今日で国立大2次試験の前期が終了。まだ後期試験が残っている人も、センターから試験続きだったのがひと段落、というところではないだろうか。
受験生と関係者の皆様はお疲れ様でした。
頑張ってる受験生をさしおいて、大学入試の時期になると「日本の大学入試制度はおかしい」という議論が毎年噴出する。
こんなカンニング事件が発生したりすると、それを燃料に議論は燃える。
京大入試問題、試験中に質問サイトへ投稿、受験生か-日経新聞
そもそも日本の大学入試というのは本当に「おかしい」のだろうか。何が論点なのかをちょっと考えてみたい。
日本の大学入試は間違っているのか
「日本の大学入試が間違っている」という論の多くは、次の3点に尽きると思われる。
1) 今日本が必要としてるのは、グローバルなリーダーとか起業家とかである。一回限りの筆記のみの学力試験でそういうポテンシャルを持った学生を採用できるわけがなく、試験が出来る学生しか取れるのみで意味がない
2) 小学校から高校までの教育がこの一回限りの学力試験で成功することを目的に設計されており、子供の多様な可能性を伸ばす教育が出来ないという悪影響を与えている
3) このような筆記のみの学力試験で入試選抜をしている国は世界でもまれ。「世界でも非常識」である
そしてこれらを解決する方法として、小論文と面接など基調とし、個人の能力を丁寧に判定する試験に変えることを提案する意見が多い。これは本当だろうか。
大学の選抜方法が筆記で一発の国は日本だけではない
まず答えやすい3)から行くと、良いかどうかはともかくとして、日本と同様の試験一発の大学入試制度を採用している国はたくさんある。いわゆる「小論文や面接」を基調としてるのは、米国の私立トップスクールとその制度をならった一部国だけだということは頭にとめておきたい。
フランスではバカロレア(Baccalaureat)、ドイツもアビトゥーア(Abitur)という共通の高校卒業試験があり、これで行ける大学が決まる。専門によって受ける試験の種類が違い、一部に口頭試問を含むが基本は筆記である。(仏グランセコールは別で、別途試験がある。)これらは、日本の大学受験のように「滑り止め」はなく、たった一回の試験で進学できる大学が決まる、という意味で日本の入試以上に厳しいと言える。
中国は科挙の国であり、かつては筆記試験だけで人生全てが決まる国だった。その凄まじさと悲哀は浅田次郎の小説「蒼穹の昴」に詳しいから一読すると面白いかも。現在でも「全国高等院校招生統一考試(「高考」)」というセンター試験一発で、行ける大学が決まり、それで将来の就職先も決まるという意味で日本より厳しい。
以上、日本以上に筆記一発で大学入学が決まる国はたくさんあるというお話でした。
米国トップスクール型の大学入試をうまくやるには仕組みと手間とコストが必要
各国がこういう入試制度を活用するには理由がある。
ヨーロッパでは、教養のある人間が大学まで終わらせるのは当然だから、わざわざ面接などにコストをかける必要がないという思想が根底にある。その代わり大学院では小論文や面接などで人物を重視するコストをかけた入試が行われる。入試のコストと、そこからのリターンを考えろ、ということなのだ。
一方日本は長いこと、国力を上げるために大企業組織で機能する人材を育てるのが大学の目的だった。だから、出来るだけコストをかけずに筆記が出来る人材をとる今までの入試制度は正しかった。それがいま、組織を出て起業したり、グローバルに活躍する人材が求められており、現行の入試制度だと、そういう人材を落としてしまうのでは、というところが問題になっている。
仮に大学が「将来成功する起業家になる人」を選びたいなら、たとえば英Virginグループの総帥、リチャード・ブランソンは難読症で、おそらく東大や京大のような「読ませる」入試には通らないだろう。学校の成績が総じて悪かったAppleのSteve Jobsも同様かもしれない。
大学として「起業家を育てたい」という明確なミッションを実現するなら、「小論文と面接」で入試を行い、そういう学生を多めに採用する、というのは正しい戦略かもしれない。
