メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

追加ライブ

2008-04-06 03:46:05 | 日記
5月28日のライブについてのお知らせです。
コメントをいただいた“つね”さん、どうもありがとう。やっとあなたの情報源にたどり着きました。ライブをやる本人たちよりも、オーディエンス側の方が情報をいち早くつかんでいるというのは、なんともおかしなことではありますねー。でも何事にも脳天気な私には、よくあること。
この日のライブは荒涼天使としてではなく、3人での変速バージョンでやります。

5月28日(水)
神楽坂エクスプロージョン(現DIMENSION)
出演:遠藤ミチロウ
   宮西計三 & Onna
   ジーン(ex.Mr.Kite)+荒木康弘(ex.アレルギー、水の羽、P-MODEL)
   +ラピス(忘我’Z、サンダダ、ex.フリクション)
   業火クラブ(ミックfrom光束夜)
   DJ : ECD
前売り&当日 ¥3,000+(1drink¥500 or 飲み放題¥1,500)
開場 18:00 開演 18:30

桜と雹(ひょう)

2008-03-28 01:09:41 | 日記
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携帯に井の頭公園の夜桜の写真が送られて来た。わあ、東京はもう桜が満開なのね。
こちらはまだ三分咲き。いつも不思議に思うんだけど、どうして南の鹿児島よりも東京の桜がずっと早く咲くんだろう。都市熱のせい?
夕べは花冷えでとても冷え込んだので、久しぶりにストーブをつけていた。
桜を見ると、いつも呟いてしまう和歌がある。

ねがわくば花のもとにて春死なむ
その如月(きさらぎ)の望月のころ
   西行法師
旧暦如月の満月は(2月15日)今の3月末にあたり、釈迦の入滅の日とも言われている。ちょうどぴったりに今頃の歌。
桜はやっぱり日本人のこころだなあ。しっとりと優しくて、品があってうつくしい。ああ、ほんとに日本人でよかったなあ。これから日本の時代が始まる。誰もがしあわせになりたいと思ってはいても、外にばかり目を向け追い求めるうちは、しあわせにはなれない。
青い鳥の童話のように・・・。
しあわせはけっして外からはやって来ない。しあわせは自分の心の中にある。
そしてまた、誰にとっても人間関係は・・・その人の「自我の働き」の反映なんだと、つくづく感じる今日この頃。そう言えば、私は最近エゴがなくなったなあ。だからきっとしあわせなんだろうな。

そんなことを考えていたら、夕方、突然ゴロゴロと雷が鳴り出したかと思うと、屋根にバラバラと石が降ってきたような音がするので外を見ると、なんと雹(ひょう)が降ってきた。
10分くらい降り続き、庭が真っ白になった。まん丸い雹はかなり大きくて、直径が1、5センチくらいはある。ひょー!
まさに花に嵐でした。

荒涼天使ライブ

2008-03-21 00:21:00 | 日記
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庭の椿が毎日、次々と花を咲かせています。
お待たせしました。去年の10月以来、約半年ぶりの「Jeane & 荒涼天使」ライブのお知らせです。

4月25日(金)EARTHDOM(大久保)
<21世紀のBeatnik達へ>

5月18日(日)UFO CLUB(東高円寺)
<UFO CLUB TOKYO JAPAN VOL.4&VOL.5レコード発売記念LIVE! 6DAY'S>

詳細は左側のBOOKMARK,「美咲歌芽句HP」をクリックしてご覧ください。
4月25日のアースドムでは、なんとDJをやっている娘のmew(ミュウ)と共演することになりました。彼女はDJ界ではDr.ミュウと呼ばれているそう。
親子共演なんて、月日の流れを感じるなあ・・・。なんだかとても不思議な気分だけど、すごく楽しみ。
母親の役目は全然果たせなかったけど、彼女が「今、ここ」に存在してくれていることに、ありがとうと言いたい。何しろ彼女の半分は私と同じDNAなのだから。
そして彼女は私の未来でもある。私が付けた“未宇”という名前のように・・・。
ミュウ、一緒にやるのを楽しみにしてるわ。

