〔最終章―Ⅰ〕沖縄・破防法裁判、始まる。
(2)九段会館『破防法と闘う講演集会』の熱気
大都会・東京の中心街というのは日本の中心地を指すのでしょうが、東京駅を中心軸に丸の内口から西方面に扇状に広がる官庁街や大手企業が入居する高層ビル街、さらに<皇居>という摩訶不思議な空間は、まさに<日本の中心地>と言えるのだろう。
この中心地に位置する<皇居>は江戸城の跡地を利用したもので周囲は広い濠で囲まれている。その<皇居>敷地の最北端に日本武道館が置かれているのだが、濠の北・牛ヶ淵を挟んで向かい側に「九段会館」が存在している。元の九段会館は1932年(昭和7年)に「軍人会館」として建立され講堂やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイベントなど様々な用途に使用されていたのだが、2011年3月11日に発生した東日本大震災による天井崩落事故の影響で廃業となった。――その後、現有地の再開発に伴い、現在の建物は旧九段会館の一部を残しながら地上17階、地上75メートルの複合ビル「九段会館テラス」として2022年10月に再開業している。
旧九段会館の外観は「帝冠様式」を採用。1930年代(昭和10年前後)の日本において流行した和洋折衷の建築様式で、鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根を冠した重層なデザインが特徴。講堂の規模は客席数 1112席(1階614席・2階168席・3階330席)と大きなものだった。しかし東日本大震災が発生した2011年3月11日当日、講堂には某専門学校の卒業式が行われていたのだが、震度5強の地震により釣り天井が広範囲に崩落し各席に座っていた2人が下敷きになって死亡、その他多数が重軽傷を負う大惨事に見舞われている。――支えの柱をなくし「釣り天井」という発想が悲劇を生んだのか。
――私は在京中、この旧九段会館に一度だけ訪れている。それは、1970年の暮れも押し迫った12月16日夜、同会館を会場に『破防法と闘う講演集会』が開催されていたからだ。その日、高校卒業後に初めて独り暮らしを始めていた埼玉県との県境、都心からはるか離れたバイト先から大急ぎでバスと電車、地下鉄を乗り継いで会場に到達したのは午後7時を過ぎていたのではないか。12月中旬という寒さも厳しくなっているなか、息せき切って身体はほてっており、会場に辿りつくと真っ暗ななかにも九段会館の重層な外観に威圧を受けながら見上げる感触はあった。
講堂の表扉を開けるとホール一杯の人の群れに驚く。何とか中扉に辿りついたものの会場内は立錐の余地はなく、満席の脇通路の階段部分にも2人掛けで縦長に座っており人が通ることもできない。そこで会場全体を見渡し、何とか人一人座れる場所は無いものかと鷹の眼で探すと、「あった!」。正面の広い演壇にはヘルメット姿の学生軍団がひしめいているのだが、左手に僅か一人分のスペースを発見。急ぎ左通路の人々を掻き分けて楽屋裏へ潜り込んで演壇左脇へ座席を確保したのだ。
落ち着いて周囲を見渡すと、1階席には無数の色とりどりのヘルメット姿が目立つ。何故か2階から3階にかけ逆照明で暗くおぼろげななかに、ざわめきが迫ってくるような群衆の熱気を受ける。しかも講演者の背中から数メートルという至近距離の特等席なわけです。
■1969年「4・28沖縄闘争」に破防法発動
この夜、旧九段会館で開催された『破防法と闘う講演集会』は、前年の1969年、4月28日「沖縄デー」当日に首都圏を中心とした<4・28沖縄闘争>に関わった個人に発動された「破防法」(扇動罪)に対する公判が、1970年7月20日に始まったことによる大集会である。――本集会が開催された12月中旬現在で公判は、すでに4回(11月11日)まで進んでいるのだが、その実態は公判手続き以前の、法廷における被告を取り巻く「看守の厳重包囲」を解除することの論争が、弁護団と裁判所の間での激しい攻防として初公判以来、延々と続いていた。
