〔第1章〕 新幹線は、西へ。
〔第1回〕東京モーターショー
1969年10月23日――。
午前8時10分。東京駅のプラットホームを定刻で離れた新幹線は一路、西へ向かって走り出しました。やがて東京のビル街を抜け徐々に住宅街が並ぶ景色へと移っていきます。ボクは進行方向左側の窓側に座って外を流れる景色を観るともなく見つめながら、2日前の夕刻から夜にかけての出来事をボンヤリ思い出していました…。
――あれは<戦場>という舞台であった。するとボクは舞台を駆け巡る一人の兵士だったのか。…その日の夕刻、某所に集結した労働者軍団約600名。駅ホームに揃い指揮者の号笛で防護3点セット(ヘルメット、タオルマスク、軍手)を装着後、各自手に紙袋を抱え整列。直ちに電車の停まった線路に飛び降りて一路、北へ向かって進撃を開始した。
軍団約600名が線路の上を一斉に駆け出すシーンは圧巻である。…やがて進行方向、左前方約2キロ彼方の暮れかかる空に向けて一条の黒煙が立ち上る。火炎ビンが放つ黒煙であろう。「あれが戦場か…」ボクはひたすら走った――1969年秋<10・21新宿闘争>の前哨戦、高田馬場闘争の幕開けである。
労働者軍団一同が高田馬場駅へ到着、駅前に整列。第一陣の闘争が終えたのか駅頭には大勢の群衆が周囲を取り囲んでおり、我われ第二陣の登場に興奮状態。指揮者の合図で紙袋から取り出したモロトフカクテルを手に、暗くなった街頭へ一斉に飛び出していった。
――しかし、戦場の渦中へ飛び込んでいくということなのに何故か緊張も無ければ興奮もない。…ただ周囲を取り囲む群衆の熱気に触発されたのか頭のなかには幼い頃、地域の夏祭りに加わり母方の祖母が用意してくれた子供用の法被に身を包み、股に食い込む褌と足の指に絡む草鞋に気をとられながら懸命に神輿を追いかける自分がいた。
そして東北の海深く、海面を通して差し込む陽光のキラメキを反映して岩の上にたゆたうウニ、その神々しいまでの情景を思い浮かべていた。――やがてカクテルの投擲で道路一面に広がる激しい炎と街灯の鈍い光を受けてうごめく軍団のヘルメット。集中して襲いかかる催涙弾の発射音、眼前のデモ隊員のヘルメットに直撃した催涙弾が跳ね返って左後方へ一本の線となって流れる。
――号笛、人々の叫び声…その現実に気付く。「ここは戦場なのだ!」と。ひたすら走り込んでいくなかで、突然、リーダー格の大声。「火を消せ!火を消せっ!」と叫んだ声の先を向くと、ラーメン屋の庇が炎で燃えていた…。
――そのときです。「ミツマメ君って無口ね。」…その声に我に返って、右の席に座るヒロミくんの顔を振り向きました。彼女はボクが何も言わず、ただモノ思いのなかに沈んでいたのに退屈してか右肩に頭を預けて眠っていたのです…。そして目覚めて発した言葉が「…無口ね」だって。――ああオレは無口さ、寡黙な男さ。。。と思い込もうとしたのですが、「まてよ。このオナゴ、ヒロミが話しかけてきたのは初めてだぜ…」それなのに何故、オレが無口なのだ…むむ。
ヒロミくんは交替部の女生徒。みるからに「わたし。モデルをやってま~す」てな雰囲気が漂っています。いつのまに転校してきたのか定かではありません。ある日突然現れ、教室の廊下側に交替部がまとまって座っている周辺から華やいだ笑い声が聞こえるで、振り向くとヒロミくんが大きな口を開けて周りの女生徒と談笑していました。
「あんな大きな口を開けて笑いをふりまくオナゴは、苦手じゃの~」と思ったのが初めての印象。そして、みるからにモデルを仕事にしている女性に対しての苦手意識が、ボクのココロを暗くする。そりゃね、クマちゃんはモデルを仕事にしていますがね、彼女は「モデル」の下か上に「兼・撮影助手」が付く。これだけで安心。…ん~何が?
