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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【4Ⅳ-03】 <闘いの序曲>が終わって。

2014年08月22日 19時30分18秒 | 第4部 静かなる序曲
<第4章>序曲の終焉
[第3回] <闘いの序曲>が終わって。

1967年秋の<10・8羽田闘争>を突破口に、翌68年は年初から全国的に反戦闘争・大学闘争が巻き起こりました。1月の長崎・佐世保における原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争(エンプラ闘争)をはじめ、2月には王子野戦病院設置阻止闘争、三里塚空港実力粉砕現地総決起集会。4月にはベトナム反戦・沖縄奪還国際共闘集会、沖縄全軍労の賃上げストなど。
また、全国の大学においても学生の自治権獲得やマスプロ化する授業への反発などで学生運動が活発化してきました。そんななか6月に日本最大規模の日本大学(日大)において学生4万人が大衆団交を要求して抗議集会を開き、日大全共闘が結成(5月)されています。

一方、海外へ目を向けるとフランスにおける「5月革命」、中国の紅衛兵運動、アメリカのベトナム戦争反対運動、これに関連した大学占拠闘争など若者を中心とした活動が注目されていました。また、キューバにおける革命成功で戦士チェ・ゲバラに対する関心が高まり、アフリカや中南米などの「第三世界」に対する課題がクローズアップされるなど、全世界的規模での「反乱の季節」報道でメディアは連日賑わっていました。

もっとも、若者の反乱に対し世の中の大半の人々は「学生は親の脛かじって大学行っているのだから、もっと勉強に専念するべきだ!」との声が一般的で、なかには「学生が騒ごうとフランスで旗を翻して叫ぼうと俺たちに何の関係があるんだ…」と言っては飲み屋で一杯ひっかけるかパチンコ店にいりびたる人達もいるわけです。闘争が日々拡大していっても周りの人々の日常生活には何ら変化は見られません。

■「社研部」創設へ
私たち代々木高校では、これら一連の社会情勢に何の関心も示さない生徒が大半でしたが、反戦集会やデモに直接参加する生徒が一部にいたのはたしかです。本校卒業生の幾人かが大学へ進学し「駅前でヘルメットかぶってビラ配っていたDさん見かけたわよ」とか、「集会でヘルメットにタオルのマスク姿の学生が手を振っているので、誰かと思ったらE君だった」といった話を聞くようになりました。
私の周りの学友たちは寄り集まると何かと社会情勢に対する意見を交わしていましたが、いまひとつ分からない。それは、反戦運動や大学闘争が新聞やテレビ、また一部週刊誌などのマスメディアを通してしか伝わってこないからです。今日ではインターネットなどで瞬時に情勢が確認できますが、いま起きている現象の本質がつかめない。
それでは、ことの本質をつかむには反戦集会やデモに直接参加するのが手っ取り早いのでしょうが、その足がかりがつかめない状態でした。それは、へたに集会やデモに参加したら「待っていました!」とばかりに主催組織に取り込まれてしまう怖さがあったのです。

68年春。私は3学年に進級したところで生徒会の代議員となっています。まぁどちらかといえば自ら立候補して自治会活動などに首を突っ込む性格ではないのですが、やはり周りの人々の勧めで代議員を引き受けたのだと思います。それは、ひとつにはクラブ活動として「社研部」(社会科学研究部)創設にあたっての趣旨説明を、生徒総会で行うことが求められていたからです。
教師の一部には「社研は政治活動するのでは…」といった懸念の声がありましたが、顧問に女性教師をお迎えし何とか部創設に成功しました。でもね「社研ってなにするところ?」趣旨説明しながらも私には、いまひとつ分からない。「社会を科学的に研究するところだって」フム。結果的に「社研部」へ加入することになったのですが。

夏休みを終えて2学期が始まると、社研部として秋の『文化祭』に何を発表するかが課題となりました。やはり社会的に注目されている「日米安保の研究だろう」ということになって、部員が各々テーマに沿った研究発表を行うことになりました。このことで私自身が「政治の世界」へ初めて足を踏み込むキッカケとなったのです。
それと、文化祭には「大学闘争とは何か」をテーマに日大闘争の過程を撮影したドキュメント映画が存在するとの情報を得て、記録映画の上映を企画しました。もっとも、「大学闘争とは何か」なんてテーマは後付けであって、まず「日大闘争の実態を知りたい」という好奇心が先にたっていたのだと思います。

日大闘争というのは当時、学生数8万人を擁する日本最大の大学といわれた日本大学で、授業料の多額使い込みが発覚(不正経理事件)。これまで自由と言論が抑圧されていた学生が、この事件をキッカケに大学側に説明を求め同大学始まって以来、初めての構内デモが行われ全学共闘会議(全共闘)の結成からバリケードスト突入へと発展していきます。
この間の闘争記録をフイルムに収めたのが『日大闘争の記録』というドキュメント映画です。このフイルムは日大全共闘の芸術学部が管理しているとのことで、何故か社研部顧問の女性教師が先頭に立ってバリスト中の日大芸術学部へ乗込んで『日大闘争の記録』の貸出し交渉を行っています。何度か交渉を重ねていく過程で私も江古田の芸術学部を訪れ、初めて全共闘の学生たちと直接話をする機会を得ました。(⇒『日大闘争の記録』はネットで観ることができます)

■<闘いの序曲>が終わって…
60年安保闘争の総括をめぐって各セクト(党派)は四分五裂しますが、65年の日韓闘争を経て66年12月に全学連は『再建大会』を開催します。この『全学連再建大会』で確認された国家権力との「闘争宣言」を実践的に展開する時期に向けて、学生戦線・労働戦線はともに組織的構築を行い闘争準備に入っていました。あとはどの時点で爆発させるのか。それは、1967年<10・8羽田闘争>として爆発、一気に権力闘争へ突入していきました。<闘いの序曲>は終わったのです。

反戦・大学闘争における、この組織的権力闘争は70年代に入っても続きます。しかし、国家権力との武装闘争は様々な弾圧と、党派闘争や組織的内部抗争に絡む多数の負傷者と死者、また多くの逮捕者を出すなど闘う側に多くの犠牲を強いる結果となりました。それでも果敢な闘いは一定の地平を切り拓いていくのです。
<闘いの序曲>は終わり、68年から反戦・反安保を主軸に大学で職場で、また街頭でいかに闘われたのか。そして、我が代々木高校ではどのような課題に取組んでいったのでしょうか。

――1960年代半ば、学生や若者は「我々は何故学ぶのか?」「何故働くのか?」という根源的な疑問、問いかけから大学または職場内で矛盾点を告発し、やがてキャンパスを職場を出て街頭での闘いへと発展させていきます。果たして現在の学生や若者は、何を問いかけているのでしょうか?

■68年春。校舎が完成し引越し作業が進むなか、ミツマメ君はひっそりと<20歳>を迎えました。
嗚呼、大人になるということは、女の子のスカートめくりをしたら逮捕され刑務所へ送られるということか…。え?そんなこと一度だってしたことありませんよ~。そんなことしたら午前部の女生徒に「ちょっとぉ~。屋上行こうか…」と連れ出され、飛び蹴りキックで顔が青タンいっぱい膨らむでしょう。だってぇ~午前部女子っておっかないんだもん。あれ?鏡で見ると背中にY子の足跡が残っている、ぞ~。…ゲホ。

⇒〔第4部〕了。
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