三宅孝治の独り言

税理士三宅孝治の日々の想いを綴ります。

稲盛和夫塾長の記事です。Ⅳ

2014-07-19 10:24:10 | 経営者にちょっといい話
(証言そのとき)不屈不撓の一心:11 いつか社会にお返しを 稲盛和夫さん

 1971年に京セラが株式を上場して、思いもよらず、多額の資産をもつよ
うになりました。でも、財産は自分のものではなく、たまたま私が社会から預
かったものと考えていましたから、いつかは社会にお返ししなくては、と思う
ようになりました。


 ■「京都賞」今年で30回

 顕彰事業の「京都賞」を始めたのは、81年に私が「伴(ばん)記念賞」を
受賞したことがきっかけでした。東京理科大学の伴五紀(いつき)教授が科学
技術に貢献した人をたたえる賞です。最初はうれしかったのですが、受賞当日
になると自分が恥ずかしくなった。私はもう頂く立場ではなく、差し上げる側
ではないかと思ったんです。

 親しい京都大学の矢野暢(とおる)教授に相談したら、「ノーベル賞に負け
ないものをつくりましょう」と励まされ、84年に顕彰事業を運営する稲盛財
団を設立しました。周囲の方は「稲盛賞にしては」と言ってくれたのですが、
お世話になった京都という地名をとって「京都賞」と名づけました。

 京都賞は、今年がちょうど30回目です。私が寄付した主に基金と運用益で
運営していますが、堅実に続いています。受賞者は、先端技術、基礎科学、思
想・芸術の3部門で、賞金は1賞あたり5千万円。これまでに世界各国の93
人、1団体が受賞され、日本人では、後にノーベル賞を受けた山中伸弥さん、
デザイナーの三宅一生さんらがいます。

 毎年11月、京都市の国立京都国際会館で開く授賞式には、家族もお招きし
ます。研究者というのは長年、人知れず地味な研究に没頭している。家族と一
緒に受賞を喜んでもらいたいという思いからです。

 ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダさんは賞金で母国に博物館をつ
くり、日本の浮世絵や伝統工芸品を集めて、公開された。ワイダさんは「こち
らの国民も、日本から来た方も喜んでいる」と話していました。最近は、自分
の研究施設に基金として寄付される方が続いています。


 ■「盛和塾」で経営哲学

 京都賞の創設と同じころから続く活動に「盛和(せいわ)塾」があります。


 京都青年会議所での80年の講演がきっかけでした。2次会で若い人たちか
ら「経営を教えてください」と懇願されたのです。最初は忙しいからと断って
いたのですが、何度も頼まれて、83年に勉強会「盛友(せいゆう)塾」が始
まりました。

 日本には、実践的な経営を教えてくれるところはありません。中小企業の経
営者の皆さんにどこで経営を勉強されたのかと聞くと、独学だという。

 経営のやり方は業種によって様々。だから私は経営ノウハウではなく、共通
する経営哲学を教えたかった。うわさを聞きつけた大阪からも「我々も勉強し
たい」と言ってこられた。

 しばらくして、名前を「盛和塾」に改めました。事業の隆盛の「盛」と人徳
の和合の「和」。私の名前の2文字でもある。

 中小企業の経営者は、従業員と家族まで守ってやらなければならない。会社
が傾けば、従業員も家族も路頭に迷ってしまう。重い責務です。そこに気づい
てもらわなければいけない。

 年12回ほど各地で開く塾長例会では、私が講話したり、塾生に経営体験を
発表してもらい、私がコメントしたりしています。懇親会ではひざを交えて議
論します。盛和塾はいまではブラジル、中国など海外を含めて74支部あり、
塾生は9千人を超えています。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年06月16日

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■(証言そのとき)不屈不撓の一心:12 日航再建、まずは心から 稲盛和夫さん

 2010年1月、経営破綻(はたん)した日本航空(JAL)の会長になっ
てほしいと、政府から言われました。事業会社としては戦後最大規模、負債2
兆3千億円を抱えての倒産です。友人や家族は反対し、「80歳を前に余計な
ことに手を出さなくても」と忠告してくれた。

 何度もお断りしましたが、それでも「あなたしかいない」と懇願され、真剣
に悩みました。でも、「世のため人のために役立つことが人間としての最高の
行為である」というのが私の人生哲学です。78歳でしたが、決心しました。