あと、5月28日(水)にもライブの予定(遠藤ミチロウさんとの対バン)がありますが、詳細が決まり次第また告知します。

21世紀のビートニクたちへ
社会の外で待ってるわ。

フラクタル・ブロッコリー

2008-03-16 08:34:20 | 日記
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このところ一気に春めいてきて、ここ鹿児島では20度を超す日が多くなった。
今日など暑がりの私は、もう半袖のTシャツにショートパンツという完全に夏の格好で、車も冷房を入れないと暑くてたまらない。
冬枯れしていた灰色の庭も、日に日に色が溢れカラフルになってきた。黄水仙があちこちにワーッと出てきて、群れなして咲いているし、椿の木にもピンクの花がちらほらと開花し始めた。馬酔木(あしび)の可憐な白い花も今が満開。あとは桜を待つのみ。

そして今日、スーパーの“地産地消”の野菜コーナーで何とも珍しいものを見つけた。それは生まれて初めて見るブロッコリーだった。正式な名前は何というのだろうか?ライムグリーンの鮮やかな色と、その造形のあまりの美しさに私はしばし陶然となってしまった。
形は円形ピラミッド状で、その頂上はまるでミナレットの尖塔のようだ。この造形の美しさを言葉で完全に表現するのは難しいので、写真をクリックして拡大して見てください。なーんて書くと、「曲がりなりにも、言葉で伝える方法を選択している表現者としては失格だ」と言われるんだろうな。ここでまた改めて自分の表現力の無さを思い知る。仕方ないなあ。
写真は言葉を一瞬で超えられるものだというのは事実です。百万弁の言葉を費やすよりも一枚の写真の方が有効なことの方が多い。

しかし、この変わり種のブロッコリーを手にとってじっと見つめていると、宇宙の意志であるだろう神さまは、なんて美しいものを創造するんだろうと驚嘆せずにはいられない。
螺旋状に頂上に向かう渦巻き模様は完璧にフラクタルであり、その形は宇宙の法則と摂理を体現しているように見える。とにかく…う・つ・く・し・い!ゾクゾクする。そして結局のところ私は、「完璧な美に対しては表現不可能だ」という結論に至った。やれやれ。
私は昔から、幾何学図形や多面立方体にとても魅せられていて、それらについての本を読みあさっていた時期がある。幾何学図形や多面立方体を見ていると意識の変容が起こり、インスピレーションが湧いてくる。また直感が研ぎ澄まされるような感がある。
特に、「美」とは何か?「美」に定義はあるのか?という疑問に対する答えとして、黄金比率というものがあるけれど、その比率には「黄金比」と「大和比」の二つがあって、大和比はもちろん日本独自の比率だ。この二つの黄金比率は言霊(ことたま)、音霊(おとたま)、数霊(かずたま)と同様に、生命と宇宙の根源的な謎を解く鍵でもある。

こうして私に、ある種の啓示を与えたこの美しい幾何学的多面体のブロッコリーに、私は「フラクタル・ブロッコリー」と勝手に名前を付けた。そういえば、これとそっくりの形をした貝殻が自分の部屋にあるのを思い出した。自然界のものはすべて宇宙の法則を体現させている。そしてレオナルド・ダヴィンチがデッサンしたように、人間こそはまさに宇宙(マクロコスモス)のひな型であり小宇宙(ミクロコスモス)だ。
それどころか、フラクタル理論に従えば宇宙は人間を無限に拡大させたものかもしれないじゃないか?これは奇しくも昨夜突然ひらめいた考えなのだけど。きっとこれが真理でしょう。
ああ、直感はなんて一瞬のうちに時空を超えることか!
それは高次元からやって来る。

