「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)
「草枕」夏目漱石 そのⅡ
五 同化=非人情との関係
「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治四十年一月)の中で「余の尤も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり「心理的姿勢」(注5)、簡単に言えば「心構え」である。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其局に当れば利害のに捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目はんで仕舞ふ。従つてどこに詩があるか自身には解しかねる。
これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。[一]
すでに「草枕」の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私も子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことである(注5)と思っている。「草枕」で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、「草枕」の中で、「非人情」と「不人情」とを使い分けられていることからもわかる。
非人情と名くべきもの、即ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来東洋の文学には此(筆者注=非人情的な)趣味深きが如く、吾が国俳文学にありて殊に然りとす。 「文学論」(前掲書)
漱石が「非人情」からなる「国俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることと軌を一にしている。子規は「明治二十九年の俳句界」(前掲書)の中で、
俳句は写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし
と述べ、また、子規が熊本の俳人池松迂巷に宛てた手紙の中では、
家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景に見給へ。実景は自ら句になりて、而も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其時直に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の、荒村の末枯、の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。
という一節がある。むしろ、子規の「写生」説の方が、「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景に見給え」と「机上詩人」になることに対して警告し、ひいては「非人情」=「第三者」の立場の必然性を説いていることでは徹底している。子規の「実景」尊重こそ、対象を「第三者」(注6)の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを漱石に思い悟らせた原因であろう。
画工は、第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。
唯、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第でとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位な淡い心持ちにはなれさうなものだ。[一]
しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりでに、節倹してそこ迄は漕ぎ付けたいものだ。[一]
「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、「草枕」では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。従って、「非人情」が「第三者」、純客観な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
画工がこれほど「非人情」に拘るのは、
小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候。小生自身すら自分の慰籍に書きたるものに過ぎず候 (明治三十九年八月三十一日書簡)
とあるように、「草枕」の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。俳人中村草田男の場合を例にすると、
其後、大学の過程に於て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎に角、その間は、草木の間に魂を悠遊させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
『俳句を作る人に』(昭和三十一年七月)
草田男は「「写生」に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈にその他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。首藤氏は、
……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂のだったといい換えてもいい。
「漱石の「仕方がない」態度―現代日本の開化」(前掲書)
と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、「草枕」の主題を導き出している。その広い視野から「仕方がない」をキーワードにして幹に要を得た結論である。なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。
画工は紛々たる俗人情を陋とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋するのである。乏を陋とするの極純人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪しやうといふのである。たとひ全く非人情で押し通せなくても尤も非人情に近い人情(能を見るときの如き)で人間を見やうといふのである。 (明治三十九年九月三十日付)
