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太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

夜のヒットスタジオ出演記録

2013年12月30日 | あまり関係のない話
「夜のヒットスタジオ」太田裕美出演回(★は録画済み)


■4
殿さまキングス、天地真理、平山三紀、太田裕美、ザ・ピーナッツ

★10
1975年7月28日放送
山口百恵「夏ひらく青春」/中条きよし「よる」/夏木マリ「愛情の瞬間」/森田健作「はだしの青春」/テレサ・テン「夜の乗客」/太田裕美「夕焼け」/布施明「シクラメンのかほり」/天地真理「初めての涙」


★34
1976年7月5日放送
キャンディーズ「夏が来た」/橋幸夫「おとこ酒」/細川たかし「置き手紙」/布施明「愛の香り」/井上順「君にあげよう」/松本ちえこ「恋人試験」/布施明※演奏:グラスホッパーズ「陽ざしの中で」/太田裕美「赤いハイヒール」/八代亜紀「ふたりづれ」

■40
1976年9月13日放送
郷ひろみ「あなたがいたから僕がいた」/八代亜紀「もう一度逢いたい」/太田裕美「最後の一葉」/森田公一とトップギャラン「青春時代」/黒沢年男「ゆきずりの花」/水前寺清子「にっぽん流行歌」/野口五郎「針葉樹」/沢田研二「コバルトの季節の中で」

★47
1976年11月22日放送
和田アキ子「ダンス・ウィズ・ミ-」/新沼謙治「兄いもうと」/芹洋子「四季の歌」/千田彩子「あけぼの荘」/太田裕美「白いあなた」→「最後の一葉」(メドレー)/野口五郎「針葉樹」/ちあきなおみ「酒場川」/森進一「さざんか」

★50
1976年12月27日放送
内藤やす子「想い出ぼろぼろ」/五木ひろし「どこへ帰る」/太田裕美「最後の一葉」/子門真人「およげ!たいやきくん」/都はるみ「わかって下さい→おまえさん→シクラメンのかほり(メドレー)」/布施明 ※演奏 グラスホッパーズ「落葉が雪に」/都はるみ「北の宿から」/芹洋子 ※コーラス 東京混声合唱団「四季の歌」

★52
1977年1月31日放送
太田裕美「しあわせ未満」/内藤やす子「手のひらの中の地図」/小柳ルミ子「思い出にだかれて」/あいざき進也「ミッドナイト急行」/岸 洋子「カスバの女」/布施 明「落葉が雪に」※演奏 グラスホッパーズ/片平なぎさ「恋のかげろう」/細川たかし「北の旅愁」

■68
1977年8月29日放送
岡田奈々「らぶ・すてっぷ・じゃんぷ」/八代亜紀「恋歌」/桑名正博「哀愁トゥナイト」/敏いとうとハッピー&ブルー「星降る街角」/太田裕美「九月の雨」/ダーク・ダックス「男が酒を飲む夜は」/テレサ・テン「あなたと生きる」/森田公一とトップギャラン「過ぎてしまえば」/小柳ルミ子「湖の祈り」

■71
1977年10月10日放送
太田裕美「九月の雨」/角川博「捨てぜりふ」/小柳ルミ子 ※ムックル演奏 杉村京子「湖の祈り」/ものえ和恵「帰っちまえ!」/五輪真弓「煙草のけむり→ゲーム(メドレー)」/麻丘めぐみ「ねえ」/奥村チヨ「走馬燈」/布施明「旅愁-斑鳩にて-」


■★74
1977年10月31日放送
太田裕美「九月の雨」/細川たかし「ひとり旅」/南沙織「木枯しの精」/岡田奈々「求愛専科」/大上留利子「GOOD-BYE BABY LOVE」 ※演奏ベーカーズショップ・ホーンスペクトラム/大上留利子「SEXY WOMAN」/五十嵐夕紀「私が選んだあなたです」/森進一「東京物語」/和田アキ子「夜更けのレストラン」

★81
1978年1月30日放送
あおい輝彦「バラの渚」/太田裕美「恋人たちの100の偽り」/森進一「甘ったれ」/和田アキ子「夜更けのレストラン」/河島英五「酒と泪と男と女」/原田真二「シャドー・ボクサー」/石川さゆり「沈丁花」/沢田研二 ※演奏 井上堯之バンド「サムライ」

★88
1978年4月24日放送
太田裕美「失恋魔術師」/内山田洋とクールファイブ「愛の扉」/五輪真弓「さよならだけは言わないで」/ザ・リリーズ  ※ピアノ 太田裕美「春風の中でつかまえて」/久保田育子「翔びなさい」/黒沢年男「時には娼婦のように」/小柳ルミ子「夢追い列車」/シグナル「黄昏のあらし」/野口五郎「泣き上手」

★102
1978年11月27日放送
榊原郁恵「Do it Bang Bang」/アグネス・チャン「やさしさ知らず」/五木ひろし「熱愛」/太田裕美「振り向けばイェスタデイ」/ハイ・ファイ・セット「燃える秋」/野口五郎「グッド・ラック」/由紀さおり「ト-キョ-・バビロン」/小柳ルミ子「雨…」

