【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫の筆名、ペンネーム (蓮田善明)(【『花ざかりの森』)

2021年11月18日 12時20分29秒 | 三島由紀夫

三島由紀夫の筆名、ペンネーム

~『花ざかりの森』自筆原稿を手掛かりに~

               永田満徳

 三島由紀夫の『花ざかりの森』などの初期四作品の原稿が見つかった。長らく所在が掴めなかったものである。所有していたのは蓮田善明の長男、晶一氏、今は、くまもと文学・歴史館に寄贈されている。

 特に注目すべきは、『花ざかりの森』の署名である。本名の「平岡公威」と書いた後、二本の線で消して、「三島由紀夫」と書き直している。ちなみに、三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時から「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使っていたことになる。

 植木(現・北区植木町)の蓮田善明夫人敏子さん宅に蓮田善明のことを取材するために再三訪れた折に、敏子未亡人から直接三島由紀夫というペンネームは、「文芸文化」の同人たちが集合していた蓮田善明宅で決ったということを聞いていた。三島由紀夫と知り合いであり、蓮田善明のことを詳しく知りたいと言っていたことから蓮田敏子さん宅に案内した福島次郎は、すでに『剣と寒紅 三島由紀夫』(文藝春秋、1998.03)で、その折のことを「私が、座敷にお茶を持っていった、恰度その時、主人が、じゃ、三島由紀夫に決定しますが、みんな異存はありませんかと言い、賛成の拍手がおきておりました」と書いている。蓮田敏子さんは蓮田善明による「三島由紀夫」のペンネーム決定の場面を語っているのである。

 私は私なりに、いずれ公に発表してみたいと考えていた。しかし、公にするには確証が持てないでいた。そこに、『花ざかりの森』の原稿の発見である。蓮田敏子さんの話と今回見つかった「花ざかりの森」の署名の跡とを総合して考えると、「三島由紀夫」のペンネーム誕生の瞬間を鮮やかに復元できる。

 清水文雄の証言では、三島由紀夫はペンネームで発表することに難色を示していたということである、そのことから、『花ざかりの森』を「平岡公威」と署名したまま持参したと思われる。しかし、蓮田敏子さんの証言にあるように、蓮田善明が「三島由紀夫」に決定した後に、三島由紀夫はその場で、「花ざかりの森」の表紙に「三島由紀夫」と署名したのである。「平岡公威」から「三島由紀夫」への書き直しは、文筆家として「三島由紀夫」が誕生した瞬間を物語っている。蓮田善明が「三島由紀夫」という筆名、ペンネームの誕生に決定的に関わっていることは重要である。

 ただ、「三島由紀夫」というペンネームそのものについては、由紀夫自身、「『文芸文化』のころ」と題する文章で「三島由紀夫という筆名は、学生の身で校外の雑誌に名前を出すことを憚って、清水教授と相談して、この連載が決ったときに作った」と述べていて、学習院中等科時代の恩師、清水文雄(五木村出身)が名付けたとされている。歌人「伊藤左千夫」の名前からヒントを得たとも、静岡県の地名である「三島」を用いたとも、電話帳からいい加減に選んだとも言われている。

 

《はじめての三島由紀夫③》―三島由紀夫のペンネームの誕生―(NPO法人 くまもと文化振興会2017年3月15日発行)冒頭部分抜粋

追記:

蓮田敏子さんのお宅に伺うと、決まって、美味しいお煮しめを出して頂き、夫・蓮田善明のことを若い人が聞きに来てくれたと言わんばかりの喜びの表情をされていた。

敏子さんは一抱えもあるアルミ缶一つを傍らに置き、ここには蓮田善明の私へのラブレターが入っていると説明し、頬を緩ませていらっしゃった。

そのアルミ缶のなかに、『花ざかりの森』が入っていたと考えれば、惜しいことをしたと思っている。


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