 「週3日ほどなら働けますから、無給でやります」という条件でしたが、実
際には、1週間のほとんどを東京のホテルで暮らしました。遅くなると、コン
ビニで、おにぎりを2個買って帰った。おかかと昆布、定番でしたね。


 ■潰れても当たり前

 JALのことは何も知らなかった。ただ、海外出張で利用して乗客へのサー
ビスがよくないと感じていました。だんだん嫌いになって、会長に就任するま
で乗っていなかった。マニュアル一辺倒というか、心からお客さんのためにと
いう気持ちが感じられなかった。

 幹部10人ぐらいと会って、話を聞きました。やっぱり私が感じていた印象
は、間違っていなかった。頭のいい人ばかりで、言っていることもすばらしい
。でも、零細企業から身を起こした私にすれば、官僚的というか、心が伴って
いない。これでは何万人もの社員が心から信服してついてくるわけがない。潰
れても当たり前だと思いました。

 10年2月に会長に就任し、6月からは幹部約50人のリーダー教育を集中
的にやった。私が考案して京セラで運用した部門別採算制度、いわゆる「アメ
ーバ経営」を導入するには、リーダーとしての考え方の共有が必要でした。

 とても忙しい時期でしたが、月曜から金曜のうちの3日間と土曜の計4日間
を充てました。私も6回ほど話して、その度に会議室でビールと乾き物で「コ
ンパ」も開いた。

 リーダー教育では、私が経営の要諦(ようてい)を語り、リーダーは部下か
ら尊敬される人間性を持たなければならず、日々心を高めていかなければなら
ないという人間の生き方まで説いた。幹部には違和感があったのでしょう。最
初のコンパでは、私の哲学に納得できない幹部と議論になり「バカヤロー」と
おしぼりをぶつけて叱ったこともあります。ただ、少しずつ分かってくれる人
も増えていきました。


 ■現場へ響いた言葉

 現場では、誰も倒産するとは思っていなかったでしょう。特に、お客さんと
接する社員は大変でした。「JALは横柄。倒産して当然だ」と、お客さんか
ら罵声を浴びせられていた。

 社員には、再建に向けての私の思いをメッセージとして送りました。多くの
現場を回り、「最前線にいるのは皆さん。お客様を大切にするおもてなしの心
が大事です。幹部がいくら威儀を正して言っても、意味はない。お客様の心を
つかむのは皆さんです」と話した。目を潤ませて聞く社員もいて、「がんばり
ます」と言ってくれました。

 後から聞きましたが「自分のおじいさん世代の人で、JALとは何の関係も
ない人が再建に乗り出してくれた。しかも無給。ありがたい」という話が現場
に広がっていったそうです。社員の意識は、確実に、急速に変わっていきまし
た。 (聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年06月23日

盛和塾 岡山 会計学勉強会の御参加、ありがとうございます。

2014-07-10 08:12:32 | お礼
7月8日(火)19:00から21:00まで、盛和塾岡山主催の会計学勉強会「実学を紐解く!」が開催されました。場所は後楽ホテル(岡山市)でした。御参加頂きました塾生及びオブザーバーの皆様、ありがとうございます。あと2回、開催予定ですので、どうぞ参加の程、よろしくお願いいたします。私たち会計委員会が、しっかり準備して進行させて頂きます。
二回目は、7月24日(木)19:00~  三回目は、8月25日(月)19:00~です。






稲盛和夫塾長の記事です。Ⅲ

2014-07-08 10:36:47 | 経営者にちょっといい話
■(証言そのとき)不屈不撓の一心:9 競争育む、信念の大合併 稲盛和夫さん


 第二電電(DDI)は1989年7月、関西電力などとの合弁で「関西セル
ラー電話」を設立し、携帯電話サービスを始めました。「赤ちゃんが生まれた
ら、名前をつける前に電話番号をもらうようになる。いずれ一人ひとりが電話
番号をもつ時代が来るでしょう」。開業式でこうあいさつしたのを覚えていま
す。

 我々DDIの携帯参入の地域割りの条件は、圧倒的に不利でした。全国展開
できるNTT、同じ新電電の日本移動通信(IDO)は首都圏、中部圏を割り
当てられている。我々は、関西とその他の地域でした。

 ただ、関西セルラーは最初の年こそ赤字でしたが、翌年度には経常利益49
億円を稼ぎ出した。自動車電話ではなく、携帯電話が主流になると証明できた
。各地域で電力会社など地元の有力企業と組んだのもよかった。電力会社の施
設を利用させてもらった。うまくいったと思います。


