【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

【夏目漱石】「草枕」 Ⅱ    夏目漱石の『草枕』論

2010年09月12日 10時00分54秒 | 論文

「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)

「草枕」夏目漱石 そのⅡ

五 同化=非人情との関係

「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治四十年一月)の中で「余の尤も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり「心理的姿勢」(注5)、簡単に言えば「心構え」である。

恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其局に当れば利害のに捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目はんで仕舞ふ。従つてどこに詩があるか自身には解しかねる。
  これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。[一]

すでに「草枕」の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私も子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことである(注5)と思っている。「草枕」で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、「草枕」の中で、「非人情」と「不人情」とを使い分けられていることからもわかる。

   非人情と名くべきもの、即ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来東洋の文学には此(筆者注=非人情的な)趣味深きが如く、吾が国俳文学にありて殊に然りとす。       「文学論」(前掲書)

漱石が「非人情」からなる「国俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることと軌を一にしている。子規は「明治二十九年の俳句界」(前掲書)の中で、

  俳句は写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし

と述べ、また、子規が熊本の俳人池松迂巷に宛てた手紙の中では、

家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景に見給へ。実景は自ら句になりて、而も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其時直に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の、荒村の末枯、の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。

という一節がある。むしろ、子規の「写生」説の方が、「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景に見給え」と「机上詩人」になることに対して警告し、ひいては「非人情」=「第三者」の立場の必然性を説いていることでは徹底している。子規の「実景」尊重こそ、対象を「第三者」(注6)の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを漱石に思い悟らせた原因であろう。
 画工は、第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。

唯、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第でとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位な淡い心持ちにはなれさうなものだ。[一]

しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりでに、節倹してそこ迄は漕ぎ付けたいものだ。[一]

「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、「草枕」では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。従って、「非人情」が「第三者」、純客観な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
 画工がこれほど「非人情」に拘るのは、

小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候。小生自身すら自分の慰籍に書きたるものに過ぎず候              (明治三十九年八月三十一日書簡)

とあるように、「草枕」の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。俳人中村草田男の場合を例にすると、

其後、大学の過程に於て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎に角、その間は、草木の間に魂を悠遊させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
                     『俳句を作る人に』(昭和三十一年七月)

草田男は「「写生」に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈にその他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。首藤氏は、

……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂のだったといい換えてもいい。  
              「漱石の「仕方がない」態度―現代日本の開化」(前掲書)

と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、「草枕」の主題を導き出している。その広い視野から「仕方がない」をキーワードにして幹に要を得た結論である。なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。

画工は紛々たる俗人情を陋とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋するのである。乏を陋とするの極純人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪しやうといふのである。たとひ全く非人情で押し通せなくても尤も非人情に近い人情(能を見るときの如き)で人間を見やうといふのである。                 (明治三十九年九月三十日付)

この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工の旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)とし、「俗人情」と「非人情」とを明確に対置していることである。首藤氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。これらのことから、画工神経衰弱説があながちこじつけだとはいえない。

六 同化=画題成就の問題

「非人情」、あるいは「人間」を「見立て」でみようとする立場で、出会うのが那古伊の那美である。次の文章からわかるように、画工の関心の対象は那美の、特に「顔」(容貌)である。

昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場が極つている。[三]

才に任せ、気を負へば百人の男子を物の数とも思わぬ勢の下からしい情けが吾知らず湧いて出る。どうしても表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居しているだ。此女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、此女の世界に統一がなかつたのだらう。不幸に圧しつけられながら、其不幸に打ち勝とうとして居る顔だ。不仕合な女に違ない。[三]

色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]

画工はあくまでも絵描きで、俳人と同列に扱うことはできない。しかし、対象を掴み取り、画布、手帳に書き留めることは同じである。このときに大事なのは、対象とどう向き合うかである。主体と対象の関係に触れているのは安森敏隆氏である。安森氏は「漱石と子規―『写生文』と『叙事文』」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、次のように述べている。

(漱石の写生文に対する考え方は=筆者注)時には〈対象〉そのものが〈主体〉にくいこみ、そしてこちらの〈主体〉が〈対象〉にくりこまれるものとしてあったのである。そうした〈主体〉と〈対象〉の存在の不確かさを「作者の心的状態」である「意識」を通して解明しようと漱石は試行していたのである。

これは「写生文」に対する指摘ではあるが、「写生」を基本とする「俳句」にもそのまま通用する。そこで、主体と対象の関係で最も理想型は「同化」(一体化)である(注7)。
現代俳句では、

     鶴鳴くやわが身のこゑと思ふまで    鍵和田秞子
鶴と私が一体になってしまったような境地になって、あんまり長くいたものだから、私が鶴になったような気持ちですね。鶴が鳴くと私が声を立てているような気持ちなんです。/(中略)私が自然と一体になっているという東洋的な発想ですね。
(鍵和田秞子「作句工房拝見 鍵和田秞子先生を訪ねて」「未来図」二月号、平成九年二月一日)

鍵和田氏はさらに言葉を続けて、「自然の中に入ってしまって」「鶴と一体になる」こと、つまり「同化」する「作り方ができるようになってきた」と述べ、「一体化」(同化)というものは作句の進化、句境の深化を意味することであると捉えている。
「草枕」では「彼等の楽は物に着するのではない。同化して其物になるのである」[六]と、「同化」することの意義に触れている。第七章では、「同化」の例として、

   余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽きを、出来る丈抵抗力なきあたりへ漂はして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いて居る。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着のをはづす。どうともせよと、泉のなかで、湯泉と同化して仕舞ふ。

とあり、「余」は「出来る丈抵抗力」のないところで、「魂がくらげの様に」なって、「楽なものだ」と思う。そこでは「分別」や「執着」をなくし、「どうともせよ」と身を投げ出し、「湯泉」という対象と「同化」する。鍵和田氏のいう「一体化」(同化)である。誰しも体験するもので、言わずもがなであるが、「非人情」と「同化」との関係で説明すると、「余」は「温泉」の心地よさも手伝い、「非人情」の状態となって、「同化」を経験しているといえよう。
 「同化」の問題を考える意味で、「余が『草枕』」で述べている次の文章は重要である。

