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太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

白いあなた

2009年12月18日 | アルバム「手作りの画集」
これはいつの放送なのだろうか。YouTubeに「夜のヒットスタジオ」で太田裕美が「白いあなた」と「最後の一葉」を白いピアノを弾きながら続けて歌う場面がある。1974年から1976年の間で太田裕美が「夜ヒット」に出演したのは、

1974年11月11日 (たぶん)雨だれ
1975年3月31日  たんぽぽ
1975年7月28日  夕焼け(ご対面)
1976年3月8日  (たぶん)木綿のハンカチーフ
1976年7月5日  赤いハイヒール
1976年11月22日 
1976年12月27日 最後の一葉

の7回のようなので(だんだん興信所みたいになってきた(笑))、消去法で行けば1976年11月22日の回のようだ。「白いあなた」という曲を実際に歌っているのを私は初めて見たが、この放送では少し曲のテンポが速く、のびやかというより可愛らしい感じで歌っている。同じ番組で「夕焼け」を歌っていた1年半前と比べるとずいぶん大人らしくなっていて、「赤いハイヒール」を歌っていた5カ月ほど前と比べても、女性らしい大人びた感じになっている。

追記 「夜ヒット」の放送で1976年9月13日放送分(40)で太田裕美が「最後の一葉」を歌っているらしく、これが抜けていた。

これは短期間で大人びたということと、作品にあわせて衣装や化粧、雰囲気を変えて歌っていることがいりまじっているからだろう。太田裕美というシンガーは作品世界にあわせて「演じる」ことがあまり上手でないシンガーだったと思うが、太田裕美大人化計画はちゃくちゃくと進んでいるようだ。

で、「白いあなた」なのだが、太田裕美本人の作詞・作曲で、「まごころ」の「ひとりごと」「グレー&ブルー」、「短編集」の「ねえ……!」(作詞は松本隆との共作)、「心が風邪をひいた日」の「水車」に続く5曲目ということになる。だんだんこなれてきて、次の「恋の予感」なんてなかなかいいんじゃないでしょうかと思うが、この曲では「いつも静かなあなただけれども 今日は激しく愛してほしい」というファンへのくすぐりがあるが、少し平板だ。

作詞・作曲:太田裕美 編曲:萩田光雄

夕焼けが白いゲレンデに映る
あなたの透き徹った言葉が
夕陽に染まって赤く燃える
いつも静かなあなただけれども
今日は激しく愛してほしい

(略)

1960年代終わりから1970年代に登場してきたミュージシャンで、いまでも人気があるたとえばサザンオールスターズとか、松任谷由美とか、中島みゆきとか、ついでに井上陽水とか小椋佳とか、先日なくなったRCサクセションの忌野清志郎とか、シンガーソングライターが多い。あとは作詞家とか作曲家とかでシンガーを変えながら生き延びている人も多い。

これに対してシンガーは、もちろん現役の人もかなり多いが、活動的には地味と言わざるをえない。やはり自分で曲が作れないとずっとバリバリというわけにもいかないのだろうか。アルバム「君と歩いた青春」で太田裕美がそのほとんどを作曲していて、けっこういい感じなのだが、遅すぎたのだろうか。いや、まだそう断言するのは早すぎるだろう。

そういえば、フジテレビTWOで12月30日と12月31日の2日間「夜ヒット」の再放送を連続して放送するようだ。さすがに全部録画していたら妻にどやしつけられてしまう。1975年7月28日の「夕焼け」とピアノの先生とのご対面の回(10)と放送日不明の回(4)は録画しておこう。


茶いろの鞄

2009年12月07日 | アルバム「手作りの画集」
「茶いろの鞄」はシングル「赤いハイヒール」のB面として1976年6月1日に発表されている。アルバムなら「手作りの画集」(1976年6月21日)の最後に収録されている曲だ。

「茶いろの鞄」の素材は「青春のしおり」と似ていて、たぶん高校時代を振り返るような話になっている。ただ、「青春のしおり」がCSNYとかウッドストックとか登場することで、「生き方」みたいなものが問われた時代が背景になっているのに対して、「茶いろの鞄」では「のばした髪」や「煙草かくして代返させてサボった」りしているが、そこまでの背景はなく、まあ、いわゆる不良の話である。「人間らしく生きたいんだ」とか歌詞に登場してくる「あいつ」は言っているようだが、思春期のそんなころはそんな台詞のひとつも吐いてみたくなるものである。

