メグブログ(美咲歌芽句)

Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)

戦略

2007-11-04 00:35:36 | 日記
一通のメールが来た。
それは「戦略」という言葉の本来の意味と語源は何かという問いだった。物知りでもない私に、時々この手のちょっと変わったアプローチのメールが送られてくることがあって、ハタと考えてしまうのだが、世の中には結構言葉に対して深く考察する人がいるんだなと思う。
戦略という言葉がいつ頃から使われるようになったのか知らないが、戦いという人間の業が発現した時点で同時に生まれた言葉だと想像するのが、妥当だとは思える。私の乏しい認識の中では、古代、卑弥呼の時代から既に領土の拡大と権力争奪の戦いは存在していたのだから、きっともうそのころから戦略という言葉もあったのではないかと思う。
話は少しそれるが、一時期私は、2000年ほど前に栄えた邪馬台国の偉大なシャーマン(巫女)であった卑弥呼という存在に魅かれ、卑弥呼伝などを読み漁っては、はるか古代に思いをはせていた。そして当然ながら、私は卑弥呼にいたく憧れた。
その憧れは世界を占い、なおかつ癒すという存在への限りない憧憬であり、今も私の中でひそかに膨張し続けている。これは余談だが、あるときある霊感の強い老人に「あなたには巫女の素質がある」と言われ、本気で古神道の巫女になろうと思い、神社に相談に行ったことさえある。私は一時期かなりはまり込んだ古神道の世界さえも超越して、この混沌と狂気の織り成すサイケデリアであるロックの世界で、巫女になることを選んだというわけだ。

戦略に戻ろう。ビジネスの世界ではグローバル化が加速して以降、90年代終わりごろからこの言葉が頻繁に使われるようになった。反面、競争ではなく、共創なんだという考え方と企業間の関係は互いにwin winであるべきだという考え方も2000年以降に現れた。そして今世界はようやくエコノミーからエコロジーに向かおうとしている。それなのに未だに戦略だなんて...。その言葉を未だに使っているかどうかがその企業の明暗を分かつようにも思える...というのがそのメールの内容だった。

そうだ、そのとおりだ。もう争いはたくさんだ。競争も....。戦略なんて野蛮な言葉はもう捨て去って共創と共生の世界にレベルアップする時代なんだ、今は。私は世界が変わることを心から待ち望んでいる。そして何よりも自分自身が日々変わりつつある。自分が変われば世界も変わる。これは重大なことだ。まもなく世界は合理主義が過去の遺物となるような、ハイレベルな世界に移行するだろう。その世界にジャンプするために、それぞれが皆個人の負の想念を癒し、清算しよう。
みんなー、もうあまり時間はないよー。

声の力

2007-10-31 00:14:47 | 日記
昨日、新宿の武蔵野館で映画「エディット・ピアフ」を観た。
この映画館は、「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「2001年宇宙の旅」等、若い頃、よく通った映画館だ。30年ぶりに同じ映画館に足を運んでみたが、昔のままの雰囲気が感慨深い。
まさにはまり役の主演女優マリオン・コティヤールの迫真の演技は、多少過剰気味に思えたにしても、一ピアフ・ファンとしては、心に残る映画だった。二十歳代のころ、私はピアフやバルバラをよく聴いていたし、その後はブリジット・フォンテーヌにはまり、最近はセルジュ・ゲーンズブールもお気に入りだ。フランス語の言葉の、あの玉を転がすような響きに加えて、ピアフの類まれなる歌唱力と、その魂を揺さぶる歌声を聴くと、やはり「声の力」の凄さというものを実感させられる。言葉はわからずとも、その言葉の意味を超えて確実に伝わってくるものがある。これは神に授かった天性のものか、数奇な運命のなせる業なのか。今、私がバンドでポエトリーリーディングをやっていることの意味と同等のものがそこにはある。それはもはや意味を持った言葉でなくてもよく、極端にいえばあのランボーの詩「母音」のようにアー・ウー・イー・オーといった単なる「声」であればいいとさえ思える。声は波動であり、肉体の楽器だ。ある種の波動はビルをも崩壊させ、地震さえも起こす事ができるように、声の波動もまた人々の魂を揺さぶり、あるいは鎮め、時には雷鳴を轟かせ、精霊を召喚し、風を起こし、雨を降らせることもできる。空海や出口大仁三郎(でぐちおにさぶろう)がそうだったように...天河神社の柿坂宮司の祝詞の声に呼応して御簾(みす)を巻き上げる突風のように...(これは私の体験だが)
私が詩集を出してから、ポエトリーリーディングを試みたのも、やはり紙に印刷された言葉よりも、肉体の楽器である声、つまり波動を使って表現した方が、より人の心に響くということに確信を持っていたからにすぎない。そしてその次には歌うという行為が待っていて、やっぱり私も最終的には歌いたいな。

