メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

天使と花園

2007-11-23 05:18:18 | 日記
わたしが荒野にひとり眠っていた時
夜空に輝くプレアデスから
天使が舞い降りてきた
つややかな銀色の翼で
そして、わたしにひとつのメッセージを伝えた

「古いルールはもう行き詰まり
古いルールじゃ、もうやっていけない
もうすぐ世界は変わります
evolusion
evolusion
ニュースの中のサインに気をつけて
ニュースの中のサインを見逃さないように」

ちょうどその時
わたしの頭の下には一冊の本
“ナジャ”があった
シンクロニシティ・・・重要なサイン
それからは、わたしの夢の庭に
毎日小さな赤い花が咲くようになった
5年後にはきっと
見事な花園になるだろう
そしてわたしは
今夜も天使の翼にくるまれて
ゆっくりと眠りの底に落ちていく

無限のありがとう

2007-11-14 20:16:11 | 日記
一昨日、やっと鹿児島に帰ってきた。
上京した時は9月で、まだ井の頭公園はツクツクボウシの蝉時雨の中だった。半袖のTシャツでもちょっと歩くと汗ばんだし、キャリーバッグの中身もほとんど夏服だった。
そして今はもう11月。公園の木々は紅葉し、落ち葉がはらはらと舞い落ちている。夜はスズムシの声が賑やかだ。晩夏から初冬へと季節は巡り、着る服がなくなった私はいつも男物の長袖のTシャツやパーカー、ジャケット、アーミーコートなどを借りて着ていた。

田舎に帰りたくなくて、ずるずると引き延ばされた時間は私に「時間」というものに対しての、ある啓示を与えてくれた。それは夜の井の頭公園の池にかかる橋の上でのことだった。
黒いなめし革のようにてらてらとかすかに光る水面。橋に沿って水中に打ち込まれた杭には鉄線と鉄棒が渡され、そこがカモのねぐらになっていて夜になるとカモがずらりと等間隔で並び、なぜかみんな東の方を向き、首をくるりと背中に回して寝ていた。
私はその時、時間の正体がわかった。時間とはけっして過去から未来へ直線的に流れているものではない。時間は測定することはできない。つまり過去も未来も存在しない。あるのは今この一瞬だけ。そして永遠とは今この一瞬のことだという明瞭な真理が、理屈でもなくアインシュタインの数式でもなく、ただ啓示として稲妻に打たれたように体感し理解した。
時間も空間もパラレルなものであり、私たちは次元を越えて存在しているんだという、この確信。
意識=心というものが測定不可能なものである限り、時間も空間もまた測定することはできない。

時は止まることがある。時は止めることが出来る。
その止まった時間とこのパラレル・ワールドの中で、滞在中4回のライブをやった。ラママのライブは個人的にはまったく良くなくて消化不良だったけれど、ジーン+荒涼天使としての初めての映像がDVDに残された。音的に一番良くて納得できたのはUFO CLUBでのライブ。これはあの「MAY.3]
を越えたという実感がある。そして急激に冷え込んだある夜、冬の気配を感じた私は翌日帰りの航空券を買った。東京移住のために鹿児島で片づけなければならないことがある。

家に帰ってきたら、頼んでおいた庭師さんが木の剪定と草刈りをしてくれてあり、きれいになっていたけれど、やるべきことも山ほど溜まっていた。止まっていた時間がまた動き出した。
東京滞在中に、もうかれこれ7、8年は飲み続けてきたクスリをやめてみた。やめたあとの揺り戻しや反作用を恐れていたのだけれど、田舎に帰ってきても今のところなんともないので、もう クスリなしでも生きていけそうな気がする。うれしい。やっとクスリをやめられた。
これは私にとってはすごいことなのだ。そういえば滞在中のある夜、公園のそばの路上で一冊の本を拾った。それはまっさらの本で、どう見ても誰かに拾われるために意図的にそっと置かれているとしか思えなかった。表紙には「ありがとうございます」と書いてあり、「ありがとうございます」のシールがたくさん挟まれていた。内容はアマテラスなどについて書かれた古神道系のものだった。
シンクロニシティが次々に起こってきている。
あーちゃん、ありがとう。そしてみんなにありがとう。
無限のありがとう。

戦略

2007-11-04 00:35:36 | 日記
一通のメールが来た。
それは「戦略」という言葉の本来の意味と語源は何かという問いだった。物知りでもない私に、時々この手のちょっと変わったアプローチのメールが送られてくることがあって、ハタと考えてしまうのだが、世の中には結構言葉に対して深く考察する人がいるんだなと思う。
戦略という言葉がいつ頃から使われるようになったのか知らないが、戦いという人間の業が発現した時点で同時に生まれた言葉だと想像するのが、妥当だとは思える。私の乏しい認識の中では、古代、卑弥呼の時代から既に領土の拡大と権力争奪の戦いは存在していたのだから、きっともうそのころから戦略という言葉もあったのではないかと思う。
話は少しそれるが、一時期私は、2000年ほど前に栄えた邪馬台国の偉大なシャーマン(巫女)であった卑弥呼という存在に魅かれ、卑弥呼伝などを読み漁っては、はるか古代に思いをはせていた。そして当然ながら、私は卑弥呼にいたく憧れた。
その憧れは世界を占い、なおかつ癒すという存在への限りない憧憬であり、今も私の中でひそかに膨張し続けている。これは余談だが、あるときある霊感の強い老人に「あなたには巫女の素質がある」と言われ、本気で古神道の巫女になろうと思い、神社に相談に行ったことさえある。私は一時期かなりはまり込んだ古神道の世界さえも超越して、この混沌と狂気の織り成すサイケデリアであるロックの世界で、巫女になることを選んだというわけだ。

戦略に戻ろう。ビジネスの世界ではグローバル化が加速して以降、90年代終わりごろからこの言葉が頻繁に使われるようになった。反面、競争ではなく、共創なんだという考え方と企業間の関係は互いにwin winであるべきだという考え方も2000年以降に現れた。そして今世界はようやくエコノミーからエコロジーに向かおうとしている。それなのに未だに戦略だなんて...。その言葉を未だに使っているかどうかがその企業の明暗を分かつようにも思える...というのがそのメールの内容だった。

そうだ、そのとおりだ。もう争いはたくさんだ。競争も....。戦略なんて野蛮な言葉はもう捨て去って共創と共生の世界にレベルアップする時代なんだ、今は。私は世界が変わることを心から待ち望んでいる。そして何よりも自分自身が日々変わりつつある。自分が変われば世界も変わる。これは重大なことだ。まもなく世界は合理主義が過去の遺物となるような、ハイレベルな世界に移行するだろう。その世界にジャンプするために、それぞれが皆個人の負の想念を癒し、清算しよう。
みんなー、もうあまり時間はないよー。