<第3章>社研部、動く。
〔6回〕 『三里塚の夏』と「第3世界」
1968年、3学年の秋に催された『文化祭』が終わって半月を経た12月1日(日曜日)に、社研部の女性顧問からの誘いで成田空港建設反対闘争を記録したドキュメント映画『日本解放戦線・三里塚の夏』を観に行きました。
当日の午後1時過ぎに京浜東北線・王子駅に降り立つと、女性顧問と社研部メンバー5名が待っていました。上映会場へ向かう前に、全員で昼食をとったのですが「先生よりカツ丼」とのメモ。ワォーッ! 社研部に入るとカツ丼を奢ってもらえるんだァ!
1966年、政府は成田空港の建設地を農村地帯の千葉県・三里塚に一方的に決定します。その強引なやり方に怒った農民は反対同盟を結成し闘いを始めます。この闘いは、67年秋の「羽田闘争」を契機に全国的に拡大した大学闘争や労働者の闘いと結びつき、やがて「農労学」一体となった大闘争へと発展していきます。
68年、その闘争を小川プロダクション(小川伸介監督)が記録したドキュメント映画が『日本解放戦線・三里塚の夏』として公開されました。私たち社研部は封切り間もない映画を観たことになります。
――映画冒頭、闘争本部が置かれた農家の一室に集まった数名の農民。無線機から測量隊と機動隊の動向を報せる緊迫した映像が流れます。やがて農地を強制測量する白ヘルの係員をジュラルミンの盾を持った機動隊が周囲の農民を排除するように動くシーンへと変わります。そして測量現場で小川プロのカメラマンを排除しようとする機動隊や、闘争本部で議論する農民の姿などを丹念に映し出していきます。
映画の最終場面で農民が鍬や鎌を持ち上げて「我々は武装したぞぉ! 頑固闘うぞぉ!!」と何度も叫び上げるシーンは圧巻でした…46年前に観た『日本解放戦線・三里塚の夏』は、観客の誰をも「三里塚闘争」の現場に引きずり込む強烈なインパクトがありました。
■「三里塚闘争」の本質とは何か。
この映画には二つの視点があります。ひとつは農地を収奪される農民の怒りと闘い。もうひとつは、農民の初期の闘いを丹念に記録した小川プロのドキュメント映画の製作手法です。
成田空港の建設に反対する「三里塚闘争」は今年7月で49年目となりました。半世紀にわたる長い闘争となったのも、まずは「国策」といわれる理不尽な空港建設です。最初は千葉県富里・八街地帯に空港建設が予定されていたのですが、1千戸もの優良農家の立ち退きを諮らなければならず、結果的に農民の実力抵抗を含む激しい反対運動が起きて当初の計画は頓挫します。
本来ならば政府は空港建設を白紙に戻して出直すべきだったのでしょうが、場当たり的に三里塚地域への変更を行ったのです。その理由として、御料牧場と千葉県の所有する敷地が空港計画地の半数を占めていたことから「買収地が少ない」。また三里塚地域は富里・八街地帯に比べ「貧しい開拓農家が多く買収しやすい」という農民蔑視の判断があったからです。
さらに政府は計画から内定、閣議決定までを強行したのです。66年6月23日に新聞にリーク、7月4日に閣議決定するなどわずか12日間で三里塚地域へ新空港の建設を決めてしまったのです。地元の意向を全く無視して。これを暴挙といわずして何というのでしょうか。その背景には激化するベトナム戦争と無関係ではありませんでした。
何故なら新空港の滑走路は4千メートルが予定されており、この長大な滑走路は重爆撃機B52が離着陸するために必要な長さだったのです。すなわち、三里塚地域へ建設を予定した空港は戦争目的に使われることが明らかでした。そのことが単に「農民の土地が奪われる」といった私有地強奪から一歩踏み込んで、「反戦闘争」へと拡大していったのです。
当初、富里・八街地帯に予定されていた空港建設地の敷地は、現行の成田空港予定地の2倍で滑走路も5本が予定されていました。三里塚地域への変更を行った際には滑走路は3本に減らされ「日本のハブ空港」計画は、最初から中途半端なものでした。
三里塚地域へ新空港の建設を決めたことで、全国から農労学一体となった空港反対闘争支援体制が組織されました。その結果、機動隊による国家暴力をはじめとした暴虐、騙し討ち、憲法違反の治安立法まで打ち出して、あらゆる攻撃・弾圧を浴びせてきたのですが、「三里塚」は屈しなかったのです。そして今日に至るまで約50年、半世紀にわたる反対闘争で5千人もの逮捕者、万を超える負傷者・死者を出していますが、反対闘争は「農地死守」の闘いとして全国の闘う現場に継承されています。
