〔第1回〕 岡崎京子『ヘルタースケルター』
――オフィスビル7階の狭い給湯室。一組の男女がなにか話しています…。
「キミのうなじのホクロ、かわいいね…週末に二人で温泉いかない?」しばらく間があって、「うふ。…いいわよ」。。。。な~んて期待されるような話じゃなくてサ。その実――。
「…っていうかさぁ~。あれ、実際には終わってないんだよねぇ~。3巻じゃ終わらないしぃ~続きがあるんだと思うわけサ…きっと。探してきてくんないかなぁ~4巻が見つかったら、まず、わたしの所へもってきて下さいよ! きっとですよ~ミツマメ部ちょうぅ~」むむ。なんというタメ口! 女子社員が部ちょうぅ~という上司に向かっていう言葉づかいかいな。しかしだな、3巻だの4巻だのと何の話かいな…?
フム。女子社員が上司に向かってタメ口使うのは、きっとあれだね。つまりだね、上司の弱みを何か握っているとかさ。ふふ~いまはやりのフリンかな。いやいや、それとも街ゆく女性の深~いムネの渓谷に見とれていたのを見つかったとかさ…ひひ。ん。ミツマメ部ちょうぅなら、あり得る。――イヤ、まてよ。ミツマメ部ちょうぅは日頃から【品行方正・人畜無害】を標榜して長年、地道に生きてきたんだからね。そんな女子社員に弱みを握られるような行為はありえない…はず。自信もって言えないけど。
そこへもう一人の女子社員が現われました。「ミツマメ部ちょうぅ~ここにいらしたんですかぁ~。お二人は何の話で盛り上がっているの? こないだお借りしていたマンガ、机の上に置いておきましたからね。ありがとうございました」ななんと、マンガとな~。
自分の机に戻ると確かに小さな紙袋が置かれ、その中に数冊のマンガ本と数個のお菓子が入っていました。「どれどれ。今度はどんなマンガだろうか…」え?仕事中でしょう…なのに女子社員が置いていったマンガ本の中身を気にするなんて。
――そもそもコトの発端は。数年前、沢尻エリカ主演の映画『ヘルタースケルター』が話題になっていた頃、ひとりの女子社員に何気なく「ボク、『ヘルタースケルター』の原作マンガ、もってるよ。読むなら貸すけど」といった一言から始まりました。その女子社員が「読むぅ読むぅ~貸して下さい!」というわけで、さっそく岡崎京子作『ヘルタースケルター』を貸しました。
するとその女子社員が読み終え同僚に貸して、まわり回って数人の女子社員が回し読みしたというわけ。それで終わればよいのですが、「ミツマメ部ちょうぅ~『ヘルタースケルター』をお借りしたお返しですぅ」といって、女子社員各自がもっている数冊の少女マンガを貸してくれましてね。そこで、ボクが改めて「借りたお返しに」といって自分の部屋に重なっている少女マンガ系の数冊を彼女らに貸す。
やがて4~5名の女子社員が各自2~3冊づつマンガを貸してくれるという展開となりまして、いつの間にか十数冊のマンガが常に手許に残るわけ。それも総て少女マンガ系ばかり。いわば『わらしべ長者』を地でいくような事態となりました。ギョエ~。だってマンガ一冊読むのって、あんがい時間とエネルギーを要するのですよぉ。それが十数冊…地獄だよね。
――そんな経緯を経ましてね。先ほどの狭い給湯室での会話に戻るわけです。。。「3巻じゃ終わらない。続きがあるんだと思うわけ。探してきてくんないかなぁ」とタメ口女子社員が話していたのは、ボクが貸した逢坂みえこ作『火消し屋小町』に「続編がある!」との断定で、追求されているのです。

『火消し屋小町』は、短大を卒業したばかりの21歳女子が「冷暖房完備で紫外線ゼロのオフィスで軽くお仕事」していたはずなのに、何故か体張って「軽くお仕事」とは真逆な某消防学校で半年間の基礎を学び、やがて消防署に配属され消火活動の現場で汗臭く悪戦苦闘するという物語です。2000年4月に初版発行されていますが、ボクが手に入れたのは04年頃かな。この物語、テレビでドラマ化されています。
