goo blog サービス終了のお知らせ 

太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

最後の一葉

2009年11月28日 | アルバム「12ページの詩集」
子供のころ私は読書感想文を書くのが苦手だった。どうしてもあらすじを書いてしまい、最後にちょろっと「面白かった」みたいな感想とも言えないような一言を付けたしていた。それでも子供なりに考えるところはあった。たくさんの教え子が同時に読書感想文を書くのだから、教師のもとには当然たくさんの読書感想文がくることになる。忙しい教師がそんなにたくさん本を読んでいるわけはないので、そうなると教師たちは読んでもない本の読書感想文を採点しなければならなくなる。それではいくらなんでも可哀そうだ。そうか、ではあらすじを書いてあげよう、というわけである(笑)。

よく知られているように、「最後の一葉」はオー・ヘンリーの短編をモチーフにしていて、シングル盤でははっきりと「O・ヘンリ『最後の一葉』より」と明記されている。オー・ヘンリーのいくつかの短編は青空文庫で読むことができ、「最後の一枚の葉」というタイトルで結城浩訳が公開されている。PDF版ならA4で6Pくらいの分量だ。

この「最後の一葉」は1976年の9月1日にシングルとして発売されている。ちょうど秋を迎える時期だ。またもやYouTube・「夜ヒット」の話になってしまうが、白いドレス(フリフリがまたも西欧風に戻っている)でピアノの弾き語りをしながら歌う太田裕美の姿を見ることができる。「デビューして3年目に入った」と言っていることや、内藤やす子と布施明の姿も見えるので1976年12月27日放送分のようだ。「最後の一葉」という曲のテーマからか、可愛らしいというよりかなりしっとりした感じで、美人顔に変わっている。

で、この曲の歌詞なのだが、ほとんど短編小説である。松本隆の歌詞は短編小説的で、情景描写がすぐれていることは多くの方が評価しているが、この曲ではまんま短編小説になっている。まさか短編小説を歌って聴かされるとは.....それとも読書感想文か......

読書感想文であらすじを書いているとすると、これまたよく知られているように、あらすじが間違っている。オー・ヘンリ-の小説では肺炎にかかったジョンジーを助けるのは下の階に住んでいた60歳すぎのベーアマンさんという老画家である。この感想文では教師も落第にせざるをえまい(笑)。

冗談はともかくとして、なぜこの時期にこの曲を歌っているのだろうか。シングル盤の歌詞カード側に「売上の一部が、筋ジストロフィー患者の実態を描いた『車椅子の青春』の制作費として寄付される」というようなことが書かれていて、「パイオニア・サウンド・アプローチ」で放送されたミニミニコンサートでもそのようなことを太田裕美本人が言っている。まあ、そういうことなのかなぁ。

この曲は、あらすじを意図的に変えて、病床にある彼女とあなたの恋愛物語になったことで、みょうにドラマティックな展開と曲調になっている。「三冊の厚い日記が 三年の恋つづります」とあるので、「愛と死をみつめて」のミコとマコの物語(3年間の文通だが)と「最後の一葉」の話を足して2で割ったような話か。

ま、へたな感想文だろうがなんだろうが、太田裕美の美しい姿が見れたので私はしあわせなのだが。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

この手紙着いたらすぐに
お見舞いに来てくださいね
もう三日あなたを待って
窓ぎわの花も枯れたわ
街中を秋のクレヨンが
足ばやに染めあげてます
ハロー・グッバイ 悲しみ青春
別れた方が あなたにとって
倖せでしょう わがままですか

(略)



赤いハイヒール・蛇足

2009年11月27日 | アルバム「手作りの画集」
無事、スカパーに申し込むことができ、「夜のヒットスタジオ」1976年7月5日放送分を録画することができた。そして太田裕美のあの素直な笑顔を見ることができた。この放送では「山田パンダとジョイントコンサートがうんぬん」というテロップも流れ、YouTubeで公開されているものも再放送なのかもしれない。この録画はDVDに焼いて、我が家の家宝、と言っても太田裕美ファンは私だけなので、私の宝物として保管することにしよう。