――あの『草枕』は、一種変つた妙な観察をする一画工が、たま 一美人に邂逅して、之を観察するのだが、此美人即ち作物の中心となるべき人物は、いつも同じ所に立つてゐて、少しも動かない。それを画工が、或は前から、或は後から、或は左から、或は右からと、種々な方面から観察する、唯だそれだけである。中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない。

「中心となるべき人物が少しも動かぬのだから、其処に事件の発展しようがない」というものの、「草枕」にストーリー展開をもたらしているのは、画工という「観察する者の方が動いてゐる」主体が那美という「少しも動かない」対象に対して、「非人情」、あるいは「見立て」の立場でどれほど「同化」できたかである
その「同化」の観点から、有名な最後の画題成就の場面を考えるとどういうことになるのか。

那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いて居る。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云つた。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。[十三]

この場面はこれまでの多くが主体である画工が対象である那美の「憐れ」の表情を感受したと捉えられている(注8)。言い換えれば、主体と対象とが「同化」した瞬間であるということになる。画題成就、めでたし、めでたしとなるところである。
 ところが、十章で、すでに画題成就の種は明らかにされている。

色々に考えた末、仕舞に漸くこれだと気がついた。多くある情緒のうちで、憐れと云う字のあるのを忘れて居た。憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も人間の情である。御那美さんの表情のうちには此憐れの念が少しもあらはれて居らぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、此情があの女のにひらめいた瞬時に、わが画は成就するであらう。[十]

第十三章の船中での会話でも、

「なに今でも画に出来ますがね。只少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」

「物足らぬ」、「足りない所」とは「憐れの念」であり、那美の顔に「憐れ」の表情が現れることを期待しているのである。「非人情」から対象を見るという画工の立場に注目するならば、この十章以降の画工は「色々に考えた末、仕舞に漸くこれだ」と早々と結論付けをし、「神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情」などと勿体ぶった言い方で権威付けをして、那美という対象に「憐れの念」が浮かぶのが画題成就であると決め付けているということになる。これ以上同化作用は進みようもない。あるのは画工の頭の中に作り上げられた那美の「顔」があるばかりである。これでは、画工の「非人情」の立場は破綻していると言わなければならない。十章以降の十二章においてさえ、

しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない。あつては折角の旅が無駄になる。人情世界から、ぢやりぢやりする砂をふるつて、底にあまる、うつくしい金のみを眺めて暮さなければならぬ。余自らも社会の一員を以て任じては居らぬ。純粋なる専門画家として、己れさへ、たる利害の累索を絶つて、優に画布裏に往来して居る。況んや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない。

とあるように、画工は「しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中に人情界に帰る必要はない」との覚悟で、「那美さんの行為動作と雖ども只の姿と見るより外に致し方がない」と考えている。そうであるならば、「非人情」の立場を堅持しながら、むろんどんな結果が現れようとも、先入観なしに辛抱強く、那美の表情に現れる変化を観察することができたはずである。その結果が「憐れ」であったとすれば、那美という対象と同化したということになり、俳句的対象把握として推奨されるべきものになったに違いない。「同化」というものはそういうものである。
しかし、「非人情」の不徹底によって「同化」に至らなかったのはどうしてか。

能、芝居、くは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。此覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今迄見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。[十二]

この文章からは、どんなに那美を観察しても、一向に掴みきれない画工の焦りを感じる。那美という対象と同化するには三泊四日という接触期間はあまりにも短かったということであろう。鍵和田秞子氏が「鶴鳴くや」という名句を作ったときの「あんまり長くいた」という言葉を持ち出すまでもなく、対象と「同化」するには充分な時間が必要なのである。ましてや、対象の相手は、花鳥風月と違って、生身の人間である。「同化」の問題は殊に初対面の男女の関係であればなおさら難しい。画工自身も那美の関係を危惧して、「現実世界に在つて、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立つたとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだらう」[十二]と言っている。なぜなら、「情に竿させば流される」[一]の「情」が介在し、「非人情」=第三者の立場を守ることができなくなるからである。そもそも、「同化」できなかった根本的原因は、首藤氏の言を借りて言えば、「「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」の投影である画工が「近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔」を引き寄せた(注9)ことにあったのかもしれない。あくまでも原因は画工の側にあって、それほど、画工の中に「近代(二十世紀)」の「毒」は深く浸透していたと言わなければならない。
このように、「俳句の方法」としての「同化」の視点で見てくると、「温泉」との「同化」とは事情が異なり、特に人物に対しては「同化」することの困難さを読み取ることができる。

……画工は、出会った入々、特に那美さんの過去の生活を知らず、その人々の起こす行動、事件、出来事の拠って来たる背景をも知らない。登場人物の片言隻句から、那美さんをめぐる事清が少しずつ明らかにはなってゆくものの、基本的には、画工は那古井温泉に於けるすべての、断片をしか見ることができない。この設定は注意されて良い。十三章に亘って描かれるすべてが画工の心理のフィルタを通していることは、主題とも関連しているであろう。
(宮内俊介「「酔狂」としての「草枕」」(「方位」第六号、一九八三、七)

ともあれ、画工は「フィルタ」越しでしか、那美という対象を見ることができなかった。このような画工では那美の「背景」が見えようはずもない。画工の思い込みによって、「非人情」を貫けず、那美という対象の「背景」にとことん踏み込むことができなかった。従って、「草枕」は「神経衰弱に罹った」画工が「癒し」を求めてやってきた那古井の温泉場で、「非人情」を通して、他者を理解しようとして、他者を理解することができなかった他者了解不能の物語であると言ってよい。
たとえ「草枕」が他者了解不能の物語で終ったにしても、多様な「俳句の方法」を小説に応用するといった「天地開闢以来類のない」(小宮豊隆宛書簡、明治二十九年八月二十八日)小説にあえて挑戦し、子規の提唱した「美なる処のみ」(「俳諧反故籠」『ほとゝぎす』第二号、明治三十年二月十五日発行)を詠む俳句説に従って、「美を生命とする俳句的小説」を仕立て上げた漱石の手腕はお見事である。漱石自身が「草枕」を「俳句的小説」と述べているのは嘘偽りのないことであると言っても差し支えがない。