全3巻をタメ口女子社員に貸したのに、彼女は「3巻の終わり方が不自然です。絶対に4巻がある!」といって譲りません。困ったものだ。そこで中古本のチェーン書店や新刊書店を探しまわってみたのですが見つからない。絶版となったのかもしれません。そのことを彼女に報告しても許してくれないのです。。。この手のオナゴの攻略法、教えて下さい…トホ。
■なんちゃって管理職
女子社員とマンガ本の借り貸しをしていても、彼女たちにしてみれば「なんちゃって管理職」のオジ様(ボクのこと)が、「少女マンガを読んでいる!」ということに興味がわく存在なのですが、ミツマメ部ちょうぅに借りたマンガが読めるだけで「何故、オジ様が少女マンガを読むのか」といったことは一切、詮索しません。
それでも言い訳がましく「若いときから『別冊マーガレット』などを読んでいたんだよね~」なんて話から陸奥A子や大島弓子、一条ゆかり(有名なスト●ッパー「一条さゆり」とよく間違えます)などの漫画家名を列挙して女子社員と会話が始まる、というわけさ。でも、何しろ管理職ですからね。部下を管理・統率するという役目はあるのでしょうが、その実、どうもそういうわけではないようで。ふむ。
管理職というのは社内である種の特権を与えられているわけで、その象徴的なものが椅子。一般社員と異なり一回り大きく肘付き。でもこの椅子が問題でね。
机の背後、壁に沿ってキャビネットが並んでいるので、ついメンドーで椅子に座ったまま後ろを向いて書類を取り出すわけです。ある時、足を浮かせて椅子を回したらゆる~くまわって半回転したわけ。…そのとき、頭のなかで「ぴっ!」と電球が点った感触がありましてね。そこで電球が点らなければよかったのですが――。
ある日、周囲に社員がいないことを見計らって椅子を一回転することにしました。これは冒険です。誰かに見つかっては大変。何を言われるかわかりません。
遠くにいる女子社員の動向を見計らって誰もこちらを見てないのを何度も確認して、足を蹴って浮かせ一気に回転。「お。やったぜ!」と思ったのもつかの間。一回転して元の姿勢に戻ったとき、女子社員が側にひとり立っているではないですか!「ななんでキミ、そこにいるの?」と聞きたいくらい。
でも、その女子社員は睨みつけるように「部ちょうぅ。何してんですか…ちゃんと仕事して下さいよ!」だって。そこで慌てて「いあや~キミ。それはだね。ガリレオ・ガリレイが宗教裁判で『それでも地球は動いている』といったことをだね、ボクなりにイスで証明しようと…」と言おうとしたのですが言葉にならず、彼女は踵を返してサッサと行ってしまいました――その女子社員がいわずと知れた、あのタメ口女子社員というわけさ。まったくね。部下に管理されているのが、管理職みたい。
■全身を美容整形手術で保っているファッションモデル
ところで、女子社員とマンガ本の借り貸しを行うキッカケとなった『ヘルタースケルター』ですが、この作品は人気のモデル「りりこ」を主人公にファッションモデルの世界を描いたものです。岡崎京子が20年ほど前に発表した作品ですが、その直後、彼女は交通事故に遭って重体に。長い闘病生活を続けており、現在もリハビリ途上にあって新しい作品は発表されていません。

りりこはファッション業界の人気モデルでしたが、大きな秘密を抱えていました。それは、アソコ(性器)と脳ミソ・眼球以外を顔から腕肢に至るまでの全身を美容整形手術で保っているという、いわば「人工身体」で身を包んでいました。確かに、その美貌でトップスターになったのですが、整形手術に伴う薬の激しい副作用とストレスに蝕まれていきます。
ある日、鏡に映った自分の顔の一部、額のところの皮膚に亀裂が走って「いやあああああ~~」と叫ぶところから物語が始まるのですが…。