昨日の夜、吉祥寺のヨ○バシカメラでフリクションのレックとえみちゃんに、ばったり遭遇。30年ぶりくらいか。このシンクロ二シティにお互いに感激しあい、近くのカフェでコーヒーを飲みながら歓談した。30年近くたっても、人ってあんまり変わらないものだ。互いに昔と同じような格好をして、同じようなことをやり続けている。ここでもまたマヤ暦の2012年のことに話が及び、盛り上がる。楽しい夜。シンクロって素晴らしい。

高円寺UFO CLUB ライブ

2007-10-23 01:21:33 | 日記
おとといの夜は荒涼天使で高円寺UFO CLUBのライブだった。
十月最後のライブだったけれど、この3回のライブで初めて自分で納得できるライブがやれたと思う。荒涼天使の最初のセッション「MAY 3」を超えるのは難しいと思っていただけに、この日、その「MAY 3」を越えた感のあるライブをやることができて本当にうれしい。メンバーの音と心が一体化してグルービングし始めると、もうどこまでも行ってしまうんだ。このバンドは。そんな時の荒涼天使はもう最高。できれば今日のライブを、ぜひみんなに見てもらいたかったなぁ。とにかく我ながらすごくよかったと思う。お客もたくさん入っていたし、反応もとても暖かくて気持ちよくやれた。荒涼天使はファンキーでダンサブルな曲もやるので、踊っている女の子もいたなぁ。ライブ後のラピス亭でのお酒も事の外、おいしかった。なつかしい友人との再会もあったし、本当に素敵な夜だった。
先日の日記で毎晩呑んだくれてるかのように書いたけれど、実際は東京に来てからは、しごく禁欲的な生活をしている。でも、やっとライブも終わったので、またぽつぽつ飲み会のお誘いが来だした。今回はまだガクさんとLOUとも呑んでないなぁ。ガクちゃん近々呑もうね。

酔いどれ天使 in 東京

2007-10-11 00:10:18 | 日記
東京へ来て2週間が過ぎた。
鹿児島での夜型生活から急に朝8時起きの生活に切り替わり、8時間は寝ないとダメな私が5、6時間の睡眠で生活している・・・つまり毎晩飲み歩いているので、多少お疲れモード。疲れが溜まり夕べは久々に8時間爆睡してしまった。
東京では車を使わないのでよく歩く。田舎では車が足の代わりなのでほとんど歩かないけれど、東京に来るといやおうなしに歩かざるを得ないので、足腰が鍛えられるのはいいことである。

先週は国立の地球屋で「ジーン+荒涼天使」で初ライブをやった。バックの音を極力抑えて朗読の言葉が前面に出るようにしたため、バックの人たちには完全燃焼とはいかなかったかもしれない。特にラピスのギターがもっと前に出てたらよかったかな。ライブというのは音のバランスの取り方ですべてが決まってしまうので、なかなか難しい。ともあれ、初ライブとしては学ぶことがたくさんあった。元ミラーズの肥後君と元ミスターカイトのワクも来てくれた。特にワクの突然の出現には驚いた。会社帰りのスーツ姿でみんなに渡哲也みたいだと言われていた。爆笑。

私は今、吉祥寺の井の頭公園沿いに滞在している。毎日、公園の中を通って街を散策しているので、だいぶ吉祥寺になれてきた。娘のミュウも駅の近くに住んでいて、この街が好きだからずっと住みたいと言っている。確かに吉祥寺はいい街だ。でも東京に来て、すごく腹の立つ事がある。それは喫煙者に対する異常なまでの迫害だ。どこもかしこも禁煙で、タバコの吸えるカフェやレストランを探し回って、恐ろしく時間を無駄に使ってしまう。
歴史上、タバコがここまで魔女狩り状態になったことはない。タバコがたしなみのひとつであり、楽しみであり、人にリラックスとゆとりを与えるものだった古き良き時代がなつかしい。今や人々は喫煙者を目の仇にして、その扱いは病原菌やウィルス並みだ。そのくせ、工場やゴミ処理場や車の排気ガスに関しては、もっと言えば原発からいつ漏れ出るかもしれない放射能についても、タバコに対するほどの過剰反応はみられない。これってヘンじゃない?車の排ガスをイヤというほど吸いながら、タバコの煙だけを諸悪の根源にするのはやめてほしいよ。