終わりに 「草枕」否定の意味

「草枕」を脱稿して、三ヶ月もたたないうちに、鈴木三重吉宛の手紙(明治二十九年十月二十六日付)で、「草枕の様な主人公ではいけない」と否定し、

僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。

との決意を示している。この有名な一節ばかりが一人歩きをして、さまざまな憶測が飛び交っているが、この手紙全体を読むと、漱石の意図がはっきりと透けて見えてくる。

・大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。
・大きな世界に出れば只愉快を得る為めだ杯とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。

ここで、漱石が述べている「大なる世の中」「大きな世界」とは「世の中は自己の想像とは全く正反対の現象でうづまつてゐる。そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イヤなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出来ぬ」(同文)世界で、「近代」の「世界」ということになろう。
首藤氏の「漱石の「仕方がない」態度」(前掲書)によると、漱石は「現代文明の開化」を「「神経衰弱に罹らない程度」に内発的な開化に変えていくより他に「仕方がない」」という」「一見微温的な「仕方がない」生の態度」で対処すべきことを説いていたという。「現代文明の開化」という「近代」の「世界」の浸食をちょっとやそっとでは防ぐことができないことは、語り手である漱石自身がよく知っていたことになる。漱石(語り手)は、「草枕」刊行前後の書簡での自信満々な態度を見るにつけ、「草枕」は当初、「非人情」を標榜する画工を通して、「桃源境」のような反「近代」の世界に浸ることを良しと考えていたと推測される。しかし、漱石は、どの時点であるかは定かではないが、画工自身に付着した「近代」の「世界」が容易には払拭できないことが「非人情」、「同化」の不徹底さ、ひいては他者了解不能を招いたことに気付いたと思われる。言い換えて言えば、「非人情」、「同化」の不徹底さに対する、漱石の自身の反省である。そこで、「近代」の「大きな世界」に背を向けるよりはむしろ「近代」の「大きな世界」(他者)に積極的に参入し、「非人情」、「同化」を徹底させていくことが必要だと認識したのである。これが「草枕」否定の真意である。「草枕」以降の作品が「非人情」(第三者)の視点の徹底化を図りながら、この「近代(二十世紀)に毒された那美」に象徴される「近代」の「世界」を対象相手として、「同化」し、肉薄していくことになるのは至極当然なことであった。
「俳句の方法」(レトリック)である「写生」から導き出された「非人情」(第三者)の立場は、漱石は作家の営為の基本に据えられ、人間の内奥に透徹する「リアリズム」作家(注10)としての不動の地位を築いている。その出発点が俳句であり、その俳句の「方法」の応用が俳句的小説「草枕」であった。俳句創作の経験による「非人情」(第三者)の立場の発見という点で、俳句、俳句を応用した小説「草枕」は漱石文学の底流としての位置を確保していると言わなければならない。

[注]
(1)「ピットロホリー」は漱石が暗い憂鬱なロンドンの生活から抜け出し、唯一別世界のような非常に穏やかな体験をした所である。同じ頃、「僕は帰つたらだれかと日本流の旅行がして見たい 小天杯思ひ出すよ」(明治三十四年二月七日書簡)と書き送っている。「ピットロホリー」と「草枕」の舞台となった「小天」は漱石にとって、平岡敏夫氏が「漱石 ある佐幕子女の物語」(二〇〇〇年一月、おうふう)の中で指摘するように、「「草枕」での旅、つまり小天温泉への旅とこのスコットランド・ピットロホリイへの旅とを重ね合わせることができる」所であった。このことから、「昔」(『永日小品』)と「草枕」とは密接な関係があり、散文と小説の違いはあるが、俳句的作品という点では通底している。
(2)「文学論」そのものは一九〇七(明治四十)年五月に刊行されているが、もともとは東京帝国大文科大学で一九〇三(明治三十六)年九月に始まって一九〇五(同三十八)年六月に渡る、前後三年の講義の稿を中川芳太郎が整理し、最後の三分の一は漱石自身が手を入れたものである。従って、「草枕」執筆時点ではこの「文学論」の内容(文学方法)は自家薬籠中の物になっていたものと考えられる。
(3)漱石は講演録「文芸の哲学的基礎」(明治四十年五月~六月、『東京朝日新聞』)で、「文芸に在つて技巧は大切なものである」と言い切り、それは「もし技巧がなければ折角の思想も気の毒な事に、差程が出て来ない」からであると述べている。この頃の漱石は、「文学論」もそうだが、「何を」表現するかということよりはむしろ「如何に」表現するかという「技巧」(方法)の面への注視が強く働いていたことを忘れてはならない。
(4)原武哲「十一森の都」『夏目漱石と菅虎雄』、一九八三(昭和五十八)年十二月、教育出版センター。参照。
(5)松井利彦『日本近代文学16 正岡子規集』(昭和四十七年十二月、角川書店)の頭注。
(6)俳句における「第三者」とは、仁平勝氏の「個性」と言い換えてもいい。仁平氏が「俳句をつくろう」(講談社現代新書、二〇〇〇年、十一月)の中で、「反個性のすすめ」として、「俳句の世界が、反個性の上に成り立っている」文芸で、「反個性という場所から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくる」と述べている。「第三者」の視点に立つということは、「どうすれば詩的なに帰れるかといへば、おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いてに落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さへ作ればいい」(「草枕」[三])ことであって、個性的なものを削ぎ落とすことと同義で、仁平氏の考えとそう遠くない。
(7)高浜虚子の「同化」については、大輪靖宏氏の「俳句の基本とその応用」(平成十九年一月、角川学芸出版)に詳しい。大輪氏はその中で、「虚子が自然の意思を十分に感じ取ることができたのは、虚子が常に、ただひとり大自然と同化するという姿勢を持っていたことが大きい」と述べて、「客観写生」に徹して行くと、「大自然以外の他者の存在を意識しない」ので、「自然と自分が一体化している」状態になると説明している。
(8)「草枕」は画工が那美の「身体に触れる」過程を描いた作品だとして、

