<第3章>私の文章修業
〔第12回〕西陽が静かに忍びよる…。(4) =卒業式前夜:2=
私の<春>は忙しい。――それというのも、正月明け早々に打合せを行い2月中旬から本番が始まり、3月20日頃には報告書を提出するというシンプル過ぎて狂いたくなるほどの仕事を受けているからです(⇒この「シンプル過ぎて狂いたくなるほどの…」という表現、最近いたく気に入っております、です)。
日頃、フリーライターの看板を掲げてはいるのですが、あちこち走り回って取材し書籍を出版するなどのルポライターとは違って、営業をするわけではなく「仕事があったらヤリまっせ~」といたってモノグサ・モード満開の態度なのです。それでも年に数件の仕事が押し付けられ、ここ数年は年度末締切りの大型業務が舞い込んできます。別に事務所を構えているわけではないので自室が事務所代わり。この「年度末締切りの大型業務」は締切日を標的にパソコンに向かって呻吟する毎日ですから、2~3月にかけて分単位で日常生活を管理していかなければ前へ進めない状況にあるのです。
――仕事の中身というのは、県下全域の約50名の方々に直接会って話を聞いてIC録音するのですが、その録音を採録し文章として報告書にまとめるのです。――この「報告書」、約2週間で5万7千字ほど書き連ねる。ホントはね、3万余字書けば事足りるのですが、あまりにもタイトなスケジュールですから、「コンニャロ!」とブツブツ言いながら何とか締切日に間に合わせてメールで送りつける。依頼主の担当者に「…5万7千字でございます。ほほ」と勝った気で言いましたら、相手は「昨年は6万8千字でしたが…」と言われて二の句がつけない。昨年はもっと頑張っていたのだな。ふう~。
ただ、なんというか一口に「5万7千字」といっても400字詰原稿用紙で143枚ですからね、ちょっとした短編小説並みの分量。しかも採録に伴う下書きや修正を重ねていくと優に10万字を超える文字を連ねているわけで、まさしく私の<春>は忙しい。…気づくと冬の季節はとっくに過ぎ去り、桜の時節到来というわけ。
――それでね。「2~3月にかけて分単位で日常生活を管理」しているのですが、肝心の自室(6畳大の洋間)には本棚や座卓の周りに、今回の大型業務関連の資料が山積し足の踏み場どころか寝床スペースも無いほど。実は洋間に布団を敷いて寝ているので朝起きて布団を半分に折って、その空いたスペースに資料を山積みにして夜、資料を足で蹴っ飛ばし布団を敷くという全く部屋から疎外された毎日を送っているわけです。
何故、洋間にベッドではなくて布団を敷いているかといえば、ベッドが嫌いなうえに俯せに寝たとき布団からハミ出した指先が床に着いていないと不安になるからです。…え?アナタ、そんなミツマメ王子の部屋を「訪ねてみたいの」というのですか?――やめた方がよい。何故なら一緒に住みたくなるからです、よ。~ぶふ。
とにかく、シンプル過ぎて狂いたくなるほどの仕事を終えても、しばらくは部屋を片付ける気にはなりません。ようやく3月下旬になって部屋の整理とともに5年ぶりに本棚と押入れの大改装を行うことにしました。…5年もの間、本棚や押入れを放っていると書籍や資料・ファイルの類がごちゃ混ぜになって自分の頭の中身を見ているような気になります。「…これじゃいけない。私の頭は本来、クールでなければならない」という結論に達したからです。
まず、小さな本棚BOXを2本買ってくる。それを部屋の書類を掻き分けたうえで組み立てる。すると資料山積の部屋は、本棚BOXを組み立てながら進める整理作業が1日では終わらず結果として布団を敷くところがない。そこで居間とも倉庫ともいえない雑居部屋に細く布団を敷いて丸まって寝る。…では、翌朝どうなる。目が覚めると、「ここはどこ。私は誰?」となる。「まさかオナゴの部屋か?」などとは考えないが、昨夜からの経緯を整理して自分の部屋の在りようを想像して反吐が出そうになるわけです。
