メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

SUN SUN 太陽

2008-01-23 08:54:26 | 日記
もっと光を!と言ったのは誰だったっけ。
このところずっと、どんよりとした天気が続いていて、青空にSUN SUNと太陽が輝かないのが寂しい。一週間も太陽のエネルギーを浴びないでいると、精神的にも肉体的にもパワーダウンするのがはっきりとわかる。ああ、太陽が恋しい。それに私は最近、太陽がとても気にかかる。
太陽といえば、古代邪馬台国の女王卑弥呼(日見子)は、皆既日食の太陽が欠けていって世界が暗くなったことで、パニックに陥った民衆に暗殺されたという説がある。太陽を見てすべてを占い、まつりごと(政治)を行う文字通りの「日見子」にシャーマンとしての霊力がなくなったせいだと判断されて…。

私たちは学校で、したり顔の先生から宇宙で繰り広げられている星々の誕生と死のドラマについて教わったにも関わらず、なぜか理由もなく「明日の朝も必ず太陽は昇る」と信じて生きているまったく楽天的な生き物である。でも宇宙的スパンで考えれば、宇宙的ビッグイベントによって、今私たちが見ている太陽が消える可能性だってゼロなわけじゃない。
その意味では日本の「天の岩戸開き」の神話はとても興味深くて面白い。

ひるがえって、最近は地球温暖化に対する取り組みでアル・ゴアさんがノーベル賞を受賞したり、世界を上げてCO2削減に焦点が集まっている。でもその一方で、まだ少数派ではあるけれど、地球温暖化はじつはCO2ではなく、太陽の異常活動が原因だとする科学者たちもいる。
その一つの証拠として、温暖化しているのは地球だけではなく、火星や冥王星でも温暖化が進んでいることや、20世紀後半から太陽をはじめ惑星の動きが活発化していて、たとえば金星の光度は2500パーセントも明るくなっていることなどをあげている。

どちらの説を信じるかは個人の自由なわけだけれど、自分なりにいろいろ調べた結果、私は地球温暖化の原因は一般的なCO2説ではなく、マイノリティの太陽説を信じている。
これは一見、自分の日常からは遠い問題に思えるかもしれないけれど、これからの自分の生き方にまで関わってくる重要な問題で、どちらの説をとるかでまったく異なる世界を選択することになると思う。

この大寒の季節に早くもちらほらと開きはじめた梅の花が愛しい。私たちは本当はすべてを知っているんだ。ただ忘れてしまっただけなんだ。私たちはもうすぐすべてを思い出すだろう。
すべてはすでに書かれている。私たちは今まさに神話の世界を生きている。ただ、そんな気がする…気がするだけ。

京みやげ

2008-01-12 04:20:20 | 日記
昔から「馬鹿は風邪をひかない」と言われているので、私はずっと自分のことを馬鹿だと信じて自慢してきたのに、その信念がくつがえされてちょっとショックを受けている。
京都から帰ってきたらこの1週間ずっと喉が痛くて、咳は出るわ鼻水は出るわで参った。京都のお土産だ。原因はわかっている。一晩中ついていたホテルの暖房のせいだ。それを4泊もやったので小学生の時以来、風邪なんてひいたこともなかったのに、さすがの私もやられてしまったのだ。ひき初めには知恵熱らしきものも出たので、ちっとばかりは賢くなったのかと思いたいけど…今さらね。
でも、寝込むほどではないので病院には行かず、市販の薬を買って飲んでいる。ラピスも風邪をひいているらしい。今流行っているのかなあ。

私はエアコンの暖房が苦手だ。足元はちっとも暖まらないのに、頭だけが暖まってボーッとなるのが嫌なので、家では冬はコタツと小さな石油ストーブしか使わない。
エアコンで暖めた春のような室内と、真冬の室外を出たり入ったりしていれば、その温度差で風邪をひくのは当然で、やっぱり「頭寒足熱」が一番体にいいのだ。
さて、今日は風邪薬も飲みきってしまった。今夜はコタツでぬくぬくしながら、しょうが湯でも飲んで寝よう。

天橋立(籠神社・真名井神社)