で、その放送を見ていて気がついたことがあった。ある方がブログで「『手作りの画集』がカントリーポップ色が強く、『12ページの詩集』がフォーク色が強いとしたら、このアルバム(注 『こけてぃっしゅ』のこと)はシティポップ色が非常に強く出ています」と指摘していた。なるほど、「手作りの画集」はカントリーポップなのか。私はなんか、「手作りの画集」はいわゆるポップスよりのニューミュージック、「12ページの詩集」はフォークよりのニューミュージックのようなイメージを持っていたが、そうなのかもしれない。

たしかに「手作りの画集」のジャケットの絵(あまり似ていないと評判が悪いが)には、北海道辺りのカントリーな世界が描かれている。当時の私はこの背景を「都忘れ」の「風なびく麦畑 走り去る雲の影」あたりを素材にしているのかと思っていたが、そう言われればそうかもしれない。「都忘れ」もそうだが、「遠い夏休み」とかも田園風景が背景だし、「カントリー・ロード」はまんまそうだ。「赤いハイヒール」も都会と地方というようなテーマと言えばそう言えなくもない。

しかし私が気がついたのはそんな高度なことではなかった。もともと音楽的素養のない私には、どの曲が何調なのかさっぱりわからないのだから。私が気がついたのは、「夜ヒット」で「赤いハイヒール」を歌う太田裕美が着ていたヒラヒラフリフリが、どうもそれまでのヒラヒラフリフリと違うことだ。なんというかヒラヒラフリフリでもカントリーなヒラヒラフリフリなのだ。たとえて言えば、「まごころ」あたりが(ヒラヒラフリフリではないが)東欧的な衣装なら、「短編集」あたりは西欧のヒラヒラフリフリで、「赤いハイヒール」のころは「大草原の小さな家」あたりのヒラヒラフリフリなのだ。

おお、ヒラヒラフリフリにもいろいろな種類があるものだ。ヒラヒラフリフリがカントリーを主張していた。女性の着ているものなどまったく関心がない私はそんなことにも気がつかなかった。いや、だからといって衣装の中の裸を見ているというわけではないのですが....1本の「葦」を見ているんです.....

ミモザの下で

2009年11月26日 | アルバム「12ページの詩集」
ミモザは本当はおじぎそうのことで、誤用されていまのようにフサアカシア、ギンヨウアカシアなどのことをミモザと呼ぶようになったようだ。黄色のポンポン状の花を咲かせるらしい。「ミモザの下で」は、ミモザの下でまたあなたに逢いたいという歌なので、おじぎそうの下ではどうやっても逢えないので、後者の花を指している。

作詞・作曲:イルカ 編曲:萩田光雄

夏の終わりに知り合った
鳥の言葉がわかる人
山のバス停 走りながら
手を振ってくれた

あの日もらったアドレス
大切にしまいすぎて
私なくしてしまったの
あなたは待っているでしょうか?

ビリケン神様 お願いです
風に揺れるミモザの下で
あの人に再び逢えます様に

(略)

イルカ作詞作曲のこの曲はちょっと少女趣味だが、なかなかいい曲だ。「夏の終わりに知り合った 鳥の言葉がわかる人 山のバス停 走りながら 手を振ってくれた」という始まりも簡潔でいい。二人が知り合った場所と時期がすぐにわかるし、「鳥の言葉がわかる人」とか、「走りながら 手を振ってくれた」というフレーズで、飾らない彼の性格もよく伝わってくる。山猿みたいなものか(笑)

ひっかかるのが「あの日もらったアドレス 大切にしまいすぎて 私なくしてしまったの」である。「アドレス」とはメアドなどではもちろんなく、住所を書き記した紙片だろう。大切にしまいすぎて紛失してしまう....そんなことがあるのだろうか.....私にはそんな経験はないのだが。大切なものはやはりなくさない。なくすのは大切でないものか、私の知らないときに妻が片付けてしまうからだ。解せん。女性特有の症状か.....