■106
1979年1月8日放送
野口五郎「送春曲」/都はるみ「あゝ放浪」/さとう宗幸「岩尾別旅情」/新沼謙治「ごめんよ」/桜田淳子「冬色の街」/太田裕美「振り向けばイエスタディ」/郷ひろみ「地上の恋人」/伊東ゆかり「あなたの隣に」

■108
1979年2月12日放送
高田みづえ「ドリーム・オン・ドリーム」/あおい輝彦「北アルプス」/渥美二郎「夢追い酒」/庄野真代 ※演奏 ターゲット54「マスカレード」/大橋純子 ※演奏 美乃家セントラル・ステイション「サファリ・ナイト」/太田裕美「振り向けばイエスタディ」/ツイスト「性(サガ)」/西城秀樹 ※踊り チアガール(横田パンサーズ)/スクールメイツ「ヤングマン」

■114
1979年5月21日放送
サマー・エンジェル/あおい輝彦
ジャングル・コング/庄野真代 ※演奏 ターゲット'54
青空の翳り/太田裕美
魅せられて/ジュディ・オング
蝉時雨/五木ひろし
くわえ煙草/安倍律子
OH!ギャル/沢田研二 ※演奏 井上堯之バンド
海岸通/イルカ

★130
1980年4月28日放送
南風-SOUTH WIND-/太田裕美
一緒に暮らそう/細川たかし
25時/久保田早紀 ※演奏 SOUND BANK
裸足の季節/松田聖子
YOKOHAMA HONKY TONK BLUES→白昼夢→BONY MORNIE(メドレー)/松田優作 
※演奏 エディ藩グループ
恋しくて/三沢あけみ
南回帰線/堀内孝雄・滝ともはる ※演奏 ムーンライダース
カルチェラタンの雪/布施明

またも一回お休み

2009年12月14日 | あまり関係のない話
漫画家の東海林さだおはエッセイストとしても有名だ。なんとかの「丸かじり」とかいうシリーズが面白いかどうか読んだことがないのでわからないが、「ショージ君の青春記」は間違いなく面白かった。この本だったと思うが、青春時代に割り算ばかりしていたというくだりがあった。割り算とは、手元にあるお金の金額を、次の収入があるまでの日数で割る計算のことだ。

たしかに学生時代はよく割り算をしていた。奨学金やアルバイトの収入が入ると、残りの日数で割る。当時の横浜の下宿代は1万円前後で、1か月に6万円くらいあればなんとか過ごせるのだが、酒を飲んだり、麻雀したり、パチンコなんかやったりするもんだから、月末あたりになると割り算をしなおさないといけなくなる。手元に1万円あって残り日数が10日なら1日あたり1000円ということになる。ところが思わぬ出費があったりすると、割り算をしなおすことになり、残り5日で2000円しかなかったりすると、1日あたり400円ということになる。さらに出費があったりすると、残り1000円で3日をやりくりしなければならなくなり、1日あたり300円ちょっと。煙草を吸っていたからもう食費がない......0円にならないかぎり計算式は成り立つが、人間はいつか暮せなくなってしまうわけだ。

なんの話をしたかったんだったか.....そうそう新聞が読めなかったのでテレビやラジオでなにがやっていたかわからなかったということに似て、音楽雑誌がまわりになにもなかったということが語りたかった。

高校時代にはこづかいというものがあって本を買ったり雑誌を買ったりでき、なにもしなくても食事がでてきたのだから、自由はなくても飢えて死ぬことはない。しかし、下宿生活を始めてからは、自由を手に入れたかわりに、こづかいというものがなくなってしまった。生活費とこづかいの境目がなくなってしまったのだ。すべてが生活費であるといえばそうだし、すべてがこづかいといえばそう言えなくもない。すべてがこづかいと言ったって、食事をしないわけにもゆかないので、気分的には生活費を削ってこづかいにあてるといったほうが実態に近い。

当然、高校時代にはよく買っていて、目にしていた音楽雑誌のようなものはまわりになにもない生活となった。自分で楽器を演奏していたような友人の下宿にいったりするとたまに音楽雑誌があったりしたが、そのほとんどが洋楽、とくにロック系の雑誌で(個人的にはそちらのほうが趣味なのだが)、そんな雑誌には太田裕美のことなどどこにも載っていない。で、情報という点では完全に隔離されたような状態になってしまった。

まぁ、そうは言っても本屋さんで立ち読みという手段もあるわけだから、やはり音楽そのものへの関心が薄れていったのだろう。なにより生活のためにアルバイトしないといけないとか、自己防衛のために社会学系の本を読まないといけないとか、音楽どころじゃなかった。

そんな当時でも「ニューミュージック論争」があったことは記憶している。そんな当時としてしまったが、たしか私が高校生のころの1974年や1975年にはもうニューミュージックという用語があったような記憶がある。

ニューミュージックは、歌謡曲でもフォークでもない音楽として話題になったその当時の音楽で、私の個人的見解ではそれ以降の日本の音楽の流れを決定づけた重要な動向である。しかし、そんなニューミューッジックについてネットで調べてみると、私にとっては意外なことが書かれていることが多い。たとえばWikiPediaで「1978年の音楽」の項を見ると、「ニューミュージックが台頭する」とあって、「1979年の音楽」の項には「ニューミュージックが全盛期を迎える」とある。えっ、だいぶ遅いような.....

