メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

ソウルメイト

2007-08-28 02:41:25 | 日記
2007年の摩訶不思議な夏が、今亡霊のように通り過ぎようとしている。
昼間はまだ34度まで気温が上がり、猛暑の夏に変わりはないけれど太陽の位置は日ごとに低くなり、日差しが縁側の内側にまで入ってくるようになった。セミもミンミンゼミからツクツクボウシに交代し、赤とんぼも飛び始め、もうすぐ夏休みも終わる。晩夏・・・。
目の前の中学校にもまた生徒たちの嬌声が戻ってくる。今朝起きると庭に白い百合が2輪の
花を開かせていた。白い百合が好きだ。私はこの夏中、暑さで頭と体が火のように火照っていた。少しクールダウンしなければ・・・。
いつもクールでいることを旨とし、それを自分の性格にまで固定させてきたという私の自負は、この夏もろくも崩れ去ったかのような錯覚に陥るけど、「いや、私は大丈夫。絶対大丈夫よ」と、あかね色の夕焼けを見ながら自分に言い聞かせる。

来月は私はもう東京にいる。荒涼天使のライブもある。
荒涼天使は生まれたばかりで名前だけは付いたものの、まだライブも一度もやっていないいわば目も開いていない赤子のようなものだけど、このメンバーは何かしらとても不思議な巡り合わせで出会った、ソウルメイトだと私には思える。
人間、一人では生きてはいけない。意識しようとしまいと誰もが大勢の人に支えられながら生きている。私を支えてくれているのは東京の友人たちであり、その存在は私の人生を左右するほど大きい。

家族という定義は書き換えられるべきだ。
血の繋がりばかりが家族ではない。血は繋がっていても魂の繋がっていない家族のなんと悲惨なことか。幼い頃から家族に失望した子供は、いったいどこへ戻ればいいんだろう。
それでも子供は歩き続けて、生まれたときからずっと付き添っている守護天使に導かれて、やがて友というソウルメイトを見つけ、その数は出会いとともに増え、魂のくつろげるホッとする場所を友のそばに見つけるだろう。
その新しい家族こそが本当の家族と呼べるもので、魂の家族に他ならない。
自由な関係でありながら互いを尊敬しあい、高めあい、遊びあえる友はまさに皆ソウルメイトであり、最も大切な存在に違いない。
荒涼天使は言わずもがな、その風貌とマシンガン・トークに似合わず、義理人情に厚く涙もろいガクさんも、私のソウルメイトなのは間違いないなあ。
今朝咲いた白い百合は、一本の茎から2輪の花が咲いていた。
ツインリリー。ツインソウル。

 ★ インフォメーションの欄に「荒涼天使」の10月のスケジュールと
   メンバー紹介を載せました。

天使

2007-08-23 03:46:22 | 日記
「荒涼天使たちの夜」を出してから、どうも私には天使の姿がちらちらと目の端に写りだして、現界と異界のはざまが曖昧になってきつつある。
そういえば以前、横尾忠則が天使の絵のシリーズを描いたり、天使とコンタクトしているということを本に書いたりしていたなぁ。私が天使に興味を持った最初のきっかけは、20代の初め絵を描いていた頃、ラファエル前派の画家エドワード・バーンジョーンズの絵を見たことだった。
私はたちまち虜になって、当時借りていた安アパートの一室にベタベタとバーンジョーンズの天使たちの絵を貼り付けて、いつも眺めてはため息混じりに、そのリアルな天使たちのメルヘン世界で夢うつつの時を過ごしていた。

その後、横尾氏の天使に出会い、極めつけは映画「ベルリン・天使の詩」。
それ以前にも私の世界では、堕天使たちが街を歩き回り、ルシファーがビルの屋上から世界をうかがっていた。天使は架空の存在などではない。大人達には見えないだけで、純真な子供たちの目にはちゃんと見えるものなんだ。
現界と異界は切り離されたものではなく、一つのつながった世界でありパラレル・ワールドでなければ、どうして人はファンタジーやメルヘンを紡ぎ出すことができよう。

私はこんなにも歪んでいる
体は傷だらけで血まみれ
キラー通りで盗んだ服は
きれい過ぎてわざと汚した

こんな私に用はないはずなのに
私がぼんやり座っていると
いつの間にか私のそばに座っている
銀色の翼がきれい

あなたはだあれ? どうして私なの?
天使はまだ何も答えないけれど
私に何かを気づかせようとしている
何かを伝えようとしている

それはいったい何だろう?
私は今、ただその存在だけを感じている
世界は変わる
そう、きっと世界は変わるだろう

鉄コン筋クリート

2007-08-20 01:11:11 | 日記
私が最後に泣いたのは、いったいいつのことだったか・・・。
それはあまりにも遠い昔のことなので、もはや覚えてもいない。一度は鬼になったと自覚している私にとって、いや、私は今でも腹の中に鬼を飼っている人間なのだけど、その鬼でさえまさに「鬼の目にも涙」で何年に一度あるいは何十年に一度は泣くこともあるのだと知った。
昨夜、アニメ版「鉄コン筋クリート」を見て何年ぶりかでボロボロ泣いた。なんの予備知識も先入観もなく見たアニメは、二人の少年、兄のクロと弟のシロの物語だった。