この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工の旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)とし、「俗人情」と「非人情」とを明確に対置していることである。首藤氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。これらのことから、画工神経衰弱説があながちこじつけだとはいえない。
六 同化=画題成就の問題
「非人情」、あるいは「人間」を「見立て」でみようとする立場で、出会うのが那古伊の那美である。次の文章からわかるように、画工の関心の対象は那美の、特に「顔」(容貌)である。
昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場が極つている。[三]
才に任せ、気を負へば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下からしい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居しているだ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかつたのだらう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝とうとして居る顔だ。不仕合な女に違ない。[三]
色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]
画工はあくまでも絵描きで、俳人と同列に扱うことはできない。しかし、対象を掴み取り、画布、手帳に書き留めることは同じである。このときに大事なのは、対象とどう向き合うかである。主体と対象の関係に触れているのは安森敏隆氏である。安森氏は「漱石と子規―『写生文』と『叙事文』」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、次のように述べている。
(漱石の写生文に対する考え方は=筆者注)時には〈対象〉そのものが〈主体〉にくいこみ、そしてこちらの〈主体〉が〈対象〉にくりこまれるものとしてあったのである。そうした〈主体〉と〈対象〉の存在の不確かさを「作者の心的状態」である「意識」を通して解明しようと漱石は試行していたのである。
これは「写生文」に対する指摘ではあるが、「写生」を基本とする「俳句」にもそのまま通用する。そこで、主体と対象の関係で最も理想型は「同化」(一体化)である(注7)。
現代俳句では、
鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで 鍵和田秞子
鶴と私が一体になってしまったような境地になって、あんまり長くいたものだから、私が鶴になったような気持ちですね。鶴が鳴くと私が声を立てているような気持ちなんです。/(中略)私が自然と一体になっているという東洋的な発想ですね。
(鍵和田秞子「作句工房拝見 鍵和田秞子先生を訪ねて」「未来図」二月号、平成九年二月一日)
鍵和田氏はさらに言葉を続けて、「自然の中に入ってしまって」「鶴と一体になる」こと、つまり「同化」する「作り方ができるようになってきた」と述べ、「一体化」(同化)というものは作句の進化、句境の深化を意味することであると捉えている。
「草枕」では「彼等の楽は物に着するのではない。同化して其物になるのである」[六]と、「同化」することの意義に触れている。第七章では、「同化」の例として、
余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽きを、出来る丈抵抗力なきあたりへ漂はして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いて居る。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着のをはづす。どうともせよと、泉のなかで、湯泉と同化して仕舞ふ。
とあり、「余」は「出来る丈抵抗力」のないところで、「魂がくらげの様に」なって、「楽なものだ」と思う。そこでは「分別」や「執着」をなくし、「どうともせよ」と身を投げ出し、「湯泉」という対象と「同化」する。鍵和田氏のいう「一体化」(同化)である。誰しも体験するもので、言わずもがなであるが、「非人情」と「同化」との関係で説明すると、「余」は「温泉」の心地よさも手伝い、「非人情」の状態となって、「同化」を経験しているといえよう。
「同化」の問題を考える意味で、「余が『草枕』」で述べている次の文章は重要である。
――あの『草枕』は、一種変つた妙な観察をする一画工が、たま 一美人に邂逅して、之を観察するのだが、此美人即ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立つてゐて、少しも動かない。それを画工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右からと、種々な方面から観察する、唯だそれだけである。中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない。
「中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない」というものの、「草枕」にストーリー展開をもたらしているのは、画工という「観察する者の方が動いてゐる」主体が那美という「少しも動かない」対象に対して、「非人情」、あるいは「見立て」の立場でどれほど「同化」できたかである
その「同化」の観点から、有名な最後の画題成就の場面を考えるとどういうことになるのか。
那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いて居る。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。[十三]
この場面はこれまでの多くが主体である画工が対象である那美の「憐れ」の表情を感受したと捉えられている(注8)。言い換えれば、主体と対象とが「同化」した瞬間であるということになる。画題成就、めでたし、めでたしとなるところである。
ところが、十章で、すでに画題成就の種は明らかにされている。
色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]
第十三章の船中での会話でも、
「なに今でも画に出来ますがね。只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」
「物足らぬ」、「足りない所」とは「憐れの念」であり、那美の顔に「憐れ」の表情が現れることを期待しているのである。「非人情」から対象を見るという画工の立場に注目するならば、この十章以降の画工は「色々に考えた末、仕舞に漸くこれだ」と早々と結論付けをし、「神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情」などと勿体ぶった言い方で権威付けをして、那美という対象に「憐れの念」が浮かぶのが画題成就であると決め付けているということになる。これ以上同化作用は進みようもない。あるのは画工の頭の中に作り上げられた那美の「顔」があるばかりである。これでは、画工の「非人情」の立場は破綻していると言わなければならない。十章以降の十二章においてさえ、
しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない。あつては折角の旅が無駄になる。人情世界から、ぢやりぢやりする砂をふるつて、底にあまる、うつくしい金のみを眺めて暮さなければならぬ。余自らも社会の一員を以て任じては居らぬ。純粋なる専門画家として、己れさへ、たる利害の累索を絶つて、優に画布裏に往来して居る。況んや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない。
とあるように、画工は「しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない」との覚悟で、「那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない」と考えている。そうであるならば、「非人情」の立場を堅持しながら、むろんどんな結果が現れようとも、先入観なしに辛抱強く、那美の表情に現れる変化を観察することができたはずである。その結果が「憐れ」であったとすれば、那美という対象と同化したということになり、俳句的対象把握として推奨されるべきものになったに違いない。「同化」というものはそういうものである。
しかし、「非人情」の不徹底によって「同化」に至らなかったのはどうしてか。
能、芝居、くは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。此覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今迄見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。[十二]
この文章からは、どんなに那美を観察しても、一向に掴みきれない画工の焦りを感じる。那美という対象と同化するには三泊四日という接触期間はあまりにも短かったということであろう。鍵和田秞子氏が「鶴鳴くや」という名句を作ったときの「あんまり長くいた」という言葉を持ち出すまでもなく、対象と「同化」するには充分な時間が必要なのである。ましてや、対象の相手は、花鳥風月と違って、生身の人間である。「同化」の問題は殊に初対面の男女の関係であればなおさら難しい。画工自身も那美の関係を危惧して、「現実世界に在つて、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立つたとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだらう」[十二]と言っている。なぜなら、「情に竿させば流される」[一]の「情」が介在し、「非人情」=第三者の立場を守ることができなくなるからである。そもそも、「同化」できなかった根本的原因は、首藤氏の言を借りて言えば、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」の投影である画工が「近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔」を引き寄せた(注9)ことにあったのかもしれない。あくまでも原因は画工の側にあって、それほど、画工の中に「近代(二十世紀)」の「毒」は深く浸透していたと言わなければならない。
このように、「俳句の方法」としての「同化」の視点で見てくると、「温泉」との「同化」とは事情が異なり、特に人物に対しては「同化」することの困難さを読み取ることができる。
……画工は、出会った入々、特に那美さんの過去の生活を知らず、その人々の起こす行動、事件、出来事の拠って来たる背景をも知らない。登場人物の片言隻句から、那美さんをめぐる事清が少しずつ明らかにはなってゆくものの、基本的には、画工は那古井温泉に於けるすべての、断片をしか見ることができない。この設定は注意されて良い。十三章に亘って描かれるすべてが画工の心理のフィルタを通していることは、主題とも関連しているであろう。
(宮内俊介「「酔狂」としての「草枕」」(「方位」第六号、一九八三、七)
ともあれ、画工は「フィルタ」越しでしか、那美という対象を見ることができなかった。このような画工では那美の「背景」が見えようはずもない。画工の思い込みによって、「非人情」を貫けず、那美という対象の「背景」にとことん踏み込むことができなかった。従って、「草枕」は「神経衰弱に罹った」画工が「癒し」を求めてやってきた那古井の温泉場で、「非人情」を通して、他者を理解しようとして、他者を理解することができなかった他者了解不能の物語であると言ってよい。
たとえ「草枕」が他者了解不能の物語で終ったにしても、多様な「俳句の方法」を小説に応用するといった「天地開闢以来類のない」(小宮豊隆宛書簡、明治二十九年八月二十八日)小説にあえて挑戦し、子規の提唱した「美なる処のみ」(「俳諧反故籠」『ほとゝぎす』第二号、明治三十年二月十五日発行)を詠む俳句説に従って、「美を生命とする俳句的小説」を仕立て上げた漱石の手腕はお見事である。漱石自身が「草枕」を「俳句的小説」と述べているのは嘘偽りのないことであると言っても差し支えがない。
終わりに 「草枕」否定の意味
「草枕」を脱稿して、三ヶ月もたたないうちに、鈴木三重吉宛の手紙(明治二十九年十月二十六日付)で、「草枕の様な主人公ではいけない」と否定し、
僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。
との決意を示している。この有名な一節ばかりが一人歩きをして、さまざまな憶測が飛び交っているが、この手紙全体を読むと、漱石の意図がはっきりと透けて見えてくる。
・大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。
・大きな世界に出れば只愉快を得る為めだ杯とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。
ここで、漱石が述べている「大なる世の中」「大きな世界」とは「世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうづまつてゐる。そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イヤなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出来ぬ」(同文)世界で、「近代」の「世界」ということになろう。