■<4・28沖縄闘争>東京駅-新橋駅間の進撃

破防法裁判が始まると弁護団を中心とした事務局は、小冊子『破防法研究』と『4・28破防法裁判ニュース』を発行していた。同ニュース(1971年1月25日、第7号)は講演集会の詳細を報告している。
前文に「破防法裁判を支える会主催の『破防法と闘う講演集会』は、12月16日(水)午後6時より、東京の九段会館で開かれた。集会は3千余名もの市民、労働者、学生が、ホールを立錐の余地のないほどに埋め尽くすなか、猪俣浩三、羽仁五郎両氏の講演を中心に進められ、支える会のさらなる飛躍を全員で確認して、圧倒的な成功のうちに終了した。この集会成功を踏まえ、71年を支える会飛躍の年とし、全国津々浦々に支える会を組織し、会員の一挙的拡大と、破防法との闘いのより一層の質の深化を勝取っていくために、新たな決意をもって運動を進めていかねばならない。」と記す。
――この一文を読んでいると、当夜の九段会館講堂の舞台袖に座って感じた会場の熱気が、昨夜の出来事のように伝わってくる。当時22歳。高校を卒業して半年を過ぎていたが、ようやく棲みかを定め、漠然としながらも<大都会・東京>でなければ得られないもの、そして自分が望む知識や思想性を吸収しようとしていた頃だ。だがこの時点で、私には「破防法」というものの実態はまったくと言ってよいほど分かっていなかった。――いや、それだからこそ、この『破防法と闘う講演集会』に集う人々の熱気と、その背景に何があるのかを「何年たってもよいから、絶対、自分で解明してみるのだ」との思いを強くしていた。

■『破防法と闘う講演集会』
集会は冒頭、支える会の世話人である浅田光輝氏が、開会の辞を兼ねて、集会の意義と目的を提起した。続いて破防法弁護団の一員である猪俣浩三氏が登壇。「司法権の危機と破防法」と題して約50分講演を行った。(以下、記事全文)
〔 猪俣浩三氏:講演主旨 〕
猪俣氏は、破防法制定当時の衆議院法務委員としての経験に踏まえ、戦前の治安維持法と破防法を比較しながら、破防法の反動性を暴露していった。「治安維持法が天下の悪法として日本国民に君臨し、太平洋戦争へ国民を総動員していった大きな要因であった」ことを明らかにした。
そして破防法は、敗戦後GHQの管理下におかれていた日本の治安政策が、サンフランシスコ条約の締結に基づく講和によって、GHQの治安維持に依拠しない独立した治安弾圧法規を必要としたことによって制定されたものであり、多くの文化団体、大学教授をはじめとし、労働者の第7次に及ぶ波状ストライキなど広汎な国民の反対運動の空前の盛り上がりにもかかわらず、朝鮮戦争を背景とした国際情勢の危機の煮詰まりのなかで政府が無理やり成立させた、当時の具体的な破防法制定過程を語った。
次に司法権の独立の問題に触れ、戦争直前になると支配階級はまず思想統制、教育統制を開始するが、次にくるのは裁判であるとして「<恵庭事件>における自衛隊の憲法判断への介入、そして最近の<長沼ナイキ事件>の福島判事への異常な干渉として、裁判への統制が起こっている。その背景には自衛隊の東南アジアへの派兵が、資本の擁護のために現実の問題になっている」という事実を明らかにした。最後に「法の目標は平和であり、その達成過程は闘争である」(『権利のための闘争』1872年)というイェーリングの言葉をあげ、破防法裁判闘争を闘うことを訴えて終了した。
〔 羽仁五郎氏:講演主旨 〕
