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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【8Ⅰ-06】 『ベトナムから遠く離れて』(その2)

2016年11月05日 00時32分03秒 | 第8部 夏から秋へ
<第1章> 『下北沢通信』 闘争の構図
〔第6回〕 『ベトナムから遠く離れて』(2)
〔2〕 開高健著『青い月曜日』

下北沢の夏、ジャズ喫茶『マサコ』。女子大生と二人でジンライムを味わっていたころ。。。。。。

――遥か太平洋を隔てた米国では、ロックを中心とした大規模な野外コンサート『ウッドストック・フェスティバル』が開催されていました。ニューヨーク州サリバン郡ベセルの広大な酪農農場を会場に30組以上のフォーク歌手やロック・グループなどが出演し、約40万人の観客を集めた大規模な野外コンサートです。
「広大な会場に40万人が一堂に集まるというのは、どのような感じなのだろう」ウッドストック・コンサートを新聞などで知ったとき、想像できませんでした。高校から映画鑑賞として観に行った『戦争と平和』(1967年=ソ連製作)のなかで、広大な丘陵地に両手に銃を持った兵士が横並びで広がり、何列にもなって平然と行軍していた情景を思い浮かべてみました。この闘いは1812年、ナポレオンのロシア遠征に伴う「ボロジノの戦い」だったのですが、映画には兵士役約12万人が動員され撮影されていたとか。

1969年8月15日から4日間にわたって開催されたこのコンサートの模様は、翌70年に『ウッドストック=愛と平和と音楽の3日間=』というドキュメンタリー映画として公開されたので、さっそく観に行きました。この映画で初めて画面いっぱいに、「40万人が一堂に集まる」ことの凄まじさを感じたものです。『戦争と平和』の画面に広がる12万人のエキストラ兵士には到底及ぶべきものではありません。

『ウッドストック』は3時間余の上映時間にも関わらず、そのコンサート会場の雰囲気に魅了されました。当時話題のフォーク歌手やロック・グループなどが画面いっぱいに熱演。ジョーン・バエズ、ジョン・セバスチャン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジェファーソン・エアプレインなど当代きっての演奏者に、画面を通じて迫力ある姿を目の当たりにすることができました。とりわけジャニス・ジョプリンの身体全体で擦れた歌声を絞り出す姿にウットリ~。
会期中、度重なる雨による中断のためプログラムが遅れてしまい最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリックスが登場したのは午前8時半頃でした。すでに帰った人もいて空地の目立つ会場で疲れ果てた聴衆を前に、ヘンドリックスが奏でるギターの音色は今日でも耳の底に残っています。

――ウッドストック・コンサートが催されていた時期。ベトナム戦争で米国の若者が大勢死傷しているなかで、この画面に登場する若者たちは米国人特有の明るくリズム感に満ちた姿しかみえない。このことに何か複雑な思いをしたのも確かです。

■ベトナム戦争へ米軍が本格参戦したのは、1965年2月の北ベトナム爆撃(北爆)から3月の南ベトナム・ダナンヘの海兵隊上陸に始まるといわれています。1975年3月末のサイゴン陥落により米軍が敗北することで10年にわたる戦争は終わったのですが、よくよく考えてみますと私が単身上京し10年余り東京で生活した時期と、この「ベトナム戦争10年間」の時期がちょうど重なるのですね。言い方を変えると、私が在京中の10年余は「ベトナム戦争」が戦われていた時期だったというわけです。
しかも、この「ベトナム戦争10年間」のなかに、「戦争反対」の運動が来たる「70年安保改定」に向けた反対運動と重なって、武装闘争を交えた<激動期>となって表われるわけです。日本政府が関わったベトナム戦争ゆえに日米安保条約の本質、さらに米軍統治下にある沖縄問題が交差します。