改めて日本のマンガやアニメ文化のレベルの高さには驚かされる。マンガやアニメは今や日本の誇るべき一大文化だ。その内容の深さは哲学的でさえあり、世界の最先端を行っていることに間違いない。その絵のディテールもいかにも日本人らしい繊細さと緻密さと職人的技法でもって、他国の追随を許さない完成度の高さがある。
この作品は愛と絆という普遍的なテーマを扱っているのだけど、シロの存在は救世主的でもある。
私はシロの無邪気さとかわいさが愛しくて愛しくて泣いた。そしてこのなんでもない平和な一日が奇跡のように尊いものだと改めて気付かされる。

シロの言葉は純粋無垢で、砂漠の雨のように私の心に染み入ってくる。
「こちら地球星シロ隊員、応答願います」「こちら地球星シロ隊員、今日もいい子で地球を守りました」。そして「安心、安心」というシロの口癖とその満面の笑顔が私の心をぐっと掴んで、かつて鬼であり、今もまたいつ鬼になるやも知れぬ私はボロボロ泣かされてしまったんだ。
父親が死んだ時も涙一滴出なかった私。
私はもはや泣けない人間になってしまったのではないかと思っていたけれど、アニメを見てボロ泣きできた自分に驚きながらも一種の安堵を覚えた。
まだ私にも涙が残っていたんだと・・・。

泣くというのはカタルシスであり、心の中の黒いものを洗い流す作用がある。
泣けるということはうれしい。私はもっと泣きたい。泣かなければいけない。
泣いて泣いて泣き尽くして、最後に笑えばそれでオーケー。
シロ、ありがとう。あなたは愛そのもの。
シロ、あなたに会えてあたし安心、安心。

ロックとセックス

2007-08-14 00:44:09 | 日記
音楽、とりわけロックはセックスのようなものだということは、ロックを聴いている者たち誰もが感じることに違いない。エクスタシーという「ちいさな死」に向かってひたすらドライヴし、上昇していくことがロックであるとすれば、私たちは恋人とのセックスによって到達するエクスタシーを、不特定多数の聴衆とともにそれを共有することがミュージシャンの共通する目的なのだから。
何千人何万人の観客に向かって演奏するビッグなミュージシャン達は、何千人何万人もの人たちとセックスしているようなものだ。
コンサートやライブのあと、「よかったよ」と言われるのは「キミと一緒にエクスタシーに到達できて、よかったよ」ということに他ならない。

つまるところ、ロックというものはセクシーでなければならない。セクシーなロックこそステキなロックであり、イカシたロックでありそれ以上に私がロックに求めるものは何もない。
昔ミスター・カイトを始めた時、某ロック評論家にあからさまに「一度寝てみたい」と書かれて驚いたことがあるけれど、今思えばそれは最大級の褒め言葉であり、喜ぶべきことであり、ロックミュージシャンとしてはそれこそ望むところだったわけだ。

自らの意志で自ら選んで、この三次元世界に肉体を持って天界から墜落した私たちは、天界ではけっして得られない生々しい触覚とアドレナリンやドーパミンの脳内物質でもって、エクスタシーに至ることをひたすら望んでいる。
そしてうれしいことに、肉体のエクスタシーだけではなく、音楽によってもそこに到達できるんだと私たちは知っている。
セックスは霊的なエネルギーの交換であり、魂と肉体の両方で愛し合うセックスは聖なるものであり、それは霊的な力を覚醒させる。セックスと音楽、とりわけロックは生(性)の喜びであるべきだ。今日も荒涼天使の練習テープを聴いていたけど、なんだかますますセクシーな音になってきていて、うれしいな。

アレルギー

2007-08-11 00:54:36 | 日記
1980年代の初め、東京アンダーグラウンド・シーンにアレルギーというバンドがあった。
名前だけは聞いたことがあるものの、その頃私はバンド(ミスタ-・カイト)を解散したあとで、音の世界からは身を引いていた時だった。
今日、そのアレルギーの1984年「LAST LIVE at SINJYUKU ROFT」のDVDを観た。
グラムロックの影響も感じるその痙攣的で破壊的な、“瞬間”にすべてをかけた音には圧倒される。美しいバンドだ。今こんなバンドが現存したらさぞかし東京もおもしろいことになっているだろうと思う。
そのラストライブで化粧をしてタイトなドラムを叩いていたドラマーは、その後「水の羽」や「P-MODEL」を経て、私と同様長く音楽シーンから離れていたようだけど、今年の5月に一緒にセッションをやって荒涼天使として一緒に活動することになった。
バンドというのは人と人との出会いによって、アメーバのように姿形を、そして音を変えていくところがひどくスリリングで中毒してしまうゆえんだと思う。
東京アンダーグラウンド・シーンは今どうなっているのだろうか。
牙と毒が抜かれていないことを願う。