続く講演には、支える会呼びかけ人の一人である、歴史学者の羽仁五郎氏が登壇した。羽仁氏は、破防法制定当時、参議院法務委員として制定阻止のために闘い、参議院法務委員会では否決に追い込んだ立役者であり、破防法裁判の特別弁護人として予定されている。同氏は「階級支配と破防法の本質――ヨーロッパ学生裁判にふれて」と題して一時間余にわたり、明解な論旨で破防法を糾弾した。
そのなかで、ヒットラ―政権を批判しただけで死刑を宣告されたファッションモデルの例を挙げ、「破防法を打破しなければ、一人のファッションモデルの死刑も阻止できない」と述べています。そして現代はおとなしくしていては、何をされるかわからないことを指摘、破防法がいかに人権を無視した悪法であるかを暴露し、アウシュヴィッツ――第2次大戦を繰り返してはならないと訴えた。
また治安維持法と破防法の違いについてとくに強調し、民主主義社会のなかで、それを否定する形で出されている破防法は、治安維持法を上回る弾圧法としての本質をもつことを明らかにし、注目された。そしてこの法律が守るのは日米安保体制であり人民はそれと闘うことによってのみ、反戦平和、思想の自由、人間としての生存を手中にし得るとして、獄中にいる被告と連帯した断固たる闘いを呼びかけた。
■何故いま<沖縄・破防法裁判>なのか。
私が<破防法>と初めて出会ったのは、<4・28沖縄闘争>当日。その日、代々木高校の卒業生から沖縄闘争への参加要請があって、出撃集合場所の某喫茶店に在校生と卒業生の数名が集まった時のことです。待機時間まで当日の新聞を各自読んでいると、その一人が突然「昨夜、ハボウホウで逮捕されている!」と叫んだのです。「ハボウホウ?」その時初めて聞く言葉で、その内容とともに、どのような文字を書くのか全く分かりません。
やがて新宿に移動し地下鉄へ乗り換えることになったのですが、私は夕方からの仕事を休むことができず、そこで引き返すことになります。新宿上空にはヘリコプターが爆音を轟かせ低空飛行を繰り返す。まさに緊迫感溢れる闘争当日の状況です。
その後、<4・28沖縄闘争>のデモや機動隊との攻防などはメディアを通じて知るのですが、<破防法>に関して説明する人は現れない。やがて小冊子『破防法研究』『4・28破防法裁判ニュース』などで逮捕され被告となった人々が長期拘留されていること、「裁判が近く始まるらしい」といった断片的な情報は入るのだが、<破防法>の全体像は見えてこない。『破防法と闘う講演集会』で感じた熱気は、「何年たっても絶対、自分で解明してみる」思いは強いのだが、足掛かりとなる研究文献が少ない。
浅田光輝氏は著書『破防法裁判傍聴記』の「あとがき」に書いているのだが、「破防法といっても、今日では多くの人々が、それがどういう法律であるかを知らない。この法律がいま、数人の若い人々に対して、公園の集会における演説という行為を、ただそれだけを対象に発動され、その裁判が現に東京地裁の法廷で進行中であるということも一般の関心はまことに希薄である」(1973年2月20日)。この現実に、私個人がどうのように活路を開いていくのか。
このような状況が長く続いているなかで、<破防法裁判>に関心をもって本格的に研究を始めたのが1990年から。――それは昭和天皇崩御に伴いその年の秋に代替わりの行事が行われるのだが、一部の反対組織に対し破防法の「団体規制」を行うという噂が流れていたが、<破防法>という法律名を久々に聞いて、1969年の沖縄闘争を思い出していた。ある会合で知り合った人物と世間話をしていたところ、彼は東大安田講堂闘争を経験していたという。そのような経緯から、破防法という法律と現在進行中の<破防法裁判>について二人で研究してみようということになった。