アフガニスタンで3人の日本人が拘束されて、その後帰国した時に、彼らは「自己責任」という言葉のヒステリックな一勢攻撃を受けたけれど、私としては最初から「好きなものを吸って生きられるだけ生きたら、それでいい。好きなものを犠牲にしてまで、何年か長生きしたところでそれにどんな意味があるってんだ。あたしはどうなろうと自己責任で吸ってんだ。」という考えだ。
でも一応マナーは心得ているので、人様の迷惑になるような吸い方はしないし、道路に吸殻を捨てるようなこともしない。
ともあれ、私はコーヒーとタバコがなければ生きてはいけないし、また生きる意味もないので、そうなればさっさとこの世におさらばするつもりだ。
これは世の異常な嫌煙家たちへの私のささやかなレジスタンス。

荒涼天使LIVE

2007-09-21 22:50:44 | 日記
上京の日が近づいてきてバタバタと大忙し。
こんな時に限って、庭師さんがやってきたり、トイレの水道管に穴があき床下が水浸しになっているので、パニクッて水道屋さんに修理をしてもらった。こんな上京の荷造りに追いまくられてるときに、もう~~~! せっぱ詰まらないとなかなか腰を上げようとしないタチなので、いつも旅の直前にはあたふたしてしまう。
ブログは東京の友人のパソコンを借りて、書く余裕があれば書きたいと思うけど、結構また飲んだくれてしまいそうで、あまり自信はない。

荒涼天使の詳細なライブスケジュールももう一度ブログに載せようと思ったのだけど、やりかたが
わからなくて出来なかった。情けない。でんでん、ごめんね。
ブログの左側にあるINFOMAIONの欄は、少しわかりづらいのですが、そこをクリックしてご確認ください。
とりあえず東京で「荒涼天使LIVE」をやってきます。
お暇な方はどうぞいらしてください。しばらくブログがお留守になるかもしれませんが、いつも読んでくださっている貴重な方々、ごめんなさい。帰ったらどっさり書きます。
じゃあ、行って来まーす!

ジョージの頭

2007-09-17 02:37:03 | 日記
イラク戦争は不思議な戦争だ。
4年半の戦闘で3800人近い米兵が死亡しながらも、ベトナム戦争の時のような反戦運動が本格化しない。それは社会ができるだけ戦争に対して無感覚でいられるよう巧みに組み立てられているからに違いない。
昨日、ジョージ・ブッシュが国民向けテレビ演説でイラクへの長期駐留宣言をした。
油というエネルギーの宝庫であるイラクは絶対に手放さないという決意がありありと伺える。
「テロとの戦い」、「イラク民主化」を第二次世界大戦や冷戦と同列視し、善悪二元論を振りかざすブッシュにとって、この宣言は当然なんだろう。

でもジョージ、あんたってほんとに馬鹿なんだね。
哲学や知性のかけらもなければ品格などもちろん無い。あんたの頭の中は笑えるほど空っぽで、テキサスの農場でカウボーイの格好をして、ピーナッツを囓りながら牛でも追ってるのがお似合いだ。その想像力に欠けた頭で、アメリカがイラク国民に与えた屈辱のことを考えてみることなどできるわけはないけど、ただはっきりしていることは、あんたはただの能なしのマリオネットにすぎないってことだ。
それにしてもジョージ、あんたはアメリカの歴代大統領の中でも最低の大統領だ。何しろニューヨークのど真ん中に自業自得のグラウンド・ゼロを出現させたんだから。

テロの最大の動機は貧困でも宗教でもなく、屈辱を与えた者への報復だろう。
ねえ、ジョージ、あんたがやっていることは、イスラムの土地を永久支配するアメリカへの怨念を燃え立たせ、劇的な対米テロを仕組むよう自ら誘導しているんだってことが、こんなシンプルなことがわからないほど、あんたは頭が悪いんだね。
ビンラディン君よ、あなたはせめてアフガニスタンかどこかの山中で生き延びなさいよ。
膝の上に猫を眠らせて・・・。

空心菜

2007-09-12 02:36:10 | 日記
いつも行く野菜市場で今日、空心菜がたくさん並んでいて驚いた。
エンサインという名前で売られていたけど、この辺では珍しい野菜だけに説明書きに空心菜とも呼ばれていると書いてあって、うれしくなって早速買い求めた。一束105円。安い。
空心菜は東南アジアの野菜で、タイに行った時よくこの野菜の炒め物を食べた。4月に上京した時、F氏に原宿の台湾料理屋でご馳走になった時も、空心菜の炒め物が出てきてとてもおいしかった。鹿児島のこんな田舎でも栽培するようになったとは驚きだ。野菜の世界もどんどんグローバル化が進んでいるとみえる。