しかしこれをうまく運用するにはそれなりの仕組みが必要だ。
米国トップスクールでは、まずエッセイと高校時代の成績(GPA)と課外活動の記録、SATの点数による書類選考が行われる。エッセイは自己アピールで、日本企業のエントリーシートを2-3ぺじの長文にした感じだ。書類選考で通ると、面接に呼ばれる。企業の採用と同様、これを実際に行うのはかなりの手間と、人を見極めるスキルがいる。ただでさえ忙しい大学の先生が研究と教育の片手間で出来ることではない。
したがって、米国のトップスクールでは採用する方もかなりの体制を敷いている。
「Admission」という組織があり、300人くらいの学生を2000人くらいの候補者から選抜するために5-6人の専門のチームを組んでいる。この人たちは、かつて一般企業で採用担当だったとか、人事コンサルにいたとか、ほかの大学のAdmissionにいたとかで、人物を見る目がそれなりに備わっているとされている人たちだ。彼らが、全世界から送られてきたエッセイを全て読んで、喧々諤々議論して決め、次は全国津々浦々を訪ねて候補者への面接を行う。
それだけではなく、Admissionは、ビジネスコンテストの優勝者とか数学オリンピック受賞者などに積極的にアプローチして、リクルートをする。また、優秀な人物を輩出する高校には定期的に訪問し、めぼしい学生を採用に来る。
かけたコストが将来的に償還されるトップスクールだけで小論文+面接は行われる
実は米国でも、私立の有名トップスクールでは上記のようにコストをかけた小論文や面接での入試を行っているが、州立大学ではSAT(米国版センター試験)と州共通の筆記試験だけで選抜しているところも少なくない。SATを何度か受けるチャンスがある、という再チャレンジを認めるところが米国らしいが、それ以外は基本筆記で決まるのだ。
プラグマティックな米国では、将来的に経済や政治でトップを担う可能性の高い学生が輩出されるトップスクールでは、コストをかけてしっかりと人物を選定する。一方でそこまでいかない人たちは、コストをかけない共通筆記入試で十分じゃないか、という考えられている。なぜなら将来的に経済や政治でトップを担う人は、卒業生として影響力を持つし、大金持ちになって学校に償還してくれる人が多いからだ。MITが「起業家になりたいし、なれる能力のある人」をコストをかけて選抜するのは、起業家になれば金持ちになって、大学に寄付という形で帰してくれるからだ。だからコストをかけてでも、選抜する価値がある。中堅の州立大学だと、そういう可能性も薄いから、そこまではやらない。
米国では教育はビジネスである。
投資してリターンがあるところに、投資をする、そういう考え方だ。
同様に、日本の大学でも入試制度を全て変えて、AO入試的なものに変えるなんて論は、
コストメリットを考えても間違っているし、有効な方法ではない。
そもそも入試制度は、いろいろあって日本ではもっとも変えにくいものの一つだ。現状の入試制度を活用しながらも、如何に日本の大学で起業家とかグローバル人材なども含む多様な人材を輩出するか、という方向で考えなくてはならない。
以上、
・米国型の入試が世界で一般的なわけじゃないこと
・いずれにせよ米国型の入試はちゃんとやるとコストが非常にかかること
・したがって将来グローバルに活躍するとか、起業して金持ちになるとかコストをかけるメリットがある人たちだけを対象に行うべきだということ
・日本の入試制度を抜本的に変えるのは難しいこと
これを考えると、日本の大学の入試や教育の制度はどうあるべきか、という話を明日書きます。
追記)さっきTwitterで下の内容を書いたら、たくさんRTされたのでここにも一応ポスト。
Lilaclog 12:58pm via HootSuite
東大や京大の入試は全体の半分が解ければ受かる、という難易度になってることによって、結果として一芸人材と満遍なく何でもできる人材の両方が取れているのは面白いと思う。日本で入試制度を変えるのは至難の業なので、現行の制度を活用しながら如何に、柔軟で面白い人材を採って育てるかが鍵