首藤氏の「漱石の「仕方がない」態度」(前掲書)によると、漱石は「現代文明の開化」を「「神経衰弱に罹らない程度」に内発的な開化に変えていくより他に「仕方がない」」という」「一見微温的な「仕方がない」生の態度」で対処すべきことを説いていたという。「現代文明の開化」という「近代」の「世界」の浸食をちょっとやそっとでは防ぐことができないことは、語り手である漱石自身がよく知っていたことになる。漱石(語り手)は、「草枕」刊行前後の書簡での自信満々な態度を見るにつけ、「草枕」は当初、「非人情」を標榜する画工を通して、「桃源境」のような反「近代」の世界に浸ることを良しと考えていたと推測される。しかし、漱石は、どの時点であるかは定かではないが、画工自身に付着した「近代」の「世界」が容易には払拭できないことが「非人情」、「同化」の不徹底さ、ひいては他者了解不能を招いたことに気付いたと思われる。言い換えて言えば、「非人情」、「同化」の不徹底さに対する、漱石の自身の反省である。そこで、「近代」の「大きな世界」に背を向けるよりはむしろ「近代」の「大きな世界」(他者)に積極的に参入し、「非人情」、「同化」を徹底させていくことが必要だと認識したのである。これが「草枕」否定の真意である。「草枕」以降の作品が「非人情」(第三者)の視点の徹底化を図りながら、この「近代(二十世紀)に毒された那美」に象徴される「近代」の「世界」を対象相手として、「同化」し、肉薄していくことになるのは至極当然なことであった。
「俳句の方法」(レトリック)である「写生」から導き出された「非人情」(第三者)の立場は、漱石は作家の営為の基本に据えられ、人間の内奥に透徹する「リアリズム」作家(注10)としての不動の地位を築いている。その出発点が俳句であり、その俳句の「方法」の応用が俳句的小説「草枕」であった。俳句創作の経験による「非人情」(第三者)の立場の発見という点で、俳句、俳句を応用した小説「草枕」は漱石文学の底流としての位置を確保していると言わなければならない。
[注]
(1)「ピットロホリー」は漱石が暗い憂鬱なロンドンの生活から抜け出し、唯一別世界のような非常に穏やかな体験をした所である。同じ頃、「僕は帰つたらだれかと日本流の旅行がして見たい 小天杯思ひ出すよ」(明治三十四年二月七日書簡)と書き送っている。「ピットロホリー」と「草枕」の舞台となった「小天」は漱石にとって、平岡敏夫氏が「漱石 ある佐幕子女の物語」(二〇〇〇年一月、おうふう)の中で指摘するように、「「草枕」での旅、つまり小天温泉への旅とこのスコットランド・ピットロホリイへの旅とを重ね合わせることができる」所であった。このことから、「昔」(『永日小品』)と「草枕」とは密接な関係があり、散文と小説の違いはあるが、俳句的作品という点では通底している。
(2)「文学論」そのものは一九〇七(明治四十)年五月に刊行されているが、もともとは東京帝国大文科大学で一九〇三(明治三十六)年九月に始まって一九〇五(同三十八)年六月に渡る、前後三年の講義の稿を中川芳太郎が整理し、最後の三分の一は漱石自身が手を入れたものである。従って、「草枕」執筆時点ではこの「文学論」の内容(文学方法)は自家薬籠中の物になっていたものと考えられる。
(3)漱石は講演録「文芸の哲学的基礎」(明治四十年五月~六月、『東京朝日新聞』)で、「文芸に在つて技巧は大切なものである」と言い切り、それは「もし技巧がなければ折角の思想も気の毒な事に、差程が出て来ない」からであると述べている。この頃の漱石は、「文学論」もそうだが、「何を」表現するかということよりはむしろ「如何に」表現するかという「技巧」(方法)の面への注視が強く働いていたことを忘れてはならない。
(4)原武哲「十一森の都」『夏目漱石と菅虎雄』、一九八三(昭和五十八)年十二月、教育出版センター。参照。
(5)松井利彦『日本近代文学16 正岡子規集』(昭和四十七年十二月、角川書店)の頭注。
(6)俳句における「第三者」とは、仁平勝氏の「個性」と言い換えてもいい。仁平氏が「俳句をつくろう」(講談社現代新書、二〇〇〇年、十一月)の中で、「反個性のすすめ」として、「俳句の世界が、反個性の上に成り立っている」文芸で、「反個性という場所から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくる」と述べている。「第三者」の視点に立つということは、「どうすれば詩的なに帰れるかといへば、おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いてに落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さへ作ればいい」(「草枕」[三])ことであって、個性的なものを削ぎ落とすことと同義で、仁平氏の考えとそう遠くない。
(7)高浜虚子の「同化」については、大輪靖宏氏の「俳句の基本とその応用」(平成十九年一月、角川学芸出版)に詳しい。大輪氏はその中で、「虚子が自然の意思を十分に感じ取ることができたのは、虚子が常に、ただひとり大自然と同化するという姿勢を持っていたことが大きい」と述べて、「客観写生」に徹して行くと、「大自然以外の他者の存在を意識しない」ので、「自然と自分が一体化している」状態になると説明している。
(8)「草枕」は画工が那美の「身体に触れる」過程を描いた作品だとして、
画工は那美の「肩を叩」き、はじめて他者としての身体に触れる。この瞬間、「人の世」も「人でなしの世」も、そして辿ってきた過去という時も超えて、二人は「人」として向かい合い、一瞬一瞬ふれあえる自己と他者の関係のはざまに、立つことができたのかもしれない。(大津知佐子「「波動する刹那」―『草枕』論―」『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)
という論考がある。画工と那美の関係の深まりの過程に注目している点では私の論考と同じである。しかし、最後の場面は画工と那美との触れ合いが確認できるとしてい ることは同意できても、画題成就に限っては異論がある。
(9)東郷克美氏は「「草枕」水・眠り・死」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、「那美さんの分裂・不統一と二十世紀的現実のそれとの対応もすでに指摘されているが、だとすればその分裂は二十世紀の住人たる画工のものでもあるはずだ。(中略)那美さんの分裂・混乱はいわば見る存在としての画工のそれの投影だとも考えられる」と述べている。「二十世紀的現実」という点での、画工と那美の同質性を指摘している。
(10)田中実氏は「小説は何故(Why)に応答する」(『これからの文学研究と思想の地平』、二〇〇七年七月、右文書院)の中で、「漱石の道程は『道程』『こゝろ』の一人称から「三人称客観」の『道草』で近代小説の完成に向かう」として、漱石は「三人称客観」のリアリズムを成就させた作家であると捉えている。この「三人称客観」は「非人情」(第三者)の立場の発見が出発点になっていることは言うまでもない。
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