さて、本棚BOXの1本が完成し、おもむろに押入れのなかに潜り込み臓綿を抉り出すと、ようやく見えてきた。…そうです!50年前に制作した『卒業アルバム』を収容した大きな箱が。ここに辿りつくまでに2日を要したぜ。いや数十年ぶりか。――というわけで『卒業アルバム』と数十年ぶりの再会です。年度末締切りの大型業務が舞い込んできたおかげで本棚と押入れの大改装を行ない、ようやく『卒業アルバム』と対面できました。
雑然とした部屋の整理を放り投げてアルバムを取り出し、まずは扉を開いて写真の在りようを確認します。自ら焼付け現像した写真。充分に水洗いしておかないと茶色く変色してしまいます。ページをめくってみると何ら変わらず焼付けした当時のままなので、ひと安心。――こうして久々に『卒業アルバム』と向き合ってみると、ここには<時間>の壁がそびえているだけ。短期間で数千枚の写真を貼りつけたことなど思い出しようがないね。

改めて「アルバム」のページをめくると、まず目に飛び込んでくるのが代々木高校の正面玄関写真と屋上からみた風景。それに「校歌」。なんじゃ校歌なんぞ…愛校精神か?いや、まぁ校舎に敬意を表してのことさ。この写真と校歌の構成は私好みの編集ですな。分厚いアルバムに校歌をガリ版印刷するなど、かなり手の込んだ仕上げを行っております。…「わたし好みの~わたし好みの~」そうなのよ。
次のページには、『卒業アルバム』制作を手伝ってくれた<ミツマメ王子親衛隊>のメンバー4名からの赤マジックの寄せ書きが。久々に読み上げてみると心臓が止まる思いが…。この4名の<寄せ書き>。私の50年間を束縛したのでもないのですが、意味深。ふん。どれどれ――

■ ミツマメくんともお別れ うれしいな (カオリさまより)
■ レイコサマは 本当はミツマメクンが好きでした マル でももう終りネ オヨヨヨン
■ 純情なミツマメくんへ (ミチコ)
■ 代々木のプレイボーイ ミツマメクン(フーコ)
――やはりね。親衛隊・隊長カオリくんが、ボクのことを嫌っていたのは薄々感じていました。でも、「…うれしいな」なんて。結局、捨てられたのだ…ボク、泣いちゃう(涙)。レイコくんが別れ際に「本当は、好きでした」などと言われても困るんだよな。「…でももう終りネ」なんて言っているということは、結局、捨てられたのだ…ボク、泣いちゃう(涙)。…レイコくんの正体は教室でタバコを喫っていた、あのポデスタ嬢だよ。
さて、「純情なミツマメくんへ」と書いてくれたミチコくん。実は彼女、代々木高校へ入学して間もない頃の、初めてのGFでした。でもボクは2年間の<冬眠期>から目覚めたばかりでね…。そうか、ボクのこと<純情>なんて見ていてくれていたんだ~ウレッピー♪ えっ?誰もが首を傾げている。。。。。いいえ。ボクは<純情>なんです!
フーコの放った一言、「代々木のプレイボーイ」心臓の止まる思い。そうかい。ここで<ミツマメ王子親衛隊>の実態をみる思いがしましたね。――ボクはこれまで<ミツマメ王子親衛隊>というのは、「ミツマメ王子の純潔を守るため、王子に近寄る下級生の女生徒などを教室の入口で通せんぼして追い返している」らしいと思っていたのですが、どうも違うみたい。
王子に近寄る下級生の女生徒などに対し<親衛隊>は、「アンタ。ミツマメ王子に近寄るなとはいわないよ。でもアイツ、代々木のプレイボーイだということ知ってんの? プレイボーイ=遊び人だよ。ふと気づくと丸裸にされて純●失くすよ…それを覚悟なら会わしてやるよ!」ってなことで啖呵切っていたんだな、きっと。――だからボクの元へ女生徒が近寄ってこない。スレ違う下級の女生徒が怯えた目つきをする理由がわかったというわけさ。それで隊長のカオリくんがボクのことを嫌っていたわけね。ふんふん。
――ボクの代々木高校の4年間は<純情>に暮らしていました。でも、いつの間にか<代々木のプレイボーイ>と。。。そんなふうに周りはみていたのか。そうだよなぁ~いつも女優やモデル嬢とつきあうし、ポケットには下級生の女生徒ではち切れているし~嗚呼。でも、美少女系女生徒フーコが言ったのだから、許してやるか。ふむ。
■再び黄昏時に――
