メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

マークエステル「日本神話」

2009-02-28 00:34:15 | 日記
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今日は東京では雪が降ったそうだけど、鹿児島はこのところずっと雨模様の日が続いている。
私は今夜も柔らかな春雨の音を聞きながら、机の上に一冊のずっしりとした画集を広げている。
マークエステルの「日本神話」だ。
最近はこの画集を見ている時が、私の至福の時間と言える。
この画集と出会ったのは、今年の初詣に出かけた広島は宮島にあるホテルのロビーだった。到着して手続きを済ませ、ロビーの一角に本棚があったので何気なく見ていたら、最上段に一枚の絵が飾ってあった。私はなぜかその絵にとても引き寄せられてじっと見ていたら、それはじつは一枚の絵ではなく、一冊の大判の本が立て掛けてあるのだと気づいた。
「何だろう?これ」と思い、やっと手が届く高さからそれを下ろそうとすると、厚さもゆうに4センチはありずっしりと重く、両手でやっと持つことができた。
それは日本神話の古事記を現代語で書いたものに、墨絵のぼかしの技術を使った色彩曼荼羅とでもいうような、けっして挿絵ではない「絵画」と合体したものだった。

ページをめくっているうちに私はすっかりその絵に魅了され興奮していた。
それは完璧なまでに私の心の世界そのものだった。
物欲はもうほとんどない私だけれど、本当に珍しく心の底から「ああ、これ欲しい!」と思った。でもすぐに、「おそらく何万円もしそうだから買えないよなあ」とあきらめたのだった。
ゆっくり見ている時間もなかったので、後ろ髪を引かれつつも「ああ、すごい画集に出会ってしまった」という感動と喜びで、こうして厳島神社にやって来たのも、この画集と出会うためだったのかもしれないと思ったのだった。
宮島は美しく、人なつこい鹿たちがゆったりとその風景に溶け込んでいるのを眺めたりしながら、大晦日からの3泊4日の旅はあっという間に過ぎた。

そしてちょうどきっかりの1ヵ月後・・・奇跡は起こった。
2月1日の私の誕生日に、なんとこの画集が届いたのだ。
これを奇跡と言わず何と言うか?
発送元は第十神界。 差出人はアマテラスオホミカミ。ってか~。
まさに仰天! 天を仰ぐ。
かわいそうにニーチェは「神は死んだ」と言って、ついには発狂して死んでしまったけど、私は「神はいる」と言って、うれし涙にくれたのだった。
神さま、ありがとう。無限のありがとう。
かように、西洋の神は死んでも日本の神はけっして死なない。
それは外にいる神と内にいる神の違いである。これは決定的に重要だ。

もしも、どこかの離れ小島に長期滞在しなければならなくなった時、あるいは、もうこの地球には住めなくなって、どこかの惑星に移住しなければならなくなった時、はたまた、かなり近いような気もする次なる大洪水の前に、現代の“ノアの箱舟”に乗り込まなければならなくなったとしたら・・・。
その時、二冊だけ好きな本を持っていけるとしたら、私は迷うことなく「古事記」と「万葉集」を選ぶだろう。
この二冊は昔からの私の座右の書なのだけど、このマークエステルの古事記はまさに決定版で、私の一番の宝物となった。 (つづく)

ミジンコのひとりごと

2009-02-16 04:32:54 | 日記
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瀬戸内海 宮島近くの神小島



人間は本当は
この地球上に たったの一人しかいないんじゃないか。
他者など存在しないんじゃないか。と思うことがある。

見知った人も見知らぬ人も
街角ですれ違う人も
あーちゃんもけんちゃんも
みづ紀もココもミュウも・・・
過去に会った人も これから会う人も
ある日突然ネットの海で遭遇する
その言葉のみで形成された ホログラフィックな人も

いやいや、そんなもんじゃない
地球上のすべての人間
善人も悪人もひっくるめた すべての「魂を持った人間」に対して
なぜかみんな自分のような気がして
とても奇妙な感覚に陥る一瞬がある。
ただし、この地球上にはもともと「魂を持たない人間」がいる。
彼らは人間の姿をしているが、人間ではない。
邪悪な存在。
そんな「人で無し」は例外として。

それは、他人と自分は
どこか根底では共通の意識でつながっているという感覚。
人間の一人ひとりの意識は、例えるなら人間の体の細胞の一つひとつであり、
張り巡らされた脳の神経細胞、シナプスのつながりのようなもので、
それはいわば「魂のネットワーク」なんじゃないかと。
カール・ユングはそれを集合意識と呼んだのだけど。
そしてそこには細胞の、あるいは魂の集合体である一個の巨大な存在が「在る」。
つまり、そこには「一つの意思」が存在するということであり、
人間は皆、その大いなる一つの意思に貫かれているということになる。

私が他人だと認識している「あの人」あるいは「あなた」は、
本当は自分なんじゃないか・・・という感覚は、いったいどこから来るのだろう。
それはたぶん、遠く不可思議の領域から瞬時にやって来るのに違いない。

「人間は本当は
この地球上に たったの一人しかいないんじゃないか。
他者など存在しないんじゃないか。」

ワタクシ、一匹のミジンコはそんなことを思い
陸の存在も銀河の存在も知らず
それでも今日も生かされて、
元気に水の中を泳いでいるのでした。

対話(その2)

2009-02-15 02:39:48 | 
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沈黙の中でこそ わたしは最も饒舌だ
沈黙の中で わたしは対話する
わたしが沈黙するとき それは立ち現れる