それとも、無意識のうちに捨て去ってしまい、心の中で紛失したと思いこむ巧妙な自己欺瞞か......そうすることで彼を美化し、神格化するとか....う~ん。いくらなんでも考えすぎだろう。もちろん冗談だ。「いつか冷たい雨が」のような曲を作るイルカがそんな複雑な心理操作を行なうとは思えない。たんにドジなだけだろうな。

いつか冷たい雨が
作詞・作曲:イルカ 編曲:木田高介

雪がふる駅の片すみで だれにも
いたずらされない様に
うずくまっている年老いた犬
パンをあげても 見てるだけ
時が来れば汽車にのる私
泣くことの他何もしてあげられない私

広い道路の真中で ひかれてしまった みけ猫
その上を何台もの車が 通りすぎていく
思わず目をとじてしまった 私を許して下さい
みんなだって そう思っていると信じたいのです

(略)

「ミモザの下で」を初めて聴いたとき「ビリケン神様」を私はその語感から外国の神様かなにかだとばかり思っていた。「ビリケン」が「メリケン」に似ていたせいかもしれない。ずいぶんたってから、大阪の新世界に行って通天閣にのぼりビリケンさんにあってその顔に驚いた。しかし、あのビリケンさんとこの曲のビリケン神様が同一人物(神様だから人物ではないのだろうが)だと気づくまでにさらに時間がかかった。ビリケン神様は昨年平成20年に生誕100年らしい。

この曲は沢田聖子という人も歌っていて、沢田聖子(しょうこと読むらしい)という人を私は名前しか知らなかったが、YouTubeを見るとこの人の曲がけっこうたくさんアップロードされている。いいんじゃないでしょうか。

追記 「いつか冷たい雨が」の編曲者の木田高介(たかすけ)という名前にひっかかって調べてみたら、元ジャックスの方で、ジャックス解散後、編曲者として活躍されたようだ。「出発の歌」「神田川」「私は泣いています」「結婚するって本当ですか」などを編曲し、ザ・ナターシャー・セブンを経由し、ソロになられた矢先に31歳で自動車事故で亡くなられた。追悼コンサートには1万人が集まったという。



あさき夢みし

2009年11月25日 | アルバム「12ページの詩集」
最初私は横浜に下宿していたが、大学の近くだったせいで、下宿が学生たちのたまり場になってしまい、帰ってみたらだれか知らない人間が寝ていたこともあった。当時は下宿に鍵をかける習慣がみんななく、鍵があってもおもちゃのようなものしかなかったので、入り込もうとすればけっこう入ることができた。さすがの私もこれではいかんと少し離れた場所に引っ越すことにしたのだが、引っ越しして一息ついたころ、完全に昼夜逆転状態になってしまった。昼過ぎに起きだして、ただひたすら本を読み、明け方眠るというような「悪循環パターン」にはまってしまった。遅れてやってきた五月病みたいなものだ。

そのころよく聴いていたのが「12ページの詩集」で、カセットテープにとってとかしていなかったため、LPの最初に収録されている「あさき夢みし」をよく聴くことになった。この曲のドンチャンチャンチャチャ~ンというイントロを聴くとどうしてもそのころの自分を思い出してしまう。

歌詞のほうは、そんな悪循環パターンにはまった女性の生活を描いているわけではなく(笑)、朝がたの眠っているわけでもなく起きているわけでもない半覚醒の夢うつつの状態を描いている。これもとりとめのない世界だ。

歌詞の中に「牛乳屋さん自転車の音遠のいて」という個所がある。カチャカチャといういまではもう聞くことができない牛乳配達の牛乳瓶の音に朝を感じながら、もう5分夢の世界にいさせてというくだりなのだが、聴いているこちらは牛乳屋さんの自転車の音が聞こえるころ眠りにつくのだから、へんな話だ。なんか私の生活はまどろんでいた。たぶん若い自分のエネルギーを向ける方向を失い、内向するしかなくなったせいでくすぶっていながら、くすぶることで疲れてしまったような状態だった。よせばいいのにサルトルなんて読んだりしているもんだからますます「出口なし」状態になってしまった。

そんな「閉塞」した私はともかく、阿木燿子と宇崎竜童のコンビは、1976年6月1日発売の「横須賀ストーリー」で初めて山口百恵作品をてがけ、これが成功したものだから、以降このコンビが山口百恵ワールドを作り上げてゆくことになる。おもしろいのは「横須賀ストーリー」の編曲が萩田光雄で、それ以降の阿木・宇崎作品のほとんどの編曲を萩田光雄がやっている。太田裕美側が松本隆+筒美京平+萩田光雄なら、山口百恵側は阿木燿子+宇崎竜童+萩田光雄だったわけだ。

