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太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

白いあなた

2009年12月18日 | アルバム「手作りの画集」
これはいつの放送なのだろうか。YouTubeに「夜のヒットスタジオ」で太田裕美が「白いあなた」と「最後の一葉」を白いピアノを弾きながら続けて歌う場面がある。1974年から1976年の間で太田裕美が「夜ヒット」に出演したのは、

1974年11月11日 (たぶん)雨だれ
1975年3月31日  たんぽぽ
1975年7月28日  夕焼け(ご対面)
1976年3月8日  (たぶん)木綿のハンカチーフ
1976年7月5日  赤いハイヒール
1976年11月22日 
1976年12月27日 最後の一葉

の7回のようなので(だんだん興信所みたいになってきた(笑))、消去法で行けば1976年11月22日の回のようだ。「白いあなた」という曲を実際に歌っているのを私は初めて見たが、この放送では少し曲のテンポが速く、のびやかというより可愛らしい感じで歌っている。同じ番組で「夕焼け」を歌っていた1年半前と比べるとずいぶん大人らしくなっていて、「赤いハイヒール」を歌っていた5カ月ほど前と比べても、女性らしい大人びた感じになっている。

追記 「夜ヒット」の放送で1976年9月13日放送分(40)で太田裕美が「最後の一葉」を歌っているらしく、これが抜けていた。

これは短期間で大人びたということと、作品にあわせて衣装や化粧、雰囲気を変えて歌っていることがいりまじっているからだろう。太田裕美というシンガーは作品世界にあわせて「演じる」ことがあまり上手でないシンガーだったと思うが、太田裕美大人化計画はちゃくちゃくと進んでいるようだ。

で、「白いあなた」なのだが、太田裕美本人の作詞・作曲で、「まごころ」の「ひとりごと」「グレー&ブルー」、「短編集」の「ねえ……!」(作詞は松本隆との共作)、「心が風邪をひいた日」の「水車」に続く5曲目ということになる。だんだんこなれてきて、次の「恋の予感」なんてなかなかいいんじゃないでしょうかと思うが、この曲では「いつも静かなあなただけれども 今日は激しく愛してほしい」というファンへのくすぐりがあるが、少し平板だ。

作詞・作曲:太田裕美 編曲:萩田光雄

夕焼けが白いゲレンデに映る
あなたの透き徹った言葉が
夕陽に染まって赤く燃える
いつも静かなあなただけれども
今日は激しく愛してほしい

(略)

1960年代終わりから1970年代に登場してきたミュージシャンで、いまでも人気があるたとえばサザンオールスターズとか、松任谷由美とか、中島みゆきとか、ついでに井上陽水とか小椋佳とか、先日なくなったRCサクセションの忌野清志郎とか、シンガーソングライターが多い。あとは作詞家とか作曲家とかでシンガーを変えながら生き延びている人も多い。

これに対してシンガーは、もちろん現役の人もかなり多いが、活動的には地味と言わざるをえない。やはり自分で曲が作れないとずっとバリバリというわけにもいかないのだろうか。アルバム「君と歩いた青春」で太田裕美がそのほとんどを作曲していて、けっこういい感じなのだが、遅すぎたのだろうか。いや、まだそう断言するのは早すぎるだろう。

そういえば、フジテレビTWOで12月30日と12月31日の2日間「夜ヒット」の再放送を連続して放送するようだ。さすがに全部録画していたら妻にどやしつけられてしまう。1975年7月28日の「夕焼け」とピアノの先生とのご対面の回(10)と放送日不明の回(4)は録画しておこう。


赤い花緒

2009年12月16日 | アルバム「12ページの詩集」
ニューミュージック色というかフォーク色というかが強い「12ページの詩集」の中でももっともフォーク色が強いのが「赤い花緒」である。作詞・作曲がアリスの谷村新司なのだが、どちらかというと山田パンダあたりが作っていそうな感じの曲である。

「12ページの詩集」は1976年12月5日発売なので、このころのアリスは初めてのヒット曲「今はもうだれも」(1975年9月5日 作詞・作曲:佐竹俊郎)に続き、「帰らざる日々」(1976年4月5日 作詞・作曲:谷村新司)、「遠くで汽笛を聞きながら」(1976年9月20日 作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄)とけっこうのぼり調子のときだったようだ。

私が大学に入学したとき、京都の大学を中退して大学に入りなおした同級生がいた。同級生といっても、経緯が経緯なのでかなり年上で、何事に対しても熱い男だった。その彼が好きだと言っていたのがアリスで、アリスという名前を聞くとそいつのことを思い出す。なんというか熱い心を持てばなんでも乗り越えられる、乗り越えるんだぁ~ という感じで、アリスのファンというのはそういう傾向があるのでしょうかね? 別に悪い感じではなく、言っていることはもっともなのだが、もっともすぎていささか困るというのだろうか.......憎めないんですけど。

