〔最終章―Ⅰ〕沖縄・破防法裁判、始まる。
(3)「破壊活動防止法」の本質と歴史
旧九段会館を会場に『破防法と闘う講演集会』が開催されたのは1970年12月16日夜。会場には労働者、学生、市民など約3千名が結集、同会館の定員は1100名だから約3倍の人員が押しかけたことになる。今日的にいえば消防法違反で主催者には厳罰が課せられるところだね。
ところで、この集会冒頭に「破防法裁判闘争を支える会」の世話人である浅田光輝さんが開会の辞を兼ねて集会の意義と目的を提起しているのだが、浅田さんこそ「破防法裁判」のなかで大きな役割を果たした方はいないだろう。それは当裁判が1970年7月に始まって以来、1990年9月に結審するまでの20年間にわたって、法廷での全裁判の記録を「裁判傍聴記」として書き綴っていたからだ。私が「破防法裁判」の研究を志し、ここに実現できたのも浅田光輝さんの『破防法裁判傍聴記』が手元にあるからです。
浅田光輝さんは1918年(大正7年)生まれで、傍聴記を書き始めたときは52歳。当時、立正大学教授で経済学者、政治運動家として知られていた。「傍聴記」記述の動機を『破防法裁判傍聴記』(1973年4月1日発行)の「あとがき」に次のように述べている。
〔――傍聴記は70年7月の第1回公判以来、雑誌『破防法研究』に連載している。同誌は、69年の破防法発動とともにいち早く、その危険性を世間にひろく訴えようとして、小長井良治・葉山岳夫の両弁護士によって創刊された雑誌である。公判は今日までに24回を重ねたが、まだ起訴状に対する「求釈明」に入ったばかりである。おそらく、この裁判は今後数年を要するものになるだろう。
被告の各々が僅か十数分の演説をしたことが破防法違反に問われて、貴重な人生の数ヵ年を未決勾留と裁判に費やさなければならないということは、それ自体がこの破防法という悪質な弾圧法の本質を象徴することというべきだが、我々の立場からいえば、何年かかろうとも、この裁判を通じて徹底的に破防法の反人民的・反人間的な、不法・不当を暴き出し糾弾することが目的となる。私はその目的をとげるまでこの傍聴記を書き続ける。従って本書も裁判が終わるまで2巻、3巻と続刊されてゆくはずである。〕
■『破防法裁判傍聴記』第1回が掲載された『破防法研究』(第7号)=1970年8月20日発行
〔表紙写真〕1970年7月20日「破防法第1回公判」に東京地裁に結集した傍聴者

【1】「破壊活動防止法」の本質
さてここで、本稿で記述する用語と目的、また「破防法」とはどのような法律であり、どのような成立過程を経たのか簡単に説明しておきたい。
■まず、日頃は「破防法」と表記している法律の正式名称は、「破壊活動防止法」という。字面だけ見ると「何か建物や橋、看板などの建造物を破壊するような活動を前もって防止する法律なのか」と思われるが、実際は予断に反し「破壊活動防止法」は、「公共の安全」を「暴力主義的破壊活動」から防衛する、ということを目的に掲げている(同法第1条)。ここにいう「破壊活動」とは、「内乱および外患の誘致・援助をはじめとして、騒擾、放火、爆発物破裂、汽車・電車の往来危険・転覆、殺人、強盗、爆発物使用など」と規定されている(第4条)。
しかし内乱をはじめ、ここにあげられる全ての行為は刑法(及び爆発物取締罰則)に処罰が定められている。その限りでは、改めて屋上屋を重ねた罰則の必要はないはずである。一般に「治安法」の性格は破防法のいう「暴力主義的破壊活動」とは、刑法が対象とする「暴力行為一般」ではない。それは「政治上の主義、施策を推進し支持し、又はこれに反対する目的を以て行う行為」(第4条)と定義される。つまり<破防法>が規制の対象とするのは、刑法によってすでに処罰が定められている右の諸行為それ自体なのではなく、それらの行為に先立つものとしての政治的主張、政治目的である。言い換えれば、破防法は「事前規制の取締法」である。そのために政治運動および政治的思想・表現活動を直接に規制の対象とするもので、いわば典型的な「ブルジョア的治安法」というべきものである。
【2】「破壊活動防止法」の歴史性