成田空港は現在、滑走路1本で運行されています。しかし都心から70キロも離れ「日本の玄関口」といわれながら、いまだ「未完成の空港」として世界中に知れ渡っています。当初から「場当たり的」な建設計画だったことから、2010年10月に羽田空港の国際線が本格的に再開された瞬間、一気に成田空港の地盤沈下が加速しています。
■ドキュメント映画の製作手法
もうひとつ『三里塚の夏』の視点として、この映画には従来にないドキュメント映画の製作手法が採り入れられています。その一つが映画を撮った小川プロのスタッフが三里塚に撮影拠点を設け住み込んで共同生活しながら、農民と生活をともにしていたということです。これまでドキュメント映画というのは、リアルタイムで動く社会現象を現場に立って断片的に撮影するといった手法が一般的でした。
しかし小川プロでは農民と生活をともにすることでキャメラを回す前から農民との間にコミュニケーションを作っており、長い時間をかけて人間関係を作り出したなかで、映画を撮る側からみて「いい方向になってきたとき、やっと一本の作品がクランクインできる」(カメラマン田村正毅氏談)という手法がとられています。そこには闘争現場に住み込むことの過酷さ、経費の面と様々な困難があるのでしょうが、一旦闘争現場に立ったとき、ほかのメディアでは撮れない緊密な場面が撮影されています。
また、この映画は16ミリのキャメラが用いられているのですが、同時録音のキャメラは高価で大型でした。大型ゆえに三脚などで固定して撮影することが前提となっていたのですが、小川プロが三里塚闘争を撮り始めた頃、ハンディタイプで同時録音できるキャメラが登場しました。このハンディタイプのキャメラを借り受けることで闘争現場はもとより、農民の会合など狭い場所でもキャメラを持ち込むことが出来たのです。
『三里塚の夏』を闘争現場で撮ったカメラマン田村正毅氏は語っています。「同時録音のキャメラは当時としては憧れでした…。立体感が違う、奥行きが出て画面に出ていないものの音が出てくると、その音に対する画面の反応がまさに目に見えてくるものだから…」(『小川伸介を語る』から)。
『日本解放戦線・三里塚の夏』は<三里塚シリーズ>の第一作として製作されました。小川伸介監督は「全部のショットを農民の列中から、その視座から撮り、権力の側から撮るにも正面からキャメラの存在をかけて、それとの対面で、すべてを撮った」と語っています。
その後、小川プロでは<三里塚シリーズ>として『三里塚の冬』『第二砦の人々』などを撮っていくのですが、やがて『辺田』や『ニッポン国古屋敷』など闘争現場とは離れた農民の声を聞き撮りしていく方向へと移行していきます。
■「第3世界」の位置
社研部で『日本解放戦線・三里塚の夏』を観た日から数日後、今度は社研部の副顧問である男性教師から「第3世界」のシンポジュウムへ誘われ、副顧問と私に学友2名の4名で参加しました。
藤田組学生重役が主催する『総合シンポジウム<第3世界>=第3世界・現代文明・われわれ=』と題したシンポジュウムが12月4日・5日の2日間、九段会館で開催されたのですが、私たちが参加したのは5日(木曜日)です。
「第3世界」というのは、一般的に欧米先進資本主義諸国を「第一世界」、社会主義諸国の「第二世界」に対してアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国をさす呼称とされていますが、語源的にはフランス革命時の「第三身分」に由来しています。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』のポスター

1968年に開催された「メキシコシティオリンピック」において、陸上競技で優勝したアフリカ系アメリカ人選手2名が表彰台で黒い手袋の拳を掲げた行為(ブラックパワー・サリュート)が、「第3世界」における黒人の立場に対する抗議として注目されメディアを通じて世界中に配信されました。この表彰台で黒い手袋の拳を掲げた黒人2名の姿はシンポジュウムのポスターに採用されており、背後に機動隊の盾が並んでいるというデザインは、シンポジュウムの主旨を象徴的に表していました(ポスター写真参照)。
シンポジュウムは2日にわたって「3部構成」となっていますが、初日のプログラムにはテーマに沿って【第1部】「第3世界の視点」、【第2部】「第3世界という空間」と進み、「日本の第3世界」と題して山谷解放委員会、成田空港設置阻止同盟、日大全学共闘会議などの名前が連なっていました。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』ポスター下部左(画面をクリックすると拡大)

