〔その1〕木造校舎の片隅で
それほど重い荷物を引きずって彷徨った思いはないのだが――。
中卒と同時に15歳で上京。新聞店という<枠>のなかで2年間、息をつめて周囲を社会を観察していた。かねてから考え思っていたのだが、結局のところ「この世は自分を中心に回っているのだ」ということ。だからといって、この時点では「自分がこの世を回している」とは思わないし、<ジコチュー>の世界観までには至らない。
生まれてこの方、物心ついたころに家庭は会話のない父母が存在し、離婚とともに親戚の家に預けられ、再び父親と東北へ移り生活を始めた頃には新たな女性がいて、ここにも会話のない疑似家族が存在していた。だからというわけではないが、独り自分の世界にドップリ浸かっていることができたわけで、それはそれで<幸せ>であった。
周囲とめったに話すこともなく、ただおとなしいひとりの少年だったのだが、そのことで周囲の少年に虐められると、「うるせ~な」と手にした椅子で殴ってやった。ここで、初めて「自分は性格的に激しいのだ」と気づく。周囲の少年たちは、「あいつは危険だ。近づくのよそう」となった。<自分の激しさ>を押し隠しながら新聞店の生活が始まったのだが、20代の大人のなかで「15歳の少年」は、ただ、肉体労働の日常に身体を抑え込んでいた。
入店の翌年、日曜日の夕刊が廃止となったことで夕方の配達時間が消えて、週末の1日だけ行動範囲が広がる。そこで終日、映画館へ通う時間ができたのだ。近所の二流館(ロードショウを終えた映画)から始めて、徐々に新宿・渋谷へと行動は広がる。やがて、これまでの消極的な思考から映画のなかの物語性、思考法などを学ぶ。<物語性>は、話の流れとともに「人の生き方」を学んでいく。そこで気づいたのは、映画の主人公は「自分を中心に回っている」ということ。
それは映画という<虚構>の世界とはいえ、元を正せば過去の人の生きざまを題材に映画は企画され、脚本に添って役者が演じている。その構造を体得できたわけで、あとは自分の生き方のなかで、いかに実践していくのか。ここには<夢>もなければ<期待>もない。
――そのような生活を2年ほど続けて定時制専門の「代々木高校<三部制>」に辿りついた。
それほど重い荷物を引きずって彷徨った思いはないのだが、代々木高校の入り口に立ったとき、自分がこれまで主体性のある考えに至る経験に乏しかったのか、周囲の大人の命ずるままに生きてきたのか、新たな生活の場である定時制高校に入学は決まったが、内面は白紙というより全く無防備。何かを学ぶ勉強するという気概はなく、何の期待もない「ないない」づくしで校舎に入ったことになる。そこには大きな「地獄の門」がそびえているような気がしただけ。
当時、代々木高校に講堂はなく古く狭い集会室で入学式が行われ、校長の祝辞・訓辞があったのだろうが全く覚えていない。数日後に中庭で上級生との対面式があったのだが、二階建ての木造校舎に囲まれて「自分はこの片隅に存在している」こと、それが不思議だった。
上京から2年。15歳の少年は17歳になっていた。新聞店という枠のなかで息を詰めて生きていたことが不思議でもあったのに、ここにきて定時制高校の生徒たちとどのように付き合っていくのか、未知の世界へ踏みだすことへ戸惑いがあって、ともかく「校舎の片隅にひっそりと存在していればいいのさ」との思いで、高校生活は始まった。
教室に初めて入って、担任の女性教師の挨拶と教科書の配布や注意事項などがあったのだが、ただ事務的な流れ。車座になって対面形式に各生徒の自己紹介があって、印象に残る生徒が数名いた。その直後、この数名からそれぞれ私に話しかけられた。それは「白紙で無防備」な世界に、何か眩しい光が差し込んだ思いがしたものだ。