 ★ 詩のコーナーに最新の詩をUPしました。

遠雷

2007-08-06 03:09:35 | 日記
昼近く、日差しはあるのに遠雷が1時間ばかり鳴り続けていたかと思うと、急に暗くなり西の空から真っ黒な雲の一団が近づいて来るのが見えた。雨がやって来る。こんな雲行きの時は、スコールのように一瞬にしてザーッと降り出すのが常だ。あわてて干し物を取り込む。すると見計らったように大粒の雨が降り出した。
雨に匂い立つ草いきれに包まれてぼうっとしていると、荒涼天使の音を聴きたくなって、でんでんが送ってくれた練習テープをかける。ファンキーでダンサブルな曲あり、コズミックな広がりのあるスローなインプロビゼーションあり、シンプルな3コードのロックンロールありと、バラエティに富んでいてとても楽しい。長年音をやり続けてきた者たちの、間口の広さと懐の深さを感じる。
あとは「声」という楽器でセッションするだけだが・・・これが問題だ。
でも、このバンドは二度と同じ演奏はやれない即興バンドなので、おそらくその回限りのスリリングなセッションになることだろう。

私は昔ミスター・カイトでヴォーカルをやっていたにもかかわらず、未だに音楽はズブの素人なので、自分をミュージシャンだと思ったことは一度もない。歌も自他共に認める下手くそだ。
それじゃー、一体あんたは何なの?と訊かれれば「たぶん、ただの一個の霊媒・・・巫女のようなものかしらね」と答えるしかない。だから音に乗りうつられ巫女になることが私の役割なのだと思う。それにしてもみんなと一緒に練習できないのがつらいところ。私にとっての練習とは巫女になる練習。ラピスはかねがね詩人だと思ってはいたけど、先日「ラピーヌの唄」という素晴らしい詩を書いていた。私はそれがすごく気に入ったので、いずれ曲にして歌わせてもらおうと思う。

わたしの心の空に遠雷が轟き
木々がざわめき
湖面にさざ波が立つ時
わたしはサルビアの赤い花の上で
雨を待つ一匹の蛙
やって来るのは優しい雨だろうか
それとも激しい雨だろうか
わたしの緑色の背中を濡らすのは

聖八月(みはちがつ)

2007-08-03 01:51:59 | 日記
台風5号が宮崎に上陸し、昼間はこちらも暴風雨となったが、ほんのちょっとコースが外れたために大事には至らなかった。でも、台所の西側のよしずとスダレをしまい忘れたために強風にズタズタになって倒れ、使い物にならなくなった。やれやれ。
もう八月だなぁ。私もジャニス・ジョプリンに魂を奪われた間章のように、「サマータイム」を聴きながらゆっくりと長い夏の中へのめり込んで行こう。
10月の東京でのライブスケジュールが決まったので、予定よりかなり早く9月22日頃上京することにした。もう来月じゃないか。そろそろ何かと準備をしなければいけないのに、暑さのせいにするが、このところなんだか頭がぽわーんとしていてシビアな事が手に付かない。
この2007年の魔夏を何とか乗り切らなければ。

私の新バンド、JEEN & Desoration Angelsは英語だと長すぎて覚えにくいので、日本語で「荒涼天使」と改めることにした。
八月は聖八月(みはちがつ)といって、死者と生者が交信する月でもある。ジャニスやジム・モリソンやジョニー・サンダースとだって交信できる。ディスクに残された彼らの声を媒体として。
先日大阪のFさんから、元ロックマガジン編集長の阿木譲さんが、今大阪ミナミでジャズ系クラブ「nu thing」を経営しているというメールをもらった。それには阿木さんの最新文が添えられていて、それによると彼は「言葉」について、「言葉はボクを裏切り、ボクは言葉を裏切るのだ。言葉は音楽にとってほんとうに必要なのだろうか」と書いている。
阿木さんは健在だった。最後にFさんが「言語派として来年一緒に出ますか?」と書いていたので、
「ぜひ」と答えておいた。

言葉は「声」という楽器であり、それはどこへでも入っていけるものだと、私は信じている。
チベットなどで、今まさに死に往く者の枕元で読み上げられるお経や声明・・・声明とは声の明かりであり、ためらい往き迷う魂を導くもの。
人間の感覚の中で最後まで残るものが聴覚であり、それも人の声に対する感応であるという事実は古代から伝えられてきた知恵だろうと思う。
阿木さん、またお会いしたいものです。