■「破壊活動防止法」という法律が公布されたのは、「サンフランシスコ講和」の翌年、講和の発効と定められた1952年7月21日である。ただ<破防法>という法律は、いきなり登場したわけではない。戦前から戦中にかけて「天皇制専制国家体制」の警察的恐怖政治を集約した「治安法規<治安維持法>の再現である」との記憶が生々しく、鮮烈な記憶が国民のあいだに残っていたからだ。その一方で、先の大戦で敗戦国となった日本は占領下にGHQの指導のもと作られた「団体等規制令」を前身に、国内法化として登場したのが<破防法>である。
この「団体等規制令」の背景にあったのが戦後の占領期における民主主義運動、労働組合運動の高揚であり、当時の支配層にとっては、これを何とか鎮圧しなければ戦後日本の再建、なかでも経済の再建は不可避と考えられていた。運動の高揚を抑え込むには治安立法のような力で抑え込むこと。また、社会運動の盛り上がりの背景には共産党の策動があるとの考え、さらに当時の東西冷戦構造が激化したなかでGHQも共産党の取締立法について積極的に容認する風潮があった。そのことが<破防法>策定への底流にあったといわれている。
<破防法>公布と同時に発動されたのが、当時の日本共産党であった。同党は戦後革命の動きをみせ、破防法適用の被疑対象となったのは各地の共産党員58名、そのうち15名が起訴されている。彼らは末端の細胞員であり、その容疑は党の「軍事方針文書」を所持し配布したという。
この一連の動きは同法成立過程で懸念された事態で、「第2条」で定める「公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきものであって、いやしくも拡張して解釈するようなことがあってはならない」のなかの、運用上の歯止め「拡張解釈」を逸脱し、破防法は公布とともに発動されている。しかも適用を受けたのは市井の末端党員であり、理由は街頭で文書を配布したというものだ。この経緯は、まさに戦前の「治安維持法」(1925年)制定当時を彷彿させるものがあった。――なお、破防法「第2条」のなかに表記されている「公共の安全」を巡って、<沖縄・破防法裁判>では「求釈明」最大の焦点となる。
■「破壊活動防止法」の内容は、大きく二つの部分から構成されている。ひとつは「破壊的団体」と認定された政治団体に対して、「解散や活動制限」の処分を行いうることを定めた「行政措置」の規定。いわゆる<団体規制>である。二つ目は「政治上の目的」を以て、右にあげられたような「破壊活動」とされる諸行為を、「予備、陰謀もしくは教唆、またはその罪の実行を扇動」することに対する「処罰規定」である。つまり「政治運動の組織」と、個々の「政治的思想的活動」との双方を網羅して処分しうるようになっている。
<団体規制>の対象として「破壊的団体」を指定するのは公安審査委員会であり、その審査は公安調査庁長官の請求によって行われる。公安審査委員会、公安調査庁はいずれも、この法律のために設置された法務省の外局である。つまり<団体規制>の認定は、権力当局者が自ら判断するということだ。このような治安行政権限によって、公安調査官は労働運動、政治運動に対して不断に調査活動を行うことになる。それは労働運動、政治運動に対する権力当局者の<公然たる監視>が、破防法によって合法化され制度化されているのだ。
公安調査庁は、日本共産党、新左翼各派(1971年以降「過激派」と呼ぶ)、在日朝鮮人団体および右翼団体などの動向について、各団体の調査報告を定期的に公表している。まさに日本は、日常的に<監視社会>のなかにある。
破防法の<団体規制>の規定が、治安弾圧としてもつ意味の重大さは、条文に規定する「団体解散」や「活動禁止」に強行されるか否かということにあるのではない。むしろそのことに関連して労働運動や政治運動に対する露骨な思想調査、動向調査が公然と続けられていることの、その日常の威圧にあるというべきだろう。権力者が任意に選別する運動に<過激派>などのレッテルを貼り、市民社会の外に締め出そうとする操作が行われていることに大きな意味がある。