食べるのももったいなく思えて、しばらく机の上に飾っておこうかとも考えたけれど、食べてこそその存在を完全に認識できると思い、茹でて食べた。ちょっと栗に似た味がして、普通のブロッコリーよりも甘みがあり、とてもおいしかった。
かなり近いような気がする次なる大洪水の時には、ノアの箱舟にぜひともこのフラクタル・ブロッコリーの種も積んでほしいものだ。もちろんノアの箱舟とは宇宙船のこと。
宇宙船といえば、昨日宇宙ステーションにスペースシャトル・エンデバーに積み込まれた日本の実験棟「希望」の一部が、土井隆雄さんによって見事に設置された。
その時、ケネディー宇宙センターのアメリカ人スタッフが「すごい。隆雄ありがとう」、「みなさん、どうもありがとうございます」と宇宙ステーションに盛んに日本語でメッセージを送っていた。まさに最も美しい言葉である日本語の「ありがとう」が、宇宙空間を飛び交っていた。
いい光景だった。
いよいよ、日本の出番が来たようだ。

小田実のこと

2008-03-11 15:19:18 | 日記
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テレビ嫌いの私が久しぶりにテレビを見た。
ニュースと天気予報以外の番組を見るのは、年に1・2度しかない。それくらい見たいと思わせる番組がないということだ。私にとってテレビはおおかたビデオやDVDのためにある。
その年に1・2度のことに向かわせたのは、去年の7月、75歳でこの世を去った小田実(まこと)だった。
ETV特集「小田実・遺(のこ)す言葉」。
小田実の存在を知ったのは、私がセツ・モードセミナーで絵を描いていた70年頃のこと。ベトナム戦争が激化していたあの時代に、私の師であった長沢節がベ平連(ベトナムに平和を!市民運動)を立ち上げた小田実に大いに共感し賛同していたからだ。

当然の事ながらセツの学生は全員平和主義者だったので、あの歴史に残る“新宿騒乱”の時は、皆思い思いに新宿に繰り出し、私も警官隊に石を投げつけに行った。
集会やデモにこそ参加しなかったけれど、石を投げつけている時、私は紛れもなくベ平連の一員だった。そして、小田実という名前が私の頭に刻み込まれた。
行動する作家として、国際的市民運動家として、あるいは憲法9条を守るために作られた「9条の会」の呼びかけ人の一人として、60年安保の時期から平和運動を開始し、ベトナム戦争中期に ベ
平連を結成した。また阪神大震災のあと、被災者に対する救済を“法案がない”ことを理由に、国として何もなされないことに怒った彼は、それなら全国から署名を集めて法案を作らせようと立ち上がった。その運動はまたたくまに全国に広がり、かつてない膨大な数の署名を集め、ついに政治を動かし被災者救済法案を成立させた。

60年代末から70年代にかけての、あの激動の時代を生きて闘い続け、その後も死の直前まで闘う姿勢を崩さなかった彼の著書は300冊にも及ぶという。
このような健全な思想と勇気と行動力を持った、小田実という人間について思いを馳せる時、私は日本はけっして捨てたものではないと思うと同時に、人々の持つ個々のパワーが集結すればどんなことでも実現できる、世界を変えることもできるという希望を持てる。
まさに“Power to the  People”。私は彼を誇りに思う。

死を目前にした病床で、彼は語っている。
日本人はこの国に対してもっと誇りを持つべきだ。日本は戦後アメリカから民主主義と自由をもらった。そして素晴らしいのは、その上にさらに「平和主義」をくっつけたことだ。こんな国は世界中どこにもない。ドイツにしてもフランスにしても根底は今でも軍事産業で成り立っている。アメリカは言うまでもない。しかし日本は戦後ずっと平和産業を基盤にして国を立て直した。
世界は今、世直しが必要だ。そして日本にはその世直しのためのヒントがある。特に若い人たちに、日本はアカンと言うのではなく、日本こそは世界に希にみる“価値ある国”だという認識をもっと持ってほしい。それには日本の歴史と日本人の特質をよく知ることだ。

少しろれつの回らなくなった口で、このような言葉を静かに語る小田実の髪はすでに白く、その頬はこけていたけれど、目には何とも言えない優しい光が宿っていた。
小田実の魂はじつに日本人の魂であり、人間の良心であり、コズミックな根源の意識に貫かれた魂であり、そして私の魂でもあり・・・永遠のものである。