しかし当時としては破防法に関する参考資料に目立ったものはなく、古本屋を回って幾つかの書籍を入手することから始まった。その後、彼は故郷に帰るとの伝言を残して去って行ったのだが、人伝えに亡くなったことを知る。ところが1995年春にオウム真理教のサリン事件が発生。やがて同宗教団体に破防法団体規制適用の動きがみられ、そのことでマスメディアを中心に破防法関連の記事、また冊子や専門書籍、弁護士の研究資料など数多く出版されるようになった。ここから、先の知人との破防法研究成果を基礎に独自で研究を続けることにした。その成果の一部を小冊子に発表、また地域の勉強会グループに講師として講演するなど少しずつ研究成果を積み上げてきた。
この<沖縄・破防法裁判>研究の特徴は、1969年「4・28沖縄闘争」と1971年11月14日に東京・渋谷を舞台に闘われた「沖縄返還協定批准阻止闘争」(渋谷闘争)の<沖縄>を巡る二つの破防法裁判にテーマを絞っている。首都・東京の中心部を主戦場とした二つの<沖縄闘争>に破防法が発動されたのだが、裁判の主眼は「首都を主戦場」としたことではなく、「闘うことを扇動、教唆」したことにあるという。破防法そして裁判を研究していくうちに、「破防法」という法律は、他の法律や裁判にない国家による戦後体制と治安法規、日米安保体制などに深く関連しており、課題は多岐にわたることに気づく。
この研究成果をすべて網羅しようとすれば<ブログ>連載は半年や1年では済まないだろう。そして現状では半世紀、いや正確には56年前の「闘争・裁判を現在読み解いて何の意味があるのか」と思われるだろうが、現実には1971年11月14日に東京・渋谷を舞台に闘われた「沖縄返還協定批准阻止闘争」(渋谷闘争)で一人の機動隊員が亡くなったことを巡って、幾つかの裁判が進められている。
そこには破防法裁判とは別の流れとして「不思議な裁判」(殺人犯デッチあげ判決)が進められているのだが、本質的には「渋谷闘争=破防法発動(第3次)」の範疇にある。その裁判の解明は、「2027年に米日合同で中国に対し侵略戦争へ向かう戦争準備体制」と表裏一体の関係にあるのだから、興味深い。
(2)九段会館『破防法と闘う講演集会』の熱気
大都会・東京の中心街というのは日本の中心地を指すのでしょうが、東京駅を中心軸に丸の内口から西方面に扇状に広がる官庁街や大手企業が入居する高層ビル街、さらに<皇居>という摩訶不思議な空間は、まさに<日本の中心地>と言えるのだろう。
この中心地に位置する<皇居>は江戸城の跡地を利用したもので周囲は広い濠で囲まれている。その<皇居>敷地の最北端に日本武道館が置かれているのだが、濠の北・牛ヶ淵を挟んで向かい側に「九段会館」が存在している。元の九段会館は1932年(昭和7年)に「軍人会館」として建立され講堂やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイベントなど様々な用途に使用されていたのだが、2011年3月11日に発生した東日本大震災による天井崩落事故の影響で廃業となった。――その後、現有地の再開発に伴い、現在の建物は旧九段会館の一部を残しながら地上17階、地上75メートルの複合ビル「九段会館テラス」として2022年10月に再開業している。
旧九段会館の外観は「帝冠様式」を採用。1930年代(昭和10年前後)の日本において流行した和洋折衷の建築様式で、鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根を冠した重層なデザインが特徴。講堂の規模は客席数 1112席(1階614席・2階168席・3階330席)と大きなものだった。しかし東日本大震災が発生した2011年3月11日当日、講堂には某専門学校の卒業式が行われていたのだが、震度5強の地震により釣り天井が広範囲に崩落し各席に座っていた2人が下敷きになって死亡、その他多数が重軽傷を負う大惨事に見舞われている。――支えの柱をなくし「釣り天井」という発想が悲劇を生んだのか。