全共闘運動が活発だった当時、高校全共闘というものがあって、都内のいくつかの高校はかなり激しかったようだが、もちろん私はそれを知らない。この高校全共闘で活動した著名人として、坂本龍一(1952年1月17日生)や四方田犬彦(1953年生)、矢作俊彦(1950年生)らの名前をみかけることができる。松本隆(1949年7月16日生)よりもあとの世代のようにも思えるが、「青春のしおり」にそういった背景が実際あったかどうかはわからない。

太田裕美公式オフィシャルサイトの中で、「青春のしおり」のなかでCSN&Yを登場させたことについて尋ねられ、松本隆本人はCSN&Yでは「変わりはしない」(まあ影響を受けなかった程度の意味か)とし、影響を受けたのはビートルズであるとしたあとで、「ちゃんとユーザーを考えてるよね、当時の」と答えている。「ユーザー」という言葉に私は違和感を感じるが、それはともかく、「青春のしおり」でCSNYを登場させたように、「茶いろの鞄」ではユーザーにあわせて高校の管理システムみたいなものがターゲットになっているようだ。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

路面電車でガタゴト走り
橋を渡れば校庭がある
のばした髪に帽子をのせた
あいつの影がねえ見えるようだわ
人は誰でも振り返るのよ
机の奥の茶色の鞄
埃をそっと指でぬぐうと
よみがえるのよ 懐しい日々

学生服に煙草かくして
代返させてサボったあいつ
人間らしく生きたいんだと
私にだけは ねえやさしかったわ
もう帰らない遠い日なのに
あの日のままね茶色の鞄
大人になって変わる私を
恥ずかしいよな気持にさせる

(略)

あらためて「茶いろの鞄」の歌詞をながめていて、ふと荒井由美の「卒業写真」を思い出した。曲調も歌詞の内容もまったく違うのだが、なんとなく関係あるような気がしている。

作詞・作曲:荒井由美

悲しいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人はやさしい目をしてる
町でみかけた時何も言えなかった
卒業写真の面影がそのままだったから
人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くで叱って

(略)

「青い傘」に「かわい」さんが「この曲の詩に対抗して松本隆氏は『九月の雨』を書いたのでしょうか?」と問いかけてきていただいた。私としてはまったく思いがけない問いだったが、それ以降、荒井由美と松本隆の歌詞の関係がみょうに気になっている。もちろんこれはどちらかがパクったというような話ではなく、できあがった曲はまったく似通っておらず、相似点を探すほうのがむずかしいのだが、テーマみたいなものがなんか似ているような気がする。とくに松本隆は荒井由美の世界をかなり意識していたのではないかと思えてならない。もっとも、あの当時、荒井由美の作品世界を無視するほうがむずかしい状況だったのだとも思う。

荒井由美の「卒業写真」は、1975年2月5日にHiFi-Setのシングル盤として発表され、1975年6月20日にアルバム「COBALT HOUR」で荒井由美がセルフカバーしている。WikiPediaによるとその後もカバーするミュージシャンが数多く、2000年以降で11人もいる。「卒業写真」に登場する「あなた」は同性だったいうことを今日私ははじめて知った。



赤いハイヒール・蛇足

2009年11月27日 | アルバム「手作りの画集」
無事、スカパーに申し込むことができ、「夜のヒットスタジオ」1976年7月5日放送分を録画することができた。そして太田裕美のあの素直な笑顔を見ることができた。この放送では「山田パンダとジョイントコンサートがうんぬん」というテロップも流れ、YouTubeで公開されているものも再放送なのかもしれない。この録画はDVDに焼いて、我が家の家宝、と言っても太田裕美ファンは私だけなので、私の宝物として保管することにしよう。

で、その放送を見ていて気がついたことがあった。ある方がブログで「『手作りの画集』がカントリーポップ色が強く、『12ページの詩集』がフォーク色が強いとしたら、このアルバム(注 『こけてぃっしゅ』のこと)はシティポップ色が非常に強く出ています」と指摘していた。なるほど、「手作りの画集」はカントリーポップなのか。私はなんか、「手作りの画集」はいわゆるポップスよりのニューミュージック、「12ページの詩集」はフォークよりのニューミュージックのようなイメージを持っていたが、そうなのかもしれない。

たしかに「手作りの画集」のジャケットの絵(あまり似ていないと評判が悪いが)には、北海道辺りのカントリーな世界が描かれている。当時の私はこの背景を「都忘れ」の「風なびく麦畑 走り去る雲の影」あたりを素材にしているのかと思っていたが、そう言われればそうかもしれない。「都忘れ」もそうだが、「遠い夏休み」とかも田園風景が背景だし、「カントリー・ロード」はまんまそうだ。「赤いハイヒール」も都会と地方というようなテーマと言えばそう言えなくもない。