画工は那美の「肩を叩」き、はじめて他者としての身体に触れる。この瞬間、「人の世」も「人でなしの世」も、そして辿ってきた過去という時も超えて、二人は「人」として向かい合い、一瞬一瞬ふれあえる自己と他者の関係のはざまに、立つことができたのかもしれない。(大津知佐子「「波動する刹那」―『草枕』論―」『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)

という論考がある。画工と那美の関係の深まりの過程に注目している点では私の論考と同じである。しかし、最後の場面は画工と那美との触れ合いが確認できるとしてい ることは同意できても、画題成就に限っては異論がある。
(9)東郷克美氏は「「草枕」水・眠り・死」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、「那美さんの分裂・不統一と二十世紀的現実のそれとの対応もすでに指摘されているが、だとすればその分裂は二十世紀の住人たる画工のものでもあるはずだ。(中略)那美さんの分裂・混乱はいわば見る存在としての画工のそれの投影だとも考えられる」と述べている。「二十世紀的現実」という点での、画工と那美の同質性を指摘している。
(10)田中実氏は「小説は何故(Why)に応答する」(『これからの文学研究と思想の地平』、二〇〇七年七月、右文書院)の中で、「漱石の道程は『道程』『こゝろ』の一人称から「三人称客観」の『道草』で近代小説の完成に向かう」として、漱石は「三人称客観」のリアリズムを成就させた作家であると捉えている。この「三人称客観」は「非人情」(第三者)の立場の発見が出発点になっていることは言うまでもない。
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【夏目漱石】「草枕」 Ⅰ  夏目漱石の『草枕』論

2010年09月12日 09時54分13秒 | 論文

「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)

内容(目次より)

第一章 夏目漱石「こゝろ」/首藤基澄
第二章 芥川龍之介「羅生門」/古閑 章
第三章 高村光太郎と金子光晴/浦田義和
第四章 野間宏「暗い絵」/和田 勉
第五章 遠藤周作「海と毒薬」/管原とよ子
第六章 基調講演とパネリスト報告
     基調講演
     日本人の生を写した「仕方がない」/古江研也
     パネリスト報告
     文学研究者にして俳人/永田満徳
     首藤氏の俳句と「仕方がない生」/馬場純二
第七章 夏目漱石「草枕」/永田満徳

 

夏目漱石「草枕」 そのⅠ
―「俳句の方法」を駆使した俳句的小説―
                           
始めに 俳句=漱石文学の底流

夏目漱石は熊本時代、多くの俳句を作り、全体の四割、つまり千句あまりを作っている。漱石文学における、その俳句の影響については一過性のものとは考えられない。漱石文学の底流に流れていて、漱石文学に滋養を与えていると考える。
小森陽一氏は「俳句と散文の間で―子規を生きる漱石」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、「昔」(『永日小品』)を取り上げて、「重要なことは、ピットロホリーのディクソン邸の散文的な描写を、ほとんど自動的に連続する俳句のつらなりに置き換えることができるという点である」と述べ、「散文」と「俳句」の連続性を指摘している。その例としては次の通りである。
  「昔」(冒頭)ピトロクリの谷は秋の真下にある。
        ピトロクリの谷は秋の真下なり(小森)
「昔」(末尾)崖から出たら足の下に美しい薔薇の花瓣が二三片散つてゐた。
        足の下薔薇の花瓣二三片(小森)
このようなことから、小森氏は「漱石にとって、ピットロホリーの光景と、過去の経験を呼び起こしながら想起する媒介となったのが、俳句なのであろう」として、俳句が記憶装置として働いていたのではないかという考えを提出している。「散文」ではあるが、一九〇九(明治四十二)年発表の「昔」((『永日小品』)という散文は六年余の前のピットロホリー訪問の体験が俳句の素養を下地にしているということである。記憶装置としての俳句という見解は突飛なものとして看過することはできない。やはり、俳句は漱石文学の底流に流れていると言わなければならない(注1)。
では、「草枕」はどうか。漱石自身が「俳句的小説」と言っているから、疑うべくもなく、「小説」と「俳句」とが密接に関わっている作品であると言ってよい。ところが、首藤基澄氏の(「「草枕」への視角」『近代文学と熊本』、二〇〇三年十月、和泉書院)によれば、

……「草枕」はなぜか漱石が意図した「俳句的小説」としては読まれていない。その理由は簡単である。多くの研究者(漱石学者)が俳句に暗いという、この一語につきる。

ということである。確かに、首藤氏自身俳句をよくし、その実践を通して、「草枕」を俳句的側面で切り込み、鋭く読み込んでいるのは、「「草枕」への視角」(前掲書)はさることながら、「漱石の「仕方がない」態度―「現代日本の開化」と「草枕」『「仕方がない」日本人』」(二〇〇八年五月、和泉書院)である。
そこで、私が特に注目するのは、次の文章の中の語句である。

……高島田にオフィーリアの顔をはめたような人間が近代の日本人の図柄だったのである。この不気味さは近代の混乱した日本人の象徴以外の何ものでもない。ここから出発して、やはり近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔が絵になるというところまで、「詩境」を追い求め、俳句の方法を駆使して、混乱した近代に幕を引いて巧妙に隠しながら、危うく成立させた「草枕」(傍線筆者)

「俳句の方法を駆使して」の語に反応したのは、私自身が俳句実作者であることもあって、「草枕」が「俳句的小説」とわざわざ言っているのはどういうことかが気になっていたからである。そこで、私は私なりに漱石がどのような「俳句の方法」を駆使して、「草枕」を描いているかを見てみたい。結論的に言うと、私も夏目漱石が「草枕」を「俳句的小説」と言ったゆえんは何かというと、「俳句の方法」を駆使していることにあると思っている。