 ■NTT独占へ対抗

 96年、政府の電気通信審議会でNTTの分離分割の方針が示されました。
しかし、その後、NTTが猛烈に巻き返して、純粋持ち株会社という結論にな
りました。第2次臨時行政調査会(土光臨調)の「分割・民営化」の理念とは
大きくかけ離れてしまった。

 NTTの分離分割を前提にしていた我々DDIは、戦略の抜本的見直しを迫
られました。当時、私は会長で、奥山雄材社長と戦略を練りました。「日本の
情報通信市場の健全な発展には競争が必要」。それが、DDI設立の精神です
。NTTに対抗するには携帯電話ではトヨタ系のIDOと、国際電話では国際
電信電話(KDD)と一緒になる。大同団結する以外にない、と腹をくくりま
した。


 ■「対等」は無責任に

 交渉は奥山社長にあたってもらいました。ただ、DDIが経営に責任をもち
、存続会社になることを基本にしました。トヨタ自動車からは「対等と言わず
とも対等の精神でという風にはならないでしょうか」という話もあったようで
す。そこは譲れないと、奥山社長に踏ん張ってもらった。

 「対等の精神」というのはきれいな言葉ですが、結局は無責任になる恐れが
ある。合併した大手銀行でも人事をたすきがけにするとか、二つの会社が経営
しているようになっている。

 交渉は難航しました。こちらが主張を譲らなかったので、マスコミには「稲
盛の覇権主義」とも書かれました。でも、これが最後のチャンス、通信の世界
での総仕上げという思いもあった。先方には「NTTに対抗するには合併しか
ない。徒手空拳で、DDIを上場企業まで育てた実績を評価していただきたい
」と伝え続けました。

 最後の話し合いは、99年8月の東京でした。トヨタの会長だった奥田碩(
ひろし)さんとの会談で、こう言いました。

 「今回の話は、私心から、利己的な思いからではない。NTT独占に対抗す
ることは国民のためになるとの思いからです。そこは信用していただきたい」
。奥田さんは、私の真意を理解してくれたようでした。

 当時は、KDDとの合併も話が進んでいました。この3社による合併で、国
内2位、世界でも10位に入る国際電気通信会社のKDDI(au)が誕生す
ることになるのです。

 今では営業収益は4兆円を超え、従業員は2万人です。こんなに順調にいっ
た合併は珍しいと思います。 (聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年05月26日

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■(証言そのとき)不屈不撓の一心:10 会長を引退、65歳で得度 稲盛和夫さん


 満65歳になった年に、京都府八幡市にある臨済宗妙心寺派の円福寺(えん
ぷくじ)で得度(とくど)しました。師にあたる西片擔雪(にしかたたんせつ
)老師から「大和(だいわ)」という僧名をいただきました。

 「なぜ仏門に」。当時、多くの方から尋ねられました。この年は京セラ、第
二電電(DDI)の会長から名誉会長に退いた年でした。

 私のように、創業者であり、経営のトップに長年いた場合は、どうしても「
自分がいなければ会社が動かないのではないか」と思いがちです。会社に執着
し、身を引く時機を逸し、会社の仕事を一生することが良いことだと思ってい
る方をたくさん見てきました。それは、決していいことではない。私が早く身
を引くことで、後継者を育てることもできます。

 社員の定年は60歳だったので、経営者も60歳で退くべきだと考えていま
した。ただ、60歳のころはDDIの仕事が忙しいころでしたから、めどがつ
いてから退こうと思っていました。


 ■死に備え勉強する

 私の人生は80年ぐらいと、昔に会ったヨガの聖者の言葉から思いこんでい
ました。だとしたら、最後の20年は死ぬための準備に必要だろう。それには
、心を静かにできる環境に身を置いて勉強しないといけない。それが仏門に入
ろうとした理由です。

 擔雪老師には、仕事で思わぬ事態に陥ったときにも助言をいただきました。


 京セラが開発するセラミック製の人工関節が軌道に乗ってきたころです。股
関節の認可もとり、大学の先生方から「股関節がうまくいっているから、ひざ
関節もつくってほしい」と頼まれ、研究していました。