しかし私が気がついたのはそんな高度なことではなかった。もともと音楽的素養のない私には、どの曲が何調なのかさっぱりわからないのだから。私が気がついたのは、「夜ヒット」で「赤いハイヒール」を歌う太田裕美が着ていたヒラヒラフリフリが、どうもそれまでのヒラヒラフリフリと違うことだ。なんというかヒラヒラフリフリでもカントリーなヒラヒラフリフリなのだ。たとえて言えば、「まごころ」あたりが(ヒラヒラフリフリではないが)東欧的な衣装なら、「短編集」あたりは西欧のヒラヒラフリフリで、「赤いハイヒール」のころは「大草原の小さな家」あたりのヒラヒラフリフリなのだ。

おお、ヒラヒラフリフリにもいろいろな種類があるものだ。ヒラヒラフリフリがカントリーを主張していた。女性の着ているものなどまったく関心がない私はそんなことにも気がつかなかった。いや、だからといって衣装の中の裸を見ているというわけではないのですが....1本の「葦」を見ているんです.....

赤いハイヒール・余

2009年11月18日 | アルバム「手作りの画集」
「赤いハイヒール・序」で「夜のヒットスタジオ」の動画を公開した人のことを「よく録画していて、よく保存していたものだ」とした。しかしその後、YouTubeにやけに「夜のヒットスタジオ」の映像があるなぁと不審に思って調べてみたら、フジテレビTWO(スカパー)で再放送されている最中だった。しかもこの再放送はずいぶん以前からやっていたようで、どうもそれが流通しているようだ。

私はまったくそのことを知らなかった.....しかも「赤いハイヒール」を歌う1976年7月5日放送分が、11月26日から4回繰り返し放送されるらしいということがわかり、さっそく妻を説得することにした。「スカパー申し込まない?」「なぜ?」「夜のヒットスタジオが再放送されているみたい」「あ、そ。歌謡曲には興味ないから」こうして1件落着した。妻はクラシックとジャズと、なぜか香港歌謡曲にしか興味がないのだ。なので私は勝手に申し込むことにした。

1976年7月5日放送分には、山田パンダとジョイントコンサートを行なうというようなテロップが流れるので、もしかしたら本当にリアルタイムで録画しておいたものなのかもしれない。テロップも含めて再放送なのかもしれない。そんな謎も当日解けるかもしれない。


赤いハイヒール・Q

2009年11月18日 | アルバム「手作りの画集」
「赤いハイヒール」は「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングであるみたいな言われ方をしているらしい。わたしには最初その言葉の意味がなんのことかさっぱりわからなかった。たしかに男女の会話形式という意味では二つの曲は似た表現方法をとっているが、だからといってアンサーソングか? で、調べてみると、登場してくる男女の位置関係をどう把握するかで、この曲の世界のとらえかたがかなり違うことがわかった。

この曲で登場してくる女性は、冒頭からその素性や性格などがそれなりに描かれている。「マニキュアの指タイプライター ひとつ打つたび夢失くしたわ 石ころだらけ私の青春 かかとのとれた赤いハイヒール」あたりでは、女性が就職したことがわかり、「そばかす」とか「おさげ髪」などからすると若い女性で、もしかしたら高校を卒業して就職したような設定なのかもしれない。「石ころだらけの青春」という表現はどこかで見たか聞いたかしたような言葉だが、イメージとしては理解できる。

2番で赤いハイヒールのかかとのとれたことで、彼女がすでに「都会の絵の具に染まった」程度ではなく、かなり壊れかかっている様子がわかる。3番では「おとぎ話の人魚姫はね 死ぬまで踊るああ赤い靴 いちどはいたらもう止まらない 誰か救けて赤いハイヒール」とほとんど壊れてしまって、助けを求めている。

問題なのは、けっこう能天気な曲調で登場してくる「ぼく」である。この「ぼく」はいったいどこにいるのか。どうもここの解釈からこの曲のイメージがだいぶ違ってきているようだ。まずこの「ぼく」は彼女と同じ故郷の人間で、「ぼく」はその故郷から彼女をなんというか見守っているような感じと受け止めている人がいるらしい。「ぼくの愛した澄んだ瞳」とか「曲りくねった二人の愛」には、故郷以来の時間を経ていることになり、「故郷ゆきの切符」でいう故郷は、二人にとっての同じ故郷ということになる。この設定なら、男女が入れ替わっているが「木綿の~」のアンサーソングと言えなくもない。