「赤い花緒」は、幼なじみの女性に思いを寄せる男の話で、女性は別の男と結婚してしまい、「何もできずに僕は一人で ひざをかかえて泣いていました」と片思いの恋は終わってしまう。そこからがある意味ですごく「こんなかたちの愛があるなんて きっと誰にもわかりはしない 赤い花緒とおさげの君を 心の妻と生きてゆきたい」と決意するのである。こういう話は茶化してはいけない(笑)

この曲では、花緒に浴衣、すだれ、路地、ふろ屋、かなかな蝉と和風このうえない小道具がたくさん登場する。京都の話か? ところで「赤い花緒」って「赤いハイヒール」の和風バージョン? そういえば嫁いでいってしまった彼女は「おさげ」髪だったようだ。

作詞・作曲:谷村新司 編曲:萩田光雄

赤い花緒に浴衣の君を
まだはっきり覚えています
幼なじみの君を妻にと
心に決めて何年過ぎたのか

二階の窓にすだれがおりて
黄色い灯りが路地にもれるころ
ふろ屋の帰りに君の姿が
うすぼんやりとゆれて見えた

(略)


冬の蜂

2009年12月15日 | アルバム「エレガンス」
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」

村上鬼城(本名 村上荘太郎 1865年生1938年没)という俳人の句で、冬の蜂が死に場所を探している様子を歌っているらしい。雌蜂は冬を越すが、雄は冬を越すことなく死に絶える。鬼城は重度の聴覚障害者だったようで、いまでいう司法書士のさきがけのような人だったようだ。耳が不自由だったせいか、弱いものや冬の蜂のように感傷をさそうような生物の姿にひかれている。

そんな冬の蜂の姿に男女の愛をからめて歌いあげているのが「冬の蜂」。アルバム「エレガンス」(1978年8月1日)の最後を飾る曲である。場所は日光の中禅寺湖とその湖畔の宿。季節はもちろん冬で、中禅寺湖あたりは雪が積もるようだが、この曲では紅葉の終わりごろの冬の初めくらいか。

二人ははじめ中禅寺湖でボートに乗るが、やがて雨雲が出てくる。舞台は宿に移動し、やがて雨が降りだす。いくばくかの時間が流れ、湖にたれこめていた霧が薄れ、雲間から陽が差してくる、と時間経過とともに変化する気候がきっちりと描かれている。

冬の蜂は、死に絶える寸前の弱々しさを見せながらも最後に飛び去り、主人公の女性は「刺せない蜂さえあんなに飛べるなら 私も独りできっと生きてゆけるわ」と決意のようなものを抱く。

めずらしく和風の小道具を登場させ、時間経過どおりに物語を進行させ、比較的ていねいに描かれた歌詞なのだが、「急に私の髪撫でて 君に触れることが出来るのも 今日が最後だねと言った」とあたりから、私にはこの二人は普通の恋愛関係にないように思える。まぎれもなく別れの前の旅行で、嫌いになったり、憎み合って別れる話とは思えないので、そうだとするとやはり不倫関係なんだろうな....そう考えれば、舞台が箱根でなく中禅寺湖だったり、季節が夏でなく冬だったり、別れるはずなのにみょうにお互いにひかれあったりしているのもうなづける。そうか太田裕美も不倫関係を歌うようになったか....

もちろん不倫以外にも、たとえば彼が突然海外に転勤するとか、いろいろ別れなければならない理由が考えられなくはないが、紅葉した葉を見て「こんな小さな葉も死ぬ前は 炎えて美しくなるのね」とか、冬の蜂とか、死とか生とかいりまじったイメージは不倫関係を想像させる。まかりまちがえば心中である。

1分近いピアノの旋律で始まり、全体的にはドラマティックな仕上がりで、へたすると「中禅寺湖 不倫カップル謎の変死」みたいな2時間ドラマになりそうなところを、そうならず一気にかけぬける。湿りがちな松本隆の歌詞を、筒美京平と萩田光雄の作・編曲がそうさせず、むしろ主人公の女性のけな気さや意志の美しさみたいなものを感じる。太田裕美はまだ23歳で、このテーマには荷が重すぎるような気がするが、声が若い分、悲壮な感じにおぼれることがなく、かえってよかったのではないかと思う。これが実力派と呼ばれるようなシンガーで、声がしっとりした感じで歌われたら、ますます火曜サスペンス劇場になってしまう。

作詞家松本隆はある時期現代詩をよみふけったというが、「細い糸を張った眼差しを たてに切るような葉の雨」というあたりはその影響だろうか。こういうフレーズと現代詩とはまったくなんの関係もないが、この曲のいくつかの個所で独りよがりのわかりにくい部分がある。