■<破防法>が1952年(昭和27年)制定・公布されて以来、<70年安保・沖縄闘争>以前にこの法律を適用したケースは、先に示した公布直後の「共産党軍事方針」に対する4件と、<60年安保闘争>の翌年1961年(昭和36年)に国家主義者グループがクーデターを計画して国会襲撃を準備したとされる「三無塾」事件の二つしかない。
共産党の軍事方針を破防法被疑とした4件の事件は、破防法38条2項2条の「内乱罪実行を目的とする文書の頒布」を適用し、三無塾なる国家主義者の事件には39条・40条の「殺人・騒擾等の予備・陰謀」が適用された。――判決は前者が無罪、後者は破防法初めての有罪である。
<60年安保闘争>では、公安調査庁は全学連と共産主義者同盟を「破防法被疑団体」として調査すると発表した。しかし、それはそれだけで終わっている。だが<70年安保闘争>には三無塾事件以来、8年間も蔵にしまい込まれていた「国家の宝刀<破防法>」がホコリを払って取り出され、続けざまに新左翼各派に適用された。しかも「革共同」(革命的共産主義者同盟)、「共産同」(共産主義者同盟)に対する破防法の適用は、「公開の集会演説を扇動罪とするもの」であった。
では何故、<70年安保・沖縄闘争>に破防法が集中して発動されたのか。そこに<破防法>の本質が集約して示されているように思われる。見方によっては、「<破防法>の本質を引き出すために<70年安保・沖縄闘争>は闘われた」とも言えよう。
【3】「4・28沖縄闘争」は沖縄と連帯した都市型実力決起
■<70年安保・沖縄闘争>が「ひとつの政治闘争」とすれば、その規模は<60年安保闘争>を遥かに上回る。何故かというと、<70年安保・沖縄闘争>の主軸は「沖縄」だったからだ。<60年安保闘争>の行動期間は1959年4月から60年6月までの1年余りだが、<70年安保・沖縄闘争>は1967年10月、11月の「二つの羽田闘争」を起点に、71年11月の「沖縄返還協定」国会強行採決に対する抗議行動までの4年間に及ぶ。その間には、68年から69年にかけて全国に広まった大学闘争がある。
この長期間続いた<70年安保・沖縄闘争>は、行動の規模も<60年安保闘争>に比べひとまわり大きかった。<60年安保闘争>における1日の全国行動参加人員の最高は50万5千人だが、<70年安保・沖縄闘争>では、「安保条約自動継続」に抗議する全国行動が行われた70年6月23日には77万4千人の参加を記録している(警視庁調べ)。これは戦後の最高記録である。その後も、1972年5月の「沖縄返還」に向けた衆議院特別委員会の「沖縄返還協定批准」強行採決が行われた71年11月19日には、全国から52万6千人もの抗議行動への参加があった。
■<70年安保・沖縄闘争>の主軸は「沖縄」という背景には、1960年代半ばに米軍がベトナムへ本格参戦したことで、米軍の統治下にあった<沖縄>は戦略重爆撃機B52の出撃基地となり、北ベトナムへの集中的空爆(北爆)が行われていた。また米国からの戦略物資・兵役員の中継補給基地として重要な役割を果たしており、日米安保条約のなかでも「沖縄基地」の役割は<アジア侵略の要石>として日増しに重要となっていた。
このようななかで1968年11月19日、嘉手納基地からベトナムに出撃しようとしたB52が墜落、爆発・炎上する大事故が発生した。現場は核兵器が貯蔵されている弾薬庫のそばで、爆発の火がもし燃え移れば沖縄全島が壊滅していた。このことをきっかけに、当時の佐藤政権に対する怒りが沸騰。これまでの「本土復帰」に対して、「復帰させてください」といったお願い運動から、一気に実力闘争による「沖縄を本土へ奪い返す」運動へと転化していった。
■そのきっかけとなったのが、B52が墜落、爆発・炎上から1カ月後の12月に県労協など139団体が参加した「県民共闘会議」が結成され、「B52撤去・一切の核兵器撤去」を掲げて翌69年2月4日に「沖縄全島ゼネスト」の方針が打ち出されたことによる。これは水道から電気などすべてを止める生活インフラ現場の労働者がストに突入するということ。米軍基地の沖縄労働者で組織されている「全軍労」2万人もゼネストに参加を表明したことで、米軍基地そのものがマヒ状態になることに恐怖した米軍は「総合労働布令」を発布、スト圧殺に全力をあげた。
