メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

一番長い夜に

2007-12-24 05:04:33 | 日記
昨日は冬至だった。
一年で一番長い夜に一人静かに沈思黙考していると、2007年が残してくれたたくさんのシンクロニシティや様々な思いとともに、私の頭の中に保留されていた謎が、次々と解けていくのに驚かされた。たった一つの謎が解けると、それに連鎖してドミノ倒しのように解けていく。
それは一種の悟りであるかもしれず、平易な言葉で言うなら「気づき」というものだと思う。悟りなどと言えばいかにも宗教臭く、厳しい修行や荒行でしか得られないというイメージがあるけれど、私はそのようには捉えていない。
文明が爛熟しIT社会になり、先進国ではほとんどの人がインターネットで情報を得るようになった今日、確かな選択眼と直感を持ってすればという条件付きではあるけれど、溢れかえる玉石混淆の情報の中から、悟りさえもICチップから取り出せる時代になったと思う。

そもそも悟りとは何か?それは簡単に言えば真理真実に気づくことに他ならない。すべてのものは宇宙とつながっているということや、フラクタル理論や、この世、つまり3次元世界は私たちの想念が作り出した「夢まぼろし」であり、マトリックスの世界であるということへの気づき。
私は真実の情報=悟りだと確信している。今や座禅や荒行をしなくても悟れる時代なのだ。
人類の歴史の中で真実はずっと隠蔽され続けてきて、ごく希にその情報を漏らしたり、人々に知らせようとすると必ず権力に弾圧され、気狂い扱いされてきたのではなかったか。

でも今、インターネットによってその壁は取り払われたので、私たちは政府によって操作された情報だけでなく、真実の情報も手に入れることができるようになった。繰り返すけれど、それには嘘と真実を見極める確かな選択眼と直感が必要なのは言うまでもない。
国家というものは、まったくの幻想なんだということに、もうそろそろ気づかないと手遅れになることは間違いない。
宇宙はフラクタルであり、太陽や月や星々の変化は直裁に私たちの変化だ。
まさに「上の如く下も然り」。私たちは今「気づき」の時代にいるのだ。小さなシンクロニシティやサインを見落とさないようにしよう。そこには大きな意味が隠されているかもしれないのだから。
科学と宗教の結婚は近い。

聖なるタバコ

2007-12-20 01:58:38 | 日記
今夜もゆったりと柚子湯に浸かり、
贅沢な気分を味わい、風呂上がりの一服をしていてふと思った。タバコというものは、まったくもって生活の中の句読点だなあと。一仕事やっては一服し、コーヒーを飲んでは一服し、食事をしては一服し、また一仕事しては一服する。こうして全世界的に禁煙の動きがあるなか、私は相変わらずタバコを愛飲している、しょうがない人間の一人だけど、昨日読んだ本の中にタバコに関するとても納得のいく文章があった。

それはエハン・デラヴィという人の発言で、「タバコは本来スピリチュアルなもの。化学物質を加えるからガンの元凶となる」という見出しだった。
それによると、先住民の世界ではタバコという植物は聖なるものとして扱われている。儀式の時に必ず捧げるべきもので、そうしないとシャーマンは儀式を行ってくれない。
喫煙で肺ガンリスクが高まることは周知の事実だけれど、不思議なことにシャーマンは肺ガンにはならない。そこでデヴィッド・R・ホーキンズ博士が、タバコの害悪がどの程度かを調べるために、市販のタバコとオーガニックタバコを比較しながらある実験をしたところ、市販のタバコは筋肉反応がきわめて弱くなるけれど、オーガニックの方はそうでもなく、無農薬タバコは害がないことがわかった。

なぜタバコは体に悪影響を与えるようになったのか、すなわち発ガン性物質を含むようになったのはいつごろからなのか。ホーキンズ博士が徹底的に調べてわかったのは、1957年から製造過程で化学物質が加えられたという事実だった。これ以降、タバコが原因とみられるガン患者の数が上昇し
、化学物質とガンの関係がはっきりした。
『インサイダー』という実話にもとづいた映画では、たばこ産業に従事している人は、自分たちの仕事を“ニコチン・デリバリー・ビジネス”と呼んでいて、さらにニコチンへの依存性を高めるために、ある化学物質を混入している。
そして、タバコ会社の社員がその情報を暴露しようとして命を狙われる。そこに描かれているのは、たばこ産業の実体そのもの。次々と吸いたくなるように製造されている。おそらく紙かフィルターの中に化学物質が入っているのだろう。

アマゾンのシャーマンはタバコを巧みに活用している。たとえば変性意識状態でパニックになった人がいると、頭頂の百会(ひゃくえ)というツボに煙を吹きかける。そうすると、ただちに落ち着きを取り戻す。タバコは聖なる植物で、偉大なパワーを持っているからこそ、全世界的なビジネスにまでなった。力のない植物であれば売っても誰も買わない。もちろん彼らが用いるのは無農薬のタバコであるのはいうまでもない。という内容だった。
日本製のタバコにも化学物質が加えられているのは明白だろう。確かに昔の日本人がキセルで吸っていた頃は肺ガンなどなかった。
さて、この事実を知ってどうするか?
キセルかパイプにすればいいだろうが、忙しい現代人はそんな悠長かつ優雅なことは、なかなかやれない。
思うにいっそのこと、チラムにポットやチョコレートを詰めて吸ってる方が、だんぜん体にもいいし、ハッピーになれるということじゃあない?

