■時論 マーケティングは日本を救うか コトラー米ノースウェスタン大教授に聞く
フィリップ・コトラー(Philip Kotler)氏
マーケティング分野の世界的権威。現在も米ノースウェスタン大学ケロッ
グ経営大学院で教壇に立つ。ベストセラーとなった「マーケティング・マネー
ジメント」の重版は14回を数え、マーケティングについて、多くの日本の経
営者に直接、教えを説いたこともある。
日本文化への造詣も深く、趣味の一つに「ねつけ」(小さな象牙などに細か
な彫刻を施した留め具)や刀のツバの収集がある。
最近はソーシャルメディアが企業と顧客の関係を大きく変えることを指摘。
アジア地域にも活躍の場を広げているほか、貧困撲滅など社会問題解決のため
のマーケティングの活用も提唱する。82歳。
消費に明るい話題が多く登場するようになったニッポン。だが、世界に目を
転じると日本の消費財メーカーの苦戦が目立つ。長年、消費大国として君臨し
ながらなぜ、独創的な商品やサービスがなかなか登場しないのか。日本の企業
や社会に欠けていることは何か。世界的なマーケティング学者、フィリップ・
コトラー氏にその処方箋を聞いた。
■経営に深く関わる人材を
――1990年代以降の日本経済の停滞期は「失われた20年」と言われて
きました。どこに問題があったのでしょうか。
「それ以前の70年代から80年代には日本企業がチャンピオンだと言われ
た時代がありました。『よりよい製品をより安く作る』ことにかけてチャンピ
オンだったのです。当時はそれだけで欧米のメーカーと違いを出すことができ
ました。クルマ、カメラ、家電製品、コピー機、オートバイなどがそうでしょ
う。でも、イノベーションで成長したものではありません」
「日本国内だけで十分な収益を上げることができ、一部の消費財では輸出に
注力しなかったのも理由です。成功はいいことですが、若干、守りに入ってい
ましたね。失敗を恐れすぎています。そこからは成長は望めません。チャンピ
オンということで、傲慢にもなっていたのだとみています」
「そして最も重要なことは戦後の日本をけん引してきた松下幸之助氏(パナ
ソニック)、本田宗一郎氏(ホンダ)、盛田昭夫氏(ソニー)のような創業者
でクリエーティブな考えを持つ人材の系譜が途絶えてしまったことです」
――マーケティングの側面ではどうですか。
「(60年代に)マーケティングに必要な4つのP(プロダクト=製品、プ
ライス=価格、プレイス=流通、プロモーション=販売促進)を提唱しました
が、日本ではまだ理解が進んでいない気がします。マーケティングそのものの
ステータス(地位)が低いですね」
「どうもマーケティングをプロモーションとだけ捉え、テレビで30秒の広
告を打てばいいと考えているだけのビジネスパーソンが多くいます。マーケテ
ィング担当者が果たして製品開発にまで入り込んでいるのでしょうか。価格や
流通の販路(チャネル)の決定についても関与の度合いが弱いです」
「マーケティングの担当者は経営全般に深く関わるべきですが、日本の企業
の大半ではそれにふさわしい職種となっていません。米国などではCMO(チ
ーフ・マーケティング・オフィサー=最高マーケティング責任者)という役職
があります。最高経営責任者(CEO)、最高財務責任者(CFO)などは日
本にも定着しましたが、CMOを据える会社はごく一部です」
■技術の進歩に精通
――CMOの仕事はどのようなものでしょうか。
「日本の経営者はおそらく、マーケティングは営業部門が受け持つと考えて
いるのでしょう。そうではなくて、CMOは市場と深く関わり、どのような商
品を先々作るのかということに参画しなくてはいけません。さらに新製品を投
入する時期やチャンスを見極めて、新製品のポートフォリオ(組み合わせ)を
最適化することも求められます。顧客の声の把握だけでなく、技術の進歩にも
精通し、新しい技術を商品開発に持ち込む力量も問われます」
「CMOは経営の意思決定を行う立場にいて、このキャリアを経てからCE
Oに就いて経営全般を見るのがいいと考えています」
――なぜ、日本はCMOにふさわしい人材が育ちにくいのでしょうか。
「(経営トップが)マーケティングによって製品や組織を変えることができ
ることを認識していないからです。違いを打ち出せるはずなのに、そのことが
わかっていません。マーケティングをサービス機能やコミュニケーションの手
段とだけ捉え、企業が目指すべき重要な役割を担えることに気づいていないの
です」
■社会情勢を読む
――具体的にはどういうことでしょうか。
「2008年のリーマン・ショックで米国の自動車市場は急激に冷え込みま
した。その時、韓国の現代自動車は自社のクルマの所有者が失業した場合を想