私たちが参加した2日目には、世界的な学生運動をテーマとした「スチューデント・リボルトと第3世界」、また【第3部】では「現代文明批判」をテーマに「都市とは何か」「管理社会批判」などに、中島誠や羽仁五郎など当代きっての論客が登壇し独自の論説を展開していました。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』ポスター下部右

――1968年は私にとって、ともかく不思議な年でした。
自らの生活基盤である新聞配達店での<叛乱>をはじめ、学内でクラブ活動<社研部>に加入することで「安保問題」に向き合うことや日大全共闘の記録映画上映、その後、三里塚闘争の現場を知り<第3世界>の現実など、社会的現象の一面を目の当たりにすることが出来ました。それらの体験が、いますぐに私の思想性を飛躍させるということはありませんでしたが、自らの<内なる殻>を打ち破るきっかけとなったのは確かです。
60年代末、時代は世界史的に急速な変化を遂げており、地球規模の<地殻変動>が起きていました。ここで何ら関わることなく見過ごしていれば、この<地殻変動>を気にすることもなく日常の生活をゆったりと過ごしていたのでしょうが、翌69年、年明け早々から私を<地殻変動>の渦中に引きずり込む出来事が起きたのです。
そのことを契機に<激動の渦中>へ飛び込むことになったのですが、一旦<渦中>へ踏み込むと、そこには<社会・文化・芸術>に関する果てしなき魑魅魍魎の世界が待っておりまして、「上京間もない2年間の、あのたおやかで静かな世界は何だったのか…」と思われるような毎日を過ごすようになりました。そして代々木高校は、まさに<地殻変動>の渦中へと誘う<場>を与えてくれたのです。
12月7日。授業料3ヵ月分を納入。
12月10日。府中市で3億円事件発生。現金輸送車がニセの白バイ隊員によって奪われる。ミツマメ君にアリバイあり。
12月23日。冬休みを前に、国立代々木競技場へ社研部の皆とスケート。先輩のシゲさんはリンクの周囲を颯爽と滑っていました…。
⇒〔第5部〕了。
…え。まだ続きがあるの?
〔6回〕 『三里塚の夏』と「第3世界」
1968年、3学年の秋に催された『文化祭』が終わって半月を経た12月1日(日曜日)に、社研部の女性顧問からの誘いで成田空港建設反対闘争を記録したドキュメント映画『日本解放戦線・三里塚の夏』を観に行きました。
当日の午後1時過ぎに京浜東北線・王子駅に降り立つと、女性顧問と社研部メンバー5名が待っていました。上映会場へ向かう前に、全員で昼食をとったのですが「先生よりカツ丼」とのメモ。ワォーッ! 社研部に入るとカツ丼を奢ってもらえるんだァ!
1966年、政府は成田空港の建設地を農村地帯の千葉県・三里塚に一方的に決定します。その強引なやり方に怒った農民は反対同盟を結成し闘いを始めます。この闘いは、67年秋の「羽田闘争」を契機に全国的に拡大した大学闘争や労働者の闘いと結びつき、やがて「農労学」一体となった大闘争へと発展していきます。
68年、その闘争を小川プロダクション(小川伸介監督)が記録したドキュメント映画が『日本解放戦線・三里塚の夏』として公開されました。私たち社研部は封切り間もない映画を観たことになります。
――映画冒頭、闘争本部が置かれた農家の一室に集まった数名の農民。無線機から測量隊と機動隊の動向を報せる緊迫した映像が流れます。やがて農地を強制測量する白ヘルの係員をジュラルミンの盾を持った機動隊が周囲の農民を排除するように動くシーンへと変わります。そして測量現場で小川プロのカメラマンを排除しようとする機動隊や、闘争本部で議論する農民の姿などを丹念に映し出していきます。
映画の最終場面で農民が鍬や鎌を持ち上げて「我々は武装したぞぉ! 頑固闘うぞぉ!!」と何度も叫び上げるシーンは圧巻でした…46年前に観た『日本解放戦線・三里塚の夏』は、観客の誰をも「三里塚闘争」の現場に引きずり込む強烈なインパクトがありました。
■「三里塚闘争」の本質とは何か。
この映画には二つの視点があります。ひとつは農地を収奪される農民の怒りと闘い。もうひとつは、農民の初期の闘いを丹念に記録した小川プロのドキュメント映画の製作手法です。