私が空心菜という野菜に興味を持ったのは、私の好きな藤原新也が以前エッセイに空心菜のことを書いているのを読んだからなのだが、それによると東南アジアの亀はこの野菜がことのほか好物で、亀のいる池に空心菜を投げ入れると、まるで猫とマタタビの関係のようにサッと集まってきて、あっという間に食べてしまうそうだ。この、とりたててクセのない味も香りもない野菜を、なぜ亀が大好物なのかということに対して彼は、たぶん字のごとく中が空洞になっている茎の中に詰まっている、外界の空気ではない純粋無垢な空気がおいしくて、あのようにむさぼり食っているのではないかと書いていた。藤原新也ならではのおもしろい発想だ。私は彼のこんな発想にいつも感心する。

私は野菜の中で最も好きなのは香りの良い春菊なのだが、これはみそ汁はもちろんのこと、さっと茹でておひたしにして酢醤油で食べるのが一番おいしいし、七草がゆ風に鶏肉や餅、里芋、大根、生しいたけなどと一緒にかゆにして食べると絶品だ。このオリジナルの「メグ風がゆ」を食べられる人は、しあわせもんぞ。
私は野菜には本当に目がない。まだ食したことのない野菜と出会うと、むらむらと好奇心が湧き、たいていは買って帰り、自分流にあれこれ料理して試してみる。こう書くといかにも私は料理好きそうに見えるかもしれないけれど、実際のところは別にとりたてて料理が好きなわけではなく、ただまずいものを食べたくない。自然の味を食したい。工場で大量生産される加工食品を食べたくないというだけのことだ。

加えて、鹿児島の料理の味付けが私には合わない。どんな料理にもまるでお菓子でも作るように大量の砂糖を使うので、甘くてとても食べられない。結果外食も出来ずスーパーの惣菜も買えないので、完全自炊を余儀なくされているというわけだ。その点、東京の味付けは大丈夫なので外食もできる。この結構しんどい完全自炊の生活から逃れるためと、他にも重要な目的というかやりたいことがあるので、今真剣に東京移住を考えている。

それにしても私は時々、食べることが本当に面倒くさくなることがある。
食べることに費やす時間がもったいなくて、人間食べなくてもすめばどんなにいいだろうと思う。
一日に必要なカロリーと栄養をサプリメントにして、それを一錠飲めばオーケーということになればいいなあ。
もっといいのは、早く世界が5次元に移行して人間が天使のようになれば、食べるという行為も必要なくなるのに。
ああ、こんなたわごとを書いているうちにもお腹が空いてきてしまうのが悲しい。
早く天使になりたい。

武士の娘

2007-09-06 03:48:21 | 日記
親しい友人たちというのは、つき合っていれば自然とその人となりはわかってきて、子供の頃どんな家庭環境で、どんな育てられ方をした人かも、おおよそは見当がつくものだ。
その人の醸し出す雰囲気は、ある意味で子供時代のエッセンスでもある。私の友人たちは皆、若い頃ロックという閃光を浴びてロックジャンキーになった人たちばかりだけど、なぜか不思議と育ちの良さと品格を備えている。それは無意識のうちに自分が選んだのかもしれないし、自然とそんな人ばかりが集まったのかもしれない。ともあれ、いわゆる下品な人がいないのはうれしい。
皆、デリカシーと礼儀作法をわきまえていて、そのデリカシーのためにうつ病になったりもするが、間違っても人の部屋に土足でずかずかと上がるような人はいない。

ちょっと前に「国家の品格」という本が出たので、そのタイトルに惹かれて読んでみたいと思っているんだけど、まだ読んでいない。
文明が終焉に向かうにつれて失われてゆくものはたくさんあるけど、品格もそのうちの一つだろう。崩壊した家族やこせこせした家庭からは生まれようもないもの・・・そんなものこそ宝物のように愛でたい。
子供の頃、私は今は亡き祖母から事あるごとに言われていた言葉がある。それは「ご先祖さんは立派な武士だったんだから、それに恥じるようなことをしちゃあいかん。たとえ身を落としたり貧乏になったとしても、心の品だけはけっして落としちゃいかん。武士の末裔としていつも凛としちょれ」というものだった。加えて「武士の娘は下を向いて歩くな。こそこそするな。曲がったことはするな」と、よく言われたものだ。

