みらいやの小説創作・新人賞挑戦日記

講談社児童文学新人賞にて最終選考まで行った「みらいや」の新人賞挑戦日記。「駆け出し作家の執筆日記」に変わる日は近いのか?

講談社児童文学新人賞、最終候補に残る・その2

2006-08-31 | 新人賞
 翌7月26日、町のネットカフェまで行く。講談社児童第1出版部のWさんという方から、きちんとメールは届いていた。早速用意してきたテキストデータを送る。少しして受け取りましたという返事が来る。
 USBフラッシュメモリーで受け取ったメールとデータを家に持ち帰り、PCで開こうとするが、添付ファイルは開けなかった。そもそも拡張子すらついていない。ワードで無理に開いても、文字化けしているだけだ。向こうの電話番号は教えてもらっていないので、問い合わせもできない。仕方ないので、無理矢理テキストファイルとして開けてみると、本文の日本語は読むことができた。特に指定していない場合、文書ファイルはワードかテキストで送るのが常識かと思っていたが、出版界は違うのだろうか?
 そうして読み取った文書によれば、「自作未発表のものである」という誓約書と、略歴などの情報を書いて送り返してくれとのことだった。その文書には8月24日に最終選考会の予定で、受賞者のみに連絡するともあった。また、副賞の賞金は受賞作が刊行された際、印税の一部に充てるとのことだ。これは意外。かなりシビアだ。もし刊行されれば、新人賞も佳作も、もらえる額は基本的に変わらないということになる。ライトノベルと違って、児童文学の台所事情は苦しいのだろう。
 ネットカフェで去年の結果を調べてみると、最終候補は6編で、新人賞、佳作と二作受賞。佳作でも刊行されている。今年も同じだとすれば、デビュー確率1/3のところにいるということになる。この確率が、高いんだか低いんだか、感覚としていまひとつ捉えられない。もちろん、百倍近い倍率を勝ち抜いてここまできたということも、実感などできやしない。
 さらに翌日の7月27日、肉体労働の仕事を終えて午後空港の郵便局へ。家から町までは19キロあるものの、国際空港は5キロしかないのでバイクで気安く行ける。まあ国際空港といえども、国際便は日に二、三往復しか来ない地方のこぢんまりとした空港だ。中の郵便局に誓約書の入った手紙を持っていく。書留のエアメールで送った。5日ほどで日本には着くので、郵便事故がなければ8月3日の期限までには講談社に着くだろう。またメールも送る。かなり面倒なのだが、ノートPCと音響カプラーを持参すれば、空港の公衆電話からでもネットにつなぐことはできる。ただし、遅いし接続も安定していないので、この奥の手は簡単なメールの送受信ぐらいにしか使えない。
 とにかくやることをやってすっきりする。あとはWさんからの指示待ち、あるいはあと5日ぐらいで着くであろう講談社からの郵便待ちだ。
 仕事をしながらも、やはり最終選考のことを考えてしまう。自分に有利な点、不利な点など。考えても仕方がないことは十分わかっているのだが。
(つづく)

講談社児童文学新人賞、最終候補に残る・その1

2006-08-27 | 新人賞
 自作『霧の街のシャナン』が最終候補作として残っていた、第47回講談社児童文学新人賞の最終選考会が終了した。その結果も含めて、今回の経緯を順を追って何回かに分けて語っていきたい。

 7月25日、ちょうど昼ご飯を食べ終えた、日本時間にして午後2時半ごろ、携帯が鳴った。画面表示は「Withhold」。相手の番号が表示されないのはここでは国際電話ということになる。期待していた賞の通知時期なら「もしかして」とも思うが、いまは特に思い当たらない。
 電話に出てみると、日本語で、しかも知らない女の人の声がする。電波状態があまりよくなかったが、何回かきき返したりして、それが講談社児童文学新人賞の最終候補に残った連絡だということがわかった。本当に意外な連絡で、呆気に取られてしまう。二重応募をしていないことの確認と、パソコンデータの送付依頼、あと誓約書を送ってくれとのことだった。最終選考日が、8月24日だとかで、その日の午後7時ぐらいに連絡が取れるかをきかれた。あとは普段の連絡可能時間。明け方から午前中いっぱいは肉体労働の仕事がある(携帯の電波すら届かない場所で)ので、日本時間の2時すぎならつながると答える。電話ではきき取りにくいので、詳しいことはメールで送ってもらうことにする。募集要項には載っていなかったが、応募原稿にこちらのメールアドレスも書いておいた。
 待ちに待った最終候補だというのに、電話を終えてもやはり実感はわかない。それほど自信のあるものではなかったからかもしれない。自分で自分の作品が見れていないということをあらためて悟る。自信作が一次も掠らず、あまり自信のないものが最終に残る。しかも、ひとにいわれて応募した「児童文学」というジャンル。自分の作品のジャンルすらわかっていなかったことになる。何か、すごく遠回りしてしまったような気がする。適性がわかっていれば、最初から児童文学一本で勝負していたものを……。
 それに、最終に残ったからといってそうそうよろこんでもいられない。電話の編集者さんは「おめでとうございます」といっていたが、最後の作家先生たちの選考で落とされれば、いまと何も変わらない。賞金も、デビューもない。これがライトノベルなら、多くのレーベルで「最終残=デビュー当確」なので、もっとよろこびもするが、この賞はここまで残ってもデビューできない確率のほうが高い。よろこぶによろこべないし、かといって最終まで来て期待する気持ちを消し去ることもできない。もやもやした気分のまま1か月をすごさなければならないようだ。どうせなら一発で決めてもらいたいものだが、そう都合よく事は運ばないだろう。
(つづく)

