メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

荒涼天使LIVE

2007-09-21 22:50:44 | 日記
上京の日が近づいてきてバタバタと大忙し。
こんな時に限って、庭師さんがやってきたり、トイレの水道管に穴があき床下が水浸しになっているので、パニクッて水道屋さんに修理をしてもらった。こんな上京の荷造りに追いまくられてるときに、もう~~~! せっぱ詰まらないとなかなか腰を上げようとしないタチなので、いつも旅の直前にはあたふたしてしまう。
ブログは東京の友人のパソコンを借りて、書く余裕があれば書きたいと思うけど、結構また飲んだくれてしまいそうで、あまり自信はない。

荒涼天使の詳細なライブスケジュールももう一度ブログに載せようと思ったのだけど、やりかたが
わからなくて出来なかった。情けない。でんでん、ごめんね。
ブログの左側にあるINFOMAIONの欄は、少しわかりづらいのですが、そこをクリックしてご確認ください。
とりあえず東京で「荒涼天使LIVE」をやってきます。
お暇な方はどうぞいらしてください。しばらくブログがお留守になるかもしれませんが、いつも読んでくださっている貴重な方々、ごめんなさい。帰ったらどっさり書きます。
じゃあ、行って来まーす!

ジョージの頭

2007-09-17 02:37:03 | 日記
イラク戦争は不思議な戦争だ。
4年半の戦闘で3800人近い米兵が死亡しながらも、ベトナム戦争の時のような反戦運動が本格化しない。それは社会ができるだけ戦争に対して無感覚でいられるよう巧みに組み立てられているからに違いない。
昨日、ジョージ・ブッシュが国民向けテレビ演説でイラクへの長期駐留宣言をした。
油というエネルギーの宝庫であるイラクは絶対に手放さないという決意がありありと伺える。
「テロとの戦い」、「イラク民主化」を第二次世界大戦や冷戦と同列視し、善悪二元論を振りかざすブッシュにとって、この宣言は当然なんだろう。

でもジョージ、あんたってほんとに馬鹿なんだね。
哲学や知性のかけらもなければ品格などもちろん無い。あんたの頭の中は笑えるほど空っぽで、テキサスの農場でカウボーイの格好をして、ピーナッツを囓りながら牛でも追ってるのがお似合いだ。その想像力に欠けた頭で、アメリカがイラク国民に与えた屈辱のことを考えてみることなどできるわけはないけど、ただはっきりしていることは、あんたはただの能なしのマリオネットにすぎないってことだ。
それにしてもジョージ、あんたはアメリカの歴代大統領の中でも最低の大統領だ。何しろニューヨークのど真ん中に自業自得のグラウンド・ゼロを出現させたんだから。

テロの最大の動機は貧困でも宗教でもなく、屈辱を与えた者への報復だろう。
ねえ、ジョージ、あんたがやっていることは、イスラムの土地を永久支配するアメリカへの怨念を燃え立たせ、劇的な対米テロを仕組むよう自ら誘導しているんだってことが、こんなシンプルなことがわからないほど、あんたは頭が悪いんだね。
ビンラディン君よ、あなたはせめてアフガニスタンかどこかの山中で生き延びなさいよ。
膝の上に猫を眠らせて・・・。

空心菜

2007-09-12 02:36:10 | 日記
いつも行く野菜市場で今日、空心菜がたくさん並んでいて驚いた。
エンサインという名前で売られていたけど、この辺では珍しい野菜だけに説明書きに空心菜とも呼ばれていると書いてあって、うれしくなって早速買い求めた。一束105円。安い。
空心菜は東南アジアの野菜で、タイに行った時よくこの野菜の炒め物を食べた。4月に上京した時、F氏に原宿の台湾料理屋でご馳走になった時も、空心菜の炒め物が出てきてとてもおいしかった。鹿児島のこんな田舎でも栽培するようになったとは驚きだ。野菜の世界もどんどんグローバル化が進んでいるとみえる。

私が空心菜という野菜に興味を持ったのは、私の好きな藤原新也が以前エッセイに空心菜のことを書いているのを読んだからなのだが、それによると東南アジアの亀はこの野菜がことのほか好物で、亀のいる池に空心菜を投げ入れると、まるで猫とマタタビの関係のようにサッと集まってきて、あっという間に食べてしまうそうだ。この、とりたててクセのない味も香りもない野菜を、なぜ亀が大好物なのかということに対して彼は、たぶん字のごとく中が空洞になっている茎の中に詰まっている、外界の空気ではない純粋無垢な空気がおいしくて、あのようにむさぼり食っているのではないかと書いていた。藤原新也ならではのおもしろい発想だ。私は彼のこんな発想にいつも感心する。

私は野菜の中で最も好きなのは香りの良い春菊なのだが、これはみそ汁はもちろんのこと、さっと茹でておひたしにして酢醤油で食べるのが一番おいしいし、七草がゆ風に鶏肉や餅、里芋、大根、生しいたけなどと一緒にかゆにして食べると絶品だ。このオリジナルの「メグ風がゆ」を食べられる人は、しあわせもんぞ。
私は野菜には本当に目がない。まだ食したことのない野菜と出会うと、むらむらと好奇心が湧き、たいていは買って帰り、自分流にあれこれ料理して試してみる。こう書くといかにも私は料理好きそうに見えるかもしれないけれど、実際のところは別にとりたてて料理が好きなわけではなく、ただまずいものを食べたくない。自然の味を食したい。工場で大量生産される加工食品を食べたくないというだけのことだ。