日本は長らく、大学が博士号を出しませんでした。
特に文系は、レベルの高い大学ほど博士号を出しませんでした。
文系で博士号をどんどん出すようになったのは90年代なかばくらいからです。そのかわり、博士号のレベルが非常に落ちたといわれています。
なぜ日本の大学が博士号を出さなかったかというと、もともと日本の大学の先生は博士号を持っていなかった、だから、博士号は出せない、という、鶏が先か卵が先かみたいなことがあったのです。
そんなわけで、理系は知りませんが、文系は博士号の有無で教員を判断することはできないと私は思います。
近頃は外国の大学院で博士号を取る人が増えていますが、日本人が博士号を取りやすい英米の大学院というのがあって、ああ、この人もあそこか、と思うことがよくあります。
肩書きだけで判断するのはやめたほうがいいですね。
教員一人あたりの学生数が10~15名程度の国公立大学と30~50名の私立大学という構成です。もっとも私立は更に2重構造になっており、人文系は30~50名で理工系、医薬系は15名程度というのが一般的ではないでしょうか。
日本は世界で類を見ない特殊な国であるという事実を認識している国民はあまりいないと思います。何が特殊かと言えば、私立大学の学生の割合が74%にも達するという点です。アメリカこそ、そういう割合だろうと誰しもが勘違いしていることとでしょうが、アメリカの場合私立大学の学生の割合は40%だけです。
日本の大学生の74%が私立大学生であり、その私立大学の質が悪い、即ち教員一人当たりの学生数がアメリカの4倍以上もある、ということこそ、日本の大学の根本的欠陥なのです。
残念ながら、そういう考えは少数意見のように思われます。
さらに、国内の大学は致命的欠陥を抱えています。教員の質に問題がありそうだということです。どういうことかと言えば、アメリカの場合(そしてイギリスをはじめとした欧州の場合)大学教員のほぼ100%がPh.D保持者であるにも関わらず、日本は国立でも90%程度、私立となると70%以下という大学が多いという点です。さらに、そのPh.Dも欧米はPh.D過程」を経て取得した人がほぼ100%だと思われる反面、日本は「論文博士」が多いという点です。
このように多くの問題を抱えた国内の私立大学で教育を受けた人間が日本の大卒人口の74%を占めていますから、大卒の100%が良質な教育を受けた英米と激突した場合、どちらが勝利を収めるか、と言えば、長期的には欧米だろうと予測がつきます。特に金融分野、IT分野で差が出てくるということは昨今の状況を見れば明らかではないでしょうか。
あとアメリカ型のGPA重視というので、異才は排除されてると思いますがね・・。
はい、大学入試制度が中高の教育に与える影響については確かに余り触れませんでした。私の予想では、まずトップノッチの中学・高校では日本の大学だけを目指す教育は自主的に辞めていくだろうということ、そして公立中学は米国の中学のように厳しい状況に追い込まれるだろう(ある程度以上お金のある家の子供は私立へ行き、残された子供たちの平均学力水準が低い、優秀な教員を採るのが難しくなる)ということです。これについては思うところがあるのでそのうち記事にします
@Rabbitさん
日本の理系はそうですね、積み重ねの学問ですからある程度教養の達成度は重要。実は文科系も同じなんですけどね、こちらのほうが大学に入ったときの基礎からの教育が可能なように設計されていますね。米国の場合は、高校までの理科系の学問は日本の中学レベル以下であり、大学で全て追いつき、追い越す仕組みになってます。どれが一番いいのかは分かりませんね。前提となる知識が少なくて住むところを評価するかどうか。
@eisbergさん
有難うございます。記事のアップは結局5日後になってしまいましたが・・・。皆さんからいただいた意見を元に、一部書き加えたりしており、遅くなりました。