紅甘夏(べにあまなつ)

2008-03-06 05:50:03 | 日記
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紅甘夏の季節がやって来た。
鹿児島原産の特産物である紅甘夏は、3月~5月に出回る“樹上熟成”されたみかんで、特出したおいしさだ。果物の中で何が一番好きかと聞かれれば、迷わず「紅甘夏!」と答えるほどの大好物である。
その名の通り、紅の濃い果皮とオレンジ色のジューシーな果肉が特長で、口に入れると、そのあまりのおいしさに体中の細胞が歓喜する。私が紅甘夏を食べている時は、きっと目が座っているんだろうなあ。その時は人に話しかけられても、ろくろく返事もしないだろう。
たぶんエクスタシー状態。あるいは猫にマタタビ状態・・・。

とにかく毎年、この黄金にも匹敵する果物が店頭に並び出すと、やっと待ちこがれていた春がやって来るのだ。そして鹿児島には“春の使者”がもう一つある。それはまったくうれしくない使者だけれど、偏西風に乗って中国大陸からやって来る黄砂だ。
黄砂には中国の工場などから大量に放出される有害化学物質が含まれていて、否応なくその汚染された空気を吸わされる。洗濯物も汚れるので外には干せない。家の中がザラザラになるので窓も閉め切っておかなければならない。
今年も3日程前にそれはやって来た。空は黄色くかすみ、車を運転しているとフロントガラスがすぐに汚れて視界が悪くなり、ウォッシャー液とワイパーで何度も洗い流さなければならなかった。
こうして私に歓喜とうんざりの気分をもたらして、春はやって来るのです。

さて、最近は本を読むのに熱中していて、また昼夜逆転の生活になりかかっている。いけない。
それで、書きたいことは山ほどあるのにブログも怠けていたら、昨日私の守護天使に「そろそろ書きなさい」と催促されてしまった。そして私の天使は今日また、こう言ってきた。「これからはますます忙しくなります。時間の使い方を考えなさい」と。
そうなんです。時間のスピードはどんどん加速していて、残された時間内でやるべきことが山積しているのに、亀やカタツムリのようにスローモーな私。
人は皆、それぞれの使命を持ってこの世に生まれてきていると信じているけど、メグさんは、はたして自分の使命を全うすることができるんだろうか。

でも、光の波動はどんどん増してきている。
人々は目覚め始めている。
今は闇の世界に屈しているように見えても、
光の勝利は約束されている。
最後の最後で
世界はひっくり返るんだ。
私たちにとっても、
これは最後の戦いなのさ。

水からの伝言

2008-02-20 10:31:52 | 日記
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いい天気だー。
朝は室内でも気温が0度まで下がっていたが、10時頃になるとお日さまがポカポカ暖かい。
庭の梅の花も満開になり、ふくよかな香りが辺りに漂い、スズメやウグイスが枝から枝へ飛び回っている。その下で「♪1万年と2000年前から愛してる~♪」と鼻歌を歌いながら、洗濯物を干していると、青空に吸い込まれそうだ。こんな日は天使が降りてくる。

思えば私は子供の頃から、すべてのものは固有の波動を持っていて、それが周りの物や人の心にも影響を与えていると信じて疑わなかった。その考えは今も変わっていないどころか、ますます確信を深めてきている。
例えば選挙の投票の際、誰を選ぶかという時には候補者の顔写真を見て選ぶに限る。選挙ポスターの売り文句などというものは、どれも美辞麗句を並べた有権者への媚びにしか見えず、所詮は絵に描いた餅のようなもの。そんな誠のない言葉よりも、その人の顔写真から受ける波動で判断するのが一番間違いがない。特に政治家の言葉というのはまったく当てにはならないが、人相やその波動は嘘をつかない。実物ならもっといいけど写真からでも充分波動は伝わる。
もっとも最近は顔写真で選ぶにしても、いい波動を感じる人がいなくて仕方なく白紙投票する場合があるのは、なんとも哀しい限りだ。