 臨床試験用に2~3例つくってみたら、非常に具合がいい。先生から「たく
さんの患者さんがいるから、もっとつくってくれ」と言われ、担当者が作り始
めてしまった。そしたら、1985年の国会で「認可もとらないで人体に埋め
込んで売っているやつがいる。けしからん」と指摘され、マスコミにも盛んに
取り上げられた。


 ■災難は「お祝いを」

 薬事法では同じ材料の人工関節でも、新しい形状やサイズでつくる際は個別
の認可が必要でした。そうなると、大学の先生方も黙ってしまった。いくら弁
明しても通らず、京セラが勝手にしたことになりました。

 老師のところへ行って事情を話し、大変悩んでいますと相談した。そうした
ら、老師はけろっとして「稲盛さん、お祝いをしないといけないですね」と言
うんです。「困っているのになんですか」と聞くと、老師は「いやいや、その
程度の災難で済んだのなら、お祝いせんならん」とおっしゃる。

 私が理解できずに「何がですか」と言うと「人間は知らぬ間にささいなこと
でも悪さをして業(ごう)をつくっていきます。このような災難が起きたとい
うことは過去に背負い込んだ業が発現し、消えたということです。この程度の
ことで済んだのなら結構なことじゃないですか」とおっしゃる。

 「ほんまに変なことをおっしゃるな」と、そのときは思いました。でも後日
、考えてみたら、すばらしい教えだと思いました。

 私は、友人で災難に遭った人には「あんたの業が消えたということです。喜
ばないといかんよ」と慰めるようにしてきました。そういう考え方をする禅宗
の坊さんというのは、やっぱり偉いなと思いました。
(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年06月02日 

稲盛和夫塾長の記事です。Ⅱ

2014-07-06 16:50:23 | 経営者にちょっといい話
■(証言そのとき)不屈不撓の一心:5 京都のお役に立てた 稲盛和夫さん

 

 鹿児島大学を卒業して入った最初の会社が京都市郊外の神足(こうたり)駅
(現長岡京駅)の近くにあったもんですから、あまり「京都」という意識はあ
りませんでした。

 その後、京セラをつくって、接待するのに街中で食事をするようになった。
木屋町の料亭でした。おかみさんが私の発音から京都人じゃないと見抜いて「
稲盛さんはどこの出身ですか」と聞かれた。「鹿児島、薩摩です」と答えたら
「うちのおばあちゃんが明治維新の時、薩摩の人は粗野で、いやだと言ってま
してね」というわけです。やぼったい田舎者の私には、上品な京都とは相いれ
ないと思ってましたが衝撃でした。

 でも、時間が経つと、そんなに居心地は悪くない。京都は1200年前から
都でした。昔は渡来人として、朝鮮、中国からも多くの人がきて、色んなとこ
ろに住んでいた。そういう質の違った人々を1千年間も受け入れてきた。様々
な人を受け入れてくれる不思議な街ですね。

 ワコールを創業した塚本幸一さんから突然「京都の経営者とつきあいあるか
」と電話がありました。「いえ、仕事だけして、客先も東京、大阪が中心で、
京都では友人らしい友人もいません」と言ったら「そりゃ、かわいそうや。私
が主催してる大正、昭和生まれの経営者が集まる正和会というのがある。おれ
が主催してるから、おまえ入らんか」と言うわけです。

 塚本さんとは本当に仲がよくてですね。12歳離れていますから同じ干支(
えと)。塚本さんが70歳すぎても、しょっちゅう電話してこられるわけです
。「いなちゃん、きょう飲もうか」って。


 ■請われ京商会頭に

 塚本さんは京都商工会議所(京商)の会頭もやっておられた。1989年の
夏、塚本さんから「副会頭になってくれ」と言われました。「私は何もしませ
んよ」と言ったんです。そしたら「それでいいから」と言うから引き受けまし
た。

 私は経済団体なんかの仕事にあまり関心がありませんでした。仕事に専念し
ておれば、そんな暇はないはずだと思っていたんです。

 塚本さんは会社の仕事もやり、京商の仕事もしてました。94年末に「次の
京商会頭になってくれ」と言われた。一度は断りましたが「おまえがせんで誰
がやる」と言われ、引き受けました。