二 子規派の潮流の一派としての俳句的小説

「草枕」は雑誌『新小説』(春陽堂・明治三十九年九月一日発行)に発表された。この時期の俳句界の状況は子規亡き後、子規の後継者争いの様相を呈している。

子規没後、虚子は空想的傾向を伸長させることを目指し、碧梧桐は〈見たところ聞いたところを其儘句に〉する傾向を進展させるというゆき方を示し、この相違は明治三十六年、『ホトトギス』に碧梧桐が発表した「温泉百句」を通して正面から対立する。(中略)(虚子は)そして三十九年には、〈今日の客観写生趣味の句に飽足らぬといふことであれば、今後益々客観写生趣味の句を奨励すべきである〉という考え方を明らかにした。この後、文壇では自然主義文学が隆盛となり、この影響の下に碧梧桐は俳句の新化を試みる。この運動は通常、新傾向俳句運動と呼ばれているのである
(松井利彦「明治俳句概観」(『研究資料現代文学6 俳句』、昭和五十五年七月、明治書院)

こういう運動の中で、漱石は漱石なりの俳句観を示す必要があった。それが俳句的でありながら小説であるという「草枕」である。しかし、「草枕」は「芸術館及人生観の一局部を代表したる小説」(明治三十九年八月七日書簡)と言って、決して俳句観とは言ってはいない。「草枕」がいくら「俳句的小説」と言っても、小説であって、俳句ではない。「草枕」はあくまでも「俳句の方法」を駆使して描いた小説である。「草枕」がその実践であるとよくいわれる一九〇七(明治四十)年五月単行本初版「文学論」がある(注2)。この「文学論」で論じている文学の様々な方法論は俳句実作で培った「俳句の方法」の影響に因るものであると思われる。それはそれとして、「草枕」は文学の普遍的特質に迫ろうとした「文学論」を反映するものであったことは間違いない。従って、端に「俳句の方法」で小説を描くことに主眼とする訳には行かない事情があった。どうしても「俳句の方法」を駆使しつつも、「芸術観及人生観の一局部を代表したる小説」でなくてはならなかった。このことは、「俳句的小説」といった形で、虚子や碧梧桐らとは違った子規派の潮流を歩み始めたことを意味する。ただ、「文学論」の複雑な方法を適用しようとしても、それは初期の漱石には荷が重すぎた。そこで、昔取った杵柄といった調子で、「俳句的」に小説を書こうとしたとしても不思議ではない。そういう意味ではいかにも「草枕」は腕試し的な要素が強い作品である。かといって、稚拙であるとは限らない。

三 「俳句の方法」を駆使した「草枕」

首藤氏が「「草枕」への視角」(前掲書)の中で、「俳句の近代など考えたことのない散文研究家ばかりが幅をきかせている。これでは漱石の意図を無視して勝手な読みに耽けるのも無理はない」という痛烈な「草枕」論者批判は当を得ている。確かに、俳句のイロハが分かっていると、「草枕」がいかに「俳句的小説」かが分かる。そういうことで、俳句とは何をどのように詠むといいのかという「俳句の方法」についてお復習いをしてみたい。俳句は五・七・五と文字(音数)をそろえればいいというものではない。寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」(昭和七年十二月)の中で漱石の言として述べているように、まさしく「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」である(注3)。その代表的な「俳句の方法」(レトリック)を簡単に紹介する。その際に、漱石の俳句のみを取り上げ、その俳句に対して同世代の人間がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句の方法」(レトリック)に習熟していたかを示して置きたい。参考にしたのは、漱石俳句に対して、門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。

写生     対象(自然)をありのままに見る
知識や理屈によって作られる「月並俳句」を避け、「実景」の「無数の美」を「探る」(子規)。
      若草や水の滴る蜆籠          漱石
   freshな感じ・写真の様な句(小宮蓬里雨)
季語     季節を表す言葉
 季語の本意を活用し、句の世界を豊かに、複雑にする。
      人に死し鶴に生まれて冴返る      漱石
   高潔な感じと身にしみる冴え返るがぴたりと合ふ。(小宮蓬里雨)
連想     季語の内包する美的イメージを表す
 季語のイメージを拡大し、自在な世界を作り出す。
      寒山か拾得か蜂に螫されしは      漱石
   絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)
取合せ    二つの相反するものの調和
 全く関係のないものを組み合わすことによって、俳句独特の思わぬ効果をあらわす。
      餅を切る包丁鈍し古暦         漱石
   包丁鈍しと古暦とがとり付いたところに捨て難い味がある(松根東洋城)
空想     現実にありそうにもないことを想像する
 季語のイメージを拡大し、句の世界を広く豊かにする。
      無人島の天子とならば涼しかろ     漱石
       思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)
省略     連続する時間を打ち止め、空間を切断する
 省略することによって、表現したいものを鮮明にし、余韻を生み出す。
切れ・切れ字 「切れ」は句を二つに切ることで、「切れ字」には「や・かな・けり」などの助詞、助動詞がある。
「切れ」は「省略」とも取られるが、主に季語の味わいを深め、「切れ字」は一句の完結性や二重構造、意味性をもたらす
デフォルメ  対象の強調
 強調することによって、意外性とともに奥行きをあらわす。
      ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり   漱石
   直感的に洞察する(寅日子)
比喩    あるものを別のものに喩える
 相手のよく知っているものを借りて擬えることによって、直接的に実感させる効果がある。
      日当りや熟柿の如き心地あり      漱石
    熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(蓬里雨)
擬人化   人間でないものを人間に擬える
 人間に擬えることによって、ある種の滑稽味や親近感を持たせる効果がある。
      叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな     漱石
    此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)
同化    主体と対象の一体化
 読む対象を深く掴み、対象そのものになることによって、対象の本質を明らかにする
菫程な小さき人に生れたし       漱石
   作者が菫と合体し同化する(東洋城)
 