ドイツの情報有難うございます。ドイツでもだんだんAbiturの成績順という話になってきてるんですね、参考になります。
@zzksさん
これは中国の方のコメントですかね。ありがとうございます
@XXXさん
私は文章を書くとき、欧州・ヨーロッパというと大陸だけを指し、イギリスは含めない傾向があります。イギリスはアングロサクソン文化であり、いわゆる大陸系とは違う文化ですよね。
イギリスもOxbridgeは面接あると思いますが、他のところはどうでしょう?米国と同じで、中堅大学はテストだけだと思いますが・・
@lotusさん
難読症に関する情報有難うございます。本当は色んな状況におかれた能力の高い人を発掘したいのですが、国の視点から見るとコストがかかる。これをどう解決するか。
アメリカという国は個人の金持ちが沢山いて、さまざまなものがフィランソロフィー・援助で成り立ってますね。その結果、教育の場で特に日本よりも障害を持った方の活躍する余地が大きいようにも思います。個人の金持ちの寄付では、国と違い「国益のため」というリターンを考えなくてすむのは大きいのだと思います。
一方、日本は個人の寄付ではなく、大企業のフィランソロフィー(大企業で障害を持った方を在る一定以上Hireするなど)が基本になっています。これを教育の場まで持ち込んでくれというのは難しい。個人の寄付に根ざしている米国の方が幼いころの教育からチャンスがあるように見えますね。
@nakazawaさん
面白いですね。でも私はリアルの「大学」という場は必要だと思ってます。次の記事でも書いてるように、いろんな種類の人たちが雑多に集まるリアルの場所があって、人が育つし、新しい研究や事業が出てくるのかなと思ってます
@Willyさん
全くそうで、米国のトップスクールがあの仕組みの試験を出来るのは、受け皿の州立大が大量にあるからなんですよね・・・
@asitabaさん
おっしゃるとおり、無理に試験を公正にする必要は無いと私も思います。大学が欲しい人材を採るという大学の独自性がもう少し際立っても良い。そのための独立行政法人化だったのに。
@Dillさん
日本の大学の入試にも、論述中心のところは多いですよ。もちろんマークだけのところもありますが。問題は米国式の小論文(個人の過去や将来の夢などを問われる)や面接など、その人自身により重きを置いて採用するか、単純に筆記試験による能力で採用するか、というところだと思います。バカロレアも日本の入試も、後者に重きを置いているという意味において同じだと書いてるわけです。
@落合浩一さん
確かにそうで、日本の入試制度はドイツの徴兵制ではないですが「ある一定の負荷のある社会的責任を果たした人」という見られ方をしているように思います。日本企業のほうもそれを分かって採用しているので、結果としては機能しているんです。
制度を変えるより、どう運用するかに重きを置いて議論したいですよね
だから、リターンが無い教育は教育ではない。
この理論を正確に読み取れるには、やはり仕事をしてリターンを得た人でないとわからない現実がある
必要条件としての入学条件が問題であればそれこそ「足きり」で解決できます。仮に大学であれば同じ教育環境で得られるのであれば高倍率(高偏差値)の大学を目指すのは馬鹿げています。
東大・京大は彼の組織に合った人材を求めて選抜しているのでしょう。東大・京大を目指す人は合格したことがステイタスなのでしょう。お互いのメリットが合意に達した結果が現実だと思います。実際に就職、ひいては生涯賃金に多大な影響を及ぼす確率が高いと言えるでしょう。
ところで一発筆記試験で選抜することに批判が高まっているのでしょうか?余りに公平で、(国公立は最低2度、最大4度受験チャンスが有る?)再チャレンジ制度も装備されており、かつ浪人への違和感も少ないことからルールや利得が明確で非常にいい制度だと思うんですけど。
そもそも大学は学問をしに行く場であると考えれば、基本的な学力は必要不可欠であると考える。その基本的学力を測るのが大学入試。就職をするのが最終目的であれば、専門学校に行けばよいのではないだろうか。