WikiPediaは特定の編纂者が項目を記述していないため、項目によって齟齬があるのは想像できるが、とうの「ニューミュージック」の項では「ニューミュージックの始まりは、おおむね、1972年ごろ、といわれている。具体的には、1972年の吉田拓郎『結婚しようよ』、井上陽水『傘がない』、荒井由実『返事はいらない』、そして、1973年のかぐや姫『神田川』などを、始まりとすることが多い。」とある。

どちらかという私の記憶では後者である。当時の雑誌では、たくろうのある時期から、陽水はちょっと微妙だが含めている人が多かったような....荒井由美はまさにその典型というより、個人的見解では荒井由美以前と以降で大きく違い、かぐや姫はニューミュージックではなくまったくのフォーク。風になってからはニューミュージック。小椋佳もニューミュージック。そんなイメージなのだが......そのため1975年ころにはすでにあるピークを迎え、それ以降はじょじょに歌謡曲に取り込まれていってしまったようなイメージなのだ。

そんなあいまいなニューミュージックなのでWikiPediaでも記述に苦心がうかがえる。太田裕美が登場するくだりでは、「歌謡曲とニューミュージックとJ-POPの境界線自体が定かではなく、例えば太田裕美や渡辺真知子はどれに属するのかは論者によってまちまちになるだろうと考えられ、また分類すること自体に意味があるのかどうかという意見もあり得る。」とまでなってしまっている。

困ってしまうのはWikiPediaの次の一節だ。

「ニューミュージックをその内容の一部に含むこのようなガイドブックはいろいろ出版されているが、ニューミュージックというジャンルが確立しているにもかかわらず(範囲があいまいではあるが)、2005年4月現在、ニューミュージックだけを対象とするこのようなガイドブックは存在しない。そのような文献が存在しないことは不思議であり、また、その理由も不明であるが、上記評価(反感)と関係する可能性もある。」

たしかにあれほど騒がれたニューミュージックに関するまとまった文献が存在しないことは不思議だ。で、困っていたら、朝日新聞社が発行する「どらく」という雑誌の一部(昭和50年)をネットで見ることができ、富澤一誠が冒頭で定義していた。

「ニューミュージック」という言葉が使われ始めたのは昭和50年のことだが、その頃、この言葉には二つの意味合いがあった。ひとつは、荒井由実(現・松任谷由実/ユーミン)、ティン・パン・アレーなど新しいタイプのアーティストが出現したことで、それまでのロック、フォークという言葉ではくくりきれなくなったので、それらに対して“新しい音楽”ということで、「ニューミュージック」という言葉が使われ始めた。もうひとつは、吉田拓郎、井上陽水らのフォークから、新しく出現した荒井由実などの全部をひっくるめて便宜的にいう「ニューミュージック」である。
(「どらく」昭和50年)

まあ、このへんで落ち着くしかないのかな。

また一回休み

2009年11月29日 | あまり関係のない話
「永チャンのコンサートに行かんか?」と電話をしてきたのは、学生時代に開かれた太田裕美のコンサートを用務員室でただ見した男である。矢沢永吉か....そういえば私は1982年ころ? 永チャンがアメリカに進出したころに武道館に行ったことがあった。すでに25年以上も前の話だ。それまでのド演歌ロックから軽快な「ROCKIN' MY HEART」に切り替えたころで、けっこう私は好きだった。しかしなぜいま矢沢?? と思ったが、一計を案じて行くことにした。さすがに永チャンのコンサートではキャツもそうだれを誘っていいというわけでもないだろう。

県民ホールで行なわれた永チャンのコンサートは、コアなファン? が多くて少し閉口した。最後のノリの頂点のころ、ファンはタオルを上に投げるのである。何度も何度も。25年前にはタオルを首に巻いているのはいたが、みんなしていっせいに投げるような真似はしなかったはずだ。いつから.....こういうコアなファンというのが、なんか苦手だ。結果的に普通の人々を排除してしまうようで。まあ、ファンはどうでもいいが、永チャンのボーカルは昔とは比べようもないほどすばらしい。昔は巻き舌を使ったようなへんな歌い方だったが、いまはとても素直な歌い方で、心に響くようないい声で歌う。もしかしたらいまの男性ボーカルで何本かの指に入り、しかもかなり上位なのではないかと思った。

ま、永チャンはともかく、私が案じた一計とは永チャンのコンサートに行くかわりに太田裕美のコンサートに行かないかというプランであった。永チャンと裕美ちゃんをバーターにするのもなんだが、ひとりで太田裕美のコンサートに行くほどの根性は私にはない。ただ見男は一瞬びっくりしていたが、なんとか納得した。

で、調べてみた。来年1月の終わりごろにあるらしいが、げっ、所沢ではないか....ただ見男なんか横浜の桜木町在住である。行っていけないことはないが、金曜日だと早退させるしかない。どうしたもんか.....