2008-01-10 10:46:38 | 日記
「鞍馬寺の続編」
大晦日の鞍馬寺のあと、丹後半島の天橋立へ向かった。
予報通り、日本海側は一面の雪、雪、雪・・・。鉛色の空からは梅の花びらのような雪が降りしきり、南国育ちで雪などめったに見られない私は、その北斎の絵のような風景に子供のように感動して、はしゃいでしまった。正月を雪の中で迎えるのも初めてだったし、日本海を見るのも初めてだった。元旦も雪は降り続き、30センチぐらいは積もっていて天橋立を歩くこともできず、午前中はホテルの窓から日本海に降る雪を眺めて過ごした。

でも古事記などで、天界と地上界を行き来する橋が倒れて出来たといわれる天橋立まで来たからには、私にはどうしても行きたい場所があった。それは対岸にある籠(この)神社と真名井(まない)神社だ。以前から気になっていて、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
フロントに尋ねると、天橋立から遊覧船が出ていて15分程で対岸の一の宮まで行けるというので、降りしきる雪の中初詣を決行した。
遊覧船から見る天橋立や雪国の風景は、初めて見るのに、なぜかなつかしい昔の風景のようで、タイムワープしたような気分になった。
たくさんのカモメが船にまとわりついて、対岸までついてきた。

船を下りると、いくらも歩かないうちにすぐ籠神社があった。
籠神社は元伊勢であり、アマテラスや豊受大神が現在の伊勢神宮に遷宮されるまでは、ここに祀られていた重要な神社である。「かごめ かごめ かごの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった うしろの正面だあれ」という、あの謎に満ちたかごめ唄も、籠神社に関係があるとされている。籠(かご)はかごめであり、記号としては六芒星(ダビデの星)であり、そこからイスラエルとの関連が推測され、タブーとされている天皇家のルーツと、はたまた神道の原点の謎が、いにしえから古文書などに記されてきたのだけれど、私は近いうちにこれらの秘密の封印を解かれる日が来るのではないかと思う。
隠されていた諸々の真実が、これから次々と表に「出やる」ことだろう。

籠神社に足を踏み入れると、やはり伊勢神宮とよく似た清涼な気がある。明るく清々しく開放感がある。いいなあ。好きだなあ、ここは。神社はどこでもそうで、社殿奥の中央に丸い鏡が置いてあるだけのシンプルさだが、その何もない空間が何とも言えず清々しくていい。ごてごてした装飾も一切無い。お寺では様々な仏像=偶像を拝まされるが、神社では「この鏡に写る、あなた自身を拝みなさい」と言われているようで、そこが私の神社好きの要因ではある。
籠神社の気に清められてすっかり元気になった私は、ぼたん雪の舞う中、歩いて20分ほどの山の中にある真名井神社に向かった。

雪で滑るかなり急な山道を登っていくと、人の気に満ちた籠神社とはうって変わって人影もなく、辺りは静寂に包まれている。雪の中の竹林が夢のように美しい。登っていくうちに、だんだんと辺りの空気が変わってくるのを感じる。神聖で厳かな波動に、しんしんと身の引き締まる感じ・・・第2鳥居が見えてきた。はあはあ言いながらくぐると左手の岩から「真名井の水」が湧き出ている。空気が冷たいので水が温く感じる。いにしえからの御神水を柄杓で酌んでありがたくいただき、再び急な石段を登りつめると、神さびた小さな社殿がぽつんと建っているだけで社務所もない。でも境内と背後の鬱蒼とした森からは、何か神気のようなものが湧き立っていて、その神気に自分の魂を査定されているような感じがして、思わず身がすくんだ。

「ここには何かおわす」。それが私の直感だった。
いろんな神社を巡り歩いたけれど、こんな感覚はめったにないことだ。不思議に思って社殿の後ろに回って私は息を呑んだ。そこには大きな磐座(いわくら)が二つあり、それをまさに抱きかかえる形をして巨大な樹が二本、まるで意志があるかのように螺旋状に枝を広げて、天に向かっていた。磐座と樹は合体して、すさまじいパワーを放っていて、私はふと祝詞でよく使われる“畏み(かしこみ)”という言葉が浮かび、畏む(かしこむ)とはこういうことなのだろうなと思った。それはやはり畏れ多いことなのだ。携帯で鳥居や石段は写真を撮ったけれど、さすがにこの磐座を写すことははばかられた。