成田空港の建設に反対する「三里塚闘争」は今年7月で49年目となりました。半世紀にわたる長い闘争となったのも、まずは「国策」といわれる理不尽な空港建設です。最初は千葉県富里・八街地帯に空港建設が予定されていたのですが、1千戸もの優良農家の立ち退きを諮らなければならず、結果的に農民の実力抵抗を含む激しい反対運動が起きて当初の計画は頓挫します。
本来ならば政府は空港建設を白紙に戻して出直すべきだったのでしょうが、場当たり的に三里塚地域への変更を行ったのです。その理由として、御料牧場と千葉県の所有する敷地が空港計画地の半数を占めていたことから「買収地が少ない」。また三里塚地域は富里・八街地帯に比べ「貧しい開拓農家が多く買収しやすい」という農民蔑視の判断があったからです。
さらに政府は計画から内定、閣議決定までを強行したのです。66年6月23日に新聞にリーク、7月4日に閣議決定するなどわずか12日間で三里塚地域へ新空港の建設を決めてしまったのです。地元の意向を全く無視して。これを暴挙といわずして何というのでしょうか。その背景には激化するベトナム戦争と無関係ではありませんでした。
何故なら新空港の滑走路は4千メートルが予定されており、この長大な滑走路は重爆撃機B52が離着陸するために必要な長さだったのです。すなわち、三里塚地域へ建設を予定した空港は戦争目的に使われることが明らかでした。そのことが単に「農民の土地が奪われる」といった私有地強奪から一歩踏み込んで、「反戦闘争」へと拡大していったのです。
当初、富里・八街地帯に予定されていた空港建設地の敷地は、現行の成田空港予定地の2倍で滑走路も5本が予定されていました。三里塚地域への変更を行った際には滑走路は3本に減らされ「日本のハブ空港」計画は、最初から中途半端なものでした。
三里塚地域へ新空港の建設を決めたことで、全国から農労学一体となった空港反対闘争支援体制が組織されました。その結果、機動隊による国家暴力をはじめとした暴虐、騙し討ち、憲法違反の治安立法まで打ち出して、あらゆる攻撃・弾圧を浴びせてきたのですが、「三里塚」は屈しなかったのです。そして今日に至るまで約50年、半世紀にわたる反対闘争で5千人もの逮捕者、万を超える負傷者・死者を出していますが、反対闘争は「農地死守」の闘いとして全国の闘う現場に継承されています。
成田空港は現在、滑走路1本で運行されています。しかし都心から70キロも離れ「日本の玄関口」といわれながら、いまだ「未完成の空港」として世界中に知れ渡っています。当初から「場当たり的」な建設計画だったことから、2010年10月に羽田空港の国際線が本格的に再開された瞬間、一気に成田空港の地盤沈下が加速しています。
■ドキュメント映画の製作手法
もうひとつ『三里塚の夏』の視点として、この映画には従来にないドキュメント映画の製作手法が採り入れられています。その一つが映画を撮った小川プロのスタッフが三里塚に撮影拠点を設け住み込んで共同生活しながら、農民と生活をともにしていたということです。これまでドキュメント映画というのは、リアルタイムで動く社会現象を現場に立って断片的に撮影するといった手法が一般的でした。
しかし小川プロでは農民と生活をともにすることでキャメラを回す前から農民との間にコミュニケーションを作っており、長い時間をかけて人間関係を作り出したなかで、映画を撮る側からみて「いい方向になってきたとき、やっと一本の作品がクランクインできる」(カメラマン田村正毅氏談)という手法がとられています。そこには闘争現場に住み込むことの過酷さ、経費の面と様々な困難があるのでしょうが、一旦闘争現場に立ったとき、ほかのメディアでは撮れない緊密な場面が撮影されています。
また、この映画は16ミリのキャメラが用いられているのですが、同時録音のキャメラは高価で大型でした。大型ゆえに三脚などで固定して撮影することが前提となっていたのですが、小川プロが三里塚闘争を撮り始めた頃、ハンディタイプで同時録音できるキャメラが登場しました。このハンディタイプのキャメラを借り受けることで闘争現場はもとより、農民の会合など狭い場所でもキャメラを持ち込むことが出来たのです。
『三里塚の夏』を闘争現場で撮ったカメラマン田村正毅氏は語っています。「同時録音のキャメラは当時としては憧れでした…。立体感が違う、奥行きが出て画面に出ていないものの音が出てくると、その音に対する画面の反応がまさに目に見えてくるものだから…」(『小川伸介を語る』から)。