――黄昏時の西陽をみながら高校卒業時の『卒業アルバム』制作現場の情景を想いだしたのが3月の上旬。年度末締切りの大きな仕事をかかえ呻吟していた頃で、あれから早いもので2ヵ月が経過し、5月の大型連休が始まったところ。でも新型コロナウイルス情勢に伴う緊急事態宣言後、社会は一変。株価は暴落するし、時折、街中へ出かけても本来、大勢の人混みで溢れているはずなのですが商店街はシャッターが下りて閑散としています。

再び黄昏時。――寝転んで西陽を壁際に見つめていると、2ヵ月前に比べ陽の暮れるのがすっかり遅くなっていることに気付きます。もう初夏の気分。
そして、この2ヵ月間に大きな仕事を終えて大がかりな部屋の片付けを終了。この間、高校卒業時に制作した「アルバム」を手にするなど一連の作業を経て思うのは、1969年秋以降の高校4学年の最終コーナーにおいて「記憶が途切れている」ことの要因などを検証してみますと、ある程度の思いが浮かび上がったというわけです。
それは、高校卒業後に就職・進学することなく自室に閉じこもって<冬眠期>を過ごしていた3年ほどの間、単純な肉体労働のバイトに明け暮れていたのです。単純肉体労働というのは、一旦仕事を覚えてしまうと身体が勝手に動いてしまいます。すると頭を使うこともなく勝手に読んだ本や、これまで生活してきた幼い頃や東北での冬の季節などが思い出されてきます。そのようななか、やはり1968年から69年秋にかけての<激動期>に体験や経験したことなどが自然に思い出され単に過去のものとしてではなく、自らの貴重な出来事として繰返し反芻することができたのです。
その<激動期>に得た体験や経験を3年ほどの間、毎日のように繰返し反芻しながら<激動期>に至る要因や歴史的経緯などを文献や資料で補足する作業を丹念に積み重ねていくと、自然に「同じような<激動期>が再び目の前に現われたら、自分はどのように対応するだろう」といったシミュレーションを重ねていったのです。――やがて<冬眠期>を抜けだし<私のなかの充電期間>を終え、「都会に私の居場所はない…」との思いで地方都市へ移住しました。
そして、高校卒業から満10年後の1980年春。業界紙記者として活動を始めるのですが、冬眠期間中に得た<激動期>体験・経験分析を基調に、目の当りにした不動産業界の現状分析と本質を見通した記事や論評を書き殴っていきます。――時は<バブル経済>前夜。新たな<激動期>を前に40歳になろうとしていました…。
――しかしここで、ひとつ忘れていたことがあるのに最近気づいたのです。それは冬眠期間中に「1968年から69年秋」にかけての出来事を繰返し反芻することばかりに集中しておりまして、翌1970年に入ってからの代々木高校での出来事に関心が及ばないまま、忘れていたのです。ただ「…そういえば卒業アルバムを作ったよなぁ」程度です。でも今回、「卒アル・ミッション」を想いだしたことで当時の記録(日誌)を丹念に調べてみると、この「卒アル」制作期間中に私は卒業式闘争に関わっていたのですね。
前年度の卒業式闘争に関わった卒業生などから、年間を通じて幾度か学内闘争に対する助言や方針に向けてアドバイスを得ていたのですが、学内で生活する私たち在校生は外部からの指示ほど宛にならないものはない。私自身、PTA問題がヤマを迎えた「PTA総会傍聴闘争」時点で、「箱庭での遊びは終わった。もっと広い原野で闘いものだ」との思いが募って、当時、全盛を迎えていた反安保・反戦闘争の末尾に連なっていったのです。そこに初めて目の前に<大きな扉>を見つけていました。
卒業式を一か月後に控え、2月から数次の「卒業式闘争」に向けた討議が行われており、夜の交替部にも打合せに行っています。3月2日の「卒アル」制作中止決定後に式打合せを行っているのですが、ここでは「卒業生の式辞(答辞)代表を誰にするか」が話し合われています。
■卒業式前夜。
――卒業式を翌日に控えた3月7日(土)「卒アル」制作最終日。私はアルバムに写真を貼る作業現場から抜けだし、昼12時から喫茶『コルシカ』で行われた「卒業式闘争」の最終打合せに参加しました。すでに卒業OBや在校生、今年卒業の生徒など数名が揃っています。――実はこの席で打ち合わせた内容は、まったく覚えていません。