――私は在京中、この旧九段会館に一度だけ訪れている。それは、1970年の暮れも押し迫った12月16日夜、同会館を会場に『破防法と闘う講演集会』が開催されていたからだ。その日、高校卒業後に初めて独り暮らしを始めていた埼玉県との県境、都心からはるか離れたバイト先から大急ぎでバスと電車、地下鉄を乗り継いで会場に到達したのは午後7時を過ぎていたのではないか。12月中旬という寒さも厳しくなっているなか、息せき切って身体はほてっており、会場に辿りつくと真っ暗ななかにも九段会館の重層な外観に威圧を受けながら見上げる感触はあった。
講堂の表扉を開けるとホール一杯の人の群れに驚く。何とか中扉に辿りついたものの会場内は立錐の余地はなく、満席の脇通路の階段部分にも2人掛けで縦長に座っており人が通ることもできない。そこで会場全体を見渡し、何とか人一人座れる場所は無いものかと鷹の眼で探すと、「あった!」。正面の広い演壇にはヘルメット姿の学生軍団がひしめいているのだが、左手に僅か一人分のスペースを発見。急ぎ左通路の人々を掻き分けて楽屋裏へ潜り込んで演壇左脇へ座席を確保したのだ。
落ち着いて周囲を見渡すと、1階席には無数の色とりどりのヘルメット姿が目立つ。何故か2階から3階にかけ逆照明で暗くおぼろげななかに、ざわめきが迫ってくるような群衆の熱気を受ける。しかも講演者の背中から数メートルという至近距離の特等席なわけです。
■1969年「4・28沖縄闘争」に破防法発動
この夜、旧九段会館で開催された『破防法と闘う講演集会』は、前年の1969年、4月28日「沖縄デー」当日に首都圏を中心とした<4・28沖縄闘争>に関わった個人に発動された「破防法」(扇動罪)に対する公判が、1970年7月20日に始まったことによる大集会である。――本集会が開催された12月中旬現在で公判は、すでに4回(11月11日)まで進んでいるのだが、その実態は公判手続き以前の、法廷における被告を取り巻く「看守の厳重包囲」を解除することの論争が、弁護団と裁判所の間での激しい攻防として初公判以来、延々と続いていた。
■<4・28沖縄闘争>東京駅-新橋駅間の進撃

破防法裁判が始まると弁護団を中心とした事務局は、小冊子『破防法研究』と『4・28破防法裁判ニュース』を発行していた。同ニュース(1971年1月25日、第7号)は講演集会の詳細を報告している。
前文に「破防法裁判を支える会主催の『破防法と闘う講演集会』は、12月16日(水)午後6時より、東京の九段会館で開かれた。集会は3千余名もの市民、労働者、学生が、ホールを立錐の余地のないほどに埋め尽くすなか、猪俣浩三、羽仁五郎両氏の講演を中心に進められ、支える会のさらなる飛躍を全員で確認して、圧倒的な成功のうちに終了した。この集会成功を踏まえ、71年を支える会飛躍の年とし、全国津々浦々に支える会を組織し、会員の一挙的拡大と、破防法との闘いのより一層の質の深化を勝取っていくために、新たな決意をもって運動を進めていかねばならない。」と記す。
――この一文を読んでいると、当夜の九段会館講堂の舞台袖に座って感じた会場の熱気が、昨夜の出来事のように伝わってくる。当時22歳。高校を卒業して半年を過ぎていたが、ようやく棲みかを定め、漠然としながらも<大都会・東京>でなければ得られないもの、そして自分が望む知識や思想性を吸収しようとしていた頃だ。だがこの時点で、私には「破防法」というものの実態はまったくと言ってよいほど分かっていなかった。――いや、それだからこそ、この『破防法と闘う講演集会』に集う人々の熱気と、その背景に何があるのかを「何年たってもよいから、絶対、自分で解明してみるのだ」との思いを強くしていた。

■『破防法と闘う講演集会』
集会は冒頭、支える会の世話人である浅田光輝氏が、開会の辞を兼ねて、集会の意義と目的を提起した。続いて破防法弁護団の一員である猪俣浩三氏が登壇。「司法権の危機と破防法」と題して約50分講演を行った。(以下、記事全文)