しかし、私たちは「ベトナム戦争」といっても、この戦争のことをどれだけ知っているのか。それは戦地の戦闘現場、前線のありようは勿論なのですが、何故、日本政府がベトナム戦争に関わり沖縄や日本国内に前進基地や野戦病院設置を許したのか。幾重にも絡み合った複雑な紐をひとつひとつ解していく作業が、私の「在京10年余」の世界だったような気がします。
当時、「複雑な紐を解す作業」を真正面に取組んでいたからこそ、今日、1990年代以降に始まった湾岸戦争をはじめとする中近東、その後の様々な地域で発生した一連の「戦争政策の本質」がよく見える、というものです。

■ベトナム戦争で米軍が敗北した理由はいろいろあるのでしょう。この戦争の最盛期だった1968年初頭には最大で54万人の米軍人が南ベトナム領土内に投入されていたのですが、北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線はソ連や中国による軍事支援をバックに地の利を生かしたゲリラ戦が展開され、米軍と南ベトナム軍・連合軍にとって戦況の好転は全くみられなかったわけです。その背景には、ソ連や中国などとの「冷戦構造」があったのでしょう。

一方で、戦争の激化とともに戦地から遠く離れている米本国に、テレビ報道やニュース映画によって多くの国民が戦闘の場面を目の当たりにする時代に入っていました。つまり、これまでは新聞や雑誌など写真を中心としたメディアから、映像を通じて戦場は「動く被写体」として紹介されてきたのです――兵士の息吹き小銃の狙撃音やロケット弾の爆発音、ベトナム農民の怯える姿など。
このことで戦争当事国の米国では、次第に反戦運動が高揚してきました。一方で、牧草に囲まれ平和な田舎に暮らしていた若者が徴兵制により、いきなり湿気で驟雨煙るジャングルの奥地に連れ込まれ、どこから現れるか分からないベトコン(南ベトナム解放民族戦線)に襲われるなどして米兵の士気の低下は顕著でした。

国内外の組織的・非組織的な反戦運動とテレビや新聞・雑誌などの各種マスメディアによる戦争反対の報道。さらに、除隊したベトナム帰還兵による反戦運動が盛り上がり、1967年には「ベトナム反戦帰還兵の会」が結成され、最盛期には3万人以上が組織化されて負傷兵を中心とした運動が広がっています。――なお、この反戦運動によってベトナム戦争終結後、米国の「徴兵制」は廃止されています。

■この戦争で米国は「報道の自由」を前提に、テレビをはじめ新聞・雑誌などの各種マスメディアの記者を自由に受け入れていました。たとえフリーの記者や写真家でも「自己責任」(死傷することの責任は自分で負う)で希望の前線へ、ヘリコプターで搬送してもらうことができました。しかも担当将校からのブリーフィングが受けられ当日の作戦計画および作戦行動を事前に知ることができたのです。携帯糧食付で。

結果的に戦地前線の模様が広く報道されたので様々な記事や写真によって、世界の人々にベトナム戦争の実態が知れ渡りました。しかし、このことは敵側つまり北ベトナム側に戦略の全容が知られることとなって、米軍敗北を招いたとの指摘があります。
その後、湾岸戦争以降の米軍作戦による戦争では極端な報道規制を行っており、詳細な戦地の情報がメディアに載ることはありませんでした。それはベトナム戦争での「報道の自由」政策の反省に基づいたものでしょう。

私たちがベトナム戦争の現場を知ることができたのは、米国の写真雑誌『LIFE』だったのではないでしょうか。ライフ誌はカメラマンを専属的な所属とすることで、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させたフォト・エッセイを提供していました。
米軍の野営地や塹壕掘りの米兵の様子、従軍兵士の行動では銃撃をうけ怯える表情などがリアルに捉えられていました。しかし銃撃で負傷した兵士がヘリコプターを待つあいだに点滴器を掲げる同僚の兵士などが掲載された誌面をみるにつけ、「ベトコンや北ベトナム正規軍の写真は一枚もないじゃないか」と米軍側の一方的な報道に疑念をもったものです。