それは私が明日に催される卒業式に、「闘争」を行うことに乗り気がしなかったからです。ただ結論を先にいえば、この間の根回しで式当日の式辞(答辞)代表が私に決まっていたことです。本来、式辞代表というのは在籍中、一番成績がよかった生徒が選出されるべきものが、この間の経緯から私が代表を務めざるを得なかったのです。でも、校内闘争から気持ちが離れていましたし、いまさら卒業式に何か起こすには時節がズレている気がしていました。
その日の夜。「卒アル」制作を完了し、作業を手伝った女生徒達は事務局長の車で送って頂き深夜11時半に校舎を退出しました。私は独り電車に乗り帰途についたのですが、途中、深夜喫茶に寄り学年最後の作業として「答辞」をノートに一夜漬けで書き連ねたのです。…まぁね。試験も答辞も一夜漬けだよな。
答辞を書き終え「…終わったな」と独り感慨にふけったものです。それは、「卒アル」制作が無事完了し高校も終えたこと。そして職場を失い生活も失う。会社に就職して「普通の生活」へ向かうことを断念したこと。…それらすべてが終わった、と。
――確かに、それらは失うであろう。でも、私は目の前に立ちふさがる<大きな扉>の向こうに何があるのか…そこへ向かって明日から一歩踏み出す気持ち。そこへ私自身に<嘘>がないこと。その気持ちに小さく興奮していたのです。
〔第12回〕西陽が静かに忍びよる…。(4) =卒業式前夜:2=
私の<春>は忙しい。――それというのも、正月明け早々に打合せを行い2月中旬から本番が始まり、3月20日頃には報告書を提出するというシンプル過ぎて狂いたくなるほどの仕事を受けているからです(⇒この「シンプル過ぎて狂いたくなるほどの…」という表現、最近いたく気に入っております、です)。
日頃、フリーライターの看板を掲げてはいるのですが、あちこち走り回って取材し書籍を出版するなどのルポライターとは違って、営業をするわけではなく「仕事があったらヤリまっせ~」といたってモノグサ・モード満開の態度なのです。それでも年に数件の仕事が押し付けられ、ここ数年は年度末締切りの大型業務が舞い込んできます。別に事務所を構えているわけではないので自室が事務所代わり。この「年度末締切りの大型業務」は締切日を標的にパソコンに向かって呻吟する毎日ですから、2~3月にかけて分単位で日常生活を管理していかなければ前へ進めない状況にあるのです。
――仕事の中身というのは、県下全域の約50名の方々に直接会って話を聞いてIC録音するのですが、その録音を採録し文章として報告書にまとめるのです。――この「報告書」、約2週間で5万7千字ほど書き連ねる。ホントはね、3万余字書けば事足りるのですが、あまりにもタイトなスケジュールですから、「コンニャロ!」とブツブツ言いながら何とか締切日に間に合わせてメールで送りつける。依頼主の担当者に「…5万7千字でございます。ほほ」と勝った気で言いましたら、相手は「昨年は6万8千字でしたが…」と言われて二の句がつけない。昨年はもっと頑張っていたのだな。ふう~。
ただ、なんというか一口に「5万7千字」といっても400字詰原稿用紙で143枚ですからね、ちょっとした短編小説並みの分量。しかも採録に伴う下書きや修正を重ねていくと優に10万字を超える文字を連ねているわけで、まさしく私の<春>は忙しい。…気づくと冬の季節はとっくに過ぎ去り、桜の時節到来というわけ。
――それでね。「2~3月にかけて分単位で日常生活を管理」しているのですが、肝心の自室(6畳大の洋間)には本棚や座卓の周りに、今回の大型業務関連の資料が山積し足の踏み場どころか寝床スペースも無いほど。実は洋間に布団を敷いて寝ているので朝起きて布団を半分に折って、その空いたスペースに資料を山積みにして夜、資料を足で蹴っ飛ばし布団を敷くという全く部屋から疎外された毎日を送っているわけです。
