NPO法人 くまもと文化振興会
2017年9月15日発行
はじめての夏目漱石『草枕』②
~非人情に関わる画工神経衰弱説~
永田 満徳
一 写生
『草枕』が「俳句的小説」であるゆえんは、「俳句の方法」と対となる形になっていると、「はじめての夏目漱石俳句」(『KUMAMOTO』第13号)で述べている。『草枕』が「俳句の方法」を応用して描かれているかどうかは、畢竟(ひっきょう)、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。今回は「写生」という「俳句の方法」で切り込んでみた。
俳句に於ける「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以(もっ)て天然(自然)の風光を探ること、尤(もっと)も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞「日本」、明治28年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。『草枕』の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら辺りの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、明治30(一八九七)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞「日本」)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤基澄氏の『「仕方がない」日本人』によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが『草枕』だということである。
いずれにしても、漱石自身が「余が『草枕』」(明治30年11月)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治39年9月9日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」として、『草枕』が「美」を描いた小説であることを強調している理由がこの「写生」の「美」にあったといってよい。
二 写生と非人情
「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治40年)の中で「余(よ)の尤(もっと)も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり心理的姿勢、簡単に言えば心構えである。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其(その)局に当れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩(くら)んで仕舞(しま)ふ。従つてどこに詩があるか自身には解(げ)しかねる。
これがわかる為(た)めには、わかる丈(だけ)の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観(み)て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居(い)る。見たり読んだりする間丈(だけ)は詩人である。
『草枕』[一]
すでに『草枕』の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤基澄氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私もまた、子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことであると思っている。『草枕』で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、『草枕』の中で、「非人情」と「不人情」とが使い分けられていることからもわかる。
非人情と名づくべきもの、即(すなわ)ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来(ゆらい)東洋の文学には此(この)(非人情的、没道徳的=永田注)趣味深きが如(ごと)く、吾が国俳文学にありて殊(こと)に然(しか)りとす。
『文学論』
漱石が「非人情」からなる「俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることとは軌を一にしている。
正岡子規は「明治二十九年の俳句界」の中で、
俳句は写生写実に偏して殆(ほとん)ど意匠なる者なし
と述べ、また、熊本の俳人池松迂(う)巷(こう)に宛てた書簡には、
家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景を見給へ。実景は自ら句になりて、而(しか)も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其(その)時直(すぐ)に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置(おい)た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の暁(ぎょう)靄(あい)、荒村の末枯(うらがれ)、頽籬(たいり)の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須(すべから)く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨(へいげい)せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其(その)快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。
という一節がある。このように、むしろ、子規の方が「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景を見給へ」と「机上詩人」になることに対して警告していることでは徹底している。子規のこの「実景」尊重こそ、対象を「第三者」の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを直弟子漱石に思い悟らせた原因であろう。
三 非人情
画工は、『草枕』の第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。
唯(ただ)、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第で如何様(いかよう)とも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世(うきよ)小路(こうじ)の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位(くらい)な淡い心持ちにはなれさうなものだ。
[一]
しばらく此(この)旅中に起る出来事と、旅中に出逢(であ)ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸(まる)で人情を棄てる訳(わけ)には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序(つい)でに、可成(なるべく)節倹してそこ迄(まで)は漕ぎ付けたいものだ。
[一]
「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、『草枕』では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。
従って、「非人情」が「第三者」、「純客観」な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
画工がこれほど「非人情」に拘るのは、
小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只頻年(ひんねん)人事の煩瑣(はんさ)にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥(しょうよう)せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候小生自身すら自分の慰籍(いしゃ)に書きたるものに過ぎず候
(明治39年8月31日書簡)
とあるように、『草枕』の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。
四 画工は神経衰弱である
俳人中村草田男の場合を例にすると、
其(その)後、大学の過程に於(おい)て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如(ごと)きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直(ただ)ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟(しげき)が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆(ほとん)んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎(と)に角(かく)、その間は、草木の間に魂を悠遊(ゆうゆう)させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
『俳句を作る人に』(昭和31年7月)
草田男は「『写生』に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利(り)慾(よく)が交らぬと云ふ点に存するかも知れぬが、交らぬ丈(だけ)に其(その)他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。
首藤基澄氏は、
……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂の救恤(きゅうじゅつ)だったといい換えてもいい。
「漱石の『仕方がない』態度―現代日本の開化」
と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「『仕方がない』開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、『草枕』の主題を提出している。
なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。
画工は紛々たる俗人情を陋(ろう)とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋(ろう)するのである。否(いな)之を陋(ろう)とするの極俗人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫(それ)だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪(ひょうろう)しやうといふのである。たとひ全(まった)く非人情で押し通せなくても尤(もっと)も非人情に近い人情(能を見るときの如(ごと)き)で人間を見やうといふのである。
(明治39年9月30日付)
この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工が那古井への旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)として嫌い、「非人情」に親近感を覚えていることである。「俗人情」と「非人情」とを明確に対置している。
首藤基澄氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「煦々(くく)たる春日に背中をあぶって、椽側(えんがわ)に花の影と共に寐(ね)ころんで居(い)るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕(お)ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸(いき)もしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間許(ばか)かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。
これらのことから、非人情世界を志向する前提に神経衰弱が存在したとして、画工神経衰弱説を唱えることはあながちこじつけだとは思わない。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)