最終選考会を前に

2006-08-22 | 新人賞
 最終に残った新人賞の、選考会が近づいている。もちろん自分では自分の作品はおもしろいと思うが、自信はどんどんなくなってきている。今月に入って、すばる文学賞と小説すばる新人賞の一次落選がわかった。新作ではないが、やはりダメージは受ける。また、ZIGZAG ONLINEのランキングも下位で低迷したままだ。読者に受け入れられないというのが、はっきりと形になって出るというのもダメージは大きい。最終に残ったものがなかったら、満身創痍の状態だ。長いこと書いてきて、いまだに一次落ちを繰り返しているような者が賞など獲れるのか? 自信など持てるわけがない。
 いままであまりジャンルに偏りなく、いろいろな賞に応募してきたが、結果はかなり偏っている気がする。自分でははっきりわかっていない適性があるのだろう。一般向けは、純文学、エンタメともに全滅に近い状況にある。大人に読ませるには、陰が足りないのか? あまりに健全すぎるのか? ライトノベルでは、男子向けより少女向けのレーベルのほうが結果はいい。まあこれはわかる。男子向けに必要な萌え分とかバトル分とかが、自分にはそれほど書けない。あとは今回最終に残ったジャンル。いままであまり応募してこなかったが、ここには適性がいくらかでもあるのだろう。
 モチベーションや自信を保つためにも、まず自分の作風を知って応募先を決めていくべきだろうと思う。落選したらもちろん、たとえ今回受賞してもそれほど続けて本をだせるようなジャンルではないので、これからも応募は続けていくことになるだろう。
 今回の最終選考会は、それで終わりではなく、単なる一通過点にすぎない。次の応募を見据えての新作の推敲、昔の作品の全面改稿、これらの作業を進めていくうちに、賞応募サイクルの一過程として最終結果が入ってくる。それだけのことだ。その結果の如何に関わらず作業は続き、応募も続く。受賞した場合のみ、書籍化の作業が入ってくるだけで、大きく変わることはない。
 こんな気持ちで結果を待ちたい。落ちたとしても、そのジャンルの一線級のプロ作家による講評をもらえるのだから、それはそれでうれしい。

相次ぐ一次落ちに思う

2006-08-03 | 新人賞
 応募していたポプラ社小説大賞の詳細が発表されていて、一次選考にも通っていなかった。今年に入って一次落ちが相次いでいる。本来なら完全に自信を失っているところだ。一次落ちが実力で、たまに一次に通ったりするほうがまぐれであると。
 だがある賞から最終の連絡を受けて、見方が変わった。編集部全員で読んで、会議までひらいて選ぶ最終には、まぐれで残れるはずがない。それだけの質が客観的にも備わっているということだ。ポプラの応募作にしても、自分の中では今回最終に残ったものに勝るとも劣らない、子供から大人まで楽しめる内容と質になっていたと思う。それでも一次すら通らない。
 それは自分の作品の特徴のせいかもしれない。大量の原稿をさっと一読して当落を決める下読み選考には、自分の作品は向かない。ハッと目を引くような派手さがないし、じっくり時間をかけて、あるいは何回か繰り返し読んでもらわなくては、自分の味はわかってもらえない。また、合う人、合わない人の差もはっきり出ると思う。合わない人に当たったら、どんなものを送っても即撥ねられてしまうだろう。
 だからといって、作家志望者が大挙して応募する新人賞の現状を考えると、いまの選考制度も仕方がないと思う。自分としては、たとえ一次で落とされても落胆せず、作品に対する自信も失わず、うまい巡り合わせが来ることを祈って応募し続けるしかない。もちろん、絶対的な信頼を置くことのできない一次選考で落とされただけの作品は、それでお蔵入りさせることなく、再応募を禁止していない賞に再び送る。それで朗報を待つしか手はない。
 一度デビューしてしまえば、ある特定の人に好かれる必要はない。多くの人に見向きすらされなくても、出版社が十分に利益をあげられるだけの熱心な固定読者ができれば問題ない。やはりなんとしても、一度そういう土俵に立って審判を仰いでみたい。