どうも<ヒロミくん的女生徒>が半径2メートル以内に近づいてくると、それを察してボクは額から汗がでて身が固くなってしまう。ある日、教室の自分の席後方からヒロミくんらしき人物が近づいてくる気配を察して、身体が硬直し息ができない。そんな様子を奇異に感じたのか女生徒のひとりが私の前に回り込んで顔を覗き込み、「あ。ミツマメ君、息止まってる。いやだぁ…固まってる~!」と小さく叫びました。…そうなんです。ボクは美しさをまっとって自己主張しているような女性が大の苦手なのです。
――だからというわけではないのでしょうが、新幹線の隣の席にヒロミくんが座った気配を感じた途端にボクの身体は硬直。その姿を彼女に悟られまいと車窓の外を向いたのでした。ホントかね。――そんな彼女がある日、ボクの耳元で囁きました。「晴海の東京モーターショーにでているのよ。」とね…。
■当時、ヒロミくんが出演していた『東京モーターショー』は、現在、臨海副都心・有明の東京国際展示場で開催されていますが、1960年代後半頃は中央区晴海の東京国際見本市会場で開かれていました。このモーターショーの歴史は古く1954年に「全日本自動車ショウ」という名称で日比谷公園内広場を会場にスタートしており、第11回(1964年)から国際モーターショーを目指す方針により英文表記と同じ「東京モーターショー」となっています。
ボクが初めて『東京モーターショー』を訪れたのは第14回開催(1967年)のとき。当時、つきあいはじめたガールフレンドが「入場券が手に入ったので一緒に行かない?」と誘われたからです。何しろ東京在住の女性からデートに誘われたのは初めてのことなので、戸惑いました。――それというのも、<都会の武器>を振りかざして女性に近づこうと思案していたのに、なんと女性の方から近寄ってきたからです。「なぁ~んだ。こんなこともあるのだね」と。ふふ。
その頃の日本は、道路事情は必ずしも万全とはいえず大通りから一歩中に入ると砂利舗装道が目立ちました。ようやく大衆車としてトヨタがカローラ、日産はサニーを発売した頃でした。「第14回・東京モーターショー」の資料を読むと展示車両は655台。トヨタはV型8気筒3000CCを搭載したセンチュリーを展示。小型車で注目されたのは日産・ブルーバード510型で三角窓を無くしたデザインと4輪独立懸架のサスペンション。また、東洋工業からはロータリーエンジンが参考出品として展示されていました。
初デートで訪れた『第14回・東京モーターショー』(1967年)の会場は、海に面した晴海埠頭の近く。この埠頭から沖縄に渡るため大型客船に乗込んだのは69年夏で、2年後のこと。晴海は交通の便が悪く山手線・新橋駅から二人で長い時間をかけて歩きました。数キロの距離です。でもちっとも遠く感じません。だって二人は初めてのデートですもの♪…11月上旬のことです。
このときの入場半券が手元にあるのですが、「招待入場券」と表記してあり右下に抽選番号が刷り込まれています。会期は「昭和42年10月27日~11月8日」ですね。

会場はドーム形式の巨大な空間でした。大勢の人々が展示されている自動車の周りを取り囲んでいるのですが、どうも目的はクルマの側に立っているモデル嬢なのかな。何故、クルマの隣にモデル嬢が立って、にこやかに微笑んでいるのでしょうか。クルマよりもモデル嬢の方が目立ちますよね。主催者としては「車と女性」の相乗効果を狙ったのかな。来場者の目的はクルマを見学するとともにモデル嬢に会いに来る。だからというわけではありませんが誰も説明書の内容など読んでいません。

当時は新聞店に住込みで生活していましたので自家用車とは無縁の世界ですが、目の前に広がる光景は「なるほど。日頃の生活とは異なる新しい世界と出逢ったのだ」との思いで会場の雰囲気に呑み込まれていました。それというのも側にいるデート中の女性が誘ってくれなかったら、このような世界に踏み込むこともなかったのかもしれません。