お姫様育ちの祖母は9人も子供を産んで立派に育て上げたが、その立ち居振る舞いはいつも凛としていた。祖母は先祖がサムライであることにとても誇りを持っていて、どうやら孫の私にまでサムライの心を受け継がせようとしていたふしがある。
でも、悲しいかな男の子には恵まれない女系家族だったので、もはや私が死んでしまえば三坂家は途絶えるのだ。
でも、おばあちゃん心配しないでいいよ。あたしは言いたいことを言って、やりたいことをやって、いっぱい人を愛して愛して愛し尽くして、善も悪も抱きまいらせて、武士の娘のように潔く死ぬよ。凛として死ぬよ。おばあちゃんみたいにね。

恋虫

2007-09-01 01:52:37 | 日記
部屋の中で鈴虫が鳴いている。
どうやら一匹紛れ込んで来たらしい。ほんとに涼やかできれいな音色。夜になると庭でも虫たちが賑やかに鳴くようになった。
秋なんて本当にやって来るのかと不安になるほどの暑い夏だったのに、やはり季節は巡ってきてくれる。
それにしても虫たちは秋の間中、なぜあんなにも鳴き続けることができるのだろうか。
まるで鳴くことが生きることのように、命の限り鳴き続けているように思えるし、あるいは、ただひたすら恋虫を呼び続けているようにも思える。
虫たちにとっては、月明かりの中で鳴き続けている今こそが永遠なのではないだろうか。
秋の虫は人を5次元に誘うために鳴いていると言う人もいるらしいし、ある友人は「虫たちは世界を調律している」と言う。素敵だ。

夜、監獄の独居房にいる友人に久しぶりに手紙を書く。
監獄には貸し出し図書というものがあって、時々いいものがあるらしい。最近フリーダ・カーロの評伝を借りて読んだそうだ。フリーダ・カーロは私も大好きだ。
今夜、彼の独居房にも同じ月明かりが差し込み、虫の音色が聞こえていますように。
そして世界が調律されますように。

ソウルメイト

2007-08-28 02:41:25 | 日記
2007年の摩訶不思議な夏が、今亡霊のように通り過ぎようとしている。
昼間はまだ34度まで気温が上がり、猛暑の夏に変わりはないけれど太陽の位置は日ごとに低くなり、日差しが縁側の内側にまで入ってくるようになった。セミもミンミンゼミからツクツクボウシに交代し、赤とんぼも飛び始め、もうすぐ夏休みも終わる。晩夏・・・。
目の前の中学校にもまた生徒たちの嬌声が戻ってくる。今朝起きると庭に白い百合が2輪の
花を開かせていた。白い百合が好きだ。私はこの夏中、暑さで頭と体が火のように火照っていた。少しクールダウンしなければ・・・。
いつもクールでいることを旨とし、それを自分の性格にまで固定させてきたという私の自負は、この夏もろくも崩れ去ったかのような錯覚に陥るけど、「いや、私は大丈夫。絶対大丈夫よ」と、あかね色の夕焼けを見ながら自分に言い聞かせる。

来月は私はもう東京にいる。荒涼天使のライブもある。
荒涼天使は生まれたばかりで名前だけは付いたものの、まだライブも一度もやっていないいわば目も開いていない赤子のようなものだけど、このメンバーは何かしらとても不思議な巡り合わせで出会った、ソウルメイトだと私には思える。
人間、一人では生きてはいけない。意識しようとしまいと誰もが大勢の人に支えられながら生きている。私を支えてくれているのは東京の友人たちであり、その存在は私の人生を左右するほど大きい。

家族という定義は書き換えられるべきだ。
血の繋がりばかりが家族ではない。血は繋がっていても魂の繋がっていない家族のなんと悲惨なことか。幼い頃から家族に失望した子供は、いったいどこへ戻ればいいんだろう。
それでも子供は歩き続けて、生まれたときからずっと付き添っている守護天使に導かれて、やがて友というソウルメイトを見つけ、その数は出会いとともに増え、魂のくつろげるホッとする場所を友のそばに見つけるだろう。
その新しい家族こそが本当の家族と呼べるもので、魂の家族に他ならない。
自由な関係でありながら互いを尊敬しあい、高めあい、遊びあえる友はまさに皆ソウルメイトであり、最も大切な存在に違いない。
荒涼天使は言わずもがな、その風貌とマシンガン・トークに似合わず、義理人情に厚く涙もろいガクさんも、私のソウルメイトなのは間違いないなあ。
今朝咲いた白い百合は、一本の茎から2輪の花が咲いていた。
ツインリリー。ツインソウル。

 ★ インフォメーションの欄に「荒涼天使」の10月のスケジュールと
   メンバー紹介を載せました。