もう一回休み

2009年11月20日 | あまり関係のない話
自分の好きなアーティストや曲のことを、たとえ見知らぬ人間であっても、悪く言われるのは不愉快なものだろう。立場が違えば、たとえば太田裕美の作品について悪く言われれば、私も不愉快とは言えないまでも、あまり気分がいいものではない。これからはっぴいえんどについてファンにとってあまり感心しないことを書くことになる。

はっぴいえんど(1970年ころから1972年ころ)がみょうに評価されているのが気になる。ご存知のようにはっぴいえんどには松本隆がいて、太田裕美と非常に深い関係がある。「深い関係がある」ではへんな意味になってしまうかもしれないので、作詞家として太田裕美作品に非常に深く関わった、としておく。当時の製作陣でだれが主導権をとり、だれがなにを決定していたかは私にはわからないが、松本隆が「海が泣いている」ころまでアルバムタイトルを決めていたようで、その程度には決定権があったようだ。

そんな重要な人間が参加していたバンドなのではっぴいえんどのことは気にしないわけにはいかない。いかないので、聴きなおしてみた。正直、はっぴいえんどの音楽はあまりにつまらないのでおくら入りしていたのだ。聴いてみて疑問が浮かぶ。まず最近ははっぴいえんどが「日本語ロックの先駆者」のような言われ方をしている。私はずっと「日本語ロックの先駆者」はジャックス(1966年ころから1969年)だと思っていた。昔もそう言われていた。ジャックスは、たしかに暗いが、間違いなくロックである。ドアーズがロックならジャックスはロックだ。

ジャックスの早川義夫という人は、内田裕也のような感じではないが、生き方がどこかロックっぽい。一時南武線の武蔵新城駅の近くで早川書店という本屋さんをやっていて、そのころの話が「ぼくは本屋のおやじさん」(晶文社)にまとめられている。この本が出版されたのが1982年のようで、ちょうど椎名誠たちがやっていた「本の雑誌」が注目されたころと重なっていた。ついでに書いておくと、このころ菊名駅近くにあるポラーノ書林に「本の新聞」という小新聞が置いてあった。この新聞は近くのいくつかの書店主たちが発行していたもので、とてもいいものだった。当時、東急東横線沿線に私は住んでいたので、ポラーノ書林にはよく行き、一度早川書店にも行ったことがある。早川義夫は音楽活動を再開したようだ。

それはさておき、はっぴいえんどだが、そもそもはっぴいえんどの音楽はロックなのだろうか? 私には、同じころ活動していたザ・ディランII(1971年ころから1974年ころ)と同じような世界に思えてならない。ザ・ディランIIは大学時代に一浪して入ってきた友人に教えてもらったもので、彼の下宿で麻雀しながらよく聴いていた。いまでも好きだ。聴いていてまったく飽きない。はっぴいえんどの音楽もザ・ディランIIとほとんど同じに聴こえるのだが、はっぴいえんどがロックで、ザ・ディランIIはフォークに分類されている。不思議だ。

WikiPediaにはザ・ディランIIの項で「ロック色が強かったため、『東のはっぴいえんど、西のザ・ディランII』などと対比される」とある。もし対比したら、ザ・ディランIIの圧勝のような気がする。

と、私にとってははっぴいえんどというバンドはあまりよろしくない。なのに年をへるにつれてはっぴいえんどの評価が高くなっている。この背景には、はっぴいえんどのメンバーである細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂たちの後年の活躍が大きく影響している。彼らは、とくに細野、松本、大滝の3人はセールス的に大きな成功をおさめ、松本隆にいたってはいまではシングル売上総枚数で阿久悠についで2位にまでなっている(WikiPedia)。はっぴいえんどというバンドの評価が高くなっているのは、彼らが成功者だからではないかと思う。本人たちにその意識があるかどうかわからないが、成功者が歴史を塗り替えてゆくという言葉を思い出す。

歴史的には、はっぴいえんどのロックバンドとしての評価は、岡林信康のバックバンドの時代を考えないといけないのだろうと思う。この時期が彼らが本当にいい仕事をしていた時代なのだろう。が、さすがに太田裕美について書いているこのブログのために、岡林信康を聴きなおす気になれない。ちょっと中途半端で申し訳ないが、とにかくはっぴいえんどはみょうに高く評価されすぎではないかと疑問に思っているとしておく。

作詞家松本隆も、私には太田裕美と関係していた時代はとてもいい仕事をしていたと思える。歌謡曲の世界と文字通り格闘しながらいい作品を数多く残してくれた。しかしその後、じょじょに虚構性が高くなり、技巧的になり、実験性が高くなっていってしまい、私は閉口することになる。それでも筒美京平という、このよくわからない作曲家の底力があったせいだろうが、まだまだ太田裕美作品は聴くことができた。

しかし、たとえば、松田聖子が太田裕美の後継というような言われ方がされる。私はなんか不愉快になってしまう。80年代に青春時代を送り、松田聖子のファンだという方には申し訳ないが、私は松田聖子のその音楽にもキャラクターにも興味がない、ではなく好きではない。80年代の邦楽は一部のアーティストを除いて、興味がない。60年代をひきづっていた70年代が「空白の時代」なら、60年代の重しがとれてバブルに突き進む80年代は「空疎な時代」である。私にとっては松田聖子はある意味でその象徴である。「松田聖子が太田裕美の後継」という言い方には、松本隆が提唱したかした歌詞構造か音楽構造かセールス構造があるのだろうが、私にとっては松田聖子と太田裕美の間にはなにもない。

残念なことに鈴木茂が今年の2月に大麻事件で逮捕され(有罪判決)、はっぴいえんどのアルバムが発売停止になってしまった。それでも聴く機会があるようなら、同時にジャックスとザ・ディランIIの音楽も聴いてやってほしい。