このように、漱石の俳句に他者の評語を付け加えることによって、漱石における「俳句の方法」に客観性を持たせたつもりである。なお、「省略」と「切れ」「切れ字」は漱石の俳句を例示していない。それは、「省略」は俳句が言葉を惜しむ文芸であり、俳句がすべて「省略」で成り立っているからである。漱石の俳句の場合も例外ではない。また、「切れ」「切れ字」は小説などの散文にはなく、俳句独特のレトリックで、ごく当たり前に使用されるからである。漱石の俳句にもよく使われていて、特別に例として取り上げる必要もない。ここに示した「俳句の方法」で、「連想」は「「連想」、これこそ子規に発した漱石の、漱石たる独自の方法」(首藤基澄「「草枕」への視角」、前掲書)であるし、「空想」も「かういふ筋の句は先生には可成多く他には少ない」(東洋城)ものもあるが、しかし、現在でもこれらの「俳句の方法」はごく一般的で、この方法を知らずして俳句を作る人はまずいない。
 
四 「草枕」=「俳句の方法」の使用例

「草枕」が「俳句的小説」であるゆえんを「俳句の方法」と対となる形で説明していきたい。もちろん、この説明は畢竟、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。
写生=「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以て天然(自然)の風光を探ること、尤も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞『日本』、明治二十八年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。「草枕」の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら当たりの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、一八九五(明治三十)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞『日本』)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤氏の『「仕方がない」日本人』(前掲書)によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが「草枕」だということである。いずれにせよ、漱石が「余が『草枕』」(一九〇六(明治三十九)年十一月十五日)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治三十九年九月九日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」と、「草枕」が「美」を描いた小説であることを強調している理由はここにある。
季語=「草枕」では、現代の歳時記には「春」の項に載っていない季語もあるが、「季語」がこれでもか、これでもかと出てくる。算用数字は「季語」の出語数である。

一章  雲雀13 菜の花7 桜2 山桜・春・春の日・蒲公英・春の山路・筍・春の雨・春の山1
全章  春57  春の日・春の雨・春の山・春の風・春の星・春宵・春水・春光・     春の景色・春の海・春の色・春の声・春の夜・春の昼・春の温泉・        春の草・春恨・春の雲・
全章  雲雀・菜の花・桜・蒲公英・筍・鶯・梅の花・海棠・朧・青苔・枸杞・蜜柑・蝶・燕・陽炎・牡蠣・馬鹿貝・馬刀貝・霞・落椿・水仙・花曇・葛湯・(春の)稲妻・梨花・菫・木蓮・木瓜
 
俳句では「季語」は「俳句の生命」(寺田寅彦)で、俳句は「季題を主題として詠ずる詩」(高浜虚子)と定義づけられるほど、必須の条件となっている。画工自身が詠んだ俳句の「季語」を入れたとしても、これほど多くの「季語」を使っている小説は多くない。これをもって、「草枕」を「俳句的小説」と言っても言い過ぎではないだろう。
画工が「春」に対する「心」の内を次のように披瀝している。

余が心は只春と共に動いて居ると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打つて、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されて仕舞つたと云いたい。[六]

画工は「春」という季節をことさら強調している。特に俳句的小説「草枕」にとって、「季語」は作品の善し悪しを決めるうえで重要な要素である。「季語」の面からいえば、那古井の旅は四季の内ではどうしても「春」でなければならなかった。というのも、画工の願望が、

たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間り暮して見たい。[四]

というところにあるからである。多くの「春」の季語を散りばめた「草枕」は、「春」を背景にとして、「春」という季節の普遍的な情緒、美意識のエッセンスを堪能させてくれる。その点で、「春」という「季語」の選択は間違っていなかったというべきである。「草枕」は明治三十年の暮れの旧玉名郡天水町小天の旅をモデルにしていることは確かで、季節は「冬」である。しかし、「季語」の選択に関しては明治三十年末の久留米旅行の「春」の体験が最もよく生かされていると言わなければならない(注4)。
連想=首藤基澄氏は「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で、漱石俳句で最も特徴的なものは「連想」であるとして、第十章の鏡が池の場面で、「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿をする」で始まる文章を引用し、「連想」によって、「漱石の複雑な内部世界が見えてくる」と指摘している。「連想」は季語「椿」のイメージを深める効果があるので、首藤氏の指摘は正鵠を得ている。
取合せ=芭蕉が「高く心を悟りて俗に帰るべし」(土芳『三冊子』)と最終的には「俗」を奨励しているのは、俳句のルーツの俳諧は「俗」の文芸であったからである。しかし、その一方では「つねに風雅の誠を責悟りて、今なすところの俳諧にかへるべし」(土芳、前掲書)とあるように、「風雅の誠を責悟」ることも要請している。この「雅」と「俗」との「取合せ」が「取合せ」の基本中の基本である。第三章には「妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思つた」と、「雅」と「俗」の語彙が出てくる。

御茶の御馳走になる。相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。俗一人、二十四五の若い男である[八]

「和尚」はさしずめ「雅」というところだろう。この一文には「雅」(和尚)と「俗」が対比的に使われていることは明らかである。これは、「雅」と「俗」の「取合せ」を意識してのことである。「春」景色と髪結床の「親方」との関係も一種の「取合せ」である。

景色と此親方とは到底調和しない。

今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じて居る。[五]

とあるように、「春」景色という「雅」と髪結床の「親方」という「俗」との「取合せ」が俳句と同様の「滑稽」味という、思わぬ効果を生み出している。画工は春景色と髪結床の親方とは「調和」しないといってみたものの、「な春の感じを壊すべき筈の彼は、却つて長閑な春の感じを刻意に添えつゝある」[五]ことに気づく。二つの事柄を組み合わせる「取合せ」のことを二物衝突ともいう。対比はその一つであるが、二物は対立したまま終息するのではなく、「調和」を醸し出さなければならない。いわゆる「二項対立の調和」、もっと大胆に言えば「不調和の調和」(西脇順三郎「詩學」、筑摩書房)というパラドックスである。章単位でも、観海寺の場面を「雅」とすれば、髪結床の場面は「俗」ということになる。「雅」の世界だけでは古色蒼然でありすぎるが、そこに「俗」なる物を取り合せることで、なんと生き生きとしてくるではないか。
 
此夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くはのみと思い詰めて居たのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村に迄る。[八]