松本隆の歌詞はある時代から、よく言えば「現代詩風」、悪く言えば「言葉の遊び」に傾きすぎてゆき、全体の構成も虚構性が高くなって、正直私はあまり好きでない。というか「心が刺せない歌詞も仕方ないよね」と皮肉のひとつも言いたくなってしまうのだ。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

あれは中善寺の山影の
赤や黄色も褪せる頃
水藻絡むオールふと止めて
ボート岸に寄せたあなた

細い糸を張った眼差しを
たてに切るような葉の雨
こんな小さな葉も死ぬ前は
炎えて美しくなるのね
指先に止まる冬の蜂
弱々しく薄い羽が小刻みに震えた
翡翠の色した雨雲背に置いて
くちびる翳らせ あなたはポツリ言う
飛び交う蜂すら刺せなくなるのなら
心が刺せない愛も仕方ないよね

(略)

蜂と言えば、ロッキード事件で証言にたった首相秘書官榎本敏夫夫人の三恵子さんが、夫が受領を認める発言をしていたと証言し、その証言が「蜂の一刺し」と言われたことがあった。1976年の田中角栄逮捕のころかと思ったが、裁判が始まってしばらくたった1981年10月28日のことだった。

注 中禅寺湖にあまりよくないイメージを持っているのは、私の偏った知識によるもので、実際の中禅寺湖はたぶんそんなことはありません。中禅寺湖の観光関係の人もそう思っているはずです。



またも一回お休み

2009年12月14日 | あまり関係のない話
漫画家の東海林さだおはエッセイストとしても有名だ。なんとかの「丸かじり」とかいうシリーズが面白いかどうか読んだことがないのでわからないが、「ショージ君の青春記」は間違いなく面白かった。この本だったと思うが、青春時代に割り算ばかりしていたというくだりがあった。割り算とは、手元にあるお金の金額を、次の収入があるまでの日数で割る計算のことだ。

たしかに学生時代はよく割り算をしていた。奨学金やアルバイトの収入が入ると、残りの日数で割る。当時の横浜の下宿代は1万円前後で、1か月に6万円くらいあればなんとか過ごせるのだが、酒を飲んだり、麻雀したり、パチンコなんかやったりするもんだから、月末あたりになると割り算をしなおさないといけなくなる。手元に1万円あって残り日数が10日なら1日あたり1000円ということになる。ところが思わぬ出費があったりすると、割り算をしなおすことになり、残り5日で2000円しかなかったりすると、1日あたり400円ということになる。さらに出費があったりすると、残り1000円で3日をやりくりしなければならなくなり、1日あたり300円ちょっと。煙草を吸っていたからもう食費がない......0円にならないかぎり計算式は成り立つが、人間はいつか暮せなくなってしまうわけだ。

なんの話をしたかったんだったか.....そうそう新聞が読めなかったのでテレビやラジオでなにがやっていたかわからなかったということに似て、音楽雑誌がまわりになにもなかったということが語りたかった。

高校時代にはこづかいというものがあって本を買ったり雑誌を買ったりでき、なにもしなくても食事がでてきたのだから、自由はなくても飢えて死ぬことはない。しかし、下宿生活を始めてからは、自由を手に入れたかわりに、こづかいというものがなくなってしまった。生活費とこづかいの境目がなくなってしまったのだ。すべてが生活費であるといえばそうだし、すべてがこづかいといえばそう言えなくもない。すべてがこづかいと言ったって、食事をしないわけにもゆかないので、気分的には生活費を削ってこづかいにあてるといったほうが実態に近い。

当然、高校時代にはよく買っていて、目にしていた音楽雑誌のようなものはまわりになにもない生活となった。自分で楽器を演奏していたような友人の下宿にいったりするとたまに音楽雑誌があったりしたが、そのほとんどが洋楽、とくにロック系の雑誌で(個人的にはそちらのほうが趣味なのだが)、そんな雑誌には太田裕美のことなどどこにも載っていない。で、情報という点では完全に隔離されたような状態になってしまった。

まぁ、そうは言っても本屋さんで立ち読みという手段もあるわけだから、やはり音楽そのものへの関心が薄れていったのだろう。なにより生活のためにアルバイトしないといけないとか、自己防衛のために社会学系の本を読まないといけないとか、音楽どころじゃなかった。

そんな当時でも「ニューミュージック論争」があったことは記憶している。そんな当時としてしまったが、たしか私が高校生のころの1974年や1975年にはもうニューミュージックという用語があったような記憶がある。

ニューミュージックは、歌謡曲でもフォークでもない音楽として話題になったその当時の音楽で、私の個人的見解ではそれ以降の日本の音楽の流れを決定づけた重要な動向である。しかし、そんなニューミューッジックについてネットで調べてみると、私にとっては意外なことが書かれていることが多い。たとえばWikiPediaで「1978年の音楽」の項を見ると、「ニューミュージックが台頭する」とあって、「1979年の音楽」の項には「ニューミュージックが全盛期を迎える」とある。えっ、だいぶ遅いような.....