体質的なものもあるのだろうが、このように波動というものに少なからぬ興味を持って、重要視してきた私は、その流れで言葉の持つ波動(言霊)には特に強い関心を持ってきたのだけれど、先日親しい人から1冊の本をプレゼントされた。それは『水からの伝言』という写真集である。
著者の江本勝氏は独自の発想と視点から、じつにユニークな実験を積み重ね、水の研究を続けている人で、1999年にこの本を出版して以来、一躍世界中で評価され海外でも11ヶ国語に翻訳されている。
彼は水が「字を読む」ことを発見し、それを実証した。信じられないような話かもしれませんが、真実なのです。それは水に言葉をかけたり、文字を見せたり、あるいは音楽を聴かせると、その水の結晶つまり氷の形が、その言葉や音楽に影響されるというものだ。
中でも最もインパクトがあるのは、水に「ありがとう」という文字を見せたものは本当に美しい結晶に変化するが、同じ水に「ばかやろう」という文字を見せると結晶はバラバラに崩れ、見るも無惨な姿になっていることだ。
私はこの2枚の写真を見て思わず手を叩いた。私がずっと密かに信じてきたことを見事に実証してくれたという思いだった。

人間の体の80%は水であることを思えば、この水の反応はそのまま私たち人間の反応だと考えるのが自然ではないか。でも言葉や写真、あるいは想念や音楽が物質に影響を与えるということを実証するこの研究は、当然ながら社会の規範への挑戦であり、これまでの科学のメインドグマにひびを入れるものなので、既成の科学にしがみついていたい人たちからの、批判とバッシングも相当あるだろうことは容易に想像がつく。
何を認め、何を認めないかは信仰の自由と同じく、まったく個人の自由だ。私はただ著者の波動に対する考え方が自分とまったく同じだったので、とても感激してワクワクしながらこの写真集を眺めた。

世界は波動である。私はそう認識している。
波動とともに電気的宇宙論(プラズマ宇宙論)も非常に魅力的で、私の想像力をかきたてる。
もしも世界中の人々が憎しみ、怒り、恐怖、戦争といったネガティブな想念を捨て、代わりに「愛と感謝」の波動をいっせいに発したとしたら、世界にはいったいどんな変化が起こるだろうか。想像しただけでもゾクゾクしてしまう。
ちなみにオノ・ヨーコは2004年のクリスマスメッセージでこの本の内容を詳しく紹介し、「私たちは皆、同じ海の水なのです。私たちはもう行進する必要もなく、家の中にいながら、ただ人々が平和に暮らしているヴィジョンを鮮明にイメージする、そう、イメージするだけで、世界を変えられるのです!」と絶賛している。そして、何百人、何千人の人々がその想像の力を合わせれば山をも動かせるという信念の元に、実際に人々に呼びかけ行動に移している。さすがだ。  

私たちはみんな、はるか遠い宇宙からこの地球という美しい星にやって来た地球巡礼者。
そしてこの星で様々な人と出会い、そして学び、体験し、自らの魂を磨いているのではないのか。
「ありがとう」という言葉は目を見張るような美しい結晶を作り出した。
「ありがとう」という言葉ほど人をしあわせにするものはない。    
そして最も美しい結晶が「愛してる」という言葉だった。私もひとりの地球巡礼者として、いつの日かこの星を去る時には、この地球(テラ)と愛するひとに「ありがとう。愛してる」と言いたい。 
光となって永遠に、ともに在りつづけることを信じて・・・。


デイ・アフター・トゥモロー

2008-02-11 08:16:18 | 日記
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最近なんだか次々とシンクロニシティが起こるようになって、自分でも驚いているのだけれど、一昨日もまたそれがやって来た。
2004年に制作されたローランド・エメリッヒ監督の映画「デイ・アフター・トゥモロー」を、私はまだ観ていなかった。それをどうしても観たくなって、車で40分もかかるレンタルショップへ行って、借りてきて観た。それは、地球温暖化によって突然訪れる氷河期の話で、よくこんなモノを作れたもんだと思うほどに、リアリティのある映画だった。そのあとコーヒーを飲んでパソコンに向かい、あるサイトを開いたところ、そこには一つのニュースがあった。