『日本解放戦線・三里塚の夏』は<三里塚シリーズ>の第一作として製作されました。小川伸介監督は「全部のショットを農民の列中から、その視座から撮り、権力の側から撮るにも正面からキャメラの存在をかけて、それとの対面で、すべてを撮った」と語っています。
その後、小川プロでは<三里塚シリーズ>として『三里塚の冬』『第二砦の人々』などを撮っていくのですが、やがて『辺田』や『ニッポン国古屋敷』など闘争現場とは離れた農民の声を聞き撮りしていく方向へと移行していきます。
■「第3世界」の位置
社研部で『日本解放戦線・三里塚の夏』を観た日から数日後、今度は社研部の副顧問である男性教師から「第3世界」のシンポジュウムへ誘われ、副顧問と私に学友2名の4名で参加しました。
藤田組学生重役が主催する『総合シンポジウム<第3世界>=第3世界・現代文明・われわれ=』と題したシンポジュウムが12月4日・5日の2日間、九段会館で開催されたのですが、私たちが参加したのは5日(木曜日)です。
「第3世界」というのは、一般的に欧米先進資本主義諸国を「第一世界」、社会主義諸国の「第二世界」に対してアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国をさす呼称とされていますが、語源的にはフランス革命時の「第三身分」に由来しています。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』のポスター

1968年に開催された「メキシコシティオリンピック」において、陸上競技で優勝したアフリカ系アメリカ人選手2名が表彰台で黒い手袋の拳を掲げた行為(ブラックパワー・サリュート)が、「第3世界」における黒人の立場に対する抗議として注目されメディアを通じて世界中に配信されました。この表彰台で黒い手袋の拳を掲げた黒人2名の姿はシンポジュウムのポスターに採用されており、背後に機動隊の盾が並んでいるというデザインは、シンポジュウムの主旨を象徴的に表していました(ポスター写真参照)。
シンポジュウムは2日にわたって「3部構成」となっていますが、初日のプログラムにはテーマに沿って【第1部】「第3世界の視点」、【第2部】「第3世界という空間」と進み、「日本の第3世界」と題して山谷解放委員会、成田空港設置阻止同盟、日大全学共闘会議などの名前が連なっていました。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』ポスター下部左(画面をクリックすると拡大)

私たちが参加した2日目には、世界的な学生運動をテーマとした「スチューデント・リボルトと第3世界」、また【第3部】では「現代文明批判」をテーマに「都市とは何か」「管理社会批判」などに、中島誠や羽仁五郎など当代きっての論客が登壇し独自の論説を展開していました。
【写真】『総合シンポジウム<第3世界>』ポスター下部右

――1968年は私にとって、ともかく不思議な年でした。
自らの生活基盤である新聞配達店での<叛乱>をはじめ、学内でクラブ活動<社研部>に加入することで「安保問題」に向き合うことや日大全共闘の記録映画上映、その後、三里塚闘争の現場を知り<第3世界>の現実など、社会的現象の一面を目の当たりにすることが出来ました。それらの体験が、いますぐに私の思想性を飛躍させるということはありませんでしたが、自らの<内なる殻>を打ち破るきっかけとなったのは確かです。
60年代末、時代は世界史的に急速な変化を遂げており、地球規模の<地殻変動>が起きていました。ここで何ら関わることなく見過ごしていれば、この<地殻変動>を気にすることもなく日常の生活をゆったりと過ごしていたのでしょうが、翌69年、年明け早々から私を<地殻変動>の渦中に引きずり込む出来事が起きたのです。
そのことを契機に<激動の渦中>へ飛び込むことになったのですが、一旦<渦中>へ踏み込むと、そこには<社会・文化・芸術>に関する果てしなき魑魅魍魎の世界が待っておりまして、「上京間もない2年間の、あのたおやかで静かな世界は何だったのか…」と思われるような毎日を過ごすようになりました。そして代々木高校は、まさに<地殻変動>の渦中へと誘う<場>を与えてくれたのです。
12月7日。授業料3ヵ月分を納入。
12月10日。府中市で3億円事件発生。現金輸送車がニセの白バイ隊員によって奪われる。ミツマメ君にアリバイあり。
12月23日。冬休みを前に、国立代々木競技場へ社研部の皆とスケート。先輩のシゲさんはリンクの周囲を颯爽と滑っていました…。
⇒〔第5部〕了。
…え。まだ続きがあるの?