WikiPediaは特定の編纂者が項目を記述していないため、項目によって齟齬があるのは想像できるが、とうの「ニューミュージック」の項では「ニューミュージックの始まりは、おおむね、1972年ごろ、といわれている。具体的には、1972年の吉田拓郎『結婚しようよ』、井上陽水『傘がない』、荒井由実『返事はいらない』、そして、1973年のかぐや姫『神田川』などを、始まりとすることが多い。」とある。

どちらかという私の記憶では後者である。当時の雑誌では、たくろうのある時期から、陽水はちょっと微妙だが含めている人が多かったような....荒井由美はまさにその典型というより、個人的見解では荒井由美以前と以降で大きく違い、かぐや姫はニューミュージックではなくまったくのフォーク。風になってからはニューミュージック。小椋佳もニューミュージック。そんなイメージなのだが......そのため1975年ころにはすでにあるピークを迎え、それ以降はじょじょに歌謡曲に取り込まれていってしまったようなイメージなのだ。

そんなあいまいなニューミュージックなのでWikiPediaでも記述に苦心がうかがえる。太田裕美が登場するくだりでは、「歌謡曲とニューミュージックとJ-POPの境界線自体が定かではなく、例えば太田裕美や渡辺真知子はどれに属するのかは論者によってまちまちになるだろうと考えられ、また分類すること自体に意味があるのかどうかという意見もあり得る。」とまでなってしまっている。

困ってしまうのはWikiPediaの次の一節だ。

「ニューミュージックをその内容の一部に含むこのようなガイドブックはいろいろ出版されているが、ニューミュージックというジャンルが確立しているにもかかわらず(範囲があいまいではあるが)、2005年4月現在、ニューミュージックだけを対象とするこのようなガイドブックは存在しない。そのような文献が存在しないことは不思議であり、また、その理由も不明であるが、上記評価(反感)と関係する可能性もある。」

たしかにあれほど騒がれたニューミュージックに関するまとまった文献が存在しないことは不思議だ。で、困っていたら、朝日新聞社が発行する「どらく」という雑誌の一部(昭和50年)をネットで見ることができ、富澤一誠が冒頭で定義していた。

「ニューミュージック」という言葉が使われ始めたのは昭和50年のことだが、その頃、この言葉には二つの意味合いがあった。ひとつは、荒井由実(現・松任谷由実/ユーミン)、ティン・パン・アレーなど新しいタイプのアーティストが出現したことで、それまでのロック、フォークという言葉ではくくりきれなくなったので、それらに対して“新しい音楽”ということで、「ニューミュージック」という言葉が使われ始めた。もうひとつは、吉田拓郎、井上陽水らのフォークから、新しく出現した荒井由実などの全部をひっくるめて便宜的にいう「ニューミュージック」である。
(「どらく」昭和50年)

まあ、このへんで落ち着くしかないのかな。

失恋魔術師

2009年12月12日 | アルバム「背中あわせのランデブー」
またもや昔話から始まる。永島慎二という漫画家がいた。新宿のフーテン族を取り上げた「フーテン」や、売れない漫画家を主人公にした「漫画家残酷物語」が有名だ。どちらもいくつかの短編をまとめたものなのだが、一作ごとに画風ががらがら変わっていて、同じ作家が描いたものとは思えないほどだった。大学生活を送っていたころ、どちらも文庫本サイズで出版されていて、私はけっこう好きだった。

その永島慎二の「黄色い涙 若者たち」を原作にしたTVドラマが、NHK銀河テレビ小説の「黄色い涙」で、1974年11月に放送された。調べてみたら、1974年11月25日から1974年12月20日まで、土日をのぞいて毎日20分放送していて、全20回だった。1974年というと私は高校2年生で、その冬ということになる。小椋佳の「海辺の恋」が主題歌で、もしかしたら私はこのドラマで初めて小椋佳を知ったのかもしれない。「海辺の恋」は佐藤春夫の詩に小椋佳が曲をつけている。

このドラマの中で、森本レオと下條アトムが4人の若者のうち2人を演じていて(調べたら、残りの2人は岸部シローと長澄修だった)、失恋したのだったか下條アトムがりんごをかじりながら泣き崩れるシーンをいまでもよく覚えている。原作の漫画のほうでは、若者の一人がランボーの詩を暗唱する場面があって、私がランボーの名前を知ったのはもしかしたらこの漫画からかもしれない、そうではなく中原中也の関連かもしれない。いずれにしろ、永島慎二の作品と中原中也の作品はどこかでつながっているところがある。