〔 猪俣浩三氏:講演主旨 〕
猪俣氏は、破防法制定当時の衆議院法務委員としての経験に踏まえ、戦前の治安維持法と破防法を比較しながら、破防法の反動性を暴露していった。「治安維持法が天下の悪法として日本国民に君臨し、太平洋戦争へ国民を総動員していった大きな要因であった」ことを明らかにした。
そして破防法は、敗戦後GHQの管理下におかれていた日本の治安政策が、サンフランシスコ条約の締結に基づく講和によって、GHQの治安維持に依拠しない独立した治安弾圧法規を必要としたことによって制定されたものであり、多くの文化団体、大学教授をはじめとし、労働者の第7次に及ぶ波状ストライキなど広汎な国民の反対運動の空前の盛り上がりにもかかわらず、朝鮮戦争を背景とした国際情勢の危機の煮詰まりのなかで政府が無理やり成立させた、当時の具体的な破防法制定過程を語った。
次に司法権の独立の問題に触れ、戦争直前になると支配階級はまず思想統制、教育統制を開始するが、次にくるのは裁判であるとして「<恵庭事件>における自衛隊の憲法判断への介入、そして最近の<長沼ナイキ事件>の福島判事への異常な干渉として、裁判への統制が起こっている。その背景には自衛隊の東南アジアへの派兵が、資本の擁護のために現実の問題になっている」という事実を明らかにした。最後に「法の目標は平和であり、その達成過程は闘争である」(『権利のための闘争』1872年)というイェーリングの言葉をあげ、破防法裁判闘争を闘うことを訴えて終了した。
〔 羽仁五郎氏:講演主旨 〕
続く講演には、支える会呼びかけ人の一人である、歴史学者の羽仁五郎氏が登壇した。羽仁氏は、破防法制定当時、参議院法務委員として制定阻止のために闘い、参議院法務委員会では否決に追い込んだ立役者であり、破防法裁判の特別弁護人として予定されている。同氏は「階級支配と破防法の本質――ヨーロッパ学生裁判にふれて」と題して一時間余にわたり、明解な論旨で破防法を糾弾した。
そのなかで、ヒットラ―政権を批判しただけで死刑を宣告されたファッションモデルの例を挙げ、「破防法を打破しなければ、一人のファッションモデルの死刑も阻止できない」と述べています。そして現代はおとなしくしていては、何をされるかわからないことを指摘、破防法がいかに人権を無視した悪法であるかを暴露し、アウシュヴィッツ――第2次大戦を繰り返してはならないと訴えた。
また治安維持法と破防法の違いについてとくに強調し、民主主義社会のなかで、それを否定する形で出されている破防法は、治安維持法を上回る弾圧法としての本質をもつことを明らかにし、注目された。そしてこの法律が守るのは日米安保体制であり人民はそれと闘うことによってのみ、反戦平和、思想の自由、人間としての生存を手中にし得るとして、獄中にいる被告と連帯した断固たる闘いを呼びかけた。
■何故いま<沖縄・破防法裁判>なのか。
私が<破防法>と初めて出会ったのは、<4・28沖縄闘争>当日。その日、代々木高校の卒業生から沖縄闘争への参加要請があって、出撃集合場所の某喫茶店に在校生と卒業生の数名が集まった時のことです。待機時間まで当日の新聞を各自読んでいると、その一人が突然「昨夜、ハボウホウで逮捕されている!」と叫んだのです。「ハボウホウ?」その時初めて聞く言葉で、その内容とともに、どのような文字を書くのか全く分かりません。
やがて新宿に移動し地下鉄へ乗り換えることになったのですが、私は夕方からの仕事を休むことができず、そこで引き返すことになります。新宿上空にはヘリコプターが爆音を轟かせ低空飛行を繰り返す。まさに緊迫感溢れる闘争当日の状況です。