日本政府も同年1月の「東大安田講堂闘争」に続いて沖縄での大反乱が起きれば、政権の崩壊に直結するとの激しい危機感をもち、総評指導部を抱き込み「スト回避」の工作に奔走。結果的に全軍労委員長の屈服によって2月1日、ストは中止された。
■日本本土の新左翼は「ゼネスト中止」に対する声明を発表。この壁を突破するためには「10・8羽田から日大・東大闘争まで昇りつめた本土における戦闘的学生・労働者の闘いと、沖縄労働者人民の怒りの決起との結合に一切がかかっている」と提起した。ここには「沖縄現地にあらゆる既成勢力を乗り越えて闘う真の革命派の登場を勝取ること」。それは同時に、本土における闘いが、社共・総評指導部による沖縄への裏切りと切り捨ての歴史に終止符を打ち、既成指導部の一切を打倒して進むことにかかっていた。
そして、長期にわたる分断の歴史を実力で打ち破る闘いが始まった。<闘い>の焦点は、当面する「4・28沖縄闘争」を如何に闘うかに絞りあげられていった。「4月28日」は、「サンフランシスコ講和条約」と同時に、「日米安保同盟」が発足した日である。それは敗戦国日本が国際社会に復帰するとともに、<沖縄>の「分離支配と全島基地化」が半永久的なものとして、歴史に刻み込まれた日であった。
ここに、「全日本労働者階級人民の総決起の日」と宣言し、「首都制圧・首相官邸占拠」という革命的な旗印をハッキリと掲げて立ち上がった。全左翼組織30団体の共同声明を勝取り、権力の首都厳戒態勢をぶち破って闘う陣形が築かれた。――それは「沖縄と連帯」した都市型実力決起であり、まったく新たな時代への突入を実感させた。そのような新たな幕開けの<4・28沖縄闘争>に、代々木高校から十数名が参戦していったのだ。
「4・28沖縄闘争」への進撃は、「2・4ゼネスト」をかろうじて圧殺したばかりの権力にとって最大の脅威となって「闘いの爆発が不可避」と感じ、最後の手段として「4・28沖縄闘争」の前夜、革共同への<破防法>発動に踏みきった。
(3)「破壊活動防止法」の本質と歴史
旧九段会館を会場に『破防法と闘う講演集会』が開催されたのは1970年12月16日夜。会場には労働者、学生、市民など約3千名が結集、同会館の定員は1100名だから約3倍の人員が押しかけたことになる。今日的にいえば消防法違反で主催者には厳罰が課せられるところだね。
ところで、この集会冒頭に「破防法裁判闘争を支える会」の世話人である浅田光輝さんが開会の辞を兼ねて集会の意義と目的を提起しているのだが、浅田さんこそ「破防法裁判」のなかで大きな役割を果たした方はいないだろう。それは当裁判が1970年7月に始まって以来、1990年9月に結審するまでの20年間にわたって、法廷での全裁判の記録を「裁判傍聴記」として書き綴っていたからだ。私が「破防法裁判」の研究を志し、ここに実現できたのも浅田光輝さんの『破防法裁判傍聴記』が手元にあるからです。
浅田光輝さんは1918年(大正7年)生まれで、傍聴記を書き始めたときは52歳。当時、立正大学教授で経済学者、政治運動家として知られていた。「傍聴記」記述の動機を『破防法裁判傍聴記』(1973年4月1日発行)の「あとがき」に次のように述べている。
〔――傍聴記は70年7月の第1回公判以来、雑誌『破防法研究』に連載している。同誌は、69年の破防法発動とともにいち早く、その危険性を世間にひろく訴えようとして、小長井良治・葉山岳夫の両弁護士によって創刊された雑誌である。公判は今日までに24回を重ねたが、まだ起訴状に対する「求釈明」に入ったばかりである。おそらく、この裁判は今後数年を要するものになるだろう。
被告の各々が僅か十数分の演説をしたことが破防法違反に問われて、貴重な人生の数ヵ年を未決勾留と裁判に費やさなければならないということは、それ自体がこの破防法という悪質な弾圧法の本質を象徴することというべきだが、我々の立場からいえば、何年かかろうとも、この裁判を通じて徹底的に破防法の反人民的・反人間的な、不法・不当を暴き出し糾弾することが目的となる。私はその目的をとげるまでこの傍聴記を書き続ける。従って本書も裁判が終わるまで2巻、3巻と続刊されてゆくはずである。〕