そして更に、磐座の背後の山を前にしたとき、私は「ああ、この山は神奈備(かんなび)だ」と思った。神奈備とは神聖な山、神の山という意味だ。私は真名井神社については、なんの予備知識もなく訪れたのだけれど、この磐座と山を見て直感的にここが籠神社の奥宮だと確信した。そして今回、はるばると丹後半島までやって来たのは、この真名井神社に来なければならなかったのだということもわかった。
それにしても、ここは本当にすごい所だ。そして何かとてつもなく重要な場所だという気がしてならない。帰りがけにふと見ると、山のあちこちに「禁足」の札が立っている。やはりここは、ただならぬ山なのだ。この山には何かがある。

ここにあるのは社殿を拝するのではなく、山や樹や磐を神の依り代(よりしろ)として拝す、原始の祭祀形式だ。帰ってからパソコンで調べたところ、やはり真名井神社は籠神社の奥宮で、日本屈指の古社にして最大級の聖地。神代が現代に生きている聖地、とあった。
思いつくままに選んだ今回の鞍馬寺、籠神社、真名井神社は振り返れば、じつはとてつもなく意味のある旅だったのかもしれない。

雪ふかき 真名井の水に ちぎりおく
ちかき神代も きみとあらめと

鞍馬寺

2008-01-05 23:04:49 | 日記
2008年が明けた。
去年の暮れは30日に京都へ行き、新年は京都の北、丹後半島にある日本三景の一つ、天橋立(あまのはしだて)で迎え、3日に鹿児島に帰ってきた。
大晦日には、3度目となる鞍馬寺に行ったのだが、鞍馬寺という所は来る度にいつも思うのだけれど、普通の仏教寺院とはかなり異なる雰囲気を持っていて、一言で言えば「異端の寺」という感じがする。それは祀られているのが、仏教なのに仏ではなく「神」だという点が非常に興味深く、私をイマジネーションの世界へ深く誘う。

650万年の昔、人類救済の大使命をおびた魔王尊サナート・クマラが金星から地球に天降って来た。
その“地球の霊王”魔王尊の出現した場所が、鞍馬寺の奥の院“魔王堂”であるという、ある種神話的かつ宇宙的な寺の縁起によるせいだろう。
その教えもまたかなり特殊で、宇宙エネルギーや天変地異、そして人間の進化についてまで及んでいて、他の寺にはないコズミックなムードに満ち満ちている。
私はここは紛れもなく世界の聖地の一つであり、パワースポットだと強く感じる。本殿前のベンチに座って日の光の中で目を閉じていたら、網膜の真っ赤なスクリーンに三つの金色の光が出現した。あれは日月地の三位一体の光だったのだろうか。

私は十数年前に、5月の満月の夜に行われる鞍馬寺の「ウエサク祭」に訪れたことがある。
その時にもらった紙に聖詩「魔王尊に祈る」というものがあったので、一部抜粋してみよう。
「われらのおん父魔王尊  天地の秘密をもちたまう
力の神の魔王尊  進化の光 魔王尊
悪のこの世を破壊して  天地の心を花咲かせ
秘伝と善のためにとて

その不思議なる おん手には  他界の太陽シリアス(シリウス)の
くだしたまえる み力の  光の棒ぞ 燃えさかる
宇宙の進化に仕えんと  いやしき心を ふり放ち
み前にちかう われらをば  神の力に改めよ
崇高偉大の魔王尊  地軸を傾け 磁極をば
おきかえ移し 気候をば  一変したまう魔王尊

移る磁極は 大地震  大洪水の 地変をば
まきおこせども 大前に  ひれ伏す者を 助けませ
力と光の 魔王尊  苦しみまどう 人類に
至上の助け 早めつつ  つかわしたまえ 救世主」