この項を書くにあたって「早川書店 早川義夫」でGoogleで調べていたら「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」と題したブログに行きあたった。早川義夫のアルバムタイトルのブログで、この方は早川書店の話を書いていて、その文章に思わず鼻の奥がツンとなった。

一回お休み

2009年11月13日 | あまり関係のない話
ある方が自身のブログで70年代についておもしろいことを書いている。その文章は、その方の知人の「73年くらいまでは60年代なんだよ」という言葉から始まる。70年代に入ってもけっこう長い間60年代をひきずっていて、1973年ころでひきずるのが終わったというようなことだ。70年代に入っても60年代的なものをひきずっていたことは多くの方が指摘していることなので、いまさら言うことでもない。

1973年というのもなんとなくわかる。1972年の冬、札幌オリンピックが開かれたその冬の光景は目に焼き付いている。あさま山荘事件である。当時私は中学2年生で、もうすぐ3年生というその冬の攻防は、「カッコいいおにいちゃん」たちの闘いだった。人質になった女性には申し訳ないが、「カッコいいおにいちゃん」たちが戦うべき警官たちと激しい攻防を続けるさまは、田舎の中学生にはやはりある意味で憧れの対象だった。思えば、ウルトラマンやウルトラセブンを見ていた小学生時代にテレビのニュースで見た学生運動に燃えた学生の姿は、遠い世界の話だったが、なんかわくわくする光景だった。それがあさま山荘事件でひさしぶりに再現し、期待しながら落城するまで見続けた。

ここまではよかった。しかしその後次々と明らかになっていった内ゲバリンチ殺害事件がいけなかった。しかもそのさまが詳細になってゆくにつれて、憧れが幻滅へと変わり、いたたまれない気分になった。総括の名のもとに仲間を、兄弟を死へと追いやってゆく姿の奥に、人間のどうしようもない闇のようなものを見たような気がする。

そんな事件の翌年の1973年あたりに60年代をひきずることもなくなったということなのだろう。しかし、70年代後半に大学時代を送ったものとしては、大学によりけりなのだろうが、まだまだ60年代的なるものをひきずっていたように思う。

当時学生の間で流行っていた言葉に「軟弱」という言葉と、「屈折」という言葉があった。軟弱はもともとは、人を非難や批判するときの言葉だったのだろうが、当時は「軟弱だからぁ」と自分で言ってみたり、「軟弱だなぁ」といってみたり、半分じゃれあっているようなときに使っていた。かなりパロディのような使い方だ。

屈折という言葉にも少し茶化したような、自己戯画化するような意味はあったが、けっこう本気で屈折していた。この屈折の一番の原因はやはり学生運動の退潮にあったように思う。実際に活動していて挫折したのなら、悲劇ではあるかもしれないが、納得はできるかもしれない。しかし私たちはなにも行動していなかったし、なにも挫折していなかった。ただ子供時代にテレビなどで行動している人を見、挫折している人の姿を見て、心の中でなにか完結したような形になってしまっていた。ここに屈折が生まれた。

個人的には、私が大学に入学したときの3年生あたりが卒業してしまう78年くらいまで60年代をひきずっていて、急にきれいさっぱりなくなってしまうのが1979年ではないかと思っている。1979年は共通一次試験が始まった年で、私が4年生のときに入学してきた学生たちから急にすべてが変わってしまった。

それまでの入試は筆記試験一発だったため、運も左右するだろうし、生まれ育った環境も違えば、個性もばらばら、親の職業や収入もばらばらだったように思う。ところが共通一次試験が始まってからは、生まれ育った環境などが同じような学生が大挙して入学してきたように思えた。試験制度が変わるだけでなぜそうなるのか私にはわからないが、感覚的な断絶感がその世代とはあった。これはその年代を悪く言うつもりで書いているわけではない。なんというか、国のシステムのおそろしさについて語っているつもりだ。

さて冒頭の方のブログだが、おもしろいのは話の後半で、77年から78年くらいになるとその人にとってはもう80年代になっていて、結局、70年代は74年から76年の3年間くらいではないかと語っている。この話と太田裕美の登場、そしてその後の音楽的な変化が関係があるような気がするのだ。どうだろうか。

私は太田裕美のカジュアルな時代が一番好きで、できれば「手作りの画集」や「12ページの詩集」の感じでもう1年くらい、アルバムならもう2作品ほど作ってほしかったのだが、どうも時代がそれを許してくれなかったようで、「こけてぃっしゅ」あたりからすでに80年代を目指して進んでいっていたように思う。

オフィシャルサイトのSpecial Interviewの中で松本隆がアルバム「12ページの詩集」について「これはなんか一回お休みって感じだね」と言っていた。それを真似て今回は一回お休み。

佐藤健って?