映画公開当時、なにかと話題の多かった女優・沢尻エリカが主演するというので、映画そのものへの関心に高いものがありました。ユーチューブで予告編を観ただけで映画本編は観ていません。映画を観ないのは、この作品はマンガとはいえ原作がモノトーンのストーリィ性と、りりこの全身整形手術の秘密を抱えた生き方は「マンガによる岡崎京子独自の世界を壊したくない」といった思いが強かったからです。予告編を観る限り、実写による色彩と官能の世界を描写した映像美と役を演じる主役・脇役俳優の個性を感じたのですが、やはりマンガ独自の世界の方が勝っていると感じました。りりこの「作られた美貌」と虚飾に満ちたトップモデルならの苦悩、その内面性の描写は原作のもつ力強さに改めて魅力を感じました。
この『ヘルタースケルター』は、美容整形手術を重ねる主人公・りりこが自らを「商品」として、つまり「売り物である」ことを知ったうえでファッション業界の人気モデルの地位を無くすことの恐怖が背景として描かれています。
この「自らを商品」として、その商品価値を高めるためにも美容整形が行われるのですが、岡崎京子はマンガ業界のなかに初めて<美容整形地獄>がもつ異常性と社会性を、作品のなかに織り込み突き放してみせたのです。この物語の題名『ヘルタースケルター』は、ビートルズの曲「ヘルター・スケルター」をシンボリックに扱ったことに興味深く感じます。
■岡崎京子という漫画家
岡崎京子は1963年生まれで現在53歳。彼女の「作品年表」をみると1983年、20歳のときから作品を発表し始め、1980年代から1990年代にかけて時代を代表する漫画家として知られるようになっています。岡崎作品の特徴は映画をはじめ小説、音楽、現代思想書などからの引用が多く、マンガのストーリィ性に深みを与えています。
しかし、作家活動の頂点にあった1996年、『ヘルタースケルター』の連載が終わって間もない頃、散歩中に交通事故に遭って重傷を負い現在も療養中ですが、漫画家として最も脂の乗りきった33歳で実質的な作家活動が中断されたわけです。それでも休筆後も才能を惜しむファンの声は多く、過去の作品が断続的に復刊されています。
岡崎作品で93年に発表された『リバーズ・エッジ』には<死体愛>といった、彼女独自のテーマが隠されていて興味をもちました。

舞台は河の側に建つ高校。物語の冒頭部分で主人公・若草ハルナは男の子から、「自分が大切にしている宝物を見せる」と言われて夜、二人でセイタカアワダチソウが生い茂る河原の奥に放置された死体を見に行きます。死体を前に男の子は「去年の秋ごろみつけたんだ。その頃はまだ肉がついていたよ」そして、「何か、この死体をみるとほっとするんだ。…勇気が出るんだ」と語ります。
やがてハルナは、死体を前にして「…でも、やっぱ実感がわかない。…もしかしてもうあたしはすでに死んでて、でもそれを知らずにいきてんのかなぁと思った」という語りから物語は動き始めるのです。
岡崎京子は『リバーズ・エッジ』の「あとがきにかえて」で次のように述べています。
「…彼らはそんな場所で出逢う。彼らは事故のように出逢う。偶発的な事故として。あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければならない子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼らは別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ」そして、最後に「…平坦な戦場で僕らが生き延びること」と結びます。
――戦後、新たな文化の担い手として登場した「漫画」が、<マンガ>へと転じたのが1960年代。
今日では文学(小説)、映画と並ぶ「マンガ文化」は若者の読者を中心に大きな変貌を遂げています。見方によっては<マンガ>の描く世界が「非日常の世界」なのか、世の中が<マンガ的>に動いているのか分かりませんが、今日の「マンガ文化」は社会の様々な現象を投影する鏡のように映っています。
さてさて。次回から、ボクを取巻く<マンガ的>世界にご案内しましょう。
(⇒この項、気まぐれに続く)