都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

《序-1》耐え忍ぶさきの<幸せ>か。

2024年08月11日 11時28分57秒 | 第10部 都会の旅人
〔最終章-序〕山のあなたの空遠く――

《序-1》耐え忍ぶさきの<幸せ>か。

夏だよなぁ。――そのような思いを抱いたのは、住宅街の路地を独り歩きながら青空に浮かぶ白い雲を見上げたときです。梅雨明けからこの半月余り全国的に猛暑が続き、私の棲む地域も連日35度を超える<酷暑>が続いています。

背中に強い陽射しを浴びて歩く先に自分の影を見つめながら、日頃は感じない自分の足音が「なつだ、なつだ」と響きたつ。思えば厳冬の外出は厚手の衣服をまとえば寒さを凌げるのだが、<夏>というヤツは一歩外へ出ると、その暑さとは<自分の肉体>とまともに格闘せざるを得ないことに気づく。それは人間の体温を一定に保つため発汗作用が伴い、外気温と発汗作用との必然的な闘いとなる。
ただ若い頃は外での作業が多かったことから夏の暑さに対しては自然、発汗作用を抑える体調管理ができあがっているからなのか、現在でも<酷暑>が続いても不思議と大汗はかかない。――ただね。<夏>とはいっても暦の上では<立秋>を迎え、少しずつ日照時間が落ちてきて秋の気配が。

そのような<酷暑>徘徊型歩行を続けていると、ある日、老体頭脳に飛来するのは「8月5日」の日付だけ。「はて?なんの日だべな」と思いながら青空に浮かぶ白雲に尋ねても答えてくれない。「そうだよな。オマエはただ宇宙の片隅の景色にしか過ぎないのだから」とマスクのなかでブツブツ呟いて思い出したのは、「代々木高校4学年の夏に千葉勝浦の臨海学校」へ行ったこと。いまから55年も昔のことだが「あれは確か8月3日から3日間だから、5日は帰ってきた日か」そんな日付まで我ながらよく覚えている、ぞな。そこではたと気づいた、ラジオのこと。
――数日前の5日の朝、ラジオの『きょうは何の日』というコーナーで「1962年、マリリン・モンローが自殺。36歳でした」とアナウンサーの声。マリリン・モンローが亡くなったのが36歳か、早いなぁ~との思いと、代々木高校入学時の自己紹介でE君が「マリリン・モンローのファン」であることを切実に訴えたことに「面白いことをいうヤツだな」と思ったことなどが、連鎖的に思い出されたのです。

それでマリリン・モンローが登場した映画の場面の幾つかを思い浮かべると、彼女はセクシャルな容姿への注目が大きかったのだが、スクリーンでの演技は他者では真似できない表情や仕草が印象に残る。それは、溝口健二監督の映画『祇園囃子』(1953年作)で茶屋の女将を演じた浪花千栄子が、和服姿で座ったまま一人カメラに向かって台詞を語るときの眼の動き、片手で襟元を軽く抑える細やかな仕草のなかに演じる人物の内面を表現しようとする姿勢。和洋映画の違いはあってもマリリン・モンローの映画人としては浪花千栄子に匹敵するものがありました。それは二人の俳優には長い下積み時代があったからでしょう。

■山のあなたの空遠く<幸>住むと人のいふ。
――当欄も終盤を迎え〔最終章〕の標題を『山のあなたの空遠く――』としました。この標題の原本はドイツの詩人カール・ブッセによる<詩>。これを上田敏が翻訳したことで誰もが一度は口ずさむ『山のあなた』と題する<詩>の冒頭部分の後半を略すというより、ボカした感じとなります。まず、上田敏の詩訳全体をみてみましょう。

山のあなたの空遠く 
<幸>住むと人のいふ。
噫、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
<幸>住むと人のいふ。

この<詩>『山のあなた』は、私が1968年から記入を始めた『三年連用自由日記<幾歳月>』の裏表紙に掲載された『世界名詩集』のひとつとして愛唱していたものです。この名詩集のなかには以前、当欄でも紹介したロバート・ブラウニング『春の朝』の冒頭、「時は春、日は朝(あした)、朝は七時――」で有名な詩が掲載されています。今回、改めて詩集を開いてみると『山のあなた』と『春の朝』の二つは、ともに上田敏が翻訳しているのに気づきました。
『山のあなた』のテーマは<幸せ>でしょうか。現代文として訳すと「山の向こうに<幸せ>が住んでいると言うから」「ひとと探しに言ったものの見つからず、涙ぐんで帰ってきてしまった」「それでもなお、山のもっと向こうに<幸せ>が住んでいると人は言う」と三段に分けることができます。冒頭に「山のあなた」との表現が面白い。通常、「山の彼方」とするべきを「あなた」と擬人化している。