2009年11月02日 | あまり関係のない話
「青春のしおり」について書き始めて、あらためてこの曲の歌詞を見てみたら、当時聴いていた印象がだいぶ間違っていたように思えてしまい、停止してしまった。で、この曲で作曲を担当している佐藤健というのはどういう人なのだろうかと調べてみた。

WikiPediaによれば、「1973年(昭和48年)当時、ヤマハ音楽振興会のポプコンに関する業務を行なう部署は『L.M制作室』といい、同室長は、編曲者から作曲家となった萩田光雄で、そこに船山基紀や佐藤健が在籍していた。そこで佐藤は、まだ20歳の大橋と出会った」とある。これは「美乃家セントラル・ステイション」の項目で、文中の「大橋」は大橋純子のことだ。いつごろなのかはわからないが、佐藤健は大橋純子と結婚している。

「都忘れ」で編曲を担当していた船山基紀も、この佐藤健も、萩田光雄の後輩にあたるわけだ。1974年6月、22歳で大橋純子はデビューし、1976年に佐藤健は、「大橋のバックバンドとして美乃家セントラル・ステイションを結成する。第一期メンバーは、佐藤のほか、見砂和照、小田健二郎、土屋昌巳、滝本大助、福田郁次郎、高杉登である」(WikiPedia)という。「青春のしおり」は、大橋純子がデビューし、その後バンドを結成するまでの間に作られた曲のようである。

私は知らなかったのだが、岡田奈々がデビューしてから7作目まで松本隆は歌詞を提供していて(どちらかというと注文を受けて書いていたというべきかもしれないが)、デビュー曲「ひとりごと」(1975年5月10日)と「女学生」(1975年8月25日 )は戸倉俊一と、「くちづけ」(1975年12月10日)と「青春の坂道」(1976年3月10日)は森田公一と組んでいる。「青春の坂道」と言ってもピンと来ないかもしれないが、「せいしゅんは~ ながいさかみちを~ のぼるようです~」という歌詞の曲で、TVドラマ「俺たちの旅」で挿入歌として岡田奈々が歌っている姿をYouTubeで見ることができる。(この曲の歌詞は雑誌「明星」で募集した歌詞をベースにしていて(原案 中司愛子)、松本隆作詞と言いきってしまうといけないのだろう。)

残りの「若い季節」(1976年6月25日)、「手編みのプレゼント」(1976年9月10日)、「かざらない青春」(1976年12月21日)の3曲が、松本隆作詞、佐藤健作曲になっている。私は、大橋純子はともかく、岡田奈々には興味がないので、それらがどんな曲なのか知らないし、調べるほどの情熱もない。しかし、1975年前後に歌謡曲の世界に歌謡曲以外の音楽家たちがなだれこんでいった様子がうかがえるような気がする。

太田裕美の作品で佐藤健の名前は、「12ページの詩集」でもう一度登場する。「一つの朝」(松本隆作詞)だ。タイトルだけではわからないかもしれないが、「みちばたの~ いしころを~ なにげなく~ なげたら~ しあわせのかげがキラリと~ のぞいたよ~」というフレーズがある曲である。さりげない曲だがとてもいい曲だ。

太田裕美作品とはあまり接点がなかったが、気になる存在ではある。で、もうちょっと調べてみたら、植竹公和(放送作家兼作詞作曲家)という方(名前は聞いたことがある)が、興味深いことをご自身のブログ「歌う♬放送作家」で書いていた(2006-08-03 プロ大橋純子&ポップ青年佐藤健のアルバム)。

「このアルバムが日本ポップス史において、ほとんどの音楽評論家が見逃しています。はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではないのです。ポップスの閨閥はもっと多岐に渡っていることを音楽評論家は見逃しています。おそらく、すでに若い音楽評論家はリアルタイムで経験していないので歴史を紐解くとき、つい多く出版されているはっぴいえんど関連資料だけを頼りにしてしまうわけです。」
(「このアルバム」とは佐藤健の1972年のデビューアルバム「僕は今ひとり」をさして言っている。)

私は音楽業界の人間でもなく、まして音楽評論家でもないので、音楽史のことは若い音楽評論家にまかせたいが、「はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではない」という言葉には敬意を払いたいと思う。

ローラー作戦と怠惰なファンである私

2009年10月31日 | あまり関係のない話
熱狂的なファンというものがいるらしい、そこまでいかなくても熱心なファンはたしかにいる。たとえば太田裕美のデビューから現在までをほぼ同時代で追いかけているファンたちだ。そんな人たちには、Bob Dylanのファンでなくてよかったねと、皮肉ではなく思ってしまう。

Dylanはいまの時点で33ものアルバムをリリースしている。私も1976年の「desire」(邦題「欲望」)や、もう少しあとの「Infidels」(1983年)くらいまでは追いかけていたが、さすがに振り切られてしまった。思えば50年近く、Bob Dylanは音楽活動(この場合はアルバム発表を基準。実際の音楽活動はずっと以前から)を続けているわけで、私が生まれてまもなくから活動を始めて、いまもなお現役なのである。その人生に頭は下がるが、ある意味ではそろそろ解放していただけませんか......とファン(と言っても末端だが)としては思わざるをえない。それがどれだけ自分勝手な願望かということを知っていても。

そんな「巨人」の音楽活動と比較するほうがおかしいのだが、太田裕美が松本隆、筒美京平、萩田光雄の3人と活動していた(前半の)期間は5年程度と、それほど長くはない。しかしその5年程度の期間にセールス的にも、音楽的にも太田裕美の世界はめまぐるしく変わっていった。

個人的に太田裕美の(前半の)活動期間を分類すると、「白いドレスのお嬢様の時代」(「まごころ」「短編集」)から「カジュアルの時代」(「手作りの画集」「12ページの詩集」)があり、「心が風をひいた日」はその中間の時期に生まれ、その後、「きれいなおねえさまの時代」へと移ってゆく。「白いドレスのお嬢様の時代」はいわゆる歌謡曲の時代であり、「カジュアルの時代」はいわゆるニューミュージックの時代であり、「きれいなおねえさまの時代」はいわゆるポップスの時代である。

