<第2章>新聞販売所の叛乱
[第6回] <叛乱>のあとで。
新聞販売所のストによって配達区域の約3分の2が不配状態となっていました。
ただ、私と奨学生の数名は早めに現場へ戻り配達を再開しています。私自身、今回の待遇改善に対する要望への店側の対応に思うことはいろいろあったのですが、やはり購読者に長い間迷惑をかけるのは申し訳ない、という思いが強かったのです。
しかし残る9名が再三にわたる店側との交渉、新聞本社の販売店担当D氏を交えた話し合いでも問題点は進展せずスト状態は続いていました。数名が直接、新聞本社へ出向き話し合いを続けましたが結果的に9名は退店してしまいました。この間、どのような話し合いが行われ、どのような条件で店を出ていくようになったのか私は知りません。一言も話しをすることなく別れてしまいました。きっと店側から私たちとの会話を禁じられていたのかも知れません。
ただ、私をはじめとする数名が現場に戻ったことで店主は大喜び。その後、基本的な待遇は大きく変わったわけではないのですが、以前に比べ店主自らが店頭に現れ店員の作業の様子を窺ったり、店員全員で近くの中華料理屋で食事会を定期的に開くなど気遣いの様子が伺われるようになりました。また7月中旬には賞与と称していくばくかの手当が配られました。
配達業務が平常に戻ったあとに新聞店と新聞本社の間でどのような話が行われたのか私たち末端の配達員には知るすべもありませんでしたが、翌年3月に新しい店主が来店し、4月上旬に引っ越して来ました。新聞店の経営者が交替したのです。
従来の店主が高齢を理由に引退し、新しい店主へ新聞店を譲ったかたちです。この間、学生店員の<叛乱>で新聞本社の担当者を交えた話し合いで「待遇改善」を求めたスト決行を伴う問題提起は、新聞店の経営実態をあからさまに検証する機会となりました。この経緯で専売従業員・番頭格の「使い込み」が発覚しています。
実は新聞販売店の経理というのは、ある意味ドンブリ勘定です。新聞社から購買部数は伝票などで管理され新聞に折り込むチラシなどは折込センターなどから集約されて持ち込まれますが、近所の店舗や個人から直接持込まれるチラシなどは管理が甘くなります。また、毎日の新聞は数百部単位で余りますので床下に収容し週間単位で古紙として業者へ売られます。これらの売買金額というのはブラックなのですね。
■新たな体制への移管
1969年春。店主が引退し新しい店主へ新聞店を譲ったことから、いままでの番頭さんが新たに店を構えることになって、「麻雀組」学生店員4名を引き連れ中野区の方へ転居しました。私が入店当初から4年間にわたって共に生活し仕事をしてきた先輩格の人々が去っていくのは寂しいものがあるのですが、ふと周りを見渡すとミツマメ君が新聞店の<最長老>になっていました。「ギョエ!」ですよ。「オレ、嫌だよぉ~」なんてダダをこねても、「アンタが先輩格の店員ですよ」と、ね。
ところで大先輩の「麻雀組」学生店員4名は考えてみれば大学を4年で卒業しているはずなのに、いまだ在店していたということは留年を続けていたことになります。内ひとりは私が入店当初から浪人生活を続けており、夏の暑い日でも机に向かって必死に勉強していた姿が目に焼き付いています。しかし1年目、2年目と目標の大学へ届かず、浪人3年目の夏のある日、誰から誘われるともなく麻雀を始めたのですね。彼らの麻雀は朝刊が届くまでの徹夜、いわゆる徹マンです。そして昼間は一日寝ている…。
新聞販売所は道路に面して店舗を構え背中合わせに店主家族の住む住居が併設されていました。いわゆる店舗併用住宅です。私が入店した当時は店主の息子さんの奥さんが食事など賄いを受け持っていましたが、新店主との経営交替にともない住居との間を閉鎖し、新店主の奥さんが賄いを担当することになりました。そして、4月末に前店主との送別会が中華料理店で行われています。
新しい店主は40代後半だったでしょうか、自ら店頭に立ちエネルギッシュに配達の采配を取っていました。もちろん「待遇改善」を求めた<叛乱>があったことは充分承知のうえで店舗を引き受けたと思いますが、まず学生店員に対する待遇が前店主とは大きく異なりました。その第一が「店員に週1日、休日を設ける」というものでした。
これは私たち学生店員にとって大変喜ばしいことでした。休日は朝ゆっくり起きて終日学業に専念できる…これまでの待遇に比べると夢のような話でした。ところで、この「週1日の休日」をどのように確保するのか。そこで白羽の矢が刺さったのがミツマメ君です。いまでも背中には、Y子に蹴られた足跡の隣に<白羽の矢>の刺さった跡が残っています。右隣と左下に失恋のキズ跡が多数…え?そんなのどうでもいい――こんど背中、見せてあげるね!