このことは写真雑誌『LIFE』に限らず、当時の「ベトナム戦争」を報じるメディアは総て南ベトナムに駐留する米軍の立場からみた戦争だったわけです。誰も北ベトナムへ入って報道しようとしない。北爆を受けた住民の姿が現われてこないし、北ベトナム兵士の行動がみえないのです。

■作家・開高健は、ベトナム戦争が本格化する前の1964年に新聞社の臨時特派員としてベトナムへ向かい、サイゴンのホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線の戦況をレポートしています。帰国後、従軍体験をもとに『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』など「ベトナム戦争3部作」を発表しています。

開高健は大学時代から同人誌に作品を発表していましたが、壽屋宣伝部(現:サントリー)に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピーを手がけ、この時代に小説『裸の王様』で芥川賞を受賞しています。
ベトナムから帰国後、小田実らと「ベ平連」(ベトナムに平和を市民連合)に加入して反戦運動をおこなっていますが、その後、新聞社の企画でブラジルのアマゾン川など世界中に釣行して様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品が目立ちます。

私は開高健の初期の作品から一通り読んでいますが、初期の作品には硬さが目立ちます。しかし、ベトナムから帰国後の作品には人間洞察に深みが表われてきたと感じました。なかでも小説『青い月曜日』は彼自身の少年時代と青年時代の体験をベースに、戦中戦後の暗く活力みなぎる時代に青春を生きたことで「少年の自己形成、魂の彷徨、青春なるもののあらゆる陰影」(解説)を表現しています。



開高自身は本書「あとがき」のなかで、「この作品に着手したのは昭和39年(1964年)の秋頃だった――」と書き出し、「その頃『文學界』に『青い月曜日』の連載を約束していたのだが、11月から新聞社とのベトナムへのルポ取材が予定されており、約束の5回分を渡していた」そうです。しかし、ベトナムから帰国後「…作品に戻ることはひどい苦痛であった。ある苛烈な見聞と経験のために内心の音楽が一変してしまって、弾きやめた時点の心にもどって弾きつづけることができなくなってしまったのである」と述べています。

その前提として、開高健は芥川賞を受賞後、「…自身の内心によりそって作品を書くことはするまいと決心していた。(中略)…だからこの『青い月曜日』という長編で私は求心力をつかんで、ずっと心に振り返るまいと心に強いてきた自分の内心にはじめて立向かってみようと考えたのである。蕩児の帰宅、といってもよかった」  (⇒以下、次回)

蕩児の帰宅(※蕩児=放蕩息子)
親元を離れ放縦な生活を送っていた息子が父の元に舞い戻ったが、父は息子を歓迎したという。父を神に仮託し、神の度量の広さを伝える話。(出典:新約聖書「ルカによる福音書」)




ミツマメ王子の独り言
●10月に入って探していた本を古本屋でみつけて読むのに夢中になっていたら、あらら~11月になってしまいました。本欄を書いている内容は<夏>なのに、ここ数日、冷え込みが厳しくなっており<秋>本番です。
●この週末から上京するので、何とか本欄「ベトナム戦争・編」を書き上げておこうと思っていたら、どうもまとまりそうもない。次回に後編を書かざるを得ませんねぇ。

●さて、東京での久々の自由な時間をどのように過ごそうかな。新宿署の刑事「新宿鮫」に会うにはどこへ行けばよいのかね。歌舞伎町かな。裏路地には「深夜食堂」があるらしいので、マスターに会えるかな。AKB48に握手してもらいたいのだが、「人相の悪いオジサンはお断り」と言われるのがオチ。
●まぁね。東北から上京したときの原点である上野界隈をぶらつくのが無難だな。まずは「国立科学博物館」へ。東京のオナゴは怖いので話かけられたら、逃げ出そう…ゴニョゴニョ~。

コメント
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