多くのファンが、命名は異なっていてもほぼ同じようなことを感じていたに違いないと思う。この変貌を、どんな理由があってそう変貌したのかはさておくとして、太田裕美サイド(と言っても製作者集団側という意味だが)から見るとどうなるかだが、「白いドレスのお嬢様の時代」は統計的に言えば15歳から18歳程度、「カジュアルの時代」は「18歳から23歳程度、「きれいなおねえさまの時代」は22歳から26歳程度の男性をターゲットにしていたような結果になっていたと思える。

ネット上で太田裕美の作品に対する反応を見ていると、どうもいつの時代の作品に何歳でであったかということによって、かなり反応が違っていることを感じる。そのため、とくにネット上では相手の年齢がわからないため、話がかみあっておらず、みょうに対立したような結果になってしまうようだ。

先に、太田裕美の活動時期を便宜的に分類したが、実際には「白いドレスのお嬢様の時代」と「カジュアルの時代」は1975年と1976年の2年間程度で、それ以降の「こけてぃっしゅ」から「海が泣いている」くらいかと思える「きれいなおねえさまの時代」は1977年と1978年の2年間程度である。多少その前後に余裕をみても、5年程度の間にターゲット的には10年差程度の男性ファンを相手にしていることになる。そこまで製作サイドが意識していたかどうか私にはわからないが、ここにある種のローラー作戦があったような結果になったのではないかと私は思う。

このことをファンサイドから見るとどうなるだろうか。ファン全体は私に知るよしもないが、私は(そのうち書くことになるだろうが)「赤いハイヒール」でズキンッときてしまったクチなので、「カジュアルの時代」にファンになった。そのとき私は18歳で、「白いドレスのお嬢様の時代」は幼なすぎて素直にはその世界に入ることができなかった。しかしその後に訪れる「きれいなおねえさまの時代」には私はまだ20歳そこそこなので、なんとか付いて行きたかったのだが、その世界にまだなじめず結局居心地のいい「カジュアルな時代」にひきこもってしまい、なかなかそこから出てゆこうとしなかった。

そういう意味では、どう自己弁解しようと、私は怠惰なファンだったのだ。このブログを書くにあたって、少しはこの怠惰さから抜け出せたらいいのだが....

この項は、もしご意見・ご批判などがあるようなら歓迎したい。私自身、漠然とそう感じているだけで、確証はまったくない。

ちょっとひと休み

2009年10月16日 | あまり関係のない話
だらだら書きはじめただけのこんなブログに奇特にもコメントをよせてくれる人がいた。そもそも日記を公開するためのブログで、1つのテーマで書いていること自体おかしいのかもしれない。しかし、WikiPediaには「それぞれの項目にはタイトルの付与が可能で、時間軸やカテゴリで投稿を整理、分類する構造となっている。用途は幅広く、個人の日記的なものから、手軽な意見表明の場として、時事問題などについて論説するものがある。」とある。時間軸がうっとおしいが、かならずしもこういうテーマでだらだら書いていることも排除されるべきでないのだろう。misc2004という名前からわかるかもしれないが、このブログを開設したのは2004年である。5年近くほったらかにしてきたこのアカウントを思い出し、こうして書いている。

じつは私は別の場所で個人のHPも持っている。日記は書いていても公開していないが、いくつかのコンテンツもある。しかし、太田裕美について自分のHPで書く勇気はない。そもそも私は、ある意味でずっと「隠れ太田裕美ファン」だったのではないかと思う。「隠れ」といっても、実際には学生時代の友人や、いまの妻には知られているのだが.....気分的には「隠れファン」なのだ。

「雨だれ」や「夕焼け」を太田裕美が歌っていたころ、私は受験生だった。「木綿のハンカチーフ」がヒットした1976年に大学に入学し、貧しいながらも自分でお金が使える自由を手に入れたときにいくつかのアルバムを買った。「まごころ」なんていう単行本すら買った記憶がある。

しかし、横浜の片隅にあった私の大学では、私の周囲に太田裕美のファンなどだれもいなかった。太田裕美のファンだということは、からかいの対象でしかなかった。そのせいもあって「隠れファン」として過ごさざるをえなかった。もし、もう数年幼かったらもっと違って、もっと素直なファンになれたような気がする。

その後、太田裕美自身の変遷もあって、しだいに遠ざかっていったが、長い年月が過ぎ、あらためて太田裕美の曲を聴いていると、私が彼女の曲と存在をけっして忘れていなかったことに驚く。

音楽活動を再開し、50代半ばで歌う彼女を見ていると、たしかに体形は変わったし、声の衰えも感じる。当たり前である。しかし、元気な彼女を見かけると、たとえば天地真理とか、最近なら酒井法子とかのような人生を彼女が歩まなかったことに感謝したい。

正直、私には音楽の教養も素養もない。楽器ひとつまともにひけやしない。そのため、このブログで音楽上のことが語られていても、まったくあてにならない。ただ詩に関してはできるだけその魅力を語ろうと心がけるつもりである。また、できるだけそれぞれの発表時期の時代を思い出しながら書いてゆくつもりだが、じつのところほかの(とくにアイドル系)歌手についてふれていても、かなりあやしい。なぜなら太田裕美以外の歌謡曲(っぽい)はまったく聴いていないし、興味がないからである。太田裕美だけはなぜか特別なのである。なぜ太田裕美が特別な存在なのかを探る旅なのかもしれない。

画像や動画も掲載・転載する気はない。掲載・転載したほうが読んでくれる人が増えるかもしれないが、別にアクセスを増やすことが目的でもないのでこのままにする。文章ばかりでつまらないと思われたら、それは私の文章力のなさのあらわれだろう。


実力派??