それは「太陽活動周期と気候」という見出しで、NASAは次の氷河期が始まると・・・つまり次の持続的な寒い時代を引き起こす大きな変化が、太陽の表面に起こっていると2008年1月9日に発表した、とある。
いつまで隠し通すのかと思っていたが、ついにNASAも太陽の異変と氷河期到来を認めたのだ。
その記事によると、フロリダのSpace and Science Research Senter(SSRC)は、繰り返し暖まるようなサイクルの結果、太陽の変化が寒冷気候へのシフトをもたらすと発見した。
SSRCディレクターのジョン・ケーシーは「NASAが示したように太陽の表面流動は劇的に遅くなっているとし、これらの変化はごく自然であり、表面運動が減速すると太陽カウントは著しく低下する。太陽黒点カウントが意味するのは、50より1つだけ低くても厳寒の気候へ広範囲に移行する」と述べている。
NASAは太陽活動周期が25であると発表した。SSRC科学者の一般的な見解は今春始めが50以下で、3年以内にさらに早く次の太陽活動周期が24で始まるという。
なおケーシーは「両院科学委員会を含むブッシュ政権すべての主要なオフィスに、この見解が通知された」と付け加えた。

まさに今私が見終わったばかりの映画「デイ・アフター・トゥモロー」そのままの展開となっているわけだ。この信じられないようなシンクロニシティに私は唖然としながらも、心中はきわめてクールで、また一つ大きなパズルが合致したという喜びがあった。
でも、人類の存亡に関わるこのメガトン級の重大ニュースは、本来ならば世界中のメディアのトップニュースとして扱われるべきものだけれど、現実はけっしてそうはならないのだ。
このニュースは温暖化の原因を、人間の営みによるもの=CO2としてきた論理を180度ひっくり返すもので、権力者側にすれば今さら引っ込みはつかない。
だからアメリカでもおそらくニュースにはならなかっただろうし、そのアメリカの奴隷となっている日本に至っては、そんな情報など知らされるわけもなく、相変わらず中国ギョーザと茶番的ねじれ国会のニュースを垂れ流すだけだ。

以前にもこのブログで書いたけれど、世界中のメディア(特にテレビと新聞)は完璧に押さえ込まれ、コントロールされている。本当のことを知りたければ、自分の直感を頼りにネットの海に飛び込んで探り出すしかない。悲しいけれど報道の自由なんてものはないのです。
でも、私の知る限りただ一つだけ、すでに2005年11月30日付けのAFP通信の記事で、実際にヨーロッパにおいて映画「デイ・アフター・トゥモロー」ほどの急激さはないものの、映画と同じ理論で、今後10年単位で平均気温が4度低下する恐れがあるとの、科学者の見解を伝えている。

ちなみに私が読んでいる南日本新聞に1週間ほど前、ほんとに小さな扱いのニュースを見つけた。それは例年の2月の平均気温が17度のベトナムに突然の大寒波が押し寄せ、それが停滞を続け田植えを終えたばかりの稲がしおれ、家畜や水牛が凍死しているというショッキングなものだった。
しっかりとアンテナを立てて気をつけていれば、サインはあちこちにある。

宇宙にはサイクルがある。だから歴史は繰り返す。
そのサイクルは当然ながら人知人力の及ぶところではなく、人はただただ、ひたすらに太陽を拝む(おろがむ)にしくはないのである。
古い太陽が死に、新しい太陽が出現するにしても・・・。
来たるべきこの宇宙のビッグイベントで、もし生き残れたなら、私たち人間が長らく失っていた「謙虚さ」を取り戻すことを願いたい。
謙虚な人こそ光の天使なのだから。