私は寺には神社ほどの興味はないのだが、例外的に鞍馬寺が好きなのは、ほとんど死に体となってしまっている単なる葬式仏教ではないというところだ。
鞍馬寺はその磁場エネルギーと共に、現代人にもというより現代人だからこそ理解できる、明確なメッセージを発信し続けている。他の寺にはないメッセージと独自の姿勢を持っている。
聖詩の下には「人類の進化と発展を祈って」とあり、「今は、宗派も国境も超えて世界中の人々と共に、人類の進化とめざめを希い、真の平和の招来を心をこめて祈るのである」と結ばれている。


私は鞍馬寺に密教秘伝として伝えられてきたものは、サナート・クマラから降ろされた黙示録に他ならないと確信した。私が三度鞍馬寺に来なければならなかった理由もわかった。三度目の正直でまた謎が解けた。すべての出来事はつながってリンクしている。単独で存在しているものなど、この宇宙にはないということに気づく。
さて、鞍馬寺から次の目的である地天橋立へ向かうのだけど、続きはまた明日にでも書こう。
遅ればせながら、
あけまして おめでとうございます。
今年もよろしく。

一番長い夜に

2007-12-24 05:04:33 | 日記
昨日は冬至だった。
一年で一番長い夜に一人静かに沈思黙考していると、2007年が残してくれたたくさんのシンクロニシティや様々な思いとともに、私の頭の中に保留されていた謎が、次々と解けていくのに驚かされた。たった一つの謎が解けると、それに連鎖してドミノ倒しのように解けていく。
それは一種の悟りであるかもしれず、平易な言葉で言うなら「気づき」というものだと思う。悟りなどと言えばいかにも宗教臭く、厳しい修行や荒行でしか得られないというイメージがあるけれど、私はそのようには捉えていない。
文明が爛熟しIT社会になり、先進国ではほとんどの人がインターネットで情報を得るようになった今日、確かな選択眼と直感を持ってすればという条件付きではあるけれど、溢れかえる玉石混淆の情報の中から、悟りさえもICチップから取り出せる時代になったと思う。

そもそも悟りとは何か?それは簡単に言えば真理真実に気づくことに他ならない。すべてのものは宇宙とつながっているということや、フラクタル理論や、この世、つまり3次元世界は私たちの想念が作り出した「夢まぼろし」であり、マトリックスの世界であるということへの気づき。
私は真実の情報=悟りだと確信している。今や座禅や荒行をしなくても悟れる時代なのだ。
人類の歴史の中で真実はずっと隠蔽され続けてきて、ごく希にその情報を漏らしたり、人々に知らせようとすると必ず権力に弾圧され、気狂い扱いされてきたのではなかったか。

でも今、インターネットによってその壁は取り払われたので、私たちは政府によって操作された情報だけでなく、真実の情報も手に入れることができるようになった。繰り返すけれど、それには嘘と真実を見極める確かな選択眼と直感が必要なのは言うまでもない。
国家というものは、まったくの幻想なんだということに、もうそろそろ気づかないと手遅れになることは間違いない。
宇宙はフラクタルであり、太陽や月や星々の変化は直裁に私たちの変化だ。
まさに「上の如く下も然り」。私たちは今「気づき」の時代にいるのだ。小さなシンクロニシティやサインを見落とさないようにしよう。そこには大きな意味が隠されているかもしれないのだから。
科学と宗教の結婚は近い。

聖なるタバコ

2007-12-20 01:58:38 | 日記
今夜もゆったりと柚子湯に浸かり、
贅沢な気分を味わい、風呂上がりの一服をしていてふと思った。タバコというものは、まったくもって生活の中の句読点だなあと。一仕事やっては一服し、コーヒーを飲んでは一服し、食事をしては一服し、また一仕事しては一服する。こうして全世界的に禁煙の動きがあるなか、私は相変わらずタバコを愛飲している、しょうがない人間の一人だけど、昨日読んだ本の中にタバコに関するとても納得のいく文章があった。