阿木・宇崎コンビはシングル「横須賀ストーリー」がヒットしたあといったん休み、作詞千家和也・作曲佐瀬寿一が山口百恵作品をてがけているようだ。アルバムだと「横須賀ストーリー」(1976年8月1日)のたぶんA面側を阿木+宇崎が担当し、「パールカラーにゆれて」(1976年12月5日)では2曲程度しかかかわっていない。そんないったん休みの時期にこの「あさき夢みし」が提供されたことになる。私は山口百恵にほとんど興味がないので、これ以上書くとボロが出るに決まっているのでもうやめよう。

阿木燿子と宇崎竜童のコンビは、1979年7月21日発売の「シングル・ガール/想い出達の舞踏会」でもう一度太田裕美作品をてがけている。書いていて初めて知ったが、阿木燿子の「燿子」は「耀子」ではなく「燿子」(火へん)だった。それと「輝」という字の部首は「光へん」でなく「車」で、「光へん」という部首はないようだ。

なんかまた思い出話とやくたいもない話で終始してしまった。どうも学生時代のまどみからまだ抜け出せていないのかもしれない。

作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童 編曲:萩田光雄

腕をのばして時計を見れば…あと5分
カーテン越しの朝の気配が眩しくて
お休みの日のあてどもなさに…あと5分
時に逆らい眠りの中に身をくるむ

まどろみ まどろむ
まどろむ まどろみの中
まどろみ まどろむ
まどろむ まどろみの中

あなたの顔が想い出せない
あさき夢みし
色の褪せてる絵のように



続・九月の雨

2009年11月24日 | アルバム「こけてぃっしゅ」
さて「九月の雨」に登場する「公園通り」とはいったいどこだろうか。Googleあたりで検索してみると日本中に公園通りがある。公園があれば、それに接した道路をみんな公園通りと呼んでいるようだ。

たしか横浜の山下公園の前の通りも公園通りだったはずだがと思い、調べてみると山下公園通りと呼ぶことがわかった。たしかにあそこの通りなら公園の中の椅子が見える。しかし、1977年ころあの公園はいまとはまるで違ったはずで、いまある低い生垣のようなものでなく、塀に近いものがあったような記憶がある。違ったかな....塀があっては公園の中の椅子は見えない。そもそもあのあたりは役所関連の建物が多く、どうも会社の事務所が多いようには思えない。それとも主人公の女性は、ザ・ホテルヨコハマにでも泊まっていたのか?
(ザ・ホテルヨコハマは、その後ザ・ヨコハマノボテルに変わり、さらにホテルモントレ に変わったらしい)

日本一有名な公園通りと言えば、渋谷の公園通りか.....あのへんならたしかに職場は多いはず。1977年当時にタクシーをためらいなく利用できるとなると、学生とは思えない。学生ならよほどあまやかされて育てられた学生で、太田裕美作品の登場人物にはふさわしくない。たぶん仕事をしていて、自分で自由に使えるお金がある女性だろう。1977年当時の渋谷は繁華街ではあったが、「若者の街」ではなかったはずで、このころ「若者の街」と言えばやはり新宿だったはず。調べてみたら、パルコPART1が1973年、同PART2が1975年、西武劇場(現PARCO劇場)が1973年と西武系の建物が相次いで建てられていた。東急系は東急ハンズが1978年に建てられ、その後相次ぐようなので、新宿から渋谷へと移りゆく途中だったようだ。

あれこれ調べていたら、場所は渋谷で、女性はデパートガールである(笑)とするブログにぶちあたった。いきおいのある論評でおもしろかったが、やはり歌詞だけの情報だけでどこまでたどり着けるかが大切なので、そこまで私には断言できない。

ま、結局舞台がどこなのかわからなかったが、かなり歌謡曲よりのこの曲では太田裕美のボーカルを追いかけるように、かならずチャラチャラチャラーみたいな演奏が入る。めずらしく編曲も筒美京平が手がけていて、この編曲が夜の街を行く車の疾走感みたいなものを感じさせる。それとも車よりも速く走って行きたい彼女の不安感を表現しているのだろうか。