さて、本題はここからだ。そんな永島慎二がある時期「旅人くん」という漫画を「ガロ」に連載していた。1973年から1975年あたりらしい。「旅人くん」というのは先に手荷物をぶらさげた棒をかついで旅をする少年で、漫画自体はスジがあるようなないようなよくわからん漫画だった。旅人くんがときどき一言言ってさってゆくのだが(違ったかなぁ)、その言葉が意味があるようなないような、警句のような箴言のような一言で、迷いに迷っていた永島慎二が悟りでも開いたか? と私はびっくりした。この不思議な漫画「旅人くん」の世界と「失恋魔術師」の世界がなんか似ているなぁと思った。なんというか「大人の童話」みたいな世界だ。やあ、わけのわからないところからやっと太田裕美にたどりついた(笑)

「バ・ス・は・い・ま~ ひ・ま・わ・り・ばたけを~」と、このころ太田裕美はよく一語一語を区切って歌うことが多くなっていたが、この曲もそんな歌い方で始まる。恋を失恋で終わらせる? 失恋すると登場する? 失恋魔術師という伯父さんがいて、そいつが彼と待ち合わせしている彼女に「やれ失恋だ、やれ失恋だ」みたいにうるさくつきまとう。

1番ではバスの中でその失恋魔術師に声をかけられ、2番ではバスを降り待ち合わせ場所に向かう彼女のあとをその失恋魔術師がおいかけ、3番では珈琲ハウスに到着しても彼の姿が見えず、4番で遅れて彼がやってきて、一件落着みたいなショート・ショートである。

男女のかけあい形式だが、女性の相手は失恋魔術師という伯父さんでなかなか風変わりだ。なぜ太田裕美がこの時期にこういう曲を歌っているのか私にはさっぱりわからないが、吉田拓郎がどういう顔をしてこの曲を作曲していたのか想像すると興味深い。でもまあ、たくろうはけっこうアイドル好きなんだよなぁ。

作詞:松本隆 作曲:吉田拓郎 編曲:鈴木茂

バスは今 ひまわり畑を
横切ってあなたの街へ
隣から だぶだぶ背広の
知らぬ人 声かけるのよ
お嬢さん 何処ゆくんだね
待ち人は来やしないのに
いえいえ 聞こえぬ振りをして
知らん顔して 無視してるのよ
その人の名は アー失恋
失恋魔術師
失恋魔術師

(略)

シングル「失恋魔術師」は1978年3月21日にリリースされ、1978年2月25日発売の「背中あわせのランデブー」収録なので、アルバムのほうが先行している。

TVドラマ「黄色い涙」はNHKにマスターテープもないようだが、民生機器で録画したものがNHKライブラリにはあるようだ。もう一度見てみたいなぁ。なぜ下條アトムは泣いていたんだろうか。


カーテン

2009年12月11日 | アルバム「12ページの詩集」
「ゴオ ゴオ ゴオと雪の銀河をぼくはまっしぐらなんです」(抱きしめたい)、「とっておきの微笑 ぽつん」「いっちょうらの涙を ぽつり」「ふけもしない口笛 ひゅうひゅう」(あしたてんきになあれ)

いずれもはっぴいえんど時代の曲で、松本隆はこのころ擬声語を歌詞にいかそうと苦心していた。この影響なのか大瀧詠一も「颱風」で「どどどどどっどー どどどどどっどー みんな吹きとばす」と宮澤賢治のような歌詞を書いている。

太田裕美作品になると松本隆のこの嗜好は息をひそめ、あまり擬声語は使っていない。歌謡曲で擬声語をじょうずに使うのはむずかしいのだろう。記憶に残りやすいところでは「路面電車でガタコト走り」で始まる「茶色の鞄」くらいだろうか。そんな松本隆作品でひさびさに登場したのが「カチンと凍ったため息」である。「カチン」も「ガタコト」も歌の中で聴くのはこれからもなさそうだ。

「12ページの詩集」で「青い傘」と「君と歩いた青春」の間にはさまれているのが「カーテン」で、松本隆作詞、ケン・田村作曲となっている。ケン・田村ってだれだ? と思って調べてみたら、あまり情報がない。どうも福岡出身の日系三世らしく(茅ヶ崎生まれという説もあり)、筒美京平の「弟子」という説もあった。弟子かどうかはともかく筒美京平人脈ではあるらしく、この曲の編曲は筒美京平が担当している。

ケン・田村は「LIGHT ACE」「FLY BY SUNSET」の2枚のアルバムを残してまたどこかへ行ってしまったらしいが、「LIGHT ACE」のジャケットの帯に「ウエストコーストからすごい男がやってきた。」とあるくらい(笑)で、なかなか不思議なミュージシャンである。「FLY BY SUNSET」(1982年)は紹介文によれば「アーバンなLAサウンド」とかで、私の苦手な音楽なのだが、鈴木茂と後藤次利のアレンジらしく、メンツはよさそう。いくつかの曲はYouTubeで聴くことができた。

