【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第21号【三島由紀夫と神風連】

2017年12月15日 00時00分22秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年12月15日発行

はじめての三島由紀夫と神風連 
~〈英雄〉としての死・加屋霽堅~
                           永田 満徳

   初めに
三島由紀夫が神風連の取材のため、昭和四十一年八月二十七日来熊、八月三十一日に離熊して、『奔馬』という作品に結実していることは熊本の文学にとって特筆すべきである。『奔馬』に描かれる神風連関係の事跡、新開皇大神宮の拝殿の様子や金峯山の山頂にある蔵王権現、そこから眺められる熊本の情景などの描写は直接見聞して感銘したものでなければ書けない瑞々しい文章である。熊本滞在期間中の動静は、荒木精之氏の「三島由紀夫氏の神風連調査の旅」という文章(『初霜の記 三島由紀夫と神風連』日本談義社・昭46・11) が詳しい。
『奔馬』は四部作『豊饒の海』の第二部(二巻)として、昭和四十二年二月に新潮社から刊行された小説である。『奔馬』を一口で言えば、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語である。第四十章からなる『奔馬』の第九章には三島創作の山尾綱紀著「神風連史話」という小冊子が掲載されている。「神風連史話」は『奔馬』の基本的モチーフとも言うべきものである。
『奔馬』の装幀には神風連の加屋(かや)霄(はる)堅(かた)の漢詩が真筆そのまま複写されている。三島由紀夫が加屋の遺墨を選び、『暁の寺』の刊行後に三巻までの装幀で「僕は二巻が好きだ」と言ったということは三島の加屋霽堅への尊崇のほどがうかがえる。

  一 英雄たる最終年齢

三島由紀夫は、昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する読売新聞の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べて、加屋霽堅に同化しつつ〈英雄〉としての死への決意を確認している。
「年頭の迷い」と題する文章は新聞記事に過ぎないと看過されそうであるが、三島由紀夫が割腹自殺に至る過程の端緒として極めて重要である。昭和四十二年は三島由紀夫四十二歳であることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てたものではなく、〈英雄〉としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたのである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
従って、このような事情から言えば、三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない三島の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。

   二 二つの作家像

しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
この文章は、「林房雄」(『新潮』昭38・2) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知っておきたい気持ちがあったからであろう。両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき  ときが来た。芥川龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
この「純文学とは? その他」(「風景」六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中から次の二つのタイプがくっきりと浮かび上がっていたにちがいない。
一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造のような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加しておきたい。
   〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方(1)』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき 問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではな く、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道 程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まこと に芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的 極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからであ  る。
野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。三島にとって、谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は 荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
   〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終るためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島が語ったというこの言葉と次の三好達治が立原道造を追悼して作った「暮春嘆息」の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。
  人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に生きなければならなかつた
さうして君のやうにまた
早く死ななければ!
三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好達治の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島由紀夫の自決を先取りしたとされる『奔馬』のなかで、拘置されている飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。

  三 三島由紀夫の選択

三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければならない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ加屋霽堅の死と同化する〈英雄〉としての死として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。

   四 《老醜》について

美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。
                   「心中論」『アポロの杯』
三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
〇 祖母夏子
三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室」(『仮面の告白』) で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・「特集三島由紀夫」「ユリイカ」十月号・昭51)祖母の存在にある。平岡梓著『倅・三島由紀夫』の中で三島由紀夫の本名である平岡公威に触れて描かれている祖母夏子は《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。

……かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。

……遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びはおのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。

……外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
 
この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。母倭文重(しずえ氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。

   終わりに

三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、電線の下を通るとき頭上に扇子をかざしたという神風連の故事に倣って、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
三島由紀夫の自決が彼自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。ここに、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘しておきたい。
※拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)では、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定していることに触れている。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)


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