から出てきたものだと、大崎氏は捉えています。
新型コロナを恐れるあまり魔女狩りや全体主義をはびこらせてはならない。日本のように同調圧力の強い社会では、そうしたことが自殺などにも結び付きやすいことを考えれば、(こういう時こそ)管理国家への誘惑を断ち切る必要があるということです。
自粛や協力を求める政府や自治体の要請を自分のものとして受け止めることはもちろん重要でしょう。しかし、「正義」の名のもとに、それを(様々な事情や考え方を持つ)他者に迫る非寛容な社会が、決して人を幸せにするとも思えません。
公共の福祉を大上段に振りかざす大きな声の前で、小さな個人の人権や自由を主張するのはいつの時代も勇気の要る行為であることでしょう。
しかし、それでも(ひとり一人の)個人が言いたいことをきちんと言葉にできる、様々議論が自由闊達にできる社会こそが、私たちの目指す成熟した社会というものではないかと、この論考における大崎氏の指摘から私も改めて感じたところです。
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