定し、ローン返済の一時免除やクルマを返却すればその後の支払いが発生しな
い『失業補償制度』を作りました。経済の激変期に購入をためらっていた人た
ちに安心感を与えたのは言うまでもありません。現代自動車のシェアは一気に
上昇しました。社会の情勢をよく読み全社的な取り組みに仕上げていったマー
ケティングの好例です。企業が達成すべきことを成すための力なのです」
「格安航空会社の中にはリクライニングシートをやめて客席数を増やし、さ
らに運賃を3割引き下げて顧客増につなげ、収益を改善させたところもありま
す」
「この顧客増が大切なのです。先進国ではさまざまな商品やサービスがあふ
れています。なぜ、そうした環境で売れないのかを考えれば答えはこうなりま
す。『自分の会社に目を向けてくれる顧客が少ない』のです。足りなければ顧
客を増やすしかありません」
「自社について、顧客により深く理解してもらい、頼るくらいの特別な感情
を持ってもらうまでの関係を築くことが大切です。あるアウトドア用品メーカ
ーは長く使った用品でも満足していなければ返品を受け付けています。『この
会社は自分のためにここまでやってくれるのか』と思ってもらうことです」
■新興国で市場創造カギ
――もっと顧客を増やす手段はありますか。
「新興国への取り組みです。これまでのマーケティングはお金のある先進国
などにいる20億人を対象としてきました。これからは新興国などの50億人
も含めて考えるべきです。富の集中は豊かな国も傷つけます。なぜかと言えば
買うべき人の減少につながり、結局、もうけることができなくなるからです。
中産階級の厚みをもたらすことが求めらています」
「お金がないところにマーケティングの手法が成り立つのかと思われるでし
ょうね。でも、そうした人たちが豊かになってもらうことこそを実現させなく
てはいけないことだと考えています。貧困者向けの小口金融(マイクロファイ
ナンス)によって携帯電話を手にするようになれば農作物の売買に活用して起
業家になれるかもしれません」
「社会との関わりを意識したソーシャルマーケティングとは貧困からくる無
知、差別、病気、紛争などを解消するものです。規範を教えることで生活、態
度、行動を変えることは可能です。そして貧しい人にでも手の届く商品を開発
して、市場経済を作るのです」
「貧困地域ではその国の政府と組み、自分たちの事業と関連のあるインフラ
の整備に協力する方法もあります」
「顧客が企業に求めるのは社会的な問題に配慮し、ビジネスにはまだ直結し
なくとも地域社会に貢献している姿勢です。一連の取り組みが認知されれば、
その企業は尊敬される存在になりえます」
■SNSで双方向
――インターネットの発達もマーケティングの在り方を大きく変えました。
「デジタル世界の登場によって、市場はより民主化されました。個人が商品
やサービスや企業の『好き』『嫌い』をはっきりとネット上で表現できるよう
になったからです。『口コミ』ですね。企業はネット上で生活者が『何を言っ
ているのか』をモニターすることも可能です」
「生活者だけでなく、企業も積極的に発信ができます。フェイスブックなど
のSNS(交流サイト)を使って、生活者と対話することも可能になりました
。企業が一方的に大量にテレビCMを流す時代ではなくなってきています」
「もし、若い社員に広告予算の10%を自由に使わせてみてください。フェ
イスブック、ツイッター、動画投稿サイトのユーチューブなどのSNSを活用
して、いままでメッセージが届いていなかった人の5%と接点を持つことがで
きるはずです。30年には広告費の5割がこうしたSNSで占めることになる
でしょう」
「ビッグデータは市場調査の仕方を大きく変えました。調査対象がサンプル
(標本)からすべての人に広がり、掘り下げることができるテーマも格段に増
えました。いろいろなビッグデータを多くの人が利用できるようにインフラと
して整備するべきなのかもしれません」
●日本の研究者も事例・理論発信を
80歳を超えても世界中の企業や政府機関、非政府組織などに出向き、情
報を更新して新しい理論構築に余念がないコトラー氏。このほど来日した際は
たっての希望でJR東京駅の駅ナカを視察。「世界中の鉄道事業者が参考にす
べきだ」と感想を語っていた。人が行き来するだけでなく、限られた空間なが
ら快適に買い物ができる環境になることに驚いた様子だった。
マーケティングの考えを矮小(わいしょう)化する傾向のある日本社会。そ
の一つに日本のマーケティング研究者の存在もあるのではないだろうか。同氏
は「事例や理論を世界にもっと発信すべきだ」と言う。グローバル化は企業だ
けの課題ではない。
(編集委員 田中陽)
日経新聞 2013/7/28