「夢のような」那古井の里の背後に「現実世界」が揺曳している。清水孝純氏が「「草枕」の世界」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、いみじくも「「草枕」は対比的なものを巧みに織りまぜながら、それらを調和させ、渾然たる美の世界を作り上げている」と述べているように、「取合せ」は並べて置くだけではあまり効果がない。そこに、ある「滑稽」味や「調和」が引き出されていなくてはいけない。「草枕」はそういう意味で、「取合せ」の効果を充分に取り入れた作品であるといえる。
空想=第六章の冒頭「夕暮の机に向う」ところから、「思われる」「思えば」「考えた」という言葉を挟みながら、延々と語られ、倦むことを知らない。これこそ、「空想」の特質そのものであろう。さらに、あえてその「空想」の一例として挙げるならば、次の箇所がそうだろう。

又一つ大きいのが血を塗つた、人魂の様に落ちる。又落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
   こんな所へ美しい女の浮いてゐる所をかいたら、どうだらうと思ひながら、元の所へ帰つて、また煙草を呑んで、ぼんやり考へ込む。[十]

鏡が池に落ちるところに、「美しい女の浮いているところ」を書こうと「思いながら」「考え込む」、つまり「空想」する。また、贅言を労すると、画工の感慨や芸術観、あるいは文明批評が次々と繰り出されていて、当時の漱石の知識、教養が総動員されているかのような印象が強い。この衒学的な部分がよくもあしくも「草枕」を特徴的なものにしている。衒学的な部分のどれもが「空想」の所産であるといえなくもない。もちろん、どこが「空想」で、どこが「連想」か、判然としないところがあるが、おそらくは「空想」と「連想」とがない交ぜになっているのだろう。「空想」としても、「連想」としても、これらの「俳句の方法」が使われていなかったら、「草枕」は膨らみのない、エピソードの寄せ集めに過ぎない小説となっていたはずである。
省略=五・七・五という、わずか十七文字(十七音)の言葉が一篇の詩として独立するには言いたいことを抑えて、核心部分だけを表現する。このことを「省略」という。
 
渦捲く煙りをいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだ儘の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す泉の音がさあさあと鳴る。[七]

「私が身を投げて浮いて居る所を――苦しんで浮いてる所ぢやないんです――やすやすと往生して浮いて居る所を――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]

第七章の「白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く」、あるいは第九章の「女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた」といった終末部分は、いずれも「飛び上が」り、「立ち上が」った後、「風呂場を次第に向へ遠退」き、「部屋の入口を出る」といった感じで、気懸かりな立ち去り方をする。あたかも舞台劇のような、鮮やかな幕切れである。画工ならずとも、「茫然」となるのは致し方がない。この各章の終わり方はまさしく「省略」の方法が用いられているといえる。冗漫さを取り除くことによって余韻を生み、読み手の想像力を引き出し、表現したいものを鮮明に浮かび上がらせるのが「省略」の効果である。「草枕」はこれ以外の章でも例として挙げることができるので、この効果を十二分に考慮して書かれていると思われる。
切れ・切れ字=俳句では「季語」「取合せ」と並んで重要視されるのが「切れ」「切れ字」であるが、「草枕」では使用例を見いだせない。「切れ」「切れ字」は俳句独特の「俳句の方法」であるので、「草枕」という小説に取り入れようとしても取り入れることが難しかったというのが実情であったろう。ただ、「切れ」を「省略」と捉える見方もあり、そういう見方からすると、「省略」の使用例と重なる。漱石が「草枕」に中に「切れ」「切れ字」を取り込んでいるとすれば、通常、季語の部分と叙述の部分とに「切れ」が用いられることが多いので、季語の部分は那古伊の春景色、叙述の部分は各エピソード、特に那美の行動や言葉を表現していると推測される。従って、これを小森陽一氏の顰みに倣って、俳句にすると、
春那古伊那美の浮かべる憐れ顔
春の里憐れ催す那美の顔
というような句になり、「草枕」全体をイメージ化したものになる。漱石はこのイメージを全体の構想として、「草枕」という作品を書いたのかもしれない。
デフォルメ=素材や対象を変形し、誇張して表現することが「デフォルメ」である。ここでは那美の行動や言葉に注目してみたい。

「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]
                                
余は覚えず飛び上つた。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思つたら、既に向ふへ飛び下りた。夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。熊笹は青い。
又驚かされた。[十]

中島邦彦氏が「那美さんを論ずることは、『草枕』全体を論ずることでもあろう。その謎に満ちた言葉と行動は、画工さえも驚かすほどなのだ」(「作中人物事典」『夏目漱石辞典』別冊國文學NO39、學燈社)と述べているように、夢うつつの時、自然の中に自己を放下している時に意想外な現れ方、立ち去り方をして、画工を驚かす那美の「言葉と行動」はデフォルメの典型であると考えていいだろう。この那美の奇矯な振る舞いという「デフォルメ」によって、那美の魅惑的な人物像を画工や読み手に印象付けている。
比喩=俳句の根本は「写生」であるが、「写生」は見えるように写そうとした結果、「比喩」表現になることがある。第七章の「流れて行く人の表情が、丸で平和では殆んど神話か比喩になってしまう」には「比喩」という語がある。第十二章の「ごろりと寐る。帽子が額をすべつて、やけに阿弥陀となる」という表現は「隠喩」である。

其上出て来た婆さんの顔が気に入つた。
   二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思つた。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になつて、婆さんと向ひ合ふ。その向ひ合ふた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がど真むきに見えたから、あゝうつくしいと思つた時に、其表情はぴしやりと心のカメラへ焼き付いて仕舞つた。茶店の婆さんの顔は此写真に血を通はした程似て居る。[二]

婆さんが云ふ。
「嬢様と長良の乙女とはよく似て居ります」
「顔がかい」
「いゝえ。身の成り行きがで御座んす」[二]

那美と永良の乙女との関係もさることながら、峠の茶屋の「婆さんの顔」を見ていると、先年見たことのある高砂の「婆さんの顔」に「似て居る」という。つまり、峠の茶屋の「婆さんの顔」を高砂の「婆さんの顔」に擬えているのである。

余は此輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界のが、の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。
   輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、折角の嫦娥が、あはれ、俗界に堕落するよと思ふ刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如くに風を起してと靡いた。[七]