私は自分自身が上京するクチだったためだろが、「ぼく」は東京にいて、彼女とそこで知り合ったというような設定だとばかり思っていた。しかしなぜ「ぼく」が故郷にいるとわかるのだろうか? あるいは同じ東京にいるとわかるのだろうか? どこかに手がかりはないか.....と思ったが、ほとんどない。唯一、ここかなぁと思うのが「故郷なまりが それから君を 無口にしたね アランドロンとぼくをくらべて 陽気に笑う君が好きだよ」の一節である。

なまりがあって無口になってしまうというのは、古い日本映画でありそうな状況だが、理解できないことではない。問題なのは「無口にしたね」ということから、おしゃべりとは言わないまでも普通だった彼女がだんだん無口になっていった過程を「ぼく」が知っているような気がする。つまり二人とも東京にいるのではないか。

また、普通、都会で無口になっていった人も故郷に帰ると元に戻ることが多い。「ぼく」が故郷にずっといたとすると、そのことを知る機会がなかったかもしれない。彼女が東京では無口になっていることを「ぼく」に教えたのかもしれないが、「アロンドロンと~」の節を考えると、この節全体が無口な彼女に対して言っている台詞のように思える。

では、「ぼく」と彼女は同じ故郷で、「ぼく」は彼女より先に東京に出てきたか、彼女のあとから出てきたかして、二人は東京で知り合った。こう考えたらどうだろうか? しかしそうだとすると「故郷なまりが それから君を 無口にしたね」というような台詞を、同じ故郷で、同じ故郷なまりの人間が言うだろうか? この台詞はなんというかなまりがないか、あっても軽いなまりの人間でないと言わないような気がする。なまりのひどい人(ごめんなさい。どう表現していいかわからなくて)は、自分のことであれ、他人のことであれ、そういうことを言ったりしないような気がするのである。

というようなことから、当時私が聞いていたときの、「ぼく」と彼女は東京で知り合ったという設定はそんなにはずれていないのではないだろうか。「ぼくの愛した澄んだ瞳」も知り合ったときは澄んだ瞳だったのだろうし、「曲りくねった二人の愛」というのも彼女が壊れてゆく中で二人の関係が曲がりくねっていってしまったと思えば、いちおうつじつまはあう。

問題になるのが「故郷行きの切符」の「故郷」はどこなのだろうか? 彼女の故郷なのか? 彼の故郷なのか? 私にはそれはどちらでもかまわないように思える。この場合、「故郷」は「壊れかかった」人間を癒し再生してくれる場所として存在しているので、彼女の故郷だろうが、「ぼく」の故郷だろうがどちらでもいい。どうせ両方とも田舎ものなのだろうから(笑)。

最後の「そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう」「倖せそれで掴めるだろう」がプロポーズの言葉であるということもつい最近私は知った。そう言われりゃそうかもしれない。私はこういうことにまったく鈍感なのである。もしかしたらどこかで知らないうちに「プロポーズ」していたかもしれないなぁ。

もし松本隆がこの歌詞についてなにか語っていたら、以上の文章はとんでもなく誤っていて、赤っ恥ものかもしれない。ま、その場合は取り下げ・削除ということに。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

(略)

マニキュアの指タイプライター
ひとつ打つたび夢失くしたわ
石ころだらけ私の青春
かかとのとれた赤いハイヒール

そばかすお嬢さん ぼくの愛した
澄んだ瞳は何処に消えたの
明日はきっと君をさらって
故郷ゆきの切符を買うよ

おとぎ話の人魚姫はね
死ぬまで踊るああ赤い靴
いちどはいたらもう止まらない
誰か救けて赤いハイヒール

そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう
緑の草原裸足になろうよ
曲りくねった二人の愛も
倖せそれで掴めるだろう

そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう
緑の草原裸足になろうよ
曲りくねった二人の愛も
倖せそれで掴めるだろう

追記 なまりについて「この台詞はなんというかなまりがないか、あっても軽いなまりの人間でないと言わないような気がする」とした。これは、こういう台詞は無神経とまではいわないまでもかなりデリカシーのない人間が言う台詞で、なまりで「つまづいた」経験のある人は、かりに親しい相手であってもなかなか言わないというようなことが言いたかった。なんとなくこの歌詞の「ぼく」は能天気というかけっこうデリカシーがない男のような気がする。それこそぼく(私)のようである。

また、「ぼくと帰ろう」という台詞でほとんどの人が同じ故郷の二人と考えているようなふしがあるが、地方出身者二人がもし都会を離れ故郷に帰る場合、二人の故郷が違っていてどちらの故郷に帰る場合でも「帰る」と表現するのではないかと思う。



ベージュの手帖

2009年11月17日 | アルバム「手作りの画集」
アルバム「手作りの画集」の歌詞カードの「ベージュの手帖」の項にはハートマークに続いて「dedicated to the Beatle4」とある。Beatle4はBeatlesのことで、この曲の歌詞はThe Beatlesの「She's Leaving Home」と似ていることが知られている。「She's Leaving Home」は「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」(1967年)に収録されている曲で、WikiPediaによると20人近くにカバーされている名曲である。

Paulはある家出少女の記事に触発されてこの曲の歌詞を書いたようで、束縛から逃れて自由を求める少女の姿を描いている。あまりに美しいメロディで、ある意味では悲痛なこの曲のテーマがわからないくらいだ。

松本隆は影響を受けたミュージシャンとしてThe Beatlesをあげているようで、世代的にもそのことに不思議はないが、わざわざクレジットでBeatlesの名前をあげてまでこの「ベージュの手帖」の歌詞を書いている理由はなぜなのだろうか。

「家」とか「親」との関係と、それらとの決別みたいなものを宣言したかったのかもしれないなぁと思う。「家」とか「親」が登場してくるのはこの「ベージュの手帖」が最初だが、アルバム「短編集」のような、まるで「かごの鳥」のように育てられたいいところのお嬢さんの世界は太田裕美の作品からしだいに影をひそめてゆく。

この曲では、クラスで一番無邪気でだれとでもすぐに仲良くなれるような、いわゆるいいところのお嬢さんだった女性が「自由になりたい」という書置きを残して家を出てゆく。そんな陽子という名前の女性のたぶん友人である、かつたぶんその陽子とほぼ同じ程度にいいところのお嬢さんである女性の視点で語られる。二人とも、もしかしたらクラスの女性みんなが「ガラス箱の人形」のように育てられたのかもしれない。

松本隆は「自由になりたい」という台詞をあちこちで書いているが、いずれもどこか表面的で、歌謡曲でこういう台詞を扱うのはむずかしいのかもしれない。歌謡曲ノリで、「都忘れ」と同じように船山基紀の編曲のせいか、けっこう私は聴きやすくて好きなのだが。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:船山基紀

陽子はクラスで一番無邪気な娘なの
誰でもウィンクひとつで友だちだった
翳りひとつない笑顔
十月の雨の朝 トランクをひとつ持ち
寝静まる家のドア ひっそりと閉めた陽子
机にベージュの手帖 残る言葉は
「自由になりたい」

(略)



カントリー・ロード

2009年11月16日 | アルバム「手作りの画集」
大学に入学した私がはまったもののひとつに登山がある。当時の登山装備は、そのころ吹き荒れたアメリカ西海岸スタイルのブームと関係があると思うが、バックパッカーの装備と旧来の登山装備が入り混じったような状態だった。

たとえばザックが昔ながらのキスリングだったり、バックパックだったり、飯盒を使っているかと思えばコッヘルを使っていたり(コッヘルはヨーロッパの登山文化)、ラジウスと呼ばれる灯油を燃料としたストーブのかわりに固形燃料を使ってみたり、といろんなものが混在していた。アメリカ西海岸を思わせるもので当時流行していたのが、シェラカップだ。たんに底の浅いステンレスの器に取っ手をつけただけのようなものなのに、みょうに気分はアウトドアだった。

雑誌「POPEYE」が創刊されたのが1976年のようだが、それ以前からアメリカ西海岸のアウトドア文化が紹介されていたように思う。イメージ的にはジョン・デンバーが「Take Me Home, Country Roads(故郷へ帰りたい)」(1971年)を歌っていたころから、アメリカ西海岸からさわやかで乾いた風が日本にも届いていたように思う。ジョン・デンバーは「Sunshine on My Shoulders(太陽を背にうけて)」(1974年)もヒットして、たしかCMでこの曲が使われ(GパンのCMだったか)、太陽を背に歩く青年の姿が記憶に残っている。

アルバム「手作りの画集」に収録された「カントリー・ロード」は、当時もああこれはジョン・デンバーの世界だなぁと思いながら聞いていた。二人の歩む未来を道にたとえているからカントリー・ロードなのだが、どちらかというとカントリー・ライフを歌っている。

「木綿のハンカチーフ」や「赤いハイヒール」でもそうなのだが、このころの松本隆作品では、都会はあまりいいものとしてとらえられてない。この曲でも「グレイの都会」と表現され、それに対して「ふるさとの町」は青い空と緑の丘、風の香りと土の匂いに満ちた世界とされている。歌詞の内容としては「赤いハイヒール」に似たような話で、「赤い~」が都会生活で壊れかけている女性に男性がふるさとに帰ろうと持ちかけている? 誘っている? のに対して、この曲では女性が男性に「私をお嫁にしてね」とお願い? している。

「お嫁にしてね」なんて台詞は、もう歌詞の中では二度と聴くことがないだろうね。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

いつか私が20才になって
ブルーのダットサン手に入れたら
ふるさとの町飛んでゆくから
ラララ 私をお嫁にしてね

青い空と緑の丘
こんな処であなたと
小さな家たてたい
Country Road
手をつなぎなさいな
いついつまでもはなれないよう
Country Road
さあ歩きなさいな
愛は果てない一本道だから

(略)


青空のサングラス

2009年11月16日 | アルバム「手作りの画集」
「手作りの画集」はそのアルバムタイトルどおり、1曲ごとに一幅の絵を思わせるようになっていて、曲名にも色のついたものが多い。「青空のサングラス」なら「青」だ。この曲は、歌謡曲っぽい「都忘れ」とシングルになった「赤いハイヒール」の間にあって、なんかひと休みしているようで、当時印象の薄い曲だった。歌詞にも「ZORRO」とか「木綿のハンカチーフ」とか入っていて、ファンをくすぐるような仕掛けがほどこされている。そのためますますひと休みというかつなぎの曲のように思えていた。

あらためて聞いてみたら、「そうか、車か」と気づいた。これまでの太田裕美の曲ではほとんど列車とか汽車が乗り物として登場してきて、「太陽がいっぱい」という曲で自転車が登場したのがめずらしいくらいだ。車が登場したのはこの曲が最初ではないだろうか。

1番では「バックミラー」とか「ハイウェイ」が、2番では「ドライブ・イン」とか「ジューク・ボックス」が登場する。とくに1番の歌詞にふと荒井由美の「中央フリーウェイ」を思い出した。中央フリーウェイが収録された「The 14th Moon(14番目の月)」は荒井由美名義の最後のアルバムで、発売が1976年11月20日だから、「手作りの画集」のほうがずっと前だが、この年の3月頃かまやつひろしが歌っていたようなので、曲そのものはずっと前にできていたのだろう。

歌詞の内容や曲調は、「青空のサングラス」と「中央フリーウェイ」ではまったく違っていて、似たような個所を探すほうが困難なのだが、なんとなく関係があったような気がする。「中央フリーウェイ」を松本隆が作って太田裕美が歌うとこうなる、というような。

歌詞では、草原の中のドライブ・インからさよならを言おうと電話したのだが、12回ベルが鳴ってもでなかったとあり、これまでも何度か登場していた「不実な彼氏」を思い起こさせるが(単純にでかけていただけかもしれない)、そんな彼氏を振り切るような姿勢だ。

車と言えば、不況下のいまの学生はどうなのかわからないが、80年代のバブルの時代だと思うが、学生が車を持っていて「車がないとカッコ悪くて仕方がない」とか言っているという話を聞いたことがある。私たちの時代はずいぶん長い間、車なんて視野の中になかったので、へぇそうなんだと思った記憶がある。昔話がしたいわけでなく、車が当たり前になるにつれて音楽が変わっていったはずで、それがいつ頃なのか知りたいなぁと思ったのである。私の勝手なイメージでは、荒井由美が松任谷由美に名前が変わり、Hi-fi-setが台頭してきた時期と重なっている。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

ZORROと二人きり
車に乗り込み出かけよう
バックミラーに映る都会は
白黒映画の摩天楼

友だちはみんないい人ばかりよ
でも私立ち止まってたら
自分を見失いそうなの
サングラスを外したら
心に飛び込むハイウェイ
生きてるまぶしさ
太陽に向ってまっすぐに咲いた
ひまわりの素直な心で
私も明日に駆けてくわ

(略)



赤いハイヒール・破

2009年11月13日 | アルバム「手作りの画集」
いまのこの時期は、大学なら大学祭が行なわれている時期だ。私が通っていた大学でも大学祭が秋に行なわれていた。当時の先輩に言わせれば、昔の大学祭は学生が問題を提起する場所だったが、どんどんミーハー化してきている、となる。ミーハー化とは、芸能人を呼んでコンサートを開いたり、スナックのような店を開いて酒をだしたり、おでんなどの屋台を出したりといったような傾向だ。

「ミーハー」といったあとでこういってはなんだが、横浜の片隅にあった私の大学でなぜか太田裕美のコンサートが開かれた。私が1年生のときだったか、2年生のときだったか記憶があやふやだ。1年生のときはAlfeeが電車でやってきて(笑)コンサートしたという話もあって、もしかしたら2年生のときだったのかもしれない。1年生といえば1976年だし、2年生といえば1977年だ。1976年ならセールス的にピークだったころだし、1977年なら人気面でピークだったころだ。

1年生のときの大学祭では、当時実行委員をしていた知り合いの女性に誘われて、夜中の体育館で行なわれた試写会で映画を見ている。上映された映画は「いちご白書」で、1975年にバンバンがヒットさせた「『いちご白書』をもう一度」(作詞・作曲:荒井由実 編曲:瀬尾一三)の影響で、映画「いちご白書」があらためて注目されていたのである。いま思えば、問題意識があるんだかないんだかよくわからない発想である。そのほかにも大森一樹の自主制作映画「暗くなるまで待てない!」(1975年)のタイトルを立て看で見た記憶がある。

まあ、そんな雰囲気の中で太田裕美のコンサートが開かれることになった。体育館でたぶんパイプ椅子を並べて行なわれたのだろうが、このコンサートに行っていておかしくない状況で、行っていればいまごろ少しくらいは自慢できたように思うが、私はこのコンサートに行っていない。まったくあちゃ~ というような話だ。しかし、私の同級生たちのだれに聞いても、だれもこのコンサートに行っていないのである。ましてミリタリールックでうろうろしていた私の上級生たちは、そんなコンサートが開かれたことすら覚えていないだろう。小さい体育館とはいえ、数百人くらいは入る大きさだ。いったいだれが行っていたのだろうか。まさか外部の人たちだけで埋まっていたわけでもないだろう。

このコンサートが始まる直前、なんの用事があったのか忘れたが、私が体育館から校門に向かって歩いていたら、反対側から実行委員(たぶん自治会の学生)に「太田さん。こちらです」と連れられて太田裕美が歩いてきて目の前を通りすぎた。これが私が太田裕美本人を目にした最初で最後だ(最後とはかぎらないが)。たしか白いドレスと白いハイヒールで、ちょうど「赤いハイヒール」を歌っている「夜ヒット」の映像(YouTube)の衣装のような感じだった。

1年生のときだったとすれば、私が18歳で彼女が21歳。学年で言えば、当時の4年生の年代だ。当時の4年生の女性の先輩たちは、「米軍放出」みたいなミリタリールックであぐらをかき、煙草をスパッスパッと吸いながら「○○クン、それじゃだめなのよ~」と言うような感じで、当時の太田裕美とは対極にいたようだ。というより、当時の私の大学に太田裕美ほど似つかわしくない存在はなかったかもしれない。

それにしても「ミーハー」でもなんでもいいから素直に行っておけばよかった....30何年か前の私が目の前にいたのなら「いま行かないと、もう少しして音楽がどんどん変わっていってしまい、そのうちニューヨークに行ってしまい、帰ってきたかと思ったらもっと変わってしまい、なんだかんだ混乱しているうちに長期休業してしまうゾ」と説教のひとつもしたくなる。

たったひとり、私の友人で運動部だった男は、体育館の中にあったらしい用務員室でただ見したらしい。おい、なぜ呼ばんっ。

赤いハイヒール・序

2009年11月11日 | アルバム「手作りの画集」
1976年6月1日に発売されたシングルでとか、「木綿のハンカチーフ」のあとだったので製作スタッフはだいぶ緊張したようだとか、オリコンでの最高位は2位で、1位の山口百恵「横須賀ストーリー」を結局抜けなかったとか。山口百恵の「横須賀ストーリー」ってどんな曲だっけ? 「これっきりこれっきり」って曲かぁ、あんな曲に負けたのか.....なんて書くと山口百恵ファンにぶっとばされるだろうな.....とか。「赤いハイヒール」について、いつものようにだらだら書いていた。

書いているときにふとYouTubeにあった「夜のヒットスタジオ」に主演している太田裕美の姿を見て、「ああああ、そうじゃない、そうじゃない、そうではない。オレはこの曲とこの曲を歌う太田裕美が大好きだったんだ」と昔の自分を急に思いだした。最近はCDでばっかり聴いているもんだから、どうもシニカルに見てしまう傾向がある。それにしても、こんなにも自分のことを忘れてしまうものなのだろうか。

YouTubeの「夜ヒット」のものは調べてみたら1976年7月5日放送のもので、ちょうど400回目の放送だったようだ。1976年というとソニーのベータマックスが1975年5月10日に発売され、VHSはまだ発売されていないころ(VHS1号機は1976年10月31日発売らしい。定価25万6000円)。動画を公開したかたは、よく録画していて、よく保存していたものだ。

この放送では、橋幸夫、布施明、八代亜紀、細川たかし、キャンディーズ、松本ちえこらが出演していた。歌っている途中で、大きな赤いハイヒールの模型を持って近づいてくるのが、司会の井上順と細川たかしで、当時らしいなんという演出だろう。化粧のせいかライティングのせいか、「ねえ ともだちなら~」と歌う太田裕美の目はたれて見えて、まるでパンダの目のようだ。

「そぉばかぁす~ おじょ~さん」と歌うとき、彼女はとても楽しそうに踊り、可愛い笑顔を見せる。「まがりくねった」と歌うとき、彼女は左手を小さくまわし、顔を右側にふせる。そして「ふたりのあいも」と歌うとき、彼女は左手の人差し指と中指を立て、「しあわぁせ それでつかめるだろぉ」と歌うとき、彼女は左手をぐっと握りしめる。

あぁ覚えている。彼女がこの曲で見せるその素直な笑顔は、当時の私のまわりにはなかなか見られなかったものだ。この曲については、語らなければならないことはそれほどないが、語りたいことがたくさんある。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

ねえ友だちなら聞いてくださる
ねえ友だちなら聞いてくださる
淋しがりやの打ち明け話し

東京駅に着いたその日は
私おさげの少女だったの
胸ポケットにふくらむ夢で
私 買ったの 赤いハイヒール

そばかすお嬢さん 故郷なまりが
それから君を 無口にしたね
アランドロンとぼくをくらべて
陽気に笑う君が好きだよ

(略)

と、これで終わっているとどう考えても引用に必要な要件を満たしているとは思えない。ので少し歌詞について語っておこう。「ねえ友だちなら聞いてくださる」から「淋しがりやの打ち明け話し」までは、歌詞としてはやはり余分な一節なのだろうが、この一節が作品の扉を静かに開いてくれ、とても重要な一節になっている。それまでの歌謡曲なら構成を乱すとして削除されてしまったような一節を、意識的に使い始めた最初の作詞家はやはり松本隆なのだろうか。

「聞いてくださる」が「ください」でなく「くださる」あたりも、なんとなくこれから打ち明け話しを始める女性が控えめというか内気な性格かと思わせるようだ。また聞き手との間に適当な距離をとっていて、初対面なのにいきなり馴れ馴れしい女性のようではない。「淋しがりやの打ち明け話し」で、自分を「淋しがりや」だと思っていることもわかり、いよいよその打ち明け話しが静かに始まる。

「東京駅に着いたその日は」以降の導入部も見事。主人公が女性であることを明確にし、地方から上京してきたときはまだ少女というような年齢であること、上京したころはおさげ髪だったがいまは違うことなどがたったの2行で語られている。「ふくらむ夢で赤いハイヒールを買った」という次の2行の表現も見事。こうしてこの曲の歌詞について書いていると自分がお馬鹿さんのように思えてくるほど見事。

「胸ポケットにふくらむ夢」で思い出したが、女性が上京してきたときの格好をなんとなくオーバーオールのように思い込んでいた。オーバーオールの胸の真ん中についているポケットをイメージしていたのだ。なぜだろうと記憶の底を探っていたら、当時太田裕美の大きなポスターを部屋に貼っていたことを思い出した。その衣装がネルのシャツに白っぽいオーバーオールだったはずだ。

ジャケット写真だと「12ページの詩集」のものに近いのだが、たしか季節は7月頃の暖かい時期のはず。「手作りの画集」が販売された時期なのだが.....と思って「Singles 1974~1978」に再掲されていた「赤いハイヒール」のジャケット写真を見て思い出した。この写真に似たものだった。このジャケット写真で太田裕美はひものようなものをぶらさげているが、これはたしかボーイスカウトが使う呼子の笛(単管笛というらしい)のはずだ。

そのポスターはたぶんアルバムを買ったときにレコード屋さんでもらったもののはずだ。当時はレジの脇に丸めたポスターが箱に入っていて「ご自由にお持ちください」となっていたか、「下さい」というとくれたかしていた。少し恥ずかしがりだった私が、さすがに貼ってあったものをもらったとは思えない。ましてそのときは大学生である。

そんなポスターも引っ越しを続けるうちにどこかにいってしまったが、あんなに大きなポスターを貼っておいて「隠れファン」はないよな(笑)....という気分になってきた。ま、気持ち的にはやはりそうだったんだろう。

追記 YouTubeにやけに「夜のヒットスタジオ」の映像があるなぁと思っていたら、フジテレビTWO(スカパー)で再放送されている最中だった。知らなかった.....しかも1976年7月5日放送分は、11月26日から4回繰り返し放送されるらしい。いまからでもスカパーに申し込んで間に合いそうだが、どうやって妻を説得するかが問題かもしれない。