三宅孝治の独り言

税理士三宅孝治の日々の想いを綴ります。

稲盛和夫塾長の記事です。Ⅱ

2014-07-06 16:50:23 | 経営者にちょっといい話
■(証言そのとき)不屈不撓の一心:5 京都のお役に立てた 稲盛和夫さん

 

 鹿児島大学を卒業して入った最初の会社が京都市郊外の神足(こうたり)駅
(現長岡京駅)の近くにあったもんですから、あまり「京都」という意識はあ
りませんでした。

 その後、京セラをつくって、接待するのに街中で食事をするようになった。
木屋町の料亭でした。おかみさんが私の発音から京都人じゃないと見抜いて「
稲盛さんはどこの出身ですか」と聞かれた。「鹿児島、薩摩です」と答えたら
「うちのおばあちゃんが明治維新の時、薩摩の人は粗野で、いやだと言ってま
してね」というわけです。やぼったい田舎者の私には、上品な京都とは相いれ
ないと思ってましたが衝撃でした。

 でも、時間が経つと、そんなに居心地は悪くない。京都は1200年前から
都でした。昔は渡来人として、朝鮮、中国からも多くの人がきて、色んなとこ
ろに住んでいた。そういう質の違った人々を1千年間も受け入れてきた。様々
な人を受け入れてくれる不思議な街ですね。

 ワコールを創業した塚本幸一さんから突然「京都の経営者とつきあいあるか
」と電話がありました。「いえ、仕事だけして、客先も東京、大阪が中心で、
京都では友人らしい友人もいません」と言ったら「そりゃ、かわいそうや。私
が主催してる大正、昭和生まれの経営者が集まる正和会というのがある。おれ
が主催してるから、おまえ入らんか」と言うわけです。

 塚本さんとは本当に仲がよくてですね。12歳離れていますから同じ干支(
えと)。塚本さんが70歳すぎても、しょっちゅう電話してこられるわけです
。「いなちゃん、きょう飲もうか」って。


 ■請われ京商会頭に

 塚本さんは京都商工会議所(京商)の会頭もやっておられた。1989年の
夏、塚本さんから「副会頭になってくれ」と言われました。「私は何もしませ
んよ」と言ったんです。そしたら「それでいいから」と言うから引き受けまし
た。

 私は経済団体なんかの仕事にあまり関心がありませんでした。仕事に専念し
ておれば、そんな暇はないはずだと思っていたんです。

 塚本さんは会社の仕事もやり、京商の仕事もしてました。94年末に「次の
京商会頭になってくれ」と言われた。一度は断りましたが「おまえがせんで誰
がやる」と言われ、引き受けました。

 就任後は、気持ちを切り替えて「21世紀に持ち越せない問題を、自分の間
になんとかしたい」と言いました。一つが京都市と京都仏教会との和解です。



 ■市と仏教会を仲介

 《両者は82年、市が寺院の拝観料に課税する古都税構想を表明したために
対立。仏教会が85年から3回にわたり最長10カ月間、拝観停止で対抗した
。古都税は廃止となったが、88年の市街地での建築物の高さ規制の緩和に仏
教会が抵抗。対立は長期化し、観光産業には痛手となっていた。》

 私は、97年に得度していたので仏教会の方々とはお付き合いがあった。そ
れで、当時の桝本頼兼市長と仏教会の有馬頼底理事長の間を取り持ったんです。

 「低迷する京都の観光を何とかしよう」と呼びかけました。高さ規制には「
経済界として、京都駅の北側は保存、開発するなら南側」という方針を伝えた
。和解は99年5月、お互いに「感情的なしこりはない」「観光振興への協力
を惜しまない」と言ってもらった。塚本さんから引き継ぎ、少しは京都のお役
に立てたとほっとしましたね。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年04月28日

      ………………………………………

■(証言そのとき)不屈不撓の一心:6 「独占は悪」通信に挑む 稲盛和夫さん

 

 《1982年、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」が電電公社の
分割・民営化を答申した。同時に民間の電気通信事業への参入も認められた。
京セラを中心とする第二電電など、新たな通信事業者が参入。国際的に高かっ
た日本の通信料金は競争によって引き下げられていく。》
 

 ■電話料金が高い

 今思うと、本当にむちゃでしたね。通信に使う電子部品は納めていましたが
、私は電気通信事業というのはまったく知らないし、関係がなかったんですか
ら。

 当時で思い出すのは赤(公衆)電話。営業で日立製作所や東芝からの注文を
もらいに、東京を走り回っていました。京都へ電話する時は事前に10円玉を
たくさん用意して、次々と入れても入れ損なうと切れてしまう。非常に不便で
した。

 米国にも、しょっちゅう行っていましたので、米国の通信料金が日本に比べ
て非常に安いことは知っていた。日本は電電公社の1社独占なので料金が高い
し、不便。日本経済の課題と感じていました。

 大手企業が手を組んで通信に参入すると期待していたんですが、誰も手を挙
げない。京セラは通信事業とは畑違い。あったのは「独占は悪である」という
思いだけでした。

 半年間、自分に問い続けた。「動機善なりや、私心なかりしか」と。通信事
業に参入するというのは、スタンドプレーではないか。人から「良い経営者」
と言われて天狗(てんぐ)になり、大向こうをうならせようと思ってはいない
か。

 違う。思いは、競争できる通信会社をつくって、料金を安くして、国民のた
めに役にたちたい。そう思って賽(さい)を投げたんです。

 おもしろいもので、そう思っていたら、ちょうどいい人が現れるんです。こ
の前までイー・アクセスの名誉会長だった千本倖生(せんもとさちお)さん(
後の第二電電副社長)です。当時、電電公社の近畿電気通信局にいました。


 ■次々と同志が集う

 83年8月、彼が京都商工会議所(京商)に講演を頼まれて来たんです。私
は京商の役員をやっていて、話を聞いていた。しばらくして「千本さん、すば
らしい話をするやないか。私も今の日本の公社が独占的なのはどうにもならん
と思っている」と言ったんです。

 そしたら彼も「私もそう思います」。私が「それに対抗する会社をつくろう
と思うんだ」と言ったら「本気ですか。本気なら協力します」と言うわけです。

 そうなると、千本さん1人を頼りにして「技術屋を何人か、新会社に興味が
あって、勇気のある人を探してほしい。新会社が軌道に乗るまでは生活も不安
だろうから、京セラの社員にして公社と同じ給料は払う」と言った。

 千本さんのつてで3~4人は来てくれるかなと考えていました。今のKDD
I会長の小野寺正さんもメンバーになってくれた。無線通信の技術者でした。
彼は「カネはだいぶかかりますけれど、稲盛さんが真剣にやろうと思えばやれ
ます」という。

 思いが通じたのか、そういう人が1人、2人と現れた。京都の鹿ケ谷(しし
がたに)、哲学の道の近くに、京セラのゲストハウスがあります。月1回ほど
、東京からみんなを呼んで、新会社をつくるにはどうすればいいかを話し合っ
た。「平家物語」にある平家打倒の謀議にならって「鹿ケ谷の密談」なんて呼
んでました。ばかみたいですね。でも、みんな真剣だったんです。
 (聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年05月05日

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