 就任後は、気持ちを切り替えて「21世紀に持ち越せない問題を、自分の間
になんとかしたい」と言いました。一つが京都市と京都仏教会との和解です。



 ■市と仏教会を仲介

 《両者は82年、市が寺院の拝観料に課税する古都税構想を表明したために
対立。仏教会が85年から3回にわたり最長10カ月間、拝観停止で対抗した
。古都税は廃止となったが、88年の市街地での建築物の高さ規制の緩和に仏
教会が抵抗。対立は長期化し、観光産業には痛手となっていた。》

 私は、97年に得度していたので仏教会の方々とはお付き合いがあった。そ
れで、当時の桝本頼兼市長と仏教会の有馬頼底理事長の間を取り持ったんです。

 「低迷する京都の観光を何とかしよう」と呼びかけました。高さ規制には「
経済界として、京都駅の北側は保存、開発するなら南側」という方針を伝えた
。和解は99年5月、お互いに「感情的なしこりはない」「観光振興への協力
を惜しまない」と言ってもらった。塚本さんから引き継ぎ、少しは京都のお役
に立てたとほっとしましたね。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年04月28日

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■(証言そのとき)不屈不撓の一心:6 「独占は悪」通信に挑む 稲盛和夫さん

 

 《1982年、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」が電電公社の
分割・民営化を答申した。同時に民間の電気通信事業への参入も認められた。
京セラを中心とする第二電電など、新たな通信事業者が参入。国際的に高かっ
た日本の通信料金は競争によって引き下げられていく。》
 

 ■電話料金が高い

 今思うと、本当にむちゃでしたね。通信に使う電子部品は納めていましたが
、私は電気通信事業というのはまったく知らないし、関係がなかったんですか
ら。

 当時で思い出すのは赤(公衆)電話。営業で日立製作所や東芝からの注文を
もらいに、東京を走り回っていました。京都へ電話する時は事前に10円玉を
たくさん用意して、次々と入れても入れ損なうと切れてしまう。非常に不便で
した。

 米国にも、しょっちゅう行っていましたので、米国の通信料金が日本に比べ
て非常に安いことは知っていた。日本は電電公社の1社独占なので料金が高い
し、不便。日本経済の課題と感じていました。

 大手企業が手を組んで通信に参入すると期待していたんですが、誰も手を挙
げない。京セラは通信事業とは畑違い。あったのは「独占は悪である」という
思いだけでした。

 半年間、自分に問い続けた。「動機善なりや、私心なかりしか」と。通信事
業に参入するというのは、スタンドプレーではないか。人から「良い経営者」
と言われて天狗(てんぐ)になり、大向こうをうならせようと思ってはいない
か。

 違う。思いは、競争できる通信会社をつくって、料金を安くして、国民のた
めに役にたちたい。そう思って賽(さい)を投げたんです。

 おもしろいもので、そう思っていたら、ちょうどいい人が現れるんです。こ
の前までイー・アクセスの名誉会長だった千本倖生(せんもとさちお)さん(
後の第二電電副社長)です。当時、電電公社の近畿電気通信局にいました。


 ■次々と同志が集う

 83年8月、彼が京都商工会議所(京商)に講演を頼まれて来たんです。私
は京商の役員をやっていて、話を聞いていた。しばらくして「千本さん、すば
らしい話をするやないか。私も今の日本の公社が独占的なのはどうにもならん
と思っている」と言ったんです。

 そしたら彼も「私もそう思います」。私が「それに対抗する会社をつくろう
と思うんだ」と言ったら「本気ですか。本気なら協力します」と言うわけです。

 そうなると、千本さん1人を頼りにして「技術屋を何人か、新会社に興味が
あって、勇気のある人を探してほしい。新会社が軌道に乗るまでは生活も不安
だろうから、京セラの社員にして公社と同じ給料は払う」と言った。

 千本さんのつてで3~4人は来てくれるかなと考えていました。今のKDD
I会長の小野寺正さんもメンバーになってくれた。無線通信の技術者でした。
彼は「カネはだいぶかかりますけれど、稲盛さんが真剣にやろうと思えばやれ
ます」という。

 思いが通じたのか、そういう人が1人、2人と現れた。京都の鹿ケ谷(しし
がたに)、哲学の道の近くに、京セラのゲストハウスがあります。月1回ほど
、東京からみんなを呼んで、新会社をつくるにはどうすればいいかを話し合っ
た。「平家物語」にある平家打倒の謀議にならって「鹿ケ谷の密談」なんて呼
んでました。ばかみたいですね。でも、みんな真剣だったんです。
 (聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年05月05日