■『破防法裁判傍聴記』第1回が掲載された『破防法研究』(第7号)=1970年8月20日発行
〔表紙写真〕1970年7月20日「破防法第1回公判」に東京地裁に結集した傍聴者

【1】「破壊活動防止法」の本質
さてここで、本稿で記述する用語と目的、また「破防法」とはどのような法律であり、どのような成立過程を経たのか簡単に説明しておきたい。
■まず、日頃は「破防法」と表記している法律の正式名称は、「破壊活動防止法」という。字面だけ見ると「何か建物や橋、看板などの建造物を破壊するような活動を前もって防止する法律なのか」と思われるが、実際は予断に反し「破壊活動防止法」は、「公共の安全」を「暴力主義的破壊活動」から防衛する、ということを目的に掲げている(同法第1条)。ここにいう「破壊活動」とは、「内乱および外患の誘致・援助をはじめとして、騒擾、放火、爆発物破裂、汽車・電車の往来危険・転覆、殺人、強盗、爆発物使用など」と規定されている(第4条)。
しかし内乱をはじめ、ここにあげられる全ての行為は刑法(及び爆発物取締罰則)に処罰が定められている。その限りでは、改めて屋上屋を重ねた罰則の必要はないはずである。一般に「治安法」の性格は破防法のいう「暴力主義的破壊活動」とは、刑法が対象とする「暴力行為一般」ではない。それは「政治上の主義、施策を推進し支持し、又はこれに反対する目的を以て行う行為」(第4条)と定義される。つまり<破防法>が規制の対象とするのは、刑法によってすでに処罰が定められている右の諸行為それ自体なのではなく、それらの行為に先立つものとしての政治的主張、政治目的である。言い換えれば、破防法は「事前規制の取締法」である。そのために政治運動および政治的思想・表現活動を直接に規制の対象とするもので、いわば典型的な「ブルジョア的治安法」というべきものである。
【2】「破壊活動防止法」の歴史性
■「破壊活動防止法」という法律が公布されたのは、「サンフランシスコ講和」の翌年、講和の発効と定められた1952年7月21日である。ただ<破防法>という法律は、いきなり登場したわけではない。戦前から戦中にかけて「天皇制専制国家体制」の警察的恐怖政治を集約した「治安法規<治安維持法>の再現である」との記憶が生々しく、鮮烈な記憶が国民のあいだに残っていたからだ。その一方で、先の大戦で敗戦国となった日本は占領下にGHQの指導のもと作られた「団体等規制令」を前身に、国内法化として登場したのが<破防法>である。
この「団体等規制令」の背景にあったのが戦後の占領期における民主主義運動、労働組合運動の高揚であり、当時の支配層にとっては、これを何とか鎮圧しなければ戦後日本の再建、なかでも経済の再建は不可避と考えられていた。運動の高揚を抑え込むには治安立法のような力で抑え込むこと。また、社会運動の盛り上がりの背景には共産党の策動があるとの考え、さらに当時の東西冷戦構造が激化したなかでGHQも共産党の取締立法について積極的に容認する風潮があった。そのことが<破防法>策定への底流にあったといわれている。
<破防法>公布と同時に発動されたのが、当時の日本共産党であった。同党は戦後革命の動きをみせ、破防法適用の被疑対象となったのは各地の共産党員58名、そのうち15名が起訴されている。彼らは末端の細胞員であり、その容疑は党の「軍事方針文書」を所持し配布したという。
この一連の動きは同法成立過程で懸念された事態で、「第2条」で定める「公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきものであって、いやしくも拡張して解釈するようなことがあってはならない」のなかの、運用上の歯止め「拡張解釈」を逸脱し、破防法は公布とともに発動されている。しかも適用を受けたのは市井の末端党員であり、理由は街頭で文書を配布したというものだ。この経緯は、まさに戦前の「治安維持法」(1925年)制定当時を彷彿させるものがあった。――なお、破防法「第2条」のなかに表記されている「公共の安全」を巡って、<沖縄・破防法裁判>では「求釈明」最大の焦点となる。