何故、洋間にベッドではなくて布団を敷いているかといえば、ベッドが嫌いなうえに俯せに寝たとき布団からハミ出した指先が床に着いていないと不安になるからです。…え?アナタ、そんなミツマメ王子の部屋を「訪ねてみたいの」というのですか?――やめた方がよい。何故なら一緒に住みたくなるからです、よ。~ぶふ。
とにかく、シンプル過ぎて狂いたくなるほどの仕事を終えても、しばらくは部屋を片付ける気にはなりません。ようやく3月下旬になって部屋の整理とともに5年ぶりに本棚と押入れの大改装を行うことにしました。…5年もの間、本棚や押入れを放っていると書籍や資料・ファイルの類がごちゃ混ぜになって自分の頭の中身を見ているような気になります。「…これじゃいけない。私の頭は本来、クールでなければならない」という結論に達したからです。
まず、小さな本棚BOXを2本買ってくる。それを部屋の書類を掻き分けたうえで組み立てる。すると資料山積の部屋は、本棚BOXを組み立てながら進める整理作業が1日では終わらず結果として布団を敷くところがない。そこで居間とも倉庫ともいえない雑居部屋に細く布団を敷いて丸まって寝る。…では、翌朝どうなる。目が覚めると、「ここはどこ。私は誰?」となる。「まさかオナゴの部屋か?」などとは考えないが、昨夜からの経緯を整理して自分の部屋の在りようを想像して反吐が出そうになるわけです。
さて、本棚BOXの1本が完成し、おもむろに押入れのなかに潜り込み臓綿を抉り出すと、ようやく見えてきた。…そうです!50年前に制作した『卒業アルバム』を収容した大きな箱が。ここに辿りつくまでに2日を要したぜ。いや数十年ぶりか。――というわけで『卒業アルバム』と数十年ぶりの再会です。年度末締切りの大型業務が舞い込んできたおかげで本棚と押入れの大改装を行ない、ようやく『卒業アルバム』と対面できました。
雑然とした部屋の整理を放り投げてアルバムを取り出し、まずは扉を開いて写真の在りようを確認します。自ら焼付け現像した写真。充分に水洗いしておかないと茶色く変色してしまいます。ページをめくってみると何ら変わらず焼付けした当時のままなので、ひと安心。――こうして久々に『卒業アルバム』と向き合ってみると、ここには<時間>の壁がそびえているだけ。短期間で数千枚の写真を貼りつけたことなど思い出しようがないね。

改めて「アルバム」のページをめくると、まず目に飛び込んでくるのが代々木高校の正面玄関写真と屋上からみた風景。それに「校歌」。なんじゃ校歌なんぞ…愛校精神か?いや、まぁ校舎に敬意を表してのことさ。この写真と校歌の構成は私好みの編集ですな。分厚いアルバムに校歌をガリ版印刷するなど、かなり手の込んだ仕上げを行っております。…「わたし好みの~わたし好みの~」そうなのよ。
次のページには、『卒業アルバム』制作を手伝ってくれた<ミツマメ王子親衛隊>のメンバー4名からの赤マジックの寄せ書きが。久々に読み上げてみると心臓が止まる思いが…。この4名の<寄せ書き>。私の50年間を束縛したのでもないのですが、意味深。ふん。どれどれ――

■ ミツマメくんともお別れ うれしいな (カオリさまより)
■ レイコサマは 本当はミツマメクンが好きでした マル でももう終りネ オヨヨヨン
■ 純情なミツマメくんへ (ミチコ)
■ 代々木のプレイボーイ ミツマメクン(フーコ)
――やはりね。親衛隊・隊長カオリくんが、ボクのことを嫌っていたのは薄々感じていました。でも、「…うれしいな」なんて。結局、捨てられたのだ…ボク、泣いちゃう(涙)。レイコくんが別れ際に「本当は、好きでした」などと言われても困るんだよな。「…でももう終りネ」なんて言っているということは、結局、捨てられたのだ…ボク、泣いちゃう(涙)。…レイコくんの正体は教室でタバコを喫っていた、あのポデスタ嬢だよ。
さて、「純情なミツマメくんへ」と書いてくれたミチコくん。実は彼女、代々木高校へ入学して間もない頃の、初めてのGFでした。でもボクは2年間の<冬眠期>から目覚めたばかりでね…。そうか、ボクのこと<純情>なんて見ていてくれていたんだ~ウレッピー♪ えっ?誰もが首を傾げている。。。。。いいえ。ボクは<純情>なんです!