いえ、本当は
原初からそこに在りつづけているのに
会話の際には 感知できないだけ

それは名無しの存在
絶対の意思
それは父性と母性の合体した
一本の石の柱・・・意思の柱となって
わたしの心のゆにわ(斎場)に立っている

それは、わたしの過去と未来の
すべての思考を記憶し
わたしのすべての行為を記録する
アーカシャの海に
虚空に浮かぶ 永遠の海に
その冷たく柔らかい 光る水に

それが不在であったことなど
一度も無いのだ
かつても これからも


沈黙と饒舌の中で
わたしはひとりではない


対話

2009-02-13 20:42:44 | 日記
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朝・・・といっても昼近く、
うぐいすの初鳴きに目覚め、庭に出ると暖かい南からの強風に、
満開の梅が花吹雪となって舞っていた。待っていたよ!春一番。
その風は、なぜか飛鳥時代の匂いがした。
春キャベツとブロッコリーのサラダを山盛り食べて、お風呂を洗いながら、
いつものように対話した今日のメモ。

私たちは言葉をコミュニケーションの手段として、人と会話している以外の時は、
自分の頭の中でいつも自分の心と「対話」している。
この「対話」についての考察。

この内なる存在との対話は思考、つまり想念なわけだけど、
内なる存在と対話しなくなると、人は自分を見失う。
私の認識では、内なる者とは内なる神であり、良心(良神)
ということになっている。
そして、その想念は必ず実現する。つまり想念は「物質化」すると。
これは量子物理学との、いわば「科学と心の結婚」にも行き着くのだけど。
私が30代の頃から一貫して恥ずかしげもなく、へたくそな歌や詩や和歌を通して人々に提示し伝えたかったことは、まさにこのことに尽きる。
私のこの直感のみに頼った確信からすれば、普段私たちが会話ではなく沈黙している時、心の中で様々なことを想っている、
その想念が今この瞬間の世界を表出させているのだと。
だから今私たちが存在しているこの世界は、私たちの想念の物質化したものに他ならない。

その証拠に、人間の想念の変化とともに世界は刻々と変わり続けていて、
一瞬たりとも静止することはない。
つまり未来は決定してはいない。これは重要なこと。
予言が外れるというのは、こういう理由によると思う。
ならば・・・ならば、結論としては
私たち人間は悪い想念ではなく、良い想念でもってこの世界を、天国や浄土や地上楽園やユートピアや、
はたまた、神の世、弥勒の世・・・などと呼ばれている世界に変化させることが出来るということである。
未来はまさに私たち一人ひとりの想念にかかっている。
これは、やるしかないでしょう。

よろしく頼むよ、人類。

いよいよの梅の花咲く

2009-02-09 21:44:06 | 日記
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先日の立春の朝、起きぬけのまだ朦朧とした頭で庭に降り、一段とキラキラしさを増してきた朝日を仰いでいると、ふいに妙なる香りに包まれた。
突如として天女が私の隣に立ったかと・・・錯覚した。
ゆっくりと首を回すと、玄関前の大きな梅の木にまあるく膨らんだたくさんの蕾とともに、五弁の白い花がちらほらと開いているのを見つけた。
殺伐としていた冬枯れの庭に、どの花にも先駆けて咲く梅の花は、なんだか新つ世(さらつよ)の使者のようで大好きです。
それに我が家の梅は毎年、旧暦の正月であり神界の正月でもある立春の日に、きっちりと合わせて花を咲かせる。不思議です。
言霊としての梅は、おそらく「産む」から転じる「産め」であると思う。
梅の花はまさにすべてのいのちが「張る」ところの、春の音連れ(おとづれ)です。
見ているだけでしあわせになり微笑まずにはいられません。
“三千世界いちどに開く梅の花”
いよいよの時代になりました。

ずいぶん長いことブログを更新しなかったのは、体調が悪かったのでも落ち込んでいたからでもありません。
私の脳内の無数の部屋は、普段はせいぜい三部屋ぐらいしか使用していなくて、そのほかの部屋はすべて開かずの間になっているのですが、それらの扉が去年の秋頃から、何かのはずみでいっせいにバタバタと開き始めたので、私はすべてのやるべき事を放り出して、今毎日その開いた部屋の中の様子をチェックして回ることに、孤軍奮闘している状態なのです。
あ~~、うまく説明できないのが辛いところ。
そんなわけで、元来の筆不精にさらに輪を掛けることになり、皆様にご無礼とご無沙汰の続行中です。ごめんなさい。

私は心身ともに滅法元気です。
特に心の状態には一点の迷いも悩みも不安もなく、二年ほど前までは坑うつ剤を飲み続けていたことが嘘のよう。
心が平穏で平和でありさえすれば、すべてはオーケー。
生きているのがうれしい。
生きているのがありがたい。
私はもともと陽気なタチなのだけど、最近は「あたしって女版土屋賢二だったのかしらん?」と思うほど、いつもころころと笑っているので笑いジワが増えました。
そして「類は友を呼ぶ」の法則により、私の周りに楽しい人が集まってきて、ほんとにうれしい限りです。

みづ紀、吉澤君、創士さん、真弓ちゃん、聖二君、スチュ&ココ、ジョゼ、マスミ、藤井さん、けんちゃん・・・その他メールや年賀状やお手紙いただいて、まだ返事を書けないでいる皆様、ほんとにすみません。
今しばらくお待ちください。

言葉よりも会いたい。