【写真下】は入学間もない頃の「1学年午前部」教室のなか。最初は担任が決めた席順に沿って黒板に向かって右手後方、内廊下側に座っていた。右隣席の女生徒はミチコくん。彼女は後年、卒業アルバム制作時の<寄書>にボクのことを「純情」と書いていた。そうさ。ミチコくんはボクのことをよく理解してくれていて、当時もいまもボクは「純情」なのさ。
彼女とボクは背が高いから後方に並ばされたのかもしれないが、男女の組み合わせで二人とも窓際に押し込められた感じだね。彼女が席を立とうとしたらボクも立たざるを得ない。よく考えると1学年午前部の定員は40名。ここに交替部の生徒が多いときで15名以上が加わるわけで、古く狭い教室はまさに鮨詰め状態だな。それ故に窓際まで机が並べられていたのだね。――ボクのような<純情>な男子は、同世代の女生徒と机をならべるだけで緊張してしまう。
そのころ自分では気づいていなかったのだが、新聞店に住込み2年、早朝に新聞を配りお櫃ごと腹いっぱい飯を食う。夕刊を配って夕飯を食う。この間、エレベーターのない4階建ての共同住宅を10棟、日に2回、階段を昇り降りする。そうするとどうなる。まるで相撲部屋のような生活を毎日続けていると、足腰が引き締まって体幹が鍛えられ陽に焼け引き締まった顔つきは、逞しい青年となって表れる。
さらに<肉体>は完成にむかって走っていく。外での肉体労働は雨風雪があっても自宅へ持ち帰ることができない。すべてが完了するまで耐えなくてはならない。そこに忍耐、耐えることの<精神力>が蓄えられる。虐められポイ捨てられてもジッと耐える。そこに不動の<美学>が表れる。

――あの日から60年近い日々が流れた。
ひとは記憶の片隅を点から線へと伸ばして、その点と線を紡いでいくと<物語>ができることを知っている。でも誰もが、その<物語>を語るわけではない。何故ならひとの記憶とは曖昧なもので、<物語>として紡いでいけばいくほど<記憶>そのものがあやふやとなるからだ。<物語>は自然に助長する成長する。やがて妄想と幻想、混迷と虚構にまみれてしまう。だから<記憶>は点から線までで留めておくのが、安全なのだがね――。
東京を離れ地方都市の周辺部に移り住んで50年近くなる。年に何度か上京する機会があるのだが、いまでは東京に対して興味もわかない。会おうと思うようなひともいない。昔と比べ飛行機を使っての移動だから感激もないからなのかもしれない。30代から仕事中心の生活で在京中の若い頃の経験も薄れてしまっていたのだが、幾つかの事案が重なり同時並行で作業を進めていると、ふと1969年の年初から初夏6月にかけての様々な出来事が想い出されることがあった。そのとき「自分で進んで行動していたのではないのに、何であれほどまでに動き回っていたのだろう」との思いは強い。でも、その時の体験が現実の「追い込まれたときの行動」への対応の基本となっているようで、つい苦笑い。
2014年の正月明けから始めた『都立代々木高校<三部制>物語』は必ずしも「回顧録」ではなく、ましてや「自分史」でもない。自らが代々木高校へ在籍していた<時代>を自分なりに根底にあるもの、あったものを探求してみたいとの思いがある。ひとつは20歳になったばかりの「1968年6月から翌69年夏」までの大きな出来事。3学年から4学年へ進級する過程なのだが、「純情でおとなしい」と自らが思い込んでいた<自分>というものが、触媒を得て飛躍していった。
そこには新聞店での反乱から秋の文化祭前後、さらに69年正月明けからの定時制高校生の記録映画『奪還そして解放』の制作へ向かう活動。そして春ころから「PTA問題」へ。それと重なるように日大闘争から東大闘争を頂点とする学生運動、さらに発展して安保反戦運動。それらが幾重にも重なって、69年夏に<沖縄>へ単身渡航したことで、ひとつの結節点を会得した感じがしたものだ。