フーコの放った一言、「代々木のプレイボーイ」心臓の止まる思い。そうかい。ここで<ミツマメ王子親衛隊>の実態をみる思いがしましたね。――ボクはこれまで<ミツマメ王子親衛隊>というのは、「ミツマメ王子の純潔を守るため、王子に近寄る下級生の女生徒などを教室の入口で通せんぼして追い返している」らしいと思っていたのですが、どうも違うみたい。
王子に近寄る下級生の女生徒などに対し<親衛隊>は、「アンタ。ミツマメ王子に近寄るなとはいわないよ。でもアイツ、代々木のプレイボーイだということ知ってんの? プレイボーイ=遊び人だよ。ふと気づくと丸裸にされて純●失くすよ…それを覚悟なら会わしてやるよ!」ってなことで啖呵切っていたんだな、きっと。――だからボクの元へ女生徒が近寄ってこない。スレ違う下級の女生徒が怯えた目つきをする理由がわかったというわけさ。それで隊長のカオリくんがボクのことを嫌っていたわけね。ふんふん。
――ボクの代々木高校の4年間は<純情>に暮らしていました。でも、いつの間にか<代々木のプレイボーイ>と。。。そんなふうに周りはみていたのか。そうだよなぁ~いつも女優やモデル嬢とつきあうし、ポケットには下級生の女生徒ではち切れているし~嗚呼。でも、美少女系女生徒フーコが言ったのだから、許してやるか。ふむ。
■再び黄昏時に――
――黄昏時の西陽をみながら高校卒業時の『卒業アルバム』制作現場の情景を想いだしたのが3月の上旬。年度末締切りの大きな仕事をかかえ呻吟していた頃で、あれから早いもので2ヵ月が経過し、5月の大型連休が始まったところ。でも新型コロナウイルス情勢に伴う緊急事態宣言後、社会は一変。株価は暴落するし、時折、街中へ出かけても本来、大勢の人混みで溢れているはずなのですが商店街はシャッターが下りて閑散としています。

再び黄昏時。――寝転んで西陽を壁際に見つめていると、2ヵ月前に比べ陽の暮れるのがすっかり遅くなっていることに気付きます。もう初夏の気分。
そして、この2ヵ月間に大きな仕事を終えて大がかりな部屋の片付けを終了。この間、高校卒業時に制作した「アルバム」を手にするなど一連の作業を経て思うのは、1969年秋以降の高校4学年の最終コーナーにおいて「記憶が途切れている」ことの要因などを検証してみますと、ある程度の思いが浮かび上がったというわけです。
それは、高校卒業後に就職・進学することなく自室に閉じこもって<冬眠期>を過ごしていた3年ほどの間、単純な肉体労働のバイトに明け暮れていたのです。単純肉体労働というのは、一旦仕事を覚えてしまうと身体が勝手に動いてしまいます。すると頭を使うこともなく勝手に読んだ本や、これまで生活してきた幼い頃や東北での冬の季節などが思い出されてきます。そのようななか、やはり1968年から69年秋にかけての<激動期>に体験や経験したことなどが自然に思い出され単に過去のものとしてではなく、自らの貴重な出来事として繰返し反芻することができたのです。
その<激動期>に得た体験や経験を3年ほどの間、毎日のように繰返し反芻しながら<激動期>に至る要因や歴史的経緯などを文献や資料で補足する作業を丹念に積み重ねていくと、自然に「同じような<激動期>が再び目の前に現われたら、自分はどのように対応するだろう」といったシミュレーションを重ねていったのです。――やがて<冬眠期>を抜けだし<私のなかの充電期間>を終え、「都会に私の居場所はない…」との思いで地方都市へ移住しました。
そして、高校卒業から満10年後の1980年春。業界紙記者として活動を始めるのですが、冬眠期間中に得た<激動期>体験・経験分析を基調に、目の当りにした不動産業界の現状分析と本質を見通した記事や論評を書き殴っていきます。――時は<バブル経済>前夜。新たな<激動期>を前に40歳になろうとしていました…。