清めと柚子

2007-12-11 02:02:49 | 日記
年の瀬が近づくと、誰からも強要されるわけではないのに、年内にやっておきたい事が次々に頭に浮かんでくるのが不思議だ。何事によらずせかされるのが嫌な私だけど、今日はどうしても長らくやっていなかった墓参りをしておこうと思い立ち、近くの丘の斜面にある集落の墓地に出かけた。
案の定、墓石の隙間からヨモギがたくさん生えていたのでそれを抜き取り、墓とその周囲を掃き清め、水を取り替え、線香を上げて、ただ「ありがとうございます」と、何も願わない手を合わせた。
ただそれだけのことだけれど、なんだか気分がスッキリした。

世界中で最もきれい好きな日本人は、こと「清める」という事に関しては、古代から並々ならぬ情熱を注いできた民族だ。不思議な民族である。
その根底には、神道の「祓い給え、清め給え」という言葉に象徴されるように、お祓いとお清めの精神があると思うけれど、私もどうやら一日本人としてそのDNAをしっかり受け継いでいるらしい。
ほこりが目につけば払いたくなり、汚れていれば清めたくなる。
それが「世界を清めたい」という願望にまでエスカレートするのは、けっして不自然なことではないだろう。

それはごく単純な真理なのだが、ケガレた物や場所はケガレた気、つまりマイナスエネルギーを発していて、人を無気力にさせ、いら立たせる。逆に清められた物や場所は清々しい気、つまりプラスエネルギーを発していて、人を和ませ元気にさせる。
私は幼い頃からこの事実に気づいていて、気持ちのいい場所を見つけるのが得意だったように思う。清められた空間ではマイナスエネルギーは発生しないから、人はいらつくことも落ち込むこともなく、幸せな気分でいられるということだ。
ともあれ年内には、この1年のうちに溜まった物や汚れをスッキリと片づけて清め、清々しい気分で2008年を迎えたい。

墓参りのあと、隣家の叔母が庭の柚子をちぎってもいいと言ってくれていたのを思い出し、行ってみるとまだ結構ちぎり残されていたので、数個いただいてきた。どうもありがとう。
持ち帰ると台所が柚子の香りで満ちあふれた。ちょうど豚肉があったので、子供の頃母がよく作ってくれた「柚子入り豚みそ」を作った。我ながら上手くできて、とてもおいしくてご飯が進む。残った柚子はもちろん湯船に浮かべて、一足早い柚子湯。つつましやかな生活の中で、数個の柚子が心豊かにさせてくれた。
大切な人と分かち合いたい柚子の香り。
もうすぐ12月22日・・・冬至だ。
アセンションという言葉が脳裏をよぎる。

聖地巡礼計画

2007-12-04 03:38:00 | 日記
2007年もあと1カ月となった今、
またぞろ無性に聖地巡礼をしたくなった。聖地が私を呼んでいるように思えるのは気のせいだろうか。そこで、まず真っ先に行きたいと思ったのは、もうかれこれ10年以上もご無沙汰している奈良の天河神社だった。それで2008年のお正月は天河で迎えようと計画を立て、宿を探したのだけど民宿がすべて年末年始は休みだということで、残念ながら天河詣では延期せざるをえなくなった。
柿坂神酒之祐宮司の、あの玉の声によるすばらしい祝詞を聞きたかったのに。

仕方がないので他の聖地に行くことにした。
選んだのは京都の鞍馬寺と天橋立(あまのはしだて)。鞍馬寺には以前行ったことがあるけれど、「山の魔力」を代表するといわれるだけあって、なんとも奥深く底知れぬエネルギーを感じる場所だ。寺伝によれば、その原初の歴史は、650万年前に金星から地球の霊王として遣わされた魔王尊サナート・クマラの降臨によって始まったという。
SFや不思議大好きの私にとっては、じつにワクワクする所ではある。天橋立はまだ行ったことがないので楽しみだ。

日本列島は龍体で、世界の大陸のひな型ともいわれていて、神社仏閣のほとんどはこの列島のエネルギーのツボに当たる所に建てられている。
だから宗教が何であろうと、そこはエネルギー磁場がとても強くて特種な「気」が放出されている、いわゆる「聖地」でありうるわけだ。私は宗教にはもはやまったく希望も興味も失っているし、(といっても神道、特に古神道に関しては私は宗教ではないと認識しているので、例外はあるとしても)宗教はいらないと断言する者だけど、トポス=場所には限りない興味がある。そこに置かれた岩や巨石の類は言わずもがな。なぜなら場所は記憶を持っているからだ。場所はいにしえから、そこで繰り広げられた出来事のすべてを記憶している。そうでなければ、なぜその場所に立った時に、そこでしか感じない様々なイメージや言葉(言霊)が私の中に湧いてくるのか、説明することは不可能だ。
そして過去の記憶は、また未来の記憶でもある。このパラレル・ワールドにおいては・・・。

2007年・・・振り返れば今年はなんだか、あっという間に過ぎたなあ。
というよりも、年々時間のスピードが速まっているのを感じる。まるで時間が螺旋状に渦巻きながら、ある一点に集束されていくという感覚・・・そして、ある一点(臨界)に達すると時間は一瞬止まり、世界は反転し、そこからまた逆のベクトルに向かって今度は次第にゆっくりと時間が螺旋状に渦巻いていく・・・そんなイメージが最近頓に頭の中に流れ込んできて仕方がない。
このイメージと今私に起きている様々なシンクロニシティは、いったい私をどこへ連れて行こうとしているのだろう。
夜空を見上げれば、今夜もシリウスとオリオンが語りかけてくる。
覚醒したい。