しかし、それら<過渡期>を一気呵成に体験していったものだから、体内に消化不良を起こしてしまい、このままでは窒息していまいそう。卒業まで半年を前に、「1970年」というものが得たいの知れない<大きな津波のようなウネリ>となって自分のまえを塞いでいく。――これら体験を文章で描くとすればどのような表現方法があるのか。自分のなかには業界紙記者としての「書く力」は少しはあるのだろうが、それはあくまでも枠のなか、紙面があってこそできる作業なわけ。その一方で「枠から離れた自由な発想と表現方法の<物語>醸造」を模索していく<旅>でもあったわけ。
それから10年余。思いつくままに書き殴った<物語>も、書いているうちにどこまでが本物でどこまでが虚構なのか分からなくなってくる。<書く>ことによって心が動いて抑えきれないときもある。そうかと思えば<構想>は先走りながら3ヵ月、半年と書けないときがある。それは、物を書く人間の宿命であろう。音楽を奏で、演劇の場に立つ人など<創造>の世界に身を置く人にも永遠に続く葛藤であろう。

これまで10年余<物語>を綴ってみて、ひとつはっきりわかったことがある。それは<物語>の魔性を求めて、代々木高校在校中に体験した出来事や社会現象、またそれらを取り巻く背景など、「調べて書く」作業を続けてきたのだが。一通りを探求してみて、結局のところ【写真上】のように同じ教室の女生徒らの笑顔に包まれていたから、代々木高校で最後まで生活でき、好き勝手なことができたのだと気づく。
そのことは、1学年秋の「文化祭」で演劇の脚本を書いたとき。さらに4年後の、4学年3学期の「卒業アルバム」制作。そのときどき、ボクは多くの議論を避けて何気なく提案したのだが、彼女らは「それ、いいね。やろうよ」の一言で教室全体が動いていった。――いま思えば、校舎の片隅にとどまっていないで、「やりたい思いがあるなら好きにやってみたら」という雰囲気であり「仕事と勉学」に勤しむ者同士の連帯感に信頼、そして共通の認識だったのだろう。――あ。今週末は、東京だ。
それほど重い荷物を引きずって彷徨った思いはないのだが――。
中卒と同時に15歳で上京。新聞店という<枠>のなかで2年間、息をつめて周囲を社会を観察していた。かねてから考え思っていたのだが、結局のところ「この世は自分を中心に回っているのだ」ということ。だからといって、この時点では「自分がこの世を回している」とは思わないし、<ジコチュー>の世界観までには至らない。
生まれてこの方、物心ついたころに家庭は会話のない父母が存在し、離婚とともに親戚の家に預けられ、再び父親と東北へ移り生活を始めた頃には新たな女性がいて、ここにも会話のない疑似家族が存在していた。だからというわけではないが、独り自分の世界にドップリ浸かっていることができたわけで、それはそれで<幸せ>であった。
周囲とめったに話すこともなく、ただおとなしいひとりの少年だったのだが、そのことで周囲の少年に虐められると、「うるせ~な」と手にした椅子で殴ってやった。ここで、初めて「自分は性格的に激しいのだ」と気づく。周囲の少年たちは、「あいつは危険だ。近づくのよそう」となった。<自分の激しさ>を押し隠しながら新聞店の生活が始まったのだが、20代の大人のなかで「15歳の少年」は、ただ、肉体労働の日常に身体を抑え込んでいた。
入店の翌年、日曜日の夕刊が廃止となったことで夕方の配達時間が消えて、週末の1日だけ行動範囲が広がる。そこで終日、映画館へ通う時間ができたのだ。近所の二流館(ロードショウを終えた映画)から始めて、徐々に新宿・渋谷へと行動は広がる。やがて、これまでの消極的な思考から映画のなかの物語性、思考法などを学ぶ。<物語性>は、話の流れとともに「人の生き方」を学んでいく。そこで気づいたのは、映画の主人公は「自分を中心に回っている」ということ。