それはエハン・デラヴィという人の発言で、「タバコは本来スピリチュアルなもの。化学物質を加えるからガンの元凶となる」という見出しだった。
それによると、先住民の世界ではタバコという植物は聖なるものとして扱われている。儀式の時に必ず捧げるべきもので、そうしないとシャーマンは儀式を行ってくれない。
喫煙で肺ガンリスクが高まることは周知の事実だけれど、不思議なことにシャーマンは肺ガンにはならない。そこでデヴィッド・R・ホーキンズ博士が、タバコの害悪がどの程度かを調べるために、市販のタバコとオーガニックタバコを比較しながらある実験をしたところ、市販のタバコは筋肉反応がきわめて弱くなるけれど、オーガニックの方はそうでもなく、無農薬タバコは害がないことがわかった。

なぜタバコは体に悪影響を与えるようになったのか、すなわち発ガン性物質を含むようになったのはいつごろからなのか。ホーキンズ博士が徹底的に調べてわかったのは、1957年から製造過程で化学物質が加えられたという事実だった。これ以降、タバコが原因とみられるガン患者の数が上昇し
、化学物質とガンの関係がはっきりした。
『インサイダー』という実話にもとづいた映画では、たばこ産業に従事している人は、自分たちの仕事を“ニコチン・デリバリー・ビジネス”と呼んでいて、さらにニコチンへの依存性を高めるために、ある化学物質を混入している。
そして、タバコ会社の社員がその情報を暴露しようとして命を狙われる。そこに描かれているのは、たばこ産業の実体そのもの。次々と吸いたくなるように製造されている。おそらく紙かフィルターの中に化学物質が入っているのだろう。

アマゾンのシャーマンはタバコを巧みに活用している。たとえば変性意識状態でパニックになった人がいると、頭頂の百会(ひゃくえ)というツボに煙を吹きかける。そうすると、ただちに落ち着きを取り戻す。タバコは聖なる植物で、偉大なパワーを持っているからこそ、全世界的なビジネスにまでなった。力のない植物であれば売っても誰も買わない。もちろん彼らが用いるのは無農薬のタバコであるのはいうまでもない。という内容だった。
日本製のタバコにも化学物質が加えられているのは明白だろう。確かに昔の日本人がキセルで吸っていた頃は肺ガンなどなかった。
さて、この事実を知ってどうするか?
キセルかパイプにすればいいだろうが、忙しい現代人はそんな悠長かつ優雅なことは、なかなかやれない。
思うにいっそのこと、チラムにポットやチョコレートを詰めて吸ってる方が、だんぜん体にもいいし、ハッピーになれるということじゃあない?

清めと柚子

2007-12-11 02:02:49 | 日記
年の瀬が近づくと、誰からも強要されるわけではないのに、年内にやっておきたい事が次々に頭に浮かんでくるのが不思議だ。何事によらずせかされるのが嫌な私だけど、今日はどうしても長らくやっていなかった墓参りをしておこうと思い立ち、近くの丘の斜面にある集落の墓地に出かけた。
案の定、墓石の隙間からヨモギがたくさん生えていたのでそれを抜き取り、墓とその周囲を掃き清め、水を取り替え、線香を上げて、ただ「ありがとうございます」と、何も願わない手を合わせた。
ただそれだけのことだけれど、なんだか気分がスッキリした。

世界中で最もきれい好きな日本人は、こと「清める」という事に関しては、古代から並々ならぬ情熱を注いできた民族だ。不思議な民族である。
その根底には、神道の「祓い給え、清め給え」という言葉に象徴されるように、お祓いとお清めの精神があると思うけれど、私もどうやら一日本人としてそのDNAをしっかり受け継いでいるらしい。
ほこりが目につけば払いたくなり、汚れていれば清めたくなる。
それが「世界を清めたい」という願望にまでエスカレートするのは、けっして不自然なことではないだろう。

それはごく単純な真理なのだが、ケガレた物や場所はケガレた気、つまりマイナスエネルギーを発していて、人を無気力にさせ、いら立たせる。逆に清められた物や場所は清々しい気、つまりプラスエネルギーを発していて、人を和ませ元気にさせる。
私は幼い頃からこの事実に気づいていて、気持ちのいい場所を見つけるのが得意だったように思う。清められた空間ではマイナスエネルギーは発生しないから、人はいらつくことも落ち込むこともなく、幸せな気分でいられるということだ。
ともあれ年内には、この1年のうちに溜まった物や汚れをスッキリと片づけて清め、清々しい気分で2008年を迎えたい。

