MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2318 「反撃能力」の議論は尽くされているか?

2022年12月19日 | 国際・政治

 政府は12月16日の臨時閣議で、

①外交・安全保障の最上位の指針である「国家安全保障戦略」

②防衛の目標と手段を示す「国家防衛戦略」

③防衛費の総額や装備品の整備規模を定めた「防衛力整備計画」

の3文書を閣議決定しました。

 このうち、①の国家安全保障戦略と②の国家防衛戦略には、敵のミサイル発射基地などを叩くための敵地攻撃能力(いわゆる「反撃能力」)を保有することが明記されており、日本の安全保障の大きな転換点になるとして話題を呼んでいます。また。③の防衛力整備計画には、「反撃能力」を担保するための(敵の射程圏外から攻撃できる)スタンド・オフ・ミサイルの配備など、防衛力の強化策が具体的に盛り込まれているということです。

 他国の領土・領海への攻撃能力を持たない「専守防衛」が、「自衛隊」と軍隊を分けるボーダーラインとされて久しいものがありますが、中国の東アジアにおける海洋侵出や北朝鮮の核・ミサイル技術の進歩、ウクライナにおけるロシア軍の侵攻などの国際情勢に鑑み、政府の動きも加速の一途をたどっているように見えます。

 一方、防衛財源確保のための増税議論はかまびすしいものの、憲法9条の解釈も含め、与野党や国民の間で「自衛」の在り方に関する議論が尽くされているとはとても言い難いように感じます。

 私自身、国民の合意に基づく兵力の保持を否定する立場にはありませんが、それでも(昭和の「平和教育」を受けてきた身としては)今回の政府の(どさくさ的な)議論の進め方には、「いささか乱暴すぎるのではないか…」との感を否めないところです。

 12月16日のNewsweek日本版に、埼玉工業大学非常勤講師で批評家の藤崎剛人(ふじさき・まさと)氏が、(反撃能力の保持に反対する立場から)「ミサイルが飛んできても反撃しないことこそが日本の抑止力だ」と題する(よくまとまった)論考を寄せているので、この際、参考までにその概要を小欄に残しておきたいと思います。

 防衛予算の大幅増の議論の中で表面化した、「敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有」についての議論。「反撃能力」という言葉からは、日本が攻撃されたのちに敵基地を反撃する力というイメージがあるが、実際はそうではない。政府が言う「反撃能力」とは、相手国が「攻撃に着手」した段階で、(他国の)基地や司令部中枢を攻撃する能力だと氏はこの論考で説明しています。

 まだ攻撃を受けていない段階で先制攻撃をする「反撃能力の保持」は、「国際紛争を解決する手段として」「武力による威嚇又は武力の行使」を行うという意図のはっきりとした表明ではないか。それは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という憲法前文の国際観に照らし、どのような憲法解釈によっても正当化することはできないというのが氏の見解です。

 日本国憲法は「国際紛争を解決する手段として」の戦争を否定し、そのための「戦力」保持を禁止している。このため、(国土が攻撃された際の自衛能力は否定されていないとの理屈の下)「国際紛争を解決する手段として」ではなく自衛のための最小限の手段として自衛隊および様々な兵器を保持してきたと氏は言います。

 実際、「近隣諸国」の「脅威」がある以上、一定の「抑止力」を保持しなくては敵の前に無防備で身を晒すことになる。しかしそれでも、(もしも)敵基地からミサイルが日本の都市に発射されることが確実に分かったとしてもそれには手を出さず、甘んじてそれを引き受けるべしというのが、これまでの日本の国策だったということです。

 勿論、「弱腰は相手をつけ上がらせるだけ」「国民を犠牲にするつもりか」といった意見はこれまでもあったと氏は言います。しかし、国際社会に働く力は国家の力だけではない。国家対国家のパワーゲームを抑止する力は軍事力だけではなく、国家間を横断する「世界世論」や「国際道徳」というものの存在が大きいというのが、この論考において氏の指摘するところです。

 ウクライナ対ロシアの戦いで国際世論の多くがウクライナを支持しているのは、この戦争がロシアによるウクライナへの一方的な侵略であることが明白だから。仮にこの戦争の端緒がウクライナによる予防的な先制攻撃だったり、ウクライナ軍が公然と国境を越えてロシアに反撃したりしていれば、国際世論の支持は大きく失われていただろうと氏は言います。

 そしてその場合、欧米諸国のウクライナに対する兵器や物資の支援も今より少なかっただろうし、エネルギー問題などを背景にロシアの侵略を容認する国ももっと出てきていたかもしれないということです。

 現在の日本は、ウクライナ以上に単独で戦争を継続する能力がない国。だとすれば国際世論の支持を受けること(こそ)が外交戦略上最もプライオリティが高い選択となるはずだと氏は話しています。

 そうした視点に立てば、例え初撃を受けてでも、こちらから(先手を取って)攻撃することはしないという道徳的な態度を取り続けることが、長い目で見れば被害を最小限にする合理的な選択となるのではないか。憲法9条の価値は、侵略を受けたときの道徳的優位性を担保するところにあり、「反撃能力の保持」はその貴重な価値をみすみす棄損させてしまうというのが氏の見解です。

 さらにそれだけではなく、周辺国に対して(反撃能力の保持は)日本に対する疑心暗鬼を生み、軍拡を行わせる口実を作ってしまいかねない。国家と国民はしばしば暴走するものであり、実際、日本には「自衛」の名のもとにアジア太平洋に惨禍をもたらすことになる侵略戦争を開始した「前科」があるということです。

 一旦手にした先制攻撃能力を使わずに自制するためには、世の中が相当に成熟している必要があると氏は言います。憲法が「反撃能力」を禁じているのは、敢えて自分から攻撃を仕掛ける能力を封じることで、「脅威」に対して理性的に対応することを国家(や世論)に強いるもの。武力に寄らずに戦争を未然に防ぐための努力を怠ることを戒めるものだということです。

 そう考えれば、現在の複雑な国際情勢の中で日本が積極的に採るべき道は、武力による「抑止力」の獲得よりも、国境を越えて形成される国際世界や国際道徳を獲得することによる「抑止力」を強めることのはずだとこの論考で氏は主張しています。

 実際、国際世論を味方につけたウクライナは、ロシアに全く割に合わない戦争を行わせている。日本ではウクライナ戦争以降、こうした概念についての議論がむしろ後景化してしまったように見えるが、今こそこうした概念を再評価していくことが急務だということです。

 「反撃力」の放棄は、一方的に敵対国を利するものでも「白旗」を揚げるものでもない。国家対国家に生じる疑心暗鬼の中で、「敵地攻撃力を持たない」というのは戦闘行為の有効な抑止力になり得るものだということでしょう。

 国民や国土が一方的に蹂躙されることへのリスクを「軍備」によって物理的にヘッジしていくのか、それとも(憲法前文の「決意」の下)「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持」していくのか。国家の安全保障に対する日本人の基本的な姿勢が今、問われているということでしょう。

 これは予算の問題でも、ましてや財源の問題でもない。もしも政策を変更し反撃能力を身に着けようとするのであれば、国民の間で十分な議論を尽くす必要があると、氏の論考を読んで私も強く感じるところです。



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