――初めての『東京モーターショー』を訪れてから数年後、ヒロミくんが出演していることを聞いて会場を訪ねてみました。彼女はクルマメーカー向けのコスチュームに身を包み、エンジンのシステムを解説していました。教室の彼女とは別人です。そこには大きな口を開けて女生徒と談笑している姿はありません。

でも。後日、ヒロミくんと会ったとき、つい「クルマの周りに立っているのかとおもっていたんだ…」と軽い気持ちで言ったのですが、彼女は俯きがちにいきなり「彼女たち、日当ン万円だよ…」といったのです。それを聞いて「悪いこと言ったな~」と思ったものです。モデルを仕事にしているとはいえ、そこはプロの世界。一見、華やかな業界とはいえ外から見えない葛藤があるのかな。
――でも、ボクが軽い気持ちで言ったのは、いつもの彼女であれば笑顔で「こんどはクルマのそばに立てるように、ガンバリま~す」といった返答があるものと期待してのことだったのでしょうが。彼女が表情を暗くして返事され戸惑った、ということですね。
■新幹線は何処へ向かうのかな…。
ところでね。ここでふと気づいたのです。――冒頭、新幹線が東京駅を離れ西へ向かって走っていくなかで、ボクとヒロミくんは二人だけの席に座っていることまで記述していたのですが、何処へ向かうか書いていませんでした。
このままでは、「ヒロミちゃん、ミツマメ君の肩に寄添って…。あの二人、何処へ行くのかな。きっと京都あたりで南禅寺の湯豆腐を食べながら、ミツマメ君、お口あ~んして♪-な~んてことになっているのかな。許せん!」と思われるかもしれません。そのように思っている方、手を上げて!…あれ?誰もいないぞ!
そうだよな。だってボクら二人の周りには、約50名もの学友が取り囲んでいるのだモン。
ボクら<1966年入学組>が4学年の2学期を迎え、一同揃って<修学旅行>が始まろうとしているのだ。
――これから、『都立代々木高校<三部制>御一行様・修学旅行記』が始まりますよ~!
〔第1回〕東京モーターショー
1969年10月23日――。
午前8時10分。東京駅のプラットホームを定刻で離れた新幹線は一路、西へ向かって走り出しました。やがて東京のビル街を抜け徐々に住宅街が並ぶ景色へと移っていきます。ボクは進行方向左側の窓側に座って外を流れる景色を観るともなく見つめながら、2日前の夕刻から夜にかけての出来事をボンヤリ思い出していました…。
――あれは<戦場>という舞台であった。するとボクは舞台を駆け巡る一人の兵士だったのか。…その日の夕刻、某所に集結した労働者軍団約600名。駅ホームに揃い指揮者の号笛で防護3点セット(ヘルメット、タオルマスク、軍手)を装着後、各自手に紙袋を抱え整列。直ちに電車の停まった線路に飛び降りて一路、北へ向かって進撃を開始した。
軍団約600名が線路の上を一斉に駆け出すシーンは圧巻である。…やがて進行方向、左前方約2キロ彼方の暮れかかる空に向けて一条の黒煙が立ち上る。火炎ビンが放つ黒煙であろう。「あれが戦場か…」ボクはひたすら走った――1969年秋<10・21新宿闘争>の前哨戦、高田馬場闘争の幕開けである。
労働者軍団一同が高田馬場駅へ到着、駅前に整列。第一陣の闘争が終えたのか駅頭には大勢の群衆が周囲を取り囲んでおり、我われ第二陣の登場に興奮状態。指揮者の合図で紙袋から取り出したモロトフカクテルを手に、暗くなった街頭へ一斉に飛び出していった。
――しかし、戦場の渦中へ飛び込んでいくということなのに何故か緊張も無ければ興奮もない。…ただ周囲を取り囲む群衆の熱気に触発されたのか頭のなかには幼い頃、地域の夏祭りに加わり母方の祖母が用意してくれた子供用の法被に身を包み、股に食い込む褌と足の指に絡む草鞋に気をとられながら懸命に神輿を追いかける自分がいた。