私が〔最終章〕の標題を『山のあなたの空遠く――』としたのも、続く「<幸>住むと人のいふ」ことより、むしろ二段目の「噫、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ」の箇所に興味があるのです。――それというのも現代社会が、私たちの若い頃から50年余を経て何ごとも製品は増え利便性に富んで確かに生活が豊かになっています。しかし一方で50年余前に比べると何故か現代社会からの疎外を感じてしまう。1970年以降の大量生産・大量消費時代の大きなウネリは低減したとはいえ、今日では専門性で多様化した個人向け商品の個別・多品種生産にシフトしているようです。

■21世紀を前にした1990年代末に、これまでの固定電話に対し個人向け携帯電話が登場しました。それは小型コンピューター(パソコン)の登場と時を同じくして、情報産業の革新的な技術力飛躍と販売戦略のたまものでしょうか、その後の20年で世界の人々の大半が片手にケイタイを持ち歩くようになっています。
携帯電話が登場し始めた当時、業界紙記者として不動産住宅関連の企業や製品の取材を重ねていましたが、あるとき営業セミナーに参加した際に講師のひとりが「いま、<iモード>という携帯電話が登場しています。ここでいう<i>アイとは自分、すなわち<個>を指します。これからの時代は<個>の時代なのです」と高らかに発言したとき、「なるほど<個>の時代か」とは思ったのですが、その後の10年余りで携帯電話は勿論パソコンなどは<個>すなわち個人が所有するだけでなく、携帯電話という通信機器にパソコンをはじめあらゆるアプリが組み込まれるようになってしまいました。つまり自分独りで膨大な情報の取得や発信が可能となったのです。

あれから四分の一世紀・25年が経過して、最近では携帯電話を「ケイタイ」と呼びますし個人間の通信も会話ではなくSNSなどですませます。でもケイタイを所持しパソコンを家庭に設置しノート型を持ち歩いたからと言って「嗚呼、幸せ」と思っている人いるのかな。一方で、この新たな通信手段が円滑に機能しているうちはいいのでしょうが、グループで活用することや交流サイトにアクセスしたために思わぬ災難に会うケースが増えているようです。

この数年、若い方の結婚が少なくなったと聞くのですが、ケイタイなどの通信機器を手にして男女間の交際は深まるのでしょうが、いざ結婚となると冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの電化製品からソファ、ベッドなど住宅設備一式を揃えるとなると高額な資金を要します。ただ以前に比べ家具類を揃える家庭も少なくなっているようですが、新婚生活を始めるには生活必需品に埋もれた生活を維持するには賃貸家賃以上にハードルが高い。ましてや子供が誕生し育てるとなると経済的な負荷は底知れない。自然、結婚から遠のくよなぁ。
――まぁこのようにケイタイから住設機器まで物質的なものに囲まれた家庭、現代社会のなかで<幸せ>若しくは<幸福>というものを考えたとき、現状に不満や不安を抱いて「山の向こうに<幸せ>がある」と言われても、「そこにある<幸せ>とは何かな」と考えてしまう。

■ひとは<幸せ>という概念を何歳ごろから考えるようになるのだろうか。永山則夫を引き合いに出すまでもなく兄弟が多いなかでの極貧生活を長年続け、中学卒業とともに集団就職の先に「生活の自由、幸福のかたち」を求めることを誰も止めない。しかしその夢想する「生活の自由、幸福かたち」を得るためには何らかの努力なり工夫や忍従、それに目標を達成するための時間を要するものだが。――私の幼い頃、家は必ずしも貧しくはなかったが家庭団欒には程遠く、だからといって「幸せになりたい」とか「幸福でありたい」などという概念は全くなかったね。

両親の離婚に伴い親戚の家に預けられたのだが、自分が<不幸>だとは思わないものの遊び仲間の少年たちの家庭とは異なる歪な環境であることの認識はあった。だがここから抜け出す手段はない。やがて父親の再婚に伴い東北の片田舎での新たな家庭に入るのだが、ここで初めて<忍従>の世界を知る。まさに自分を生かすためには「耐え忍ぶ」ことが求められた。
しかも5年間の「耐え忍ぶ」世界を脱したからといって、中卒後の先には東京での新聞配達店住込み生活という新たな「耐え忍ぶ」世界が待っていたわけ。でも私は狂うこともなく凶暴になることもないし誰を恨むこともない。何故なら私には<空想>という「壮大な宇宙」を所持していたからね。――ある意味<幸せ>なヤツなのさ。(この項、続く)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする