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太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

赤いハイヒール・Q

2009年11月18日 | アルバム「手作りの画集」
「赤いハイヒール」は「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングであるみたいな言われ方をしているらしい。わたしには最初その言葉の意味がなんのことかさっぱりわからなかった。たしかに男女の会話形式という意味では二つの曲は似た表現方法をとっているが、だからといってアンサーソングか? で、調べてみると、登場してくる男女の位置関係をどう把握するかで、この曲の世界のとらえかたがかなり違うことがわかった。

この曲で登場してくる女性は、冒頭からその素性や性格などがそれなりに描かれている。「マニキュアの指タイプライター ひとつ打つたび夢失くしたわ 石ころだらけ私の青春 かかとのとれた赤いハイヒール」あたりでは、女性が就職したことがわかり、「そばかす」とか「おさげ髪」などからすると若い女性で、もしかしたら高校を卒業して就職したような設定なのかもしれない。「石ころだらけの青春」という表現はどこかで見たか聞いたかしたような言葉だが、イメージとしては理解できる。

2番で赤いハイヒールのかかとのとれたことで、彼女がすでに「都会の絵の具に染まった」程度ではなく、かなり壊れかかっている様子がわかる。3番では「おとぎ話の人魚姫はね 死ぬまで踊るああ赤い靴 いちどはいたらもう止まらない 誰か救けて赤いハイヒール」とほとんど壊れてしまって、助けを求めている。

問題なのは、けっこう能天気な曲調で登場してくる「ぼく」である。この「ぼく」はいったいどこにいるのか。どうもここの解釈からこの曲のイメージがだいぶ違ってきているようだ。まずこの「ぼく」は彼女と同じ故郷の人間で、「ぼく」はその故郷から彼女をなんというか見守っているような感じと受け止めている人がいるらしい。「ぼくの愛した澄んだ瞳」とか「曲りくねった二人の愛」には、故郷以来の時間を経ていることになり、「故郷ゆきの切符」でいう故郷は、二人にとっての同じ故郷ということになる。この設定なら、男女が入れ替わっているが「木綿の~」のアンサーソングと言えなくもない。

私は自分自身が上京するクチだったためだろが、「ぼく」は東京にいて、彼女とそこで知り合ったというような設定だとばかり思っていた。しかしなぜ「ぼく」が故郷にいるとわかるのだろうか? あるいは同じ東京にいるとわかるのだろうか? どこかに手がかりはないか.....と思ったが、ほとんどない。唯一、ここかなぁと思うのが「故郷なまりが それから君を 無口にしたね アランドロンとぼくをくらべて 陽気に笑う君が好きだよ」の一節である。

なまりがあって無口になってしまうというのは、古い日本映画でありそうな状況だが、理解できないことではない。問題なのは「無口にしたね」ということから、おしゃべりとは言わないまでも普通だった彼女がだんだん無口になっていった過程を「ぼく」が知っているような気がする。つまり二人とも東京にいるのではないか。

また、普通、都会で無口になっていった人も故郷に帰ると元に戻ることが多い。「ぼく」が故郷にずっといたとすると、そのことを知る機会がなかったかもしれない。彼女が東京では無口になっていることを「ぼく」に教えたのかもしれないが、「アロンドロンと~」の節を考えると、この節全体が無口な彼女に対して言っている台詞のように思える。

では、「ぼく」と彼女は同じ故郷で、「ぼく」は彼女より先に東京に出てきたか、彼女のあとから出てきたかして、二人は東京で知り合った。こう考えたらどうだろうか? しかしそうだとすると「故郷なまりが それから君を 無口にしたね」というような台詞を、同じ故郷で、同じ故郷なまりの人間が言うだろうか? この台詞はなんというかなまりがないか、あっても軽いなまりの人間でないと言わないような気がする。なまりのひどい人(ごめんなさい。どう表現していいかわからなくて)は、自分のことであれ、他人のことであれ、そういうことを言ったりしないような気がするのである。

というようなことから、当時私が聞いていたときの、「ぼく」と彼女は東京で知り合ったという設定はそんなにはずれていないのではないだろうか。「ぼくの愛した澄んだ瞳」も知り合ったときは澄んだ瞳だったのだろうし、「曲りくねった二人の愛」というのも彼女が壊れてゆく中で二人の関係が曲がりくねっていってしまったと思えば、いちおうつじつまはあう。

問題になるのが「故郷行きの切符」の「故郷」はどこなのだろうか? 彼女の故郷なのか? 彼の故郷なのか? 私にはそれはどちらでもかまわないように思える。この場合、「故郷」は「壊れかかった」人間を癒し再生してくれる場所として存在しているので、彼女の故郷だろうが、「ぼく」の故郷だろうがどちらでもいい。どうせ両方とも田舎ものなのだろうから(笑)。

最後の「そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう」「倖せそれで掴めるだろう」がプロポーズの言葉であるということもつい最近私は知った。そう言われりゃそうかもしれない。私はこういうことにまったく鈍感なのである。もしかしたらどこかで知らないうちに「プロポーズ」していたかもしれないなぁ。

もし松本隆がこの歌詞についてなにか語っていたら、以上の文章はとんでもなく誤っていて、赤っ恥ものかもしれない。ま、その場合は取り下げ・削除ということに。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

(略)

マニキュアの指タイプライター
ひとつ打つたび夢失くしたわ
石ころだらけ私の青春
かかとのとれた赤いハイヒール

そばかすお嬢さん ぼくの愛した
澄んだ瞳は何処に消えたの
明日はきっと君をさらって
故郷ゆきの切符を買うよ

おとぎ話の人魚姫はね
死ぬまで踊るああ赤い靴
いちどはいたらもう止まらない
誰か救けて赤いハイヒール

そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう
緑の草原裸足になろうよ
曲りくねった二人の愛も
倖せそれで掴めるだろう

そばかすお嬢さん ぼくと帰ろう
緑の草原裸足になろうよ
曲りくねった二人の愛も
倖せそれで掴めるだろう

追記 なまりについて「この台詞はなんというかなまりがないか、あっても軽いなまりの人間でないと言わないような気がする」とした。これは、こういう台詞は無神経とまではいわないまでもかなりデリカシーのない人間が言う台詞で、なまりで「つまづいた」経験のある人は、かりに親しい相手であってもなかなか言わないというようなことが言いたかった。なんとなくこの歌詞の「ぼく」は能天気というかけっこうデリカシーがない男のような気がする。それこそぼく(私)のようである。

また、「ぼくと帰ろう」という台詞でほとんどの人が同じ故郷の二人と考えているようなふしがあるが、地方出身者二人がもし都会を離れ故郷に帰る場合、二人の故郷が違っていてどちらの故郷に帰る場合でも「帰る」と表現するのではないかと思う。



1 コメント

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Unknown (小野 寛美)
2021-09-19 11:18:47
ある人から教えてもらいました この2人の故郷は福岡県田川市らしい です
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