「霊亀の尾の如くに」という「直喩」は漱石以外の作家でもよく見受けられ、目新しいというものではない。やはり注目したいのは「擬え」である。ここでは那美である「輪廓」の行動を「嫦娥」の行動に擬えている。その「比喩」(擬え)たるや、漱石の筆致の冴えが最もよく生かされている。これらの奇抜な「比喩」(擬え)によって、伝説や能舞台、はては中国の故事などの内容が「草枕」の世界に付与されて、内容の多重性、重層性を生み出している。
 擬人化=俳句では比較的に多く使われる「擬人化」であるが、「草枕」ではあまり使われていない。例えば、この程度である。

余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控へて、三本の松が、客間の東側に並んで居る。此松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄つて、始めて趣のある恰好を形つくつて居た。小供心に此松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびたが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋のの様にかたく坐つて居る。余は此灯籠を見詰めるのが大好きであつた。灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る。[七]

「鉄灯籠」を「わからず屋の頑固爺」、「春の草」を「浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る」というふうに、「擬人化」している。「連想」「比喩」などと同じく、「擬人化」も凡庸な発想では月並みな表現になって、文章の味わいも半減するものになる。しかし、漱石の場合、それらの「俳句の方法」は独創的で、発想も豊かである。これはとりもなおさず、漱石の文才の豊かさを示すことになり、漱石独自の作品を作り上げる表現になっているということである。
このように、個別的に説明してきたのは、「俳句の方法」が有効かつ縦横に使われていることを知ってもらいたいためである。もちろん、特に画工が驚く場面は引用部分が同じ箇所であり、「俳句の方法」が重複しているところもある。しかし、そうであってもおかしくない。俳句では、短詩型であるがゆえに、一句の中に「俳句の方法」が幾重にも使われ、俳句を俳句たらしめ、内容に厚みをもたらしていることは忘れてはいけない。
漱石俳句の特色については、首藤基澄氏の「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)に指摘がある。子規の漱石に下した二字評の「活動」を基にして、

(1)「人事風光の有の儘なる姿」の表現。
(2)「感じたる物象」の「感じたる儘の趣」の表現。
(3)一定の景物」でない「心持ち」の表現。
子規の写生説は(1)が中心であった。漱石は(2)で「物と感じ」の両立を考え、さらに(3)で抽象的な「心持ち」の表現にまで踏みこんでいるのである。具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった。
 
と分析している。つまるところは私が縷々と説明してきた「俳句の方法」を使って描いた「草枕」の特色は一言で言えば、特に「対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった」とする首藤氏の漱石俳句に対する理解に尽きる。驚くべきことに、漱石俳句の特色と「草枕」の特色が一致するのである。ここにこそと言うべきか、「俳句的小説」たるゆえんがある。漱石俳句と「草枕」の特色の一致もまた、首藤氏が「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で述べていることで、「明治二十九年の俳句界」(前掲書)において、子規が漱石の特色としてあげた言葉がそっくりそのまま「草枕」の特色を言い表しているとして、次のような考えを示している。

……漱石俳句の特色がそのまま「草枕」の世界の特色をなし、詠む者を強く刺激する。あえていえば、俳句よりも「草枕」の方が密度が濃いといってもいい。

私はこれらの首藤氏の炯眼な指摘を踏まえて、俳句的小説「草枕」をさらに各種の「俳句の方法」(レトリック)を示して、漱石俳句と「草枕」の特色の一致を跡付ける作業をしたに過ぎないのではないかとさえ思っている。
「草枕」は名文句が多く、画工と那美の小説問答も印象深い。画工は小説の読み方として、「初から読んだつて、仕舞から読んだつて、いゝ加減な所をいゝ加減に読んだつて、いゝ訳ぢやありませんか」[九]と那美に教える。これを俳句的観点からみると、この小説の読みが決して人を食っていないことがわかる。「草枕」は煩を厭わずに言うと、「俳句の方法」が駆使されている。そこで、一章、一場面が俳句の一句に近い世界と考えたらどうだろうか。「草枕」でよく話題になる峠の茶屋の場面、風呂場の場面、髪結床の場面、鏡が池の場面、観海寺の場面、最後の場面など、その代表的な場面が鮮やかに脳裏に浮かぶのはそれら場面が俳句の一句のような世界を持っているからである。ということは、「草枕」の一章、一場面は、それぞれが独立した世界であるということである。もしそうであれば、「草枕」そのものがどこから、どこを読んでもいいことを証明した小説ということになる。この常識を覆す読み方ができる小説を書くことはかなり実験的なものであったに違いない。それを可能にしたのが「俳句の方法」を縦横に駆使したことにあったのである。従って、次の「余が『草枕』」という文章はこれ以上の自作解説はないと言わざるを得ない。

私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美くしい感じを読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットもなければ、事件の発展もない。

美を生命とする俳句的小説もあつてよいと思ふ。

小説に「俳句の方法」を応用したことに驚嘆し、余計な詮索はせずに、「プロットもなければ、事件の発展もない」一章、一場面に俳句的感興を催し、「唯だ一種の感じ―美くしい感じ」を読み取り、「美を生命とする俳句的小説」として味わっていればよいのかもしれない。ただ、そういってばかりいられないのが研究者である。

……此方面の消息を解する人ならでは殆んど小説と認めざる程の変調なものに候幸に一二好事家の眼にとまりて、主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候                (明治三十九年八月三十一日書簡)

「此方面」とは俳句の「方面」である。ここで注目したいのは、俳句の「方面の消息を解する人」に「主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候」とあるように、特定の読み手、つまり俳句の「方面の消息を解する人」に期待していることである。確かに、俳句の「方面の消息を解する人」がいたにはいて、「主意はこゝにあるぞ」と理解した人もいたかもしれない。例えば、首藤氏もそうであるが、俳人協会新人賞受賞者で、「鷹」同人会長の奥坂まや氏は「草枕」の愛読者で、私が「草枕」がいかに「俳句の方法」(レトリック)を使っているかを説明すると、俳人として大いに同感できると言ってもらった

⇒夏目漱石「草枕」 そのⅡ に続く

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