そして東北の海深く、海面を通して差し込む陽光のキラメキを反映して岩の上にたゆたうウニ、その神々しいまでの情景を思い浮かべていた。――やがてカクテルの投擲で道路一面に広がる激しい炎と街灯の鈍い光を受けてうごめく軍団のヘルメット。集中して襲いかかる催涙弾の発射音、眼前のデモ隊員のヘルメットに直撃した催涙弾が跳ね返って左後方へ一本の線となって流れる。
――号笛、人々の叫び声…その現実に気付く。「ここは戦場なのだ!」と。ひたすら走り込んでいくなかで、突然、リーダー格の大声。「火を消せ!火を消せっ!」と叫んだ声の先を向くと、ラーメン屋の庇が炎で燃えていた…。
――そのときです。「ミツマメ君って無口ね。」…その声に我に返って、右の席に座るヒロミくんの顔を振り向きました。彼女はボクが何も言わず、ただモノ思いのなかに沈んでいたのに退屈してか右肩に頭を預けて眠っていたのです…。そして目覚めて発した言葉が「…無口ね」だって。――ああオレは無口さ、寡黙な男さ。。。と思い込もうとしたのですが、「まてよ。このオナゴ、ヒロミが話しかけてきたのは初めてだぜ…」それなのに何故、オレが無口なのだ…むむ。
ヒロミくんは交替部の女生徒。みるからに「わたし。モデルをやってま~す」てな雰囲気が漂っています。いつのまに転校してきたのか定かではありません。ある日突然現れ、教室の廊下側に交替部がまとまって座っている周辺から華やいだ笑い声が聞こえるで、振り向くとヒロミくんが大きな口を開けて周りの女生徒と談笑していました。
「あんな大きな口を開けて笑いをふりまくオナゴは、苦手じゃの~」と思ったのが初めての印象。そして、みるからにモデルを仕事にしている女性に対しての苦手意識が、ボクのココロを暗くする。そりゃね、クマちゃんはモデルを仕事にしていますがね、彼女は「モデル」の下か上に「兼・撮影助手」が付く。これだけで安心。…ん~何が?
どうも<ヒロミくん的女生徒>が半径2メートル以内に近づいてくると、それを察してボクは額から汗がでて身が固くなってしまう。ある日、教室の自分の席後方からヒロミくんらしき人物が近づいてくる気配を察して、身体が硬直し息ができない。そんな様子を奇異に感じたのか女生徒のひとりが私の前に回り込んで顔を覗き込み、「あ。ミツマメ君、息止まってる。いやだぁ…固まってる~!」と小さく叫びました。…そうなんです。ボクは美しさをまっとって自己主張しているような女性が大の苦手なのです。
――だからというわけではないのでしょうが、新幹線の隣の席にヒロミくんが座った気配を感じた途端にボクの身体は硬直。その姿を彼女に悟られまいと車窓の外を向いたのでした。ホントかね。――そんな彼女がある日、ボクの耳元で囁きました。「晴海の東京モーターショーにでているのよ。」とね…。
■当時、ヒロミくんが出演していた『東京モーターショー』は、現在、臨海副都心・有明の東京国際展示場で開催されていますが、1960年代後半頃は中央区晴海の東京国際見本市会場で開かれていました。このモーターショーの歴史は古く1954年に「全日本自動車ショウ」という名称で日比谷公園内広場を会場にスタートしており、第11回(1964年)から国際モーターショーを目指す方針により英文表記と同じ「東京モーターショー」となっています。
ボクが初めて『東京モーターショー』を訪れたのは第14回開催(1967年)のとき。当時、つきあいはじめたガールフレンドが「入場券が手に入ったので一緒に行かない?」と誘われたからです。何しろ東京在住の女性からデートに誘われたのは初めてのことなので、戸惑いました。――それというのも、<都会の武器>を振りかざして女性に近づこうと思案していたのに、なんと女性の方から近寄ってきたからです。「なぁ~んだ。こんなこともあるのだね」と。ふふ。