その後、<4・28沖縄闘争>のデモや機動隊との攻防などはメディアを通じて知るのですが、<破防法>に関して説明する人は現れない。やがて小冊子『破防法研究』『4・28破防法裁判ニュース』などで逮捕され被告となった人々が長期拘留されていること、「裁判が近く始まるらしい」といった断片的な情報は入るのだが、<破防法>の全体像は見えてこない。『破防法と闘う講演集会』で感じた熱気は、「何年たっても絶対、自分で解明してみる」思いは強いのだが、足掛かりとなる研究文献が少ない。
浅田光輝氏は著書『破防法裁判傍聴記』の「あとがき」に書いているのだが、「破防法といっても、今日では多くの人々が、それがどういう法律であるかを知らない。この法律がいま、数人の若い人々に対して、公園の集会における演説という行為を、ただそれだけを対象に発動され、その裁判が現に東京地裁の法廷で進行中であるということも一般の関心はまことに希薄である」(1973年2月20日)。この現実に、私個人がどうのように活路を開いていくのか。
このような状況が長く続いているなかで、<破防法裁判>に関心をもって本格的に研究を始めたのが1990年から。――それは昭和天皇崩御に伴いその年の秋に代替わりの行事が行われるのだが、一部の反対組織に対し破防法の「団体規制」を行うという噂が流れていたが、<破防法>という法律名を久々に聞いて、1969年の沖縄闘争を思い出していた。ある会合で知り合った人物と世間話をしていたところ、彼は東大安田講堂闘争を経験していたという。そのような経緯から、破防法という法律と現在進行中の<破防法裁判>について二人で研究してみようということになった。
しかし当時としては破防法に関する参考資料に目立ったものはなく、古本屋を回って幾つかの書籍を入手することから始まった。その後、彼は故郷に帰るとの伝言を残して去って行ったのだが、人伝えに亡くなったことを知る。ところが1995年春にオウム真理教のサリン事件が発生。やがて同宗教団体に破防法団体規制適用の動きがみられ、そのことでマスメディアを中心に破防法関連の記事、また冊子や専門書籍、弁護士の研究資料など数多く出版されるようになった。ここから、先の知人との破防法研究成果を基礎に独自で研究を続けることにした。その成果の一部を小冊子に発表、また地域の勉強会グループに講師として講演するなど少しずつ研究成果を積み上げてきた。
この<沖縄・破防法裁判>研究の特徴は、1969年「4・28沖縄闘争」と1971年11月14日に東京・渋谷を舞台に闘われた「沖縄返還協定批准阻止闘争」(渋谷闘争)の<沖縄>を巡る二つの破防法裁判にテーマを絞っている。首都・東京の中心部を主戦場とした二つの<沖縄闘争>に破防法が発動されたのだが、裁判の主眼は「首都を主戦場」としたことではなく、「闘うことを扇動、教唆」したことにあるという。破防法そして裁判を研究していくうちに、「破防法」という法律は、他の法律や裁判にない国家による戦後体制と治安法規、日米安保体制などに深く関連しており、課題は多岐にわたることに気づく。
この研究成果をすべて網羅しようとすれば<ブログ>連載は半年や1年では済まないだろう。そして現状では半世紀、いや正確には56年前の「闘争・裁判を現在読み解いて何の意味があるのか」と思われるだろうが、現実には1971年11月14日に東京・渋谷を舞台に闘われた「沖縄返還協定批准阻止闘争」(渋谷闘争)で一人の機動隊員が亡くなったことを巡って、幾つかの裁判が進められている。
そこには破防法裁判とは別の流れとして「不思議な裁判」(殺人犯デッチあげ判決)が進められているのだが、本質的には「渋谷闘争=破防法発動(第3次)」の範疇にある。その裁判の解明は、「2027年に米日合同で中国に対し侵略戦争へ向かう戦争準備体制」と表裏一体の関係にあるのだから、興味深い。
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