さて「カチンと凍ったため息」の「カーテン」だが、真冬の晴れた日に別れ話をして帰って行くか、同棲していたのが出ていったかする彼の後姿を見送る女性を描いている。冬の寒空で雪の積もった道の上で引っ越しというのもなんなので、別れ話をしにきて帰るのかなぁ。部屋に一人取り残され失意の中の彼女だが、悲しくはあっても暗い感じはしない。ただ破れた心を癒す空間が欲しいと願っている。タイトルどおり、冬のひんやりした風の中で揺れるカーテンのような曲と太田裕美の声である。

ひとつひっかかるのが、「友だちにさえ 触れ合わなければ 傷つく事も無いでしょう」である。普通、失恋とかした場合、友だちは慰めてくれる存在として登場してくるのだが、この曲では友だちは自分を傷つける存在として扱われている。なぜ? 女性にとっては友だちはそういうものなの? まさか友だちと彼がなにか関係があったとか? そうとも思えないので、とにかくだれでも触れてほしくないという感じなのかなぁ。

作詞:松本隆 作曲:ケン・田村 編曲:筒美京平

冬が渦巻く青空
カチンと凍ったため息
鎧戸から覗く雪道
あなたの背中を追った
揺れている私はカーテン
泣き顔も見せません
誰も入り込めない
心の壁が欲しいの

(略)



仮・こけてぃっしゅ

2009年12月09日 | アルバム「こけてぃっしゅ」
さて「こけてぃっしゅ」である。どうも私にとってこの「こけてぃっしゅ」というアルバムが鬼門のようなのである。このアルバムさえなければ、「背中あわせのランデブー」とか、「エレガンス」とか、いい悪い好き嫌いはさておき、なんとかついてゆけただろうし、同じ夏の感じでも「Feelin' Summer」とかまでくれば「いい感じ」に思えるので、まあその後もなんとかなったのだが、このアルバム一発で「もういいや」状態になってしまったのである。

「カジュアル」だの、「きれいなおねえさま」だの適当に名づけているが、じつのところそんなパブリックイメージはその当時もそれほど重要でなく、この「こけてぃっしゅ」というアルバムの音楽がピンと来なかったのだ。ましていまや50過ぎのおじさんである。アルバムジャケット見たって「きれいなネーちゃんじゃん」程度のことしか思わない。いま聴いてどうかなのだが、やっぱりピンと来ない。困った.....

なぜ困るかというと、この「こけてぃっしゅ」を高く評価する人が多いからである。松本隆もインタビューで「いい!」と言っている。まあこのさい松本隆がどう言おうと知ったことではないが、困るのは太田裕美本人もそれに同調するようなことを言っているらしい....ま、このさい本人もなにを言おうと横に置いておくかぁ(笑)

問題なのはやはり多くのファンである。中には松本隆や太田裕美が気にっているというだけで盲目的に従うファンもいるのだろうが、圧倒的大多数のファンは、私なぞより耳が肥え、音楽的教養も豊富な方たちである。太田裕美のファンというほどでもないという人も多いだろう。そのみなさんが評価しているのである。中には「最高傑作」とまで評価する人もいる。弱った......

これはきっと私の耳か、脳かがおかしいに違いない。そう思って繰り返し繰り返し聴くことにした。私はいま音楽を聴きながら仕事することができる。たしかに耳障りな音楽というわけではない。まあ快適な曲が多い。多いのだが、右から左へすり抜けて行く。実際には両耳で聴いているのだから、耳から入ってどこか亜空間へ消えていってしまう。一片の言葉も、ひとひらの旋律も残らない。ますます弱った......

やっぱこれは自己暗示をかける以外ない、と「『こけてぃっしゅ』はすばらしい」と10回唱えてから聴いてみた。う~ん。正座して聴いてみるか、そうだスピーカーで聴いているからいけないのだ、と思い携帯機器に録音して街を歩きながら聴いてみた。う~ん。水ごりでもするか.....