なばなとギョーザ

2008-02-07 10:31:19 | 日記


今日はスーパーで今年初めての、なばな(菜の花のつぼみ)を見つけてうれしくなり、早速2パック買って帰った。なばなは一般的には「おひたし」にして食べられているようだけど、塩もみにして食べるのが断然おいしい。ゆがいたり煮てしまうと香りや歯ごたえばかりでなく、ビタミン類も失われるからもったいない。よく洗って天然の塩でもむと、目にも鮮やかな緑色になる。5分~10分おいて、塩は洗い流さずに水気を絞ってあとは食べやすい大きさに切るだけ。それだけでプチプチ、コリコリと本当においしいくて止まらなくなる。塩は洗い流さない分、少な目にしないとしょっぱくなる。この塩加減だけがおいしさの決め手だ。
私はこの「なばなの塩もみ」を食べると、大寒の中にあっても、俄然春の足音を聞いた気になる。これぞまさに春の味。絶品です。野菜に目のない方は、騙されたと思ってぜひお試しあれ。

私の祖母がよく言っていた。「遠くのものより近くのものを食べろ」と。
「身土不二」という言葉があるように、近くの大地で採れた旬のものを、ただ天然の塩でもむだけというこんなシンプルな形で食べると、血がきれいになるのが実感できて、本当に体が喜んでいるのがわかる。
体が喜ぶということは魂も喜ぶということだ。こんなケガレのない食べ物は、今時外食ではまず食べられない。

ケガレといえば、目下話題の中国ギョーザだが、
この事件で中国は自ら、その国民性や利潤追求のためならなんでもやるという体質を世界にさらけ出した形になった。北京オリンピックを控えながら不信を買うことになったのは確かだろう。中国は恥ずかしい。けれど日本はもっと恥ずかしい。なぜなら日本は近年、生きるために必要な食べ物を自ら作らず他国任せにして、ひたすらエコノミック・アニマルの道を突き進んできた。これで国際情勢の悪化や、はたまた戦争や地球の異常気象が進めば、このままでは日本が真っ先にくたばることは容易に想像できる。何しろ石油資源はまったくの他国頼みだし、食糧自給率はたったの39%で先進国では最下位だ。ましてや世界の食糧危機は目前に迫っている。

他の先進国では来たるべき食糧危機に備えて、もうとっくの前から国を挙げて農地を広げ、農業推進に力を入れている。これに対して日本はまったく無策だ。この危機感の欠如は本当に恐ろしい。この事件以前にも、中国野菜から基準外の農薬が検出されたり、その他の食品も薬品まみれだということが指摘されていたけれど、中国にしても利潤は考えても、日本人の健康など考えるわけはないのだ。そうやって食料のほとんどを他国に依存しておきながら、やれ農薬が入ってた毒が入ってたと騒ぐのは、ちょっと虫が良すぎるのではないか?

そして、面倒な料理よりも安直な加工食食品に頼っている家庭の主婦にも、その矛先が向けられるのだろうけど、私はその奥に、メディアがまったく取り上げない、もう一つのもっと大きな社会問題が潜んでいると思う。それは、主婦が子供の弁当や家族の食卓に冷凍食品を多用せざるを得なくなったのは、ただ単に手抜きをしたいという理由ばかりではなく、今、実状として上流階級以外のほとんどの主婦は外へ働きに出ているということがある。つまり一時期おおかたの日本人が中流意識を持っていた時代は終わり、バブル崩壊後のこの国の生活水準は一気に下がって、今や主婦も働きに出なくては夫の給料だけではとても生活できないのだ。それまでは主婦は家にいて家事をすべてこなし、食事も手料理を作り、子供たちとも会話をする時間もあった。その分精神的には豊かな生活があったように思うし、子供たちの心も今ほどすさんではいなかった。

でも主婦が働きに出なくてはならなくなったら、とても手料理など作る時間はない。その結果が加工食品や冷凍食品の需要の増加となっていることは間違いない。今や共働きしなければ生活できないほどに、この国は貧しくなったのだ。
グローバル化を進めてしあわせになった国など、世界中捜してもどこにもありはしない。グローバル化はまさに悪魔の囁きだ。
「みんな違って、みんないい」という認識に立って、人種や文化の多様性を認めない限り、人類に未来はない。この根本的な事実を直視しないで、中国ギョーザだけを問題にするのは、いかにも視野が狭いと言わざるを得ないのでは?