面接などで選別するのであれば、受験生の雰囲気を重視するため学力は要らなくなってくる(むしろ、対人能力が重要になるので、勉強よりもたくさんの人と接してくることに専心した学生に利があるようになる)。こうなると、特に学生が理系だった場合に基本知識を使いこなせない可能性が高くなり、工学や理学などの職に就いたときには役に立たない学生を集めてしまいかねない。
今の日本(の大学と入試)で問題なのは、「大学で学ぶこと」ではなくて「大学から就職すること」が最重要視されていることなのではないか。問題は、大学側は大学を学問の場としたいのに、入学してくる方は就職のための足場としたく、双方の目的にマッチした対策があまり取られていないことなのではないか。教養学部などではプレゼンテーション能力を上げるような教育はほぼ取られていないし、受身の授業が多い。
日本では大学卒業後に、雇う側が大学名を元に学生の選抜を行うため、大学入試に重きがおかれるようになる。就職では卒業(修了)大学(院)で足きりがおこなわれ、その後さらに人物評価が行われるパターンが多い。よって、大学入試に総力をかける姿勢が強くなるのではないか。しかも、日本の場合は就職に年齢制限や新卒などの制限があるので余計に入試一発勝負のような側面が出てくるような気がするのである。
ところで、九州大学法学部や一橋大商学部などではAO入試を廃止したようである。率先してAOを始めた九大が廃止。AOで入試した学生は一般入学生と比べて学力が低い傾向にあるためとのこと。これが意味するところは興味深い。
日本にはリチャードブランソンやスティーブジョブスのような異才を排除しないシステムが必要という点はもっともだと思います。
実は、難読症(Dyslexia)は同時に書く事にも困難を生じます。IQが高いにもかかわらず、脳内での文字を認識する方法が通常の左脳優位の状態とは異なり右脳も同時に活性化していることから、文字を介したインプット及びアウトプットがスムーズに行えない、と言われています。もちろん、訓練次第である程度は乗り越えられ、さらに適切な環境と時間さえ得られれば小説家になる人もいるほど、その文章力が平均の人たちとは比べ物にならない能力を発揮する場合もあります。
したがって、米国のようなアプリケーションの一部としての「小論文」と「面接」であればいいのですが、入試の一部としての「書かせる」ための「小論文の筆記試験」では余計に排除する形となりかねません。特別措置として、タイピングおよび時間延長が認められればまだ救われるかもしれません。その点で、こばさんのコメントは的を得ているかと思います。
難読症(Dyslexia)の人たちは、その文脈の少なさから、標準化テストでまともなスコアを取るのは難しいとされています。いろんな例外が思いつき、世間一般で常識とされる選択肢を選ぶことに葛藤があるのです。なので、単純暗記が苦手です。米国のトップスクール(大学院)では、「小論文と面接」以前に標準化テストのスコアで足切りしているところも多いので、やはり排除されている可能性は高いです。HBSがGMATを一時は廃止したにもかかわらず復活させた経緯はご記憶に新しいかと思います。皮肉かもしれませんが、リチャードブランソンやスティーブジョブスのように気骨のある人ほど、逆に教育や実務の現場で排除される過程で独自の道を切り開いてきたといえるかもしれません。
だからといって、難読症(Dyslexia)の人たちがみな異才を発揮しているわけではありません。自分の読字困難な理由がわからず、また、適切な学習法を知るきっかけがないまま、日常生活での読み書きを諦めざるをえない人たちも多くいるようです。個人的には、異才の有無にかかわらず、入試体制によって個性を発揮出来ず自分の限界を決めてしまい、行き場を無くしてしまって不本意な人生を送らざるを得なくなっている多くの人たちを救い上げるシステムが必要と考えます。その点で、asitabaさんのコメントには同感です。あるべき論を語る事が「甘い」とは思えません。
