中国の件はさておき、旅行記の続き。
今日は米国の枯葉剤攻撃からゴム園を守ったフランス人の話。
カット・ティエン国立公園の帰り道。
サイゴン-ダラット間を結ぶ長い国道に出るまでの間の23km、周囲はゴムやコーヒー、コショウなどのプランテーションだらけとなる。
このあたりの地域はもともとはジャングルだったが、1960年代の北ベトナム侵攻での内戦と、
1970年代のベトナム戦争での枯葉剤の影響を受けて、大きく疲弊していた土地だ。
市場開放化と私有財産の保持を認めたドイモイ政策以降、この疲弊したジャングルを割り当てられた農民が、次々とゴム畑にしているそうだ。
最近はベトナムでは普通に稲作を行うより、ゴムを育てたほうが高い収入が得られるという。
高い収入、と言っても、ベトナムにおける高い収入に過ぎない。
年間で、一ヘクタール(100m*100mの土地)あたり2000-3000USD(約17-25万円)が相場。
ベトナム人は最大で5ヘクタールしか持っていないので、稼げても年間100万円というところ。
それでもベトナムでは金持ちとなる。
ゴムの木はこんな風に傷をつけて、ラテックスの白い樹液がおわんに流れてくるようにする。
労働力のかかる稲作と異なり、1-2ヘクタールにたった1人見張りで十分だ。
コストはほとんどかからない。
この容器がついた樹が並んでいる様子は、なかなか壮観だ。
ゴムの木は大体7年くらい育てば収穫が出来るようになるという。
樹液の量は樹が大きくなるほど多くなり、50年近くは樹液を出し続けるという。
このゴム園は始まって10年くらいというところか。
ドイモイ政策が浸透したのは1990年ころだし、米国の枯葉剤などの被害を大きく受けた地域あったこともあり、
ベトナム人が所有しているゴム園だと、だいたい始まって10年-15年が相場。
ところが、中には樹齢50年ほどのゴムの樹が生い茂っているゴム園がいくつかあった。
50年といったら、ベトナム戦争の前の戦争、北ベトナムの共産党がこの地域に下りてきた内紛をも免れたってことだ。
ガイドに聞くと、旧宗主国だったフランスから来たフランス人たちが持っていたゴム園だったという。
どうやって、彼らは北ベトナムの共産党にも奪われず、米国の攻撃をも免れたんだろうか?
ガイドによると、答えは交渉と金だったという。
共産党に対しては、ちゃんと税金を払うことで、土地私有権を手放さないで済むように交渉していた。
そして、南ベトナム軍と米軍には、事前にこの土地を何があっても攻撃しないようにと賄賂を渡していたらしい。
(おそらくガイド氏はかつてはこのあたりの通訳をやっていたことだろう)
政治的にはどっちにも組することも無く、ただただ自分の財産を守るために状況に応じて税金を払い、賄賂を贈る。
その結果、ベトナムの一部の土地が枯葉剤の被害を受けずに守られた。
そうやって本国フランスに帰る事も無く、ベトナムのゴム園で着実にお金を稼ぐフランス人。
今のフランス人は知らないが、帝国主義時代に植民地に来ていたフランス人にはこういう発想の人間は多かったんだろう。
ただ自身の財産のために、自分の規律に従って行動。
ある意味で、徹底した個人主義であり、気持ちが良い。
もっともこの個人主義での植民地支配が、前四半世紀の各国の悲劇を生んでいたともいえる。
植民地独立後に内戦が起こった割合は旧フランス植民地の方が旧イギリス植民地より圧倒的に高いといわれる。
良い悪いはともかく、イギリス人は教育、政治さまざまな面で組織や仕組みを埋め込んでいったが、
フランス人は個人の裁量に任せていたところが多かったから、組織や仕組みが整わなかった、ということはよく言われる。
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これだけのゴムの木があると圧巻ですね。
稲作の方が効率よく儲かるのかな(ベトナムでは)と思っていましたが…なるほどそうなんですね。
さらにその隣は胡椒とコーヒー・・・
稲作は労働集約産業でコストがかかる上、共産圏ならではの非効率さがあって、出荷時の価格をなかなか上げられないため、儲からないということのようですね。
フランス人はmeanだと言います。フランス人の個人主義が利己的だったり意地悪に映るのかも知れません。歴史の古い国の人たちで人はよくないでしょう。京都人がそうであるように。