■「破壊活動防止法」の内容は、大きく二つの部分から構成されている。ひとつは「破壊的団体」と認定された政治団体に対して、「解散や活動制限」の処分を行いうることを定めた「行政措置」の規定。いわゆる<団体規制>である。二つ目は「政治上の目的」を以て、右にあげられたような「破壊活動」とされる諸行為を、「予備、陰謀もしくは教唆、またはその罪の実行を扇動」することに対する「処罰規定」である。つまり「政治運動の組織」と、個々の「政治的思想的活動」との双方を網羅して処分しうるようになっている。
<団体規制>の対象として「破壊的団体」を指定するのは公安審査委員会であり、その審査は公安調査庁長官の請求によって行われる。公安審査委員会、公安調査庁はいずれも、この法律のために設置された法務省の外局である。つまり<団体規制>の認定は、権力当局者が自ら判断するということだ。このような治安行政権限によって、公安調査官は労働運動、政治運動に対して不断に調査活動を行うことになる。それは労働運動、政治運動に対する権力当局者の<公然たる監視>が、破防法によって合法化され制度化されているのだ。
公安調査庁は、日本共産党、新左翼各派(1971年以降「過激派」と呼ぶ)、在日朝鮮人団体および右翼団体などの動向について、各団体の調査報告を定期的に公表している。まさに日本は、日常的に<監視社会>のなかにある。
破防法の<団体規制>の規定が、治安弾圧としてもつ意味の重大さは、条文に規定する「団体解散」や「活動禁止」に強行されるか否かということにあるのではない。むしろそのことに関連して労働運動や政治運動に対する露骨な思想調査、動向調査が公然と続けられていることの、その日常の威圧にあるというべきだろう。権力者が任意に選別する運動に<過激派>などのレッテルを貼り、市民社会の外に締め出そうとする操作が行われていることに大きな意味がある。
■<破防法>が1952年(昭和27年)制定・公布されて以来、<70年安保・沖縄闘争>以前にこの法律を適用したケースは、先に示した公布直後の「共産党軍事方針」に対する4件と、<60年安保闘争>の翌年1961年(昭和36年)に国家主義者グループがクーデターを計画して国会襲撃を準備したとされる「三無塾」事件の二つしかない。
共産党の軍事方針を破防法被疑とした4件の事件は、破防法38条2項2条の「内乱罪実行を目的とする文書の頒布」を適用し、三無塾なる国家主義者の事件には39条・40条の「殺人・騒擾等の予備・陰謀」が適用された。――判決は前者が無罪、後者は破防法初めての有罪である。
<60年安保闘争>では、公安調査庁は全学連と共産主義者同盟を「破防法被疑団体」として調査すると発表した。しかし、それはそれだけで終わっている。だが<70年安保闘争>には三無塾事件以来、8年間も蔵にしまい込まれていた「国家の宝刀<破防法>」がホコリを払って取り出され、続けざまに新左翼各派に適用された。しかも「革共同」(革命的共産主義者同盟)、「共産同」(共産主義者同盟)に対する破防法の適用は、「公開の集会演説を扇動罪とするもの」であった。
では何故、<70年安保・沖縄闘争>に破防法が集中して発動されたのか。そこに<破防法>の本質が集約して示されているように思われる。見方によっては、「<破防法>の本質を引き出すために<70年安保・沖縄闘争>は闘われた」とも言えよう。
【3】「4・28沖縄闘争」は沖縄と連帯した都市型実力決起
■<70年安保・沖縄闘争>が「ひとつの政治闘争」とすれば、その規模は<60年安保闘争>を遥かに上回る。何故かというと、<70年安保・沖縄闘争>の主軸は「沖縄」だったからだ。<60年安保闘争>の行動期間は1959年4月から60年6月までの1年余りだが、<70年安保・沖縄闘争>は1967年10月、11月の「二つの羽田闘争」を起点に、71年11月の「沖縄返還協定」国会強行採決に対する抗議行動までの4年間に及ぶ。その間には、68年から69年にかけて全国に広まった大学闘争がある。
この長期間続いた<70年安保・沖縄闘争>は、行動の規模も<60年安保闘争>に比べひとまわり大きかった。<60年安保闘争>における1日の全国行動参加人員の最高は50万5千人だが、<70年安保・沖縄闘争>では、「安保条約自動継続」に抗議する全国行動が行われた70年6月23日には77万4千人の参加を記録している(警視庁調べ)。これは戦後の最高記録である。その後も、1972年5月の「沖縄返還」に向けた衆議院特別委員会の「沖縄返還協定批准」強行採決が行われた71年11月19日には、全国から52万6千人もの抗議行動への参加があった。
■<70年安保・沖縄闘争>の主軸は「沖縄」という背景には、1960年代半ばに米軍がベトナムへ本格参戦したことで、米軍の統治下にあった<沖縄>は戦略重爆撃機B52の出撃基地となり、北ベトナムへの集中的空爆(北爆)が行われていた。また米国からの戦略物資・兵役員の中継補給基地として重要な役割を果たしており、日米安保条約のなかでも「沖縄基地」の役割は<アジア侵略の要石>として日増しに重要となっていた。
このようななかで1968年11月19日、嘉手納基地からベトナムに出撃しようとしたB52が墜落、爆発・炎上する大事故が発生した。現場は核兵器が貯蔵されている弾薬庫のそばで、爆発の火がもし燃え移れば沖縄全島が壊滅していた。このことをきっかけに、当時の佐藤政権に対する怒りが沸騰。これまでの「本土復帰」に対して、「復帰させてください」といったお願い運動から、一気に実力闘争による「沖縄を本土へ奪い返す」運動へと転化していった。
■そのきっかけとなったのが、B52が墜落、爆発・炎上から1カ月後の12月に県労協など139団体が参加した「県民共闘会議」が結成され、「B52撤去・一切の核兵器撤去」を掲げて翌69年2月4日に「沖縄全島ゼネスト」の方針が打ち出されたことによる。これは水道から電気などすべてを止める生活インフラ現場の労働者がストに突入するということ。米軍基地の沖縄労働者で組織されている「全軍労」2万人もゼネストに参加を表明したことで、米軍基地そのものがマヒ状態になることに恐怖した米軍は「総合労働布令」を発布、スト圧殺に全力をあげた。
日本政府も同年1月の「東大安田講堂闘争」に続いて沖縄での大反乱が起きれば、政権の崩壊に直結するとの激しい危機感をもち、総評指導部を抱き込み「スト回避」の工作に奔走。結果的に全軍労委員長の屈服によって2月1日、ストは中止された。
■日本本土の新左翼は「ゼネスト中止」に対する声明を発表。この壁を突破するためには「10・8羽田から日大・東大闘争まで昇りつめた本土における戦闘的学生・労働者の闘いと、沖縄労働者人民の怒りの決起との結合に一切がかかっている」と提起した。ここには「沖縄現地にあらゆる既成勢力を乗り越えて闘う真の革命派の登場を勝取ること」。それは同時に、本土における闘いが、社共・総評指導部による沖縄への裏切りと切り捨ての歴史に終止符を打ち、既成指導部の一切を打倒して進むことにかかっていた。
そして、長期にわたる分断の歴史を実力で打ち破る闘いが始まった。<闘い>の焦点は、当面する「4・28沖縄闘争」を如何に闘うかに絞りあげられていった。「4月28日」は、「サンフランシスコ講和条約」と同時に、「日米安保同盟」が発足した日である。それは敗戦国日本が国際社会に復帰するとともに、<沖縄>の「分離支配と全島基地化」が半永久的なものとして、歴史に刻み込まれた日であった。
ここに、「全日本労働者階級人民の総決起の日」と宣言し、「首都制圧・首相官邸占拠」という革命的な旗印をハッキリと掲げて立ち上がった。全左翼組織30団体の共同声明を勝取り、権力の首都厳戒態勢をぶち破って闘う陣形が築かれた。――それは「沖縄と連帯」した都市型実力決起であり、まったく新たな時代への突入を実感させた。そのような新たな幕開けの<4・28沖縄闘争>に、代々木高校から十数名が参戦していったのだ。
「4・28沖縄闘争」への進撃は、「2・4ゼネスト」をかろうじて圧殺したばかりの権力にとって最大の脅威となって「闘いの爆発が不可避」と感じ、最後の手段として「4・28沖縄闘争」の前夜、革共同への<破防法>発動に踏みきった。