torisさんがご関心を示されているように、どんな形であれ一回限りの一発勝負ではなく、人生において何度かチャレンジできる機会があれば、個人のタイミングによって「ここぞ」という時を選んで臨めるかと思いますし、本人も納得がいくかと思います。
日米の入学/就職試験を経験した者としては、予備校の講師さんがおっしゃていることはとてもバイアスがかかっていて、
「大学入試の(少なくとも企業が求める)役割は、その人物の人間力をおおまかに保証することです。1枚の答案は実に雄弁です。その人間が時間管理、健康管 理、人間関係管理、運の管理などをしているか、目標達成意欲や長期計画遂行能力はあるか、どれほど要領がよいか、自己改革はできるか、家庭の経済力や教育 力はどうなのかなど18年間の人生のすべてを物語ります。」
というのは、そもそも論のような気がします。たしかにこれで効率的に秀才は見抜けますが、確実に異才が排除されるのです。そして18年間で到達すべきことを勝手に設定されていることがそもそもの議論のズレのように思えます。成長のスピードは個人差があります。ある基準への到達年齢が、15歳の人もいれば、40歳の人もいる。にもかかわらず、大学入試を通じて役割設定が勝手にされている。入試内容もさることながら、これこそがasitabaさんのいわんとしている公平性の弊害だと思います。
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あの~、我が国は高考で将来の就職先を決まるじゃないかも、官二代、金持ち二代が多いがら、結局、彼らは父親母親の関係でいい仕事をゲットする(高考なが参加しなくでもいい)、でも、日本より厳しいはもともだ:)
特定の学校にしかない授業、単位を取るために別の単位を必要とする授業、取得単位内容の結果として得られる学位の違い、学位や資格が正当に評価される社会、それらがあれば受験は必要ではないだろう。人数制限が必要な授業は最初の授業で選抜試験をやればいい。
受験という区切りを無くし、初等教育から専門教育までを連続して行い、さらに科目ごとの飛び級(単位制だからスムーズに成長が進めばそうなるよな)と授業内容によらず一定年齢までの授業料無料化を行えば、子供が自然と自分の長所を磨いていく教育となる。
粘り強く勉強する姿勢だろうか?一般知能gだろうか?
これからの入試は何を測るべきなのだろうか?
英語力?他には?
ペーパーテストを組み入れる限り、一般知能gとの相関はでるだろう。だけど、それが必ずしも悪いわけではないと思う。
この手の議論は、とかく、どの層を対象にしているかで話が混乱するので、そこを明確にしないといけませんね。
ご指摘のようにドイツにはアビトゥアという高校卒業資格試験があり、これに合格しないと大学に受け入れてもらえません。口頭試験もあるものの、基本的には筆記だけというのも仰る通りです。
ただ、日本の大学受験とかなり異なる点は、筆記といってもすべてエッセイ形式なことと、アビトゥアの合否はアビトゥア試験だけでは決まらないことです。高校最終二学年分の成績が点数化され、それも含めての合否なので、試験だけできれば良いわけではなく、普段の授業参加や多くのプレゼンテーションの評価もそこに含まれます。
また、基本的に大学側は学生を選抜しているのではなく、伝統的にはアビトゥアを持っている者(つまり高等教育を受ける資質のある人)はみんな受け入れるというシステムだったのですが、昨今入学希望者が増えて講堂に入り切らないなどの不都合があるため、アビトゥアの成績の良い人から優先的に受け入れざるを得なくなって来ました。
ちなみに大学はすべて同じレベルという建前で、トップスクールはありません。(作ろうという動きはあります)希望の大学に入学を断られた場合は別の大学に願書を持って行くか、もしくは空きが出るまで気長に待つことになっています。
明日の記事を楽しみにしております。
受験させて見ることは出来るであろう。