加えて、鹿児島の料理の味付けが私には合わない。どんな料理にもまるでお菓子でも作るように大量の砂糖を使うので、甘くてとても食べられない。結果外食も出来ずスーパーの惣菜も買えないので、完全自炊を余儀なくされているというわけだ。その点、東京の味付けは大丈夫なので外食もできる。この結構しんどい完全自炊の生活から逃れるためと、他にも重要な目的というかやりたいことがあるので、今真剣に東京移住を考えている。

それにしても私は時々、食べることが本当に面倒くさくなることがある。
食べることに費やす時間がもったいなくて、人間食べなくてもすめばどんなにいいだろうと思う。
一日に必要なカロリーと栄養をサプリメントにして、それを一錠飲めばオーケーということになればいいなあ。
もっといいのは、早く世界が5次元に移行して人間が天使のようになれば、食べるという行為も必要なくなるのに。
ああ、こんなたわごとを書いているうちにもお腹が空いてきてしまうのが悲しい。
早く天使になりたい。

武士の娘

2007-09-06 03:48:21 | 日記
親しい友人たちというのは、つき合っていれば自然とその人となりはわかってきて、子供の頃どんな家庭環境で、どんな育てられ方をした人かも、おおよそは見当がつくものだ。
その人の醸し出す雰囲気は、ある意味で子供時代のエッセンスでもある。私の友人たちは皆、若い頃ロックという閃光を浴びてロックジャンキーになった人たちばかりだけど、なぜか不思議と育ちの良さと品格を備えている。それは無意識のうちに自分が選んだのかもしれないし、自然とそんな人ばかりが集まったのかもしれない。ともあれ、いわゆる下品な人がいないのはうれしい。
皆、デリカシーと礼儀作法をわきまえていて、そのデリカシーのためにうつ病になったりもするが、間違っても人の部屋に土足でずかずかと上がるような人はいない。

ちょっと前に「国家の品格」という本が出たので、そのタイトルに惹かれて読んでみたいと思っているんだけど、まだ読んでいない。
文明が終焉に向かうにつれて失われてゆくものはたくさんあるけど、品格もそのうちの一つだろう。崩壊した家族やこせこせした家庭からは生まれようもないもの・・・そんなものこそ宝物のように愛でたい。
子供の頃、私は今は亡き祖母から事あるごとに言われていた言葉がある。それは「ご先祖さんは立派な武士だったんだから、それに恥じるようなことをしちゃあいかん。たとえ身を落としたり貧乏になったとしても、心の品だけはけっして落としちゃいかん。武士の末裔としていつも凛としちょれ」というものだった。加えて「武士の娘は下を向いて歩くな。こそこそするな。曲がったことはするな」と、よく言われたものだ。

お姫様育ちの祖母は9人も子供を産んで立派に育て上げたが、その立ち居振る舞いはいつも凛としていた。祖母は先祖がサムライであることにとても誇りを持っていて、どうやら孫の私にまでサムライの心を受け継がせようとしていたふしがある。
でも、悲しいかな男の子には恵まれない女系家族だったので、もはや私が死んでしまえば三坂家は途絶えるのだ。
でも、おばあちゃん心配しないでいいよ。あたしは言いたいことを言って、やりたいことをやって、いっぱい人を愛して愛して愛し尽くして、善も悪も抱きまいらせて、武士の娘のように潔く死ぬよ。凛として死ぬよ。おばあちゃんみたいにね。

恋虫

2007-09-01 01:52:37 | 日記
部屋の中で鈴虫が鳴いている。
どうやら一匹紛れ込んで来たらしい。ほんとに涼やかできれいな音色。夜になると庭でも虫たちが賑やかに鳴くようになった。
秋なんて本当にやって来るのかと不安になるほどの暑い夏だったのに、やはり季節は巡ってきてくれる。
それにしても虫たちは秋の間中、なぜあんなにも鳴き続けることができるのだろうか。
まるで鳴くことが生きることのように、命の限り鳴き続けているように思えるし、あるいは、ただひたすら恋虫を呼び続けているようにも思える。
虫たちにとっては、月明かりの中で鳴き続けている今こそが永遠なのではないだろうか。
秋の虫は人を5次元に誘うために鳴いていると言う人もいるらしいし、ある友人は「虫たちは世界を調律している」と言う。素敵だ。

夜、監獄の独居房にいる友人に久しぶりに手紙を書く。
監獄には貸し出し図書というものがあって、時々いいものがあるらしい。最近フリーダ・カーロの評伝を借りて読んだそうだ。フリーダ・カーロは私も大好きだ。
今夜、彼の独居房にも同じ月明かりが差し込み、虫の音色が聞こえていますように。
そして世界が調律されますように。