その頃の日本は、道路事情は必ずしも万全とはいえず大通りから一歩中に入ると砂利舗装道が目立ちました。ようやく大衆車としてトヨタがカローラ、日産はサニーを発売した頃でした。「第14回・東京モーターショー」の資料を読むと展示車両は655台。トヨタはV型8気筒3000CCを搭載したセンチュリーを展示。小型車で注目されたのは日産・ブルーバード510型で三角窓を無くしたデザインと4輪独立懸架のサスペンション。また、東洋工業からはロータリーエンジンが参考出品として展示されていました。
初デートで訪れた『第14回・東京モーターショー』(1967年)の会場は、海に面した晴海埠頭の近く。この埠頭から沖縄に渡るため大型客船に乗込んだのは69年夏で、2年後のこと。晴海は交通の便が悪く山手線・新橋駅から二人で長い時間をかけて歩きました。数キロの距離です。でもちっとも遠く感じません。だって二人は初めてのデートですもの♪…11月上旬のことです。
このときの入場半券が手元にあるのですが、「招待入場券」と表記してあり右下に抽選番号が刷り込まれています。会期は「昭和42年10月27日~11月8日」ですね。

会場はドーム形式の巨大な空間でした。大勢の人々が展示されている自動車の周りを取り囲んでいるのですが、どうも目的はクルマの側に立っているモデル嬢なのかな。何故、クルマの隣にモデル嬢が立って、にこやかに微笑んでいるのでしょうか。クルマよりもモデル嬢の方が目立ちますよね。主催者としては「車と女性」の相乗効果を狙ったのかな。来場者の目的はクルマを見学するとともにモデル嬢に会いに来る。だからというわけではありませんが誰も説明書の内容など読んでいません。

当時は新聞店に住込みで生活していましたので自家用車とは無縁の世界ですが、目の前に広がる光景は「なるほど。日頃の生活とは異なる新しい世界と出逢ったのだ」との思いで会場の雰囲気に呑み込まれていました。それというのも側にいるデート中の女性が誘ってくれなかったら、このような世界に踏み込むこともなかったのかもしれません。
――初めての『東京モーターショー』を訪れてから数年後、ヒロミくんが出演していることを聞いて会場を訪ねてみました。彼女はクルマメーカー向けのコスチュームに身を包み、エンジンのシステムを解説していました。教室の彼女とは別人です。そこには大きな口を開けて女生徒と談笑している姿はありません。

でも。後日、ヒロミくんと会ったとき、つい「クルマの周りに立っているのかとおもっていたんだ…」と軽い気持ちで言ったのですが、彼女は俯きがちにいきなり「彼女たち、日当ン万円だよ…」といったのです。それを聞いて「悪いこと言ったな~」と思ったものです。モデルを仕事にしているとはいえ、そこはプロの世界。一見、華やかな業界とはいえ外から見えない葛藤があるのかな。
――でも、ボクが軽い気持ちで言ったのは、いつもの彼女であれば笑顔で「こんどはクルマのそばに立てるように、ガンバリま~す」といった返答があるものと期待してのことだったのでしょうが。彼女が表情を暗くして返事され戸惑った、ということですね。
■新幹線は何処へ向かうのかな…。
ところでね。ここでふと気づいたのです。――冒頭、新幹線が東京駅を離れ西へ向かって走っていくなかで、ボクとヒロミくんは二人だけの席に座っていることまで記述していたのですが、何処へ向かうか書いていませんでした。
このままでは、「ヒロミちゃん、ミツマメ君の肩に寄添って…。あの二人、何処へ行くのかな。きっと京都あたりで南禅寺の湯豆腐を食べながら、ミツマメ君、お口あ~んして♪-な~んてことになっているのかな。許せん!」と思われるかもしれません。そのように思っている方、手を上げて!…あれ?誰もいないぞ!
そうだよな。だってボクら二人の周りには、約50名もの学友が取り囲んでいるのだモン。
ボクら<1966年入学組>が4学年の2学期を迎え、一同揃って<修学旅行>が始まろうとしているのだ。
――これから、『都立代々木高校<三部制>御一行様・修学旅行記』が始まりますよ~!