結局、日曜日を除く6日間のうち、自分の休日以外の5人の配達区域を順番に配達するわけです。代理配達、いわゆる「代配」専門の役割です。まぁ新聞配達6年目、新聞店の<最長老>ですもんね。しょうないか。
何曜日に休むかは5人の都合に合わせます。ということは、ミツマメ君は自分の配達区域以外に「5つの配達区域」を回るわけです。新たに約1500世帯の配達先を覚えなくちゃならないわけで、自らの配達区域を合わせ約1800世帯の計2千部もの新聞を配ることになりました。毎月、購読者の数は増えたり減ったりと変わっていきます。自分のガールフレンドの数さえ分からないのにぃ~約1500世帯の配達先を新たに覚えなくてはならないなんてぇ…ん?何か違うな。「ガールフレンドの数さえ…」なんてちょっと言ってみたかっただけですよ、ホント。
ただ、この「代配」専門の役割を果たすことで毎月の「集金」を免除されたことは大きなことでした。毎日の朝夕の配達だけでもシンドイのに月末・月初の集金には時間的に精神的に悩まされていましたから、この集金業務から解放されたということは新聞店に長年住み込んで生活していたなかで最大の喜びでした。「週1日の休日」と「集金からの解放」この二つの自由が、その後の<激動の渦中>へ飛び込んでいくための大きな武器となりました。この「武器」というのは自由に使える<時間>のことです。
■拡大する新聞店の<叛乱>
私たちが新聞店の「待遇改善」を求めストを決行したことは内外で話題となっていました。問題が収束した頃、「日本共産党ですが、何かお手伝いしましょうか?」と数名が店先に現れました。そのとき私は店内で作業をしていたのですが「いまごろ何だべな?」と思う間もなく、店先にいた店員が「もう終わったよ…帰って」と語気を強めて言いました。そうだよなぁ、いまごろノコノコやってきて何をしようとしたのかしら。
私たちが行動を起こした後、各地で新聞店の<叛乱>が目につくようになりました。そのなかでも半年後の12月に朝日新聞富ヶ谷販売店のストは長期にわたり、最終的に機動隊が導入されるほどの大争議となりテレビでも放映されました。実は、富ヶ谷店は学校に近いこともあってスト決行中のビラを見て一度、訪ねて行ったことがあります。彼らは新聞社の労組などと共闘関係にあり労働組合を結成しての本格的な争議として、「待遇改善」を求めていたようです。
その点、私たち新聞店の「待遇改善」を求めたスト決行は「話合い」による解決を図ったわけで、まだ穏やかな対応がなされていました。しかし1968年から69年にかけて「学生の叛乱」に呼応して新聞店に限らず、各産別の労働戦線も活発となっていました――。
1968年春、代々木高校の3年生になって間もなく「20歳」を迎えてすぐに、身近な生活基盤である新聞店で起きた<叛乱>は、私の体内に大きな変化をもたらしました。
ひとつは、これまで同世代の若者に対し「自分は彼らより2~3周遅れでトラックを回っている」といった内心の堂々巡りを重ねていましたが、この<叛乱>を通して周りの人々と話し合うことの大事さ、思ったことを口に出して意見を述べること、そして一旦決めたことで行動を共にすることの大切さを学んだことですね。そのことで、私のなかに自らモノを考え行動するという<主体性>を獲得していったということでしょうか。このことは、その後訪れる社会的状況に直接関わる重要な要素となって現れてきます。
もうひとつは、この<叛乱>を契機にいつのまにか学内での机の上での学問から飛躍して、「街に出よう!そして書を拾おう!」という新たな行動理論が芽生えていったのです――。
――え?街に出て本を拾うの?