それは映画という<虚構>の世界とはいえ、元を正せば過去の人の生きざまを題材に映画は企画され、脚本に添って役者が演じている。その構造を体得できたわけで、あとは自分の生き方のなかで、いかに実践していくのか。ここには<夢>もなければ<期待>もない。
――そのような生活を2年ほど続けて定時制専門の「代々木高校<三部制>」に辿りついた。
それほど重い荷物を引きずって彷徨った思いはないのだが、代々木高校の入り口に立ったとき、自分がこれまで主体性のある考えに至る経験に乏しかったのか、周囲の大人の命ずるままに生きてきたのか、新たな生活の場である定時制高校に入学は決まったが、内面は白紙というより全く無防備。何かを学ぶ勉強するという気概はなく、何の期待もない「ないない」づくしで校舎に入ったことになる。そこには大きな「地獄の門」がそびえているような気がしただけ。
当時、代々木高校に講堂はなく古く狭い集会室で入学式が行われ、校長の祝辞・訓辞があったのだろうが全く覚えていない。数日後に中庭で上級生との対面式があったのだが、二階建ての木造校舎に囲まれて「自分はこの片隅に存在している」こと、それが不思議だった。
上京から2年。15歳の少年は17歳になっていた。新聞店という枠のなかで息を詰めて生きていたことが不思議でもあったのに、ここにきて定時制高校の生徒たちとどのように付き合っていくのか、未知の世界へ踏みだすことへ戸惑いがあって、ともかく「校舎の片隅にひっそりと存在していればいいのさ」との思いで、高校生活は始まった。
教室に初めて入って、担任の女性教師の挨拶と教科書の配布や注意事項などがあったのだが、ただ事務的な流れ。車座になって対面形式に各生徒の自己紹介があって、印象に残る生徒が数名いた。その直後、この数名からそれぞれ私に話しかけられた。それは「白紙で無防備」な世界に、何か眩しい光が差し込んだ思いがしたものだ。
【写真下】は入学間もない頃の「1学年午前部」教室のなか。最初は担任が決めた席順に沿って黒板に向かって右手後方、内廊下側に座っていた。右隣席の女生徒はミチコくん。彼女は後年、卒業アルバム制作時の<寄書>にボクのことを「純情」と書いていた。そうさ。ミチコくんはボクのことをよく理解してくれていて、当時もいまもボクは「純情」なのさ。
彼女とボクは背が高いから後方に並ばされたのかもしれないが、男女の組み合わせで二人とも窓際に押し込められた感じだね。彼女が席を立とうとしたらボクも立たざるを得ない。よく考えると1学年午前部の定員は40名。ここに交替部の生徒が多いときで15名以上が加わるわけで、古く狭い教室はまさに鮨詰め状態だな。それ故に窓際まで机が並べられていたのだね。――ボクのような<純情>な男子は、同世代の女生徒と机をならべるだけで緊張してしまう。
そのころ自分では気づいていなかったのだが、新聞店に住込み2年、早朝に新聞を配りお櫃ごと腹いっぱい飯を食う。夕刊を配って夕飯を食う。この間、エレベーターのない4階建ての共同住宅を10棟、日に2回、階段を昇り降りする。そうするとどうなる。まるで相撲部屋のような生活を毎日続けていると、足腰が引き締まって体幹が鍛えられ陽に焼け引き締まった顔つきは、逞しい青年となって表れる。
さらに<肉体>は完成にむかって走っていく。外での肉体労働は雨風雪があっても自宅へ持ち帰ることができない。すべてが完了するまで耐えなくてはならない。そこに忍耐、耐えることの<精神力>が蓄えられる。虐められポイ捨てられてもジッと耐える。そこに不動の<美学>が表れる。

――あの日から60年近い日々が流れた。
ひとは記憶の片隅を点から線へと伸ばして、その点と線を紡いでいくと<物語>ができることを知っている。でも誰もが、その<物語>を語るわけではない。何故ならひとの記憶とは曖昧なもので、<物語>として紡いでいけばいくほど<記憶>そのものがあやふやとなるからだ。<物語>は自然に助長する成長する。やがて妄想と幻想、混迷と虚構にまみれてしまう。だから<記憶>は点から線までで留めておくのが、安全なのだがね――。