私は今回の事件は、日本人の食のあり方と同時に、この国の社会問題を根本から見直せという、天からのメッセージと受け止めるべきだと思う。
もっと言えば、世界的大転換の年となるだろうこの2008年は、私たち個々人が自分の「生き方」について見直しを迫られているのだと感じている。
日本はこれから重要な役割を果たす国なのだから、今こうして「みそぎ」をやらされているのだ。他人や他国をジャッジメントするよりも自らの浄化を・・・。

ぶり大根

2008-01-27 05:31:24 | 日記
寒い! ほんとに寒い!
大寒とはいえ、この南国鹿児島で昼間でも気温が5度しかないというのは、私の記憶にもない。異常な寒さだ。この2日間で指はしもやけになって赤く腫れ上がってしまった。痛がゆい。
この鹿児島でもここ数年、年々冬が寒くなっているのは確かだ。一体どうなってるのか。
地球温暖化なんて、ほんとかなあ。じつは地球は氷河期に向かってるんじゃないのか?近年、ニューヨークやパリやロンドンでも異常な寒波が押し寄せて、凍死する人たちがいるというのに、なぜかメディアは大きく取り上げないのが、かえって気になる。

この寒さに加えて、石油、ガソリン、食品などの価格上昇、はたまた航空運賃、電気料金、ガス料金の値上げなどとどまるところを知らず、一般市民にとっては懐の寒さも一段と増している。
私のようなビンボー人は果たして生き延びられるだろうか。前代未聞の世界大恐慌の足音を聞きながら、そう思わずにはいられない。

でも、どんよりとした空に溜息をついていても、この3次元世界では時間が来ればお腹はへる。
今夜の夕飯は何を作ろうか。とりあえず近くの物産館(市場)へ野菜を買いに行く。私の場合は野菜次第でメニューが決まるのだから。
私の田舎は白菜とスイカが特産品なので、今の季節は本当に見事な大きな白菜が、まるまる1個、たったの100円で買える。すぐ近くのスーパーでは小ぶりの白菜を半分に切ったものが120円ぐらいなので、市場はいつも活気づいている。
白菜はまだ家にあるしと思いながら店内をまわると、目に飛び込んできたのは巨大な大根。持ってみると片手ではとても持てない。掘り出したばかりのようで白さが輝いていて、みずみずしくてズッシリと重い。それがなんと、たったの80円! これで決まり。

大根とくれば今の季節はなんと言っても「ぶり大根」だ。大根を1本買って、あとはスーパーに今が旬の寒ぶりを買いに行く。いつもはぶりのアラを使うのに、今日はなかったので仕方なく切り身を買う。それでも400円。大根とぶりで480円。大きめの圧力鍋で一度作れば3回は食べられるので、1回分のおかず代はたったの160円。これが貧しい者の知恵。赤唐辛子を効かせたぶり大根は、よく味がしみていてほんとにおいしい。
アツアツの大根を、ふーふーしながら夢中で食べていたら、ほっぺたの内側まで噛んでしまった。
ポエトリー・リーディングをやる時にも、私はよく噛んでしまうのだが。おいしいものを食べているときは、やっぱりしあわせだ。そして、そのしあわせを誰かと分かち合いたいと思う。

でも、そのしあわせを噛みしめながらふと思う。
今の世界の流れを見れば、食糧危機は必ずやって来るだろう。それもかなり近い将来に。
第一次産業である農業を切り捨てて輸入に頼り、今や世界で最も自給率の低い国にしてしまった愚か者の政治屋(政治家と呼べる人は、もはやいない)たちは、その時いったいどんな懺悔をするのだろうか。
ぶり大根など、もういくらお金を積んでも食べられなくなるかもしれない。
ぶりさん、大根さん、ありがとう。
だから今日も感謝して、そのいのちをいただきます。
「いただきまーす!」。