⇒<第3章>に続く。
[第6回] <叛乱>のあとで。
新聞販売所のストによって配達区域の約3分の2が不配状態となっていました。
ただ、私と奨学生の数名は早めに現場へ戻り配達を再開しています。私自身、今回の待遇改善に対する要望への店側の対応に思うことはいろいろあったのですが、やはり購読者に長い間迷惑をかけるのは申し訳ない、という思いが強かったのです。
しかし残る9名が再三にわたる店側との交渉、新聞本社の販売店担当D氏を交えた話し合いでも問題点は進展せずスト状態は続いていました。数名が直接、新聞本社へ出向き話し合いを続けましたが結果的に9名は退店してしまいました。この間、どのような話し合いが行われ、どのような条件で店を出ていくようになったのか私は知りません。一言も話しをすることなく別れてしまいました。きっと店側から私たちとの会話を禁じられていたのかも知れません。
ただ、私をはじめとする数名が現場に戻ったことで店主は大喜び。その後、基本的な待遇は大きく変わったわけではないのですが、以前に比べ店主自らが店頭に現れ店員の作業の様子を窺ったり、店員全員で近くの中華料理屋で食事会を定期的に開くなど気遣いの様子が伺われるようになりました。また7月中旬には賞与と称していくばくかの手当が配られました。
配達業務が平常に戻ったあとに新聞店と新聞本社の間でどのような話が行われたのか私たち末端の配達員には知るすべもありませんでしたが、翌年3月に新しい店主が来店し、4月上旬に引っ越して来ました。新聞店の経営者が交替したのです。
従来の店主が高齢を理由に引退し、新しい店主へ新聞店を譲ったかたちです。この間、学生店員の<叛乱>で新聞本社の担当者を交えた話し合いで「待遇改善」を求めたスト決行を伴う問題提起は、新聞店の経営実態をあからさまに検証する機会となりました。この経緯で専売従業員・番頭格の「使い込み」が発覚しています。
実は新聞販売店の経理というのは、ある意味ドンブリ勘定です。新聞社から購買部数は伝票などで管理され新聞に折り込むチラシなどは折込センターなどから集約されて持ち込まれますが、近所の店舗や個人から直接持込まれるチラシなどは管理が甘くなります。また、毎日の新聞は数百部単位で余りますので床下に収容し週間単位で古紙として業者へ売られます。これらの売買金額というのはブラックなのですね。
■新たな体制への移管
1969年春。店主が引退し新しい店主へ新聞店を譲ったことから、いままでの番頭さんが新たに店を構えることになって、「麻雀組」学生店員4名を引き連れ中野区の方へ転居しました。私が入店当初から4年間にわたって共に生活し仕事をしてきた先輩格の人々が去っていくのは寂しいものがあるのですが、ふと周りを見渡すとミツマメ君が新聞店の<最長老>になっていました。「ギョエ!」ですよ。「オレ、嫌だよぉ~」なんてダダをこねても、「アンタが先輩格の店員ですよ」と、ね。
ところで大先輩の「麻雀組」学生店員4名は考えてみれば大学を4年で卒業しているはずなのに、いまだ在店していたということは留年を続けていたことになります。内ひとりは私が入店当初から浪人生活を続けており、夏の暑い日でも机に向かって必死に勉強していた姿が目に焼き付いています。しかし1年目、2年目と目標の大学へ届かず、浪人3年目の夏のある日、誰から誘われるともなく麻雀を始めたのですね。彼らの麻雀は朝刊が届くまでの徹夜、いわゆる徹マンです。そして昼間は一日寝ている…。
新聞販売所は道路に面して店舗を構え背中合わせに店主家族の住む住居が併設されていました。いわゆる店舗併用住宅です。私が入店した当時は店主の息子さんの奥さんが食事など賄いを受け持っていましたが、新店主との経営交替にともない住居との間を閉鎖し、新店主の奥さんが賄いを担当することになりました。そして、4月末に前店主との送別会が中華料理店で行われています。
新しい店主は40代後半だったでしょうか、自ら店頭に立ちエネルギッシュに配達の采配を取っていました。もちろん「待遇改善」を求めた<叛乱>があったことは充分承知のうえで店舗を引き受けたと思いますが、まず学生店員に対する待遇が前店主とは大きく異なりました。その第一が「店員に週1日、休日を設ける」というものでした。
これは私たち学生店員にとって大変喜ばしいことでした。休日は朝ゆっくり起きて終日学業に専念できる…これまでの待遇に比べると夢のような話でした。ところで、この「週1日の休日」をどのように確保するのか。そこで白羽の矢が刺さったのがミツマメ君です。いまでも背中には、Y子に蹴られた足跡の隣に<白羽の矢>の刺さった跡が残っています。右隣と左下に失恋のキズ跡が多数…え?そんなのどうでもいい――こんど背中、見せてあげるね!