――しかしここで、ひとつ忘れていたことがあるのに最近気づいたのです。それは冬眠期間中に「1968年から69年秋」にかけての出来事を繰返し反芻することばかりに集中しておりまして、翌1970年に入ってからの代々木高校での出来事に関心が及ばないまま、忘れていたのです。ただ「…そういえば卒業アルバムを作ったよなぁ」程度です。でも今回、「卒アル・ミッション」を想いだしたことで当時の記録(日誌)を丹念に調べてみると、この「卒アル」制作期間中に私は卒業式闘争に関わっていたのですね。
前年度の卒業式闘争に関わった卒業生などから、年間を通じて幾度か学内闘争に対する助言や方針に向けてアドバイスを得ていたのですが、学内で生活する私たち在校生は外部からの指示ほど宛にならないものはない。私自身、PTA問題がヤマを迎えた「PTA総会傍聴闘争」時点で、「箱庭での遊びは終わった。もっと広い原野で闘いものだ」との思いが募って、当時、全盛を迎えていた反安保・反戦闘争の末尾に連なっていったのです。そこに初めて目の前に<大きな扉>を見つけていました。
卒業式を一か月後に控え、2月から数次の「卒業式闘争」に向けた討議が行われており、夜の交替部にも打合せに行っています。3月2日の「卒アル」制作中止決定後に式打合せを行っているのですが、ここでは「卒業生の式辞(答辞)代表を誰にするか」が話し合われています。
■卒業式前夜。
――卒業式を翌日に控えた3月7日(土)「卒アル」制作最終日。私はアルバムに写真を貼る作業現場から抜けだし、昼12時から喫茶『コルシカ』で行われた「卒業式闘争」の最終打合せに参加しました。すでに卒業OBや在校生、今年卒業の生徒など数名が揃っています。――実はこの席で打ち合わせた内容は、まったく覚えていません。
それは私が明日に催される卒業式に、「闘争」を行うことに乗り気がしなかったからです。ただ結論を先にいえば、この間の根回しで式当日の式辞(答辞)代表が私に決まっていたことです。本来、式辞代表というのは在籍中、一番成績がよかった生徒が選出されるべきものが、この間の経緯から私が代表を務めざるを得なかったのです。でも、校内闘争から気持ちが離れていましたし、いまさら卒業式に何か起こすには時節がズレている気がしていました。
その日の夜。「卒アル」制作を完了し、作業を手伝った女生徒達は事務局長の車で送って頂き深夜11時半に校舎を退出しました。私は独り電車に乗り帰途についたのですが、途中、深夜喫茶に寄り学年最後の作業として「答辞」をノートに一夜漬けで書き連ねたのです。…まぁね。試験も答辞も一夜漬けだよな。
答辞を書き終え「…終わったな」と独り感慨にふけったものです。それは、「卒アル」制作が無事完了し高校も終えたこと。そして職場を失い生活も失う。会社に就職して「普通の生活」へ向かうことを断念したこと。…それらすべてが終わった、と。
――確かに、それらは失うであろう。でも、私は目の前に立ちふさがる<大きな扉>の向こうに何があるのか…そこへ向かって明日から一歩踏み出す気持ち。そこへ私自身に<嘘>がないこと。その気持ちに小さく興奮していたのです。
一昨年東京在住の同級生4人と上京の折に会いました。高校跡地までは行けなかったけれど渋谷の街を歩いて当時を思い出しました。
私が入学したころは3部制と定時制が併設されていて、2階建てのほうに定時制、平屋建てが3部制でした。ちなみに私は交替部。
当時は双方の生徒会が合同で会議をしたことも。会議が終わったときにケネディー大統領の暗殺のニュース。大きなショックを受けたことを思い出します。
学園闘争の高まりが感じられた時代ではありましたが代々木はまだ穏やかでした。結構楽しい高校生活でしたよ。それなりに勉強も頑張っていたように思います。一年上の先輩は卒業後東北大学に進学していました。
渋谷駅前からバスに乗り、オリンピック選手村の前を通り、代々木八幡駅前まで行き、そこから徒歩で学校に通っていました。帰りは数人で喫茶店に入りオリンピックの放送を毎日のように観ていたのが今は懐かしい思い出です。前回のコメントで書いた友人たちとその時の話もしましたよ。
これからも時々訪問させていただきます。
コロナで世界中が激動している中、くれぐれもご自愛の上ますますご活躍ください。
後期高齢者の私は、いかに健康に楽しく生活してゆけるかを考え、工夫している毎日です。