「だいたい邦楽は洋楽に近づくと、それなら洋楽聴いたほうがよくないかとなって、つまらくなるんだよな。歌謡曲とかニューミュージックでも邦楽でしか手に入らないから存在価値があるんだよな」というへ理屈も考えてみるが、このアルバムに近い洋楽が思い浮かばない。なんかこういうはっきりしない音楽を私は嫌いなのかもしれない。それでは高評価しているみなさまに申し訳ないので、しばらくは一日に一回聴くことにしよう。

とりあえずここで止まっていると先に進まなくなるので、またいつか「『こけてぃっしゅ』はすばらしい」と思える日がきたら、とりあげることにしよう。なんか四国巡礼のような感じになってきた。

仮・十二月の旅人

2009年12月08日 | アルバム「十二月の旅人」
「ジョンが死んじゃったよ」そう言って友人が訪ねてきたのは、その日の夕方だった。驚いてラジオをつけたらジョンの曲をずっと流していた。ウオッカを買いに行って二人でラジオを聴きながら夜更けまで飲んでいた。FENを聴いていたはずだが、いつまでもいつまでもジョンの曲を流していたような記憶がある。

ジョン・レノンが射殺されたのは1980年の12月8日夜10時50分ころだが、日本時間では12月9日午後0時50分ころ。その日の午後3時ころNHKのニュースで第一報が流れたようで、YouTubeにそのときのニュース映像があった。

正直なところ、当時の私はオノ・ヨーコという女性があまり好きではなく、ジョンの音楽も聴いたり聴かなかったりしていたが、後輩が買ってきた「Double Fantasy」を聴いてしばらくあとでの出来事だったため、よけいに驚いた。

私の周囲にもまだまだThe Beatlesの熱心なファンがいて、なぜか彼らは一浪か二浪している学生だったが、みな世代的にはかなり下の世代だ。私はと言えば、小学生のころ、隣の大学生のおにいちゃんが大きな音量で「Let It Be」をかけていて、英語がわからない私は「Let It Be」を「エルビー」と覚えて歌っていたような年齢である。こんな私たちの世代でも、好き嫌いはともかくジョン・レノンが射殺された事件はかなりショックだった。

佐野元春はその夜ハートランドのギタリストの伊藤銀次からの電話でジョン・レノンの死を知ったらしい。Bruce Springsteenはツアーの最中だったらしく、12月9日のオープニングでジョン・レノンについてと、自分がなぜいまステージに立って演奏を続けなければならないと感じてるかを説明したという。

甲斐バンドは武道館でのコンサートの真っ最中で、アンコール前に控室に戻ってきて、スタッフと談笑しながら、なにげなく手に取った夕刊紙の見出しの「ジョン・レノン 射殺される」を見て甲斐よしひろが信じられない顔をする。彼は何度も顔をふってから十字を切る。夕刊紙を破き、何度もその新聞を固く握りつぶす。ステージに戻ってから歌い始めるのが「翼あるもの」だった。そんな姿もYouTubeで見ることができる。

それこそ松本隆や大瀧詠一らの世代が受けた衝撃は想像以上だろう。太田裕美の13枚目のアルバム「十二月の旅人」はそんな1980年12月9日の3日後の1980年12月12日に発売されている。調べたところ1980年12月9日は火曜日で、12月12日は金曜日ということになる。1980年代しょっぱなに起こったこの事件のとき、太田裕美はどこでなにをしていたのだろうか。

茶いろの鞄

2009年12月07日 | アルバム「手作りの画集」
「茶いろの鞄」はシングル「赤いハイヒール」のB面として1976年6月1日に発表されている。アルバムなら「手作りの画集」(1976年6月21日)の最後に収録されている曲だ。

「茶いろの鞄」の素材は「青春のしおり」と似ていて、たぶん高校時代を振り返るような話になっている。ただ、「青春のしおり」がCSNYとかウッドストックとか登場することで、「生き方」みたいなものが問われた時代が背景になっているのに対して、「茶いろの鞄」では「のばした髪」や「煙草かくして代返させてサボった」りしているが、そこまでの背景はなく、まあ、いわゆる不良の話である。「人間らしく生きたいんだ」とか歌詞に登場してくる「あいつ」は言っているようだが、思春期のそんなころはそんな台詞のひとつも吐いてみたくなるものである。

全共闘運動が活発だった当時、高校全共闘というものがあって、都内のいくつかの高校はかなり激しかったようだが、もちろん私はそれを知らない。この高校全共闘で活動した著名人として、坂本龍一(1952年1月17日生)や四方田犬彦(1953年生)、矢作俊彦(1950年生)らの名前をみかけることができる。松本隆(1949年7月16日生)よりもあとの世代のようにも思えるが、「青春のしおり」にそういった背景が実際あったかどうかはわからない。

太田裕美公式オフィシャルサイトの中で、「青春のしおり」のなかでCSN&Yを登場させたことについて尋ねられ、松本隆本人はCSN&Yでは「変わりはしない」(まあ影響を受けなかった程度の意味か)とし、影響を受けたのはビートルズであるとしたあとで、「ちゃんとユーザーを考えてるよね、当時の」と答えている。「ユーザー」という言葉に私は違和感を感じるが、それはともかく、「青春のしおり」でCSNYを登場させたように、「茶いろの鞄」ではユーザーにあわせて高校の管理システムみたいなものがターゲットになっているようだ。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