日本でトップの学校を卒したが海外では貧素な
地味な職域で沈んでいる輩が多いのは考えさせられる。起業は出来ず、グループの指導も語学の
精でなれずに、社会での奉仕もしたくない連中を
欧米式の教育制度と入試制度に変えて受験してもらいたい。2本線の受験の選択は彼等がやるでしょう。大学の入試の不正が頻発します。経費がかかるが紙のうえだけの選抜はこうなると危ない次第です。高校生が盛んに部活、社会奉仕、発表力の要請に活躍する理由が良くわかりますね。経費がかかるからと入試制度を簡略化する思考は盛ってのほかでありますね。
結局何を目指すのか、そこが重要なんでしょう。東大・京大はまだまだ完了のような言われたことが出来るソルジャーを育てたいってことなのかもしれません。
これが一番の教育の問題で、一番興味ある内容だったと思いますが、
本文では全く触れられてなかったのが残念です。
たとえば、「一発の入試で学力や潜在能力が測れるのか」という議論がありますが、それなどは大学受験のもう1つのより重要な側面に気づいていない的外れな議論です。
大学入試の(少なくとも企業が求める)役割は、その人物の人間力をおおまかに保証することです。1枚の答案は実に雄弁です。その人間が時間管理、健康管理、人間関係管理、運の管理などをしているか、目標達成意欲や長期計画遂行能力はあるか、どれほど要領がよいか、自己改革はできるか、家庭の経済力や教育力はどうなのかなど18年間の人生のすべてを物語ります。
もう1つ議論が浅いと感じる点をあげれば、受験を通じていかに生徒たちが精神的に成長していくのかにだれも言及していないということです。
日本は徴兵制があるわけでも、餓死者がゴロゴロしているわけでもありません。人格形成期に困難に立ち向かう機会は大学入試ぐらいしかないのです。その中で、自分を鼓舞させたり、仲間を励ましたり、家族に感謝したり八つ当たりしたり、孤独を経験したり、経済的事情に直面したりと人生を考えるまたとないチャンスを得るのです。ある人は記憶術やプラス思考を体得します、ある人は犠牲の尊さを知ります、また、進路を真剣に考えたり、なぜ生きているのかを問う人もいます。(このようなしくみを教育学的にhidden curriculumと言います。学校に修学旅行や委員会などの特別活動があるのもそのためです)
入試はフェアじゃないという人もいますが、
それでも大学入試は日本の受験生に与えられたもっともフェアで、大きな恵みです。(精神レベルが高くなると人生が実は完璧にフェアなことがわかるし、入試のもっともっと深い意義も見えてきますが、ここでは触れません)
もちろん、現行の入試制度が悪い点がないということではありません。ただ、諸々のマイナス点をプラスと比較したとき、今のところはこれで適当だと私は思うのです。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1296706398/986
検索しまくるもよし、知恵袋に聞くのもよし
雇用企業から見たら現在の脳みその中の記憶量なんかドーでもよく、未知の課題をどうやってクリアするか?が必要なわけで、目的の情報に最短で到達できるキーワードを探し求める「ググる力」で判断してもいいくらい。
中高年を中心に「おまえの目の前の箱は飾りか?」ってやつが余りに多い。
日本がこれから対峙していく相手は、暗算能力に長けた相手じゃない。
公平というのは、生まれや育ちに関係なく
同じ問題を出して同じ基準で採点することをいいます。
この記事について、ちょっと誤解があるのではないか、と思ったのでコメントします。 日本の受験システムとフランスのバカロレアが一発勝負なのが共通だと書かれているので、両者が似たシステムだと考えていらっしゃるという印象を受けましたが、両者は全く性格が違うと、私は思います。
また、日本の受験システムが一発勝負なのが問題だと書かれていますが、私は試験の回数より、試験の中身の方が問題だとずっと思ってきましたが、どうでしょう。