2009年09月29日 | あまり関係のない話
いまだに太田裕美のファンであるらしい人も多く、そんな方のブログの中で「実力派」という評価をしている人もいる。私などは腰を抜かしそうになってしまう....「実力派ねぇ...たしかにけっしてヘタではなかったと思うが......」

「舌足らず」という言い方はデビュー当時から言われていた。舌足らずさがどうしても「幼稚さ」を思わせ、大学生になった私は太田裕美のファンであることが言い出しにくい状況だった。

WikiPediaには「大学生などに絶大な人気を誇り、渡辺プロ公式ファンクラブができるより早く、東京大学で太田裕美ファンクラブが結成された。いわゆる『学園祭の女王』という称号を得た最初の歌手とも言われている。」とある。東大にファンクラブができたのがいつなのかわからないが、1975年~1976年当時だとすると、かなり程度の悪い東大生である(笑) 正直に言って、18歳か19歳、あるいはもっと年くった年で、当時の太田裕美のファンだと公言できたとすると、よほど度胸があったか、精神年齢が幼かったのどちらかである。

まあ、ほかの人間のことはさておくとして、「舌足らず」の件だが、実際、太田裕美のラ行(らりるれろ)はかなりヒドイ。ラ行とダ行の中間のような発音である。また、「ボク」も「ポク」に聞こえ、「その瞬間に僕の」が「その瞬間にポ~クの」(南風 -SOUNTH WIND- 1980年)とどうしても聞こえてしまう。

その上、鼻がつまったような声を出すときも多いし、高音でのばすときなど、裏声(ファルセットというらしいが)との間でふらふらしている。

けっして実力派と呼ばれるような歌手ではなかったと思う。実力派というのならほかにいくらでもいるはずで、太田裕美を実力派と呼んでしまっては、そういった方たちに申し訳が立たない....

にもかかわらず、私にとっては、その舌足らずも、鼻声も、ふらふらした歌い方も声も、たまらなく魅力的だった。いまでも魅力的である。

時代の中での位置づけは デビュー当時

2009年09月25日 | あまり関係のない話
Wikipediaでは「太田裕美」の「人物」欄は、「歌手であるが、ハイトーンの独特な声質や、ルックスの良さ(可愛さ)からアイドル視される事もしばしばあった。(中略) 歌謡曲を歌う庶民的なアイドル歌手と、1970年代に台頭してきたフォーク系歌手との中間的なイメージがあり、独特な位置づけの人気歌手になった。」という1行から始まっている。

う~ん。一般的には、太田裕美は「歌謡曲(ポップス)を歌うアイドル」という認識あたりが妥当なのだろうと思う。とくに「木綿のハンカチーフ」から彼女を知っているという人にとっては、少し子供じみた態度で舌足らずの調子で幼稚な歌を歌うアイドル以外の何物でもなかったのだろうと思う。

実際、「木綿のハンカチーフ」を始め、「赤いハイヒール」「最後の一葉」「しあわせ未満」など、ヒットしたほとんどの曲がまんま歌謡曲で(多少風変わりだが)「九月の雨」などは演歌っぽい要素すら入っているように思える。「歌謡曲を歌う庶民的なアイドル歌手」という評価は決して間違ってはいない。

しかし、「少し子供じみた態度で舌足らずの調子で幼稚な歌を歌う」は、私のようなものにはすべてが逆に思えた。いわゆるド真ん中!ストライクだったわけだ。こうした私のようなものは、どうもこの日本にはほかにもたくさんいたらしく、彼女のアルバムに聴き入り、ヒットした曲以外にも魅力を感じていたようだ。

シングルカットもされず、ヒットもしなかったアルバム曲の多くが「1970年代に台頭してきたフォーク」っぽい要素を持っており、アルバムまで買いあさり聞き惚れていたようなファンだけが、そのことを知っていた。

それにしても当時の太田裕美は、さまざまな意味で中途半端な存在だったように思う。

アイドルというなら、キャンディーズとか山口百恵とか、なんやかんやいた時代だ。いまでこそ、その当時のアイドルたちが引退したり、解散したために、相対的に太田裕美が浮上しているように思えるが、当時の人気をランキングにすることができれば、かなり末端にしか位置しなかったのではないだろうか。

といっても、じつは私はその当時のアイドルたちをほとんど知らないし、興味がなかった。それも当然で、「雨だれ」でデビューした1974年は高校2年生、「木綿のハンカチーフ」の1975年は高校3年生で大学入試を直前としていたのだから、いわゆるアイドルどころではなかったし、18歳を目前にしていた私にはキャンディーズとか山口百恵とかはガキじみていて、興味がわかなかったのだ。そんな中で太田裕美だけが気になり、興味を持つようになっていたのだが。