墓参りのあと、隣家の叔母が庭の柚子をちぎってもいいと言ってくれていたのを思い出し、行ってみるとまだ結構ちぎり残されていたので、数個いただいてきた。どうもありがとう。
持ち帰ると台所が柚子の香りで満ちあふれた。ちょうど豚肉があったので、子供の頃母がよく作ってくれた「柚子入り豚みそ」を作った。我ながら上手くできて、とてもおいしくてご飯が進む。残った柚子はもちろん湯船に浮かべて、一足早い柚子湯。つつましやかな生活の中で、数個の柚子が心豊かにさせてくれた。
大切な人と分かち合いたい柚子の香り。
もうすぐ12月22日・・・冬至だ。
アセンションという言葉が脳裏をよぎる。

聖地巡礼計画

2007-12-04 03:38:00 | 日記
2007年もあと1カ月となった今、
またぞろ無性に聖地巡礼をしたくなった。聖地が私を呼んでいるように思えるのは気のせいだろうか。そこで、まず真っ先に行きたいと思ったのは、もうかれこれ10年以上もご無沙汰している奈良の天河神社だった。それで2008年のお正月は天河で迎えようと計画を立て、宿を探したのだけど民宿がすべて年末年始は休みだということで、残念ながら天河詣では延期せざるをえなくなった。
柿坂神酒之祐宮司の、あの玉の声によるすばらしい祝詞を聞きたかったのに。

仕方がないので他の聖地に行くことにした。
選んだのは京都の鞍馬寺と天橋立(あまのはしだて)。鞍馬寺には以前行ったことがあるけれど、「山の魔力」を代表するといわれるだけあって、なんとも奥深く底知れぬエネルギーを感じる場所だ。寺伝によれば、その原初の歴史は、650万年前に金星から地球の霊王として遣わされた魔王尊サナート・クマラの降臨によって始まったという。
SFや不思議大好きの私にとっては、じつにワクワクする所ではある。天橋立はまだ行ったことがないので楽しみだ。

日本列島は龍体で、世界の大陸のひな型ともいわれていて、神社仏閣のほとんどはこの列島のエネルギーのツボに当たる所に建てられている。
だから宗教が何であろうと、そこはエネルギー磁場がとても強くて特種な「気」が放出されている、いわゆる「聖地」でありうるわけだ。私は宗教にはもはやまったく希望も興味も失っているし、(といっても神道、特に古神道に関しては私は宗教ではないと認識しているので、例外はあるとしても)宗教はいらないと断言する者だけど、トポス=場所には限りない興味がある。そこに置かれた岩や巨石の類は言わずもがな。なぜなら場所は記憶を持っているからだ。場所はいにしえから、そこで繰り広げられた出来事のすべてを記憶している。そうでなければ、なぜその場所に立った時に、そこでしか感じない様々なイメージや言葉(言霊)が私の中に湧いてくるのか、説明することは不可能だ。
そして過去の記憶は、また未来の記憶でもある。このパラレル・ワールドにおいては・・・。

2007年・・・振り返れば今年はなんだか、あっという間に過ぎたなあ。
というよりも、年々時間のスピードが速まっているのを感じる。まるで時間が螺旋状に渦巻きながら、ある一点に集束されていくという感覚・・・そして、ある一点(臨界)に達すると時間は一瞬止まり、世界は反転し、そこからまた逆のベクトルに向かって今度は次第にゆっくりと時間が螺旋状に渦巻いていく・・・そんなイメージが最近頓に頭の中に流れ込んできて仕方がない。
このイメージと今私に起きている様々なシンクロニシティは、いったい私をどこへ連れて行こうとしているのだろう。
夜空を見上げれば、今夜もシリウスとオリオンが語りかけてくる。
覚醒したい。