私はイギリス在住で、17歳の子どもがインターナショナルバカロレア(IB)を受けているのですが、彼女のIBの勉強は、あるテーマについて議論する筆記が中心で、日本の受験勉強とはまったく異質だとずっと感じてきました。
日本の試験でおなじみの、知識の量と正確さや、与えられた問題を公式を使って解く力を試すというタイプの問題はあまりありません。 (私が考える日本の公式とは、数学などのExplicitは公式だけでなく、塾や受験本が教える、国語の解き方などのImplicitな公式も含みます)。
IBは、私が観察するところ、それぞれの教科の主要テーマを理解し、知識をもった上で試験にのぞみ、その場で与えられたテーマを、分析したり、議論したりする力を試されていると思います。 試験に備える勉強も、数千字のレポートを繰り返し書いて、分析や議論の力を磨くことです。
私自身、ずいぶん以前にWhartonでMBAを取りましたが、MBAの定期試験もこうした記述による議論が多かったことを思うと、この記述式議論のテストは、アメリカヨーロッパでかなり共通なのではないかと思います。
Lilacさんが言及されているフランスのバカロレアも、とても手ごわい記述中心だと聞いています。
そんなわけで、マークシートに便利な選択式の問題が多い(と聞いていますが、もう変わったのでしょうか?)試験にそなえて、知識の詰め込み重視の受験準備をさせ、その後の大学での勉強でも議論や記述をあまりさせずに、比較的楽ちんに卒業させてしまう「勉強」の中身の方が、日本のシステムの問題だと思うのですが、どうでしょうか?
まぁ、記述中心にもそれなりに問題があるとは思います。(採点者の主観が入りやすいので、採点者の教育や、採点プロセス、異議申し立てシステムの確立などのコストが高いこと、採点に時間がかかることなど)でも、日本の教育システムで議論やプレゼン、エッセータイプの訓練があまりに少ないというのは、社会人になって国際社会に出てくると、かなり苦しいとは思います。
日本も少子化ですし、そろそろ、試験実施者に楽なテストではなく、本当に必要な学力を試す試験をするべく、大学にはもっと努力してほしいと私は思います。
↑そういうのを甘えって言うんですよ^^
本人の努力次第で成功というなら、みんなで50年前と同じ教科をがり勉するより、それぞれの才能や興味に合わせた勉強をするべきなんじゃないかな?
アメリカ有名大学式のエッセイとか面接とか。まず、受けたことのない人が採点するのはほぼ不可能じゃないかな。また、日本の自分を謙遜を重んじる風潮が受験者の足を引っ張ってしまって、少なくとも当面は(能力以前に)臆面なく自分を主張することのできる人だけが面接に呼ばれるということになりかねませんね。
資本主義でも、戦争でも、大学受験でもそうですが、言い訳でいろんなことが通ってしまう社会は長期的にはだめです。あくまで誰の目にも見える結果を重視しなければなりません。
アメリカの一流私大のシステムは大学側にはメリットがありますが、米国民全体にとってメリットがある仕組みなのかどうかはちょっと微妙だと思います。国立大は国益を重視すべきだし、日本の私大でそこまで凄いところはないですしね。
半分できれば合格できる試験、僕はとても良いと思います。ただし、数学の試験を数学科教員に作らせると、優秀な数学者になれる人材だけが欲しいので試験を極端に難しくしてしまうという問題もあるようです。
全員入学させた上で、キャンパスもなくし、インターネットだけで受講できるようにする。
卒業も自由にさせればよい。
ただ、大学時の、作成した論文や試験結果などはデータとして蓄積して、入社を希望する企業に見せればよいだろう。
これだけ、大量の情報の蓄積技術や検索技術が発達しているのだから。
これからはますます回答がない時代となっていく。
会社にどうアピールするか、企業がどういう人材を選択するか、すべてその人や企業にまかせればいいのだ。
結局は、何がいいなんて回答はないのだ。
面接比重がある程度高いということは
わいろ対策なんかもきちんと設計されてたりするんでしょうか。