東京を離れ地方都市の周辺部に移り住んで50年近くなる。年に何度か上京する機会があるのだが、いまでは東京に対して興味もわかない。会おうと思うようなひともいない。昔と比べ飛行機を使っての移動だから感激もないからなのかもしれない。30代から仕事中心の生活で在京中の若い頃の経験も薄れてしまっていたのだが、幾つかの事案が重なり同時並行で作業を進めていると、ふと1969年の年初から初夏6月にかけての様々な出来事が想い出されることがあった。そのとき「自分で進んで行動していたのではないのに、何であれほどまでに動き回っていたのだろう」との思いは強い。でも、その時の体験が現実の「追い込まれたときの行動」への対応の基本となっているようで、つい苦笑い。
2014年の正月明けから始めた『都立代々木高校<三部制>物語』は必ずしも「回顧録」ではなく、ましてや「自分史」でもない。自らが代々木高校へ在籍していた<時代>を自分なりに根底にあるもの、あったものを探求してみたいとの思いがある。ひとつは20歳になったばかりの「1968年6月から翌69年夏」までの大きな出来事。3学年から4学年へ進級する過程なのだが、「純情でおとなしい」と自らが思い込んでいた<自分>というものが、触媒を得て飛躍していった。
そこには新聞店での反乱から秋の文化祭前後、さらに69年正月明けからの定時制高校生の記録映画『奪還そして解放』の制作へ向かう活動。そして春ころから「PTA問題」へ。それと重なるように日大闘争から東大闘争を頂点とする学生運動、さらに発展して安保反戦運動。それらが幾重にも重なって、69年夏に<沖縄>へ単身渡航したことで、ひとつの結節点を会得した感じがしたものだ。
しかし、それら<過渡期>を一気呵成に体験していったものだから、体内に消化不良を起こしてしまい、このままでは窒息していまいそう。卒業まで半年を前に、「1970年」というものが得たいの知れない<大きな津波のようなウネリ>となって自分のまえを塞いでいく。――これら体験を文章で描くとすればどのような表現方法があるのか。自分のなかには業界紙記者としての「書く力」は少しはあるのだろうが、それはあくまでも枠のなか、紙面があってこそできる作業なわけ。その一方で「枠から離れた自由な発想と表現方法の<物語>醸造」を模索していく<旅>でもあったわけ。
それから10年余。思いつくままに書き殴った<物語>も、書いているうちにどこまでが本物でどこまでが虚構なのか分からなくなってくる。<書く>ことによって心が動いて抑えきれないときもある。そうかと思えば<構想>は先走りながら3ヵ月、半年と書けないときがある。それは、物を書く人間の宿命であろう。音楽を奏で、演劇の場に立つ人など<創造>の世界に身を置く人にも永遠に続く葛藤であろう。

これまで10年余<物語>を綴ってみて、ひとつはっきりわかったことがある。それは<物語>の魔性を求めて、代々木高校在校中に体験した出来事や社会現象、またそれらを取り巻く背景など、「調べて書く」作業を続けてきたのだが。一通りを探求してみて、結局のところ【写真上】のように同じ教室の女生徒らの笑顔に包まれていたから、代々木高校で最後まで生活でき、好き勝手なことができたのだと気づく。
そのことは、1学年秋の「文化祭」で演劇の脚本を書いたとき。さらに4年後の、4学年3学期の「卒業アルバム」制作。そのときどき、ボクは多くの議論を避けて何気なく提案したのだが、彼女らは「それ、いいね。やろうよ」の一言で教室全体が動いていった。――いま思えば、校舎の片隅にとどまっていないで、「やりたい思いがあるなら好きにやってみたら」という雰囲気であり「仕事と勉学」に勤しむ者同士の連帯感に信頼、そして共通の認識だったのだろう。――あ。今週末は、東京だ。