路面電車でガタゴト走り
橋を渡れば校庭がある
のばした髪に帽子をのせた
あいつの影がねえ見えるようだわ
人は誰でも振り返るのよ
机の奥の茶色の鞄
埃をそっと指でぬぐうと
よみがえるのよ 懐しい日々

学生服に煙草かくして
代返させてサボったあいつ
人間らしく生きたいんだと
私にだけは ねえやさしかったわ
もう帰らない遠い日なのに
あの日のままね茶色の鞄
大人になって変わる私を
恥ずかしいよな気持にさせる

(略)

あらためて「茶いろの鞄」の歌詞をながめていて、ふと荒井由美の「卒業写真」を思い出した。曲調も歌詞の内容もまったく違うのだが、なんとなく関係あるような気がしている。

作詞・作曲:荒井由美

悲しいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人はやさしい目をしてる
町でみかけた時何も言えなかった
卒業写真の面影がそのままだったから
人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くで叱って

(略)

「青い傘」に「かわい」さんが「この曲の詩に対抗して松本隆氏は『九月の雨』を書いたのでしょうか?」と問いかけてきていただいた。私としてはまったく思いがけない問いだったが、それ以降、荒井由美と松本隆の歌詞の関係がみょうに気になっている。もちろんこれはどちらかがパクったというような話ではなく、できあがった曲はまったく似通っておらず、相似点を探すほうのがむずかしいのだが、テーマみたいなものがなんか似ているような気がする。とくに松本隆は荒井由美の世界をかなり意識していたのではないかと思えてならない。もっとも、あの当時、荒井由美の作品世界を無視するほうがむずかしい状況だったのだとも思う。

荒井由美の「卒業写真」は、1975年2月5日にHiFi-Setのシングル盤として発表され、1975年6月20日にアルバム「COBALT HOUR」で荒井由美がセルフカバーしている。WikiPediaによるとその後もカバーするミュージシャンが数多く、2000年以降で11人もいる。「卒業写真」に登場する「あなた」は同性だったいうことを今日私ははじめて知った。



六月天

2009年12月04日 | アルバム「心が風邪をひいた日」
ご存知のかたも多いと思うが、「六月天」というのは「木綿のハンカチーフ」の広東語バージョンである。歌っている人の名前もわかるが、このブログの文字コードが「EUC-JP」なので中国語繁体字が表示できないため、書くことができない。

歌詞を画像としてアップロードしてみた。うまく表示できればいいのだが。妻が広東語を読み書きできるので、どういう意味なのか聞いてみたところ、六月の海辺を二人で歩きながら.......忘れた。まあそういう意味らしい。「六月天」でGoogleで検索するとヒットする。

「木綿のハンカチーフ」は北京語(台湾)バージョンもあるらしいが、そちらはまた歌詞が違うようだ。妻は北京語も読み書きできるので、いつかその歌詞の意味を聞いておこう。忘れなければいつか紹介したい。



以下追記

最初『「木綿のハンカチーフ」は北京語(大陸)バージョンもあるらしい』としたが、大陸でなく台湾で発表されたようなので、一部修正した。

コメントで指摘していただいたように、いわゆる中国語は実際にはかなりたくさんの言語に分類することができて、大きく分けても「北京語」「広東語」「上海語」とか「長沙語」とかたくさんあるようだ(7つの大方言。正確には、北方、呉、かん、湘、びん、客家、えつ)。これらは「方言」とされているが、広東語だけで7000万人とか8000万人の人口がいるらしい。まあ面積も人口も日本人には想像できないような規模なので、方言と言っても日本の人口くらいの規模になってしまう。

歴史的には、中国共産党が北京語(正確には北方方言の役人が使う言葉(官話)というらしい)をベースに「普通話」(文中では日本人にわかりやすく「北京語」としている。「プートンホア」みたいな発音)を制定した。一方、台湾に脱出した国民党は北京語をそのまま使っていたため、台湾も北京語ベースになっていて、台湾ではこの言葉を「國語」と呼んでいる(「台湾語」と呼ぶともともと台湾に住んでいた民族の言語を呼ぶらしい)。俗説では、台湾の「北京語」は大陸の中国人が聞くと「おねえ言葉」のような感じに思えるようだ。日本でいうと京都のお公家言葉みたいな感じだろうか。

文字に関しては、中国共産党が簡体字政策を進めたため、大陸では簡体字が使われ、台湾ではそのまま繁体字が使われ続けた。現在、大陸「北京語ベースの普通話-簡体字」、台湾「北京語ベースの國語-繁体字」、香港「広東語-繁体字」みたいな状態になってしまっている。

とまあ、いちおう説明らしきものをしてみたが、自信はない。ほとんどが妻からの話の聞きかじりである。この追記がまたもや誤っている可能性もある。情けなや.....