結局、日曜日を除く6日間のうち、自分の休日以外の5人の配達区域を順番に配達するわけです。代理配達、いわゆる「代配」専門の役割です。まぁ新聞配達6年目、新聞店の<最長老>ですもんね。しょうないか。
何曜日に休むかは5人の都合に合わせます。ということは、ミツマメ君は自分の配達区域以外に「5つの配達区域」を回るわけです。新たに約1500世帯の配達先を覚えなくちゃならないわけで、自らの配達区域を合わせ約1800世帯の計2千部もの新聞を配ることになりました。毎月、購読者の数は増えたり減ったりと変わっていきます。自分のガールフレンドの数さえ分からないのにぃ~約1500世帯の配達先を新たに覚えなくてはならないなんてぇ…ん?何か違うな。「ガールフレンドの数さえ…」なんてちょっと言ってみたかっただけですよ、ホント。
ただ、この「代配」専門の役割を果たすことで毎月の「集金」を免除されたことは大きなことでした。毎日の朝夕の配達だけでもシンドイのに月末・月初の集金には時間的に精神的に悩まされていましたから、この集金業務から解放されたということは新聞店に長年住み込んで生活していたなかで最大の喜びでした。「週1日の休日」と「集金からの解放」この二つの自由が、その後の<激動の渦中>へ飛び込んでいくための大きな武器となりました。この「武器」というのは自由に使える<時間>のことです。
■拡大する新聞店の<叛乱>
私たちが新聞店の「待遇改善」を求めストを決行したことは内外で話題となっていました。問題が収束した頃、「日本共産党ですが、何かお手伝いしましょうか?」と数名が店先に現れました。そのとき私は店内で作業をしていたのですが「いまごろ何だべな?」と思う間もなく、店先にいた店員が「もう終わったよ…帰って」と語気を強めて言いました。そうだよなぁ、いまごろノコノコやってきて何をしようとしたのかしら。
私たちが行動を起こした後、各地で新聞店の<叛乱>が目につくようになりました。そのなかでも半年後の12月に朝日新聞富ヶ谷販売店のストは長期にわたり、最終的に機動隊が導入されるほどの大争議となりテレビでも放映されました。実は、富ヶ谷店は学校に近いこともあってスト決行中のビラを見て一度、訪ねて行ったことがあります。彼らは新聞社の労組などと共闘関係にあり労働組合を結成しての本格的な争議として、「待遇改善」を求めていたようです。
その点、私たち新聞店の「待遇改善」を求めたスト決行は「話合い」による解決を図ったわけで、まだ穏やかな対応がなされていました。しかし1968年から69年にかけて「学生の叛乱」に呼応して新聞店に限らず、各産別の労働戦線も活発となっていました――。
1968年春、代々木高校の3年生になって間もなく「20歳」を迎えてすぐに、身近な生活基盤である新聞店で起きた<叛乱>は、私の体内に大きな変化をもたらしました。
ひとつは、これまで同世代の若者に対し「自分は彼らより2~3周遅れでトラックを回っている」といった内心の堂々巡りを重ねていましたが、この<叛乱>を通して周りの人々と話し合うことの大事さ、思ったことを口に出して意見を述べること、そして一旦決めたことで行動を共にすることの大切さを学んだことですね。そのことで、私のなかに自らモノを考え行動するという<主体性>を獲得していったということでしょうか。このことは、その後訪れる社会的状況に直接関わる重要な要素となって現れてきます。
もうひとつは、この<叛乱>を契機にいつのまにか学内での机の上での学問から飛躍して、「街に出よう!そして書を拾おう!」という新たな行動理論が芽生えていったのです――。
――え?街に出て本を拾うの?
⇒<第3章>に続く。
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