天使と花園

2007-11-23 05:18:18 | 日記
わたしが荒野にひとり眠っていた時
夜空に輝くプレアデスから
天使が舞い降りてきた
つややかな銀色の翼で
そして、わたしにひとつのメッセージを伝えた

「古いルールはもう行き詰まり
古いルールじゃ、もうやっていけない
もうすぐ世界は変わります
evolusion
evolusion
ニュースの中のサインに気をつけて
ニュースの中のサインを見逃さないように」

ちょうどその時
わたしの頭の下には一冊の本
“ナジャ”があった
シンクロニシティ・・・重要なサイン
それからは、わたしの夢の庭に
毎日小さな赤い花が咲くようになった
5年後にはきっと
見事な花園になるだろう
そしてわたしは
今夜も天使の翼にくるまれて
ゆっくりと眠りの底に落ちていく

無限のありがとう

2007-11-14 20:16:11 | 日記
一昨日、やっと鹿児島に帰ってきた。
上京した時は9月で、まだ井の頭公園はツクツクボウシの蝉時雨の中だった。半袖のTシャツでもちょっと歩くと汗ばんだし、キャリーバッグの中身もほとんど夏服だった。
そして今はもう11月。公園の木々は紅葉し、落ち葉がはらはらと舞い落ちている。夜はスズムシの声が賑やかだ。晩夏から初冬へと季節は巡り、着る服がなくなった私はいつも男物の長袖のTシャツやパーカー、ジャケット、アーミーコートなどを借りて着ていた。

田舎に帰りたくなくて、ずるずると引き延ばされた時間は私に「時間」というものに対しての、ある啓示を与えてくれた。それは夜の井の頭公園の池にかかる橋の上でのことだった。
黒いなめし革のようにてらてらとかすかに光る水面。橋に沿って水中に打ち込まれた杭には鉄線と鉄棒が渡され、そこがカモのねぐらになっていて夜になるとカモがずらりと等間隔で並び、なぜかみんな東の方を向き、首をくるりと背中に回して寝ていた。
私はその時、時間の正体がわかった。時間とはけっして過去から未来へ直線的に流れているものではない。時間は測定することはできない。つまり過去も未来も存在しない。あるのは今この一瞬だけ。そして永遠とは今この一瞬のことだという明瞭な真理が、理屈でもなくアインシュタインの数式でもなく、ただ啓示として稲妻に打たれたように体感し理解した。
時間も空間もパラレルなものであり、私たちは次元を越えて存在しているんだという、この確信。
意識=心というものが測定不可能なものである限り、時間も空間もまた測定することはできない。

時は止まることがある。時は止めることが出来る。
その止まった時間とこのパラレル・ワールドの中で、滞在中4回のライブをやった。ラママのライブは個人的にはまったく良くなくて消化不良だったけれど、ジーン+荒涼天使としての初めての映像がDVDに残された。音的に一番良くて納得できたのはUFO CLUBでのライブ。これはあの「MAY.3]
を越えたという実感がある。そして急激に冷え込んだある夜、冬の気配を感じた私は翌日帰りの航空券を買った。東京移住のために鹿児島で片づけなければならないことがある。

家に帰ってきたら、頼んでおいた庭師さんが木の剪定と草刈りをしてくれてあり、きれいになっていたけれど、やるべきことも山ほど溜まっていた。止まっていた時間がまた動き出した。
東京滞在中に、もうかれこれ7、8年は飲み続けてきたクスリをやめてみた。やめたあとの揺り戻しや反作用を恐れていたのだけれど、田舎に帰ってきても今のところなんともないので、もう クスリなしでも生きていけそうな気がする。うれしい。やっとクスリをやめられた。
これは私にとってはすごいことなのだ。そういえば滞在中のある夜、公園のそばの路上で一冊の本を拾った。それはまっさらの本で、どう見ても誰かに拾われるために意図的にそっと置かれているとしか思えなかった。表紙には「ありがとうございます」と書いてあり、「ありがとうございます」のシールがたくさん挟まれていた。内容はアマテラスなどについて書かれた古神道系のものだった。
シンクロニシティが次々に起こってきている。
あーちゃん、ありがとう。そしてみんなにありがとう。
無限のありがとう。