みらいやの小説創作・新人賞挑戦日記

講談社児童文学新人賞にて最終選考まで行った「みらいや」の新人賞挑戦日記。「駆け出し作家の執筆日記」に変わる日は近いのか?

集英社・スーパーダッシュ小説新人賞投稿

2005-09-22 | 新人賞
 締め切りは10/25だが、いま書いている新作が間に合う可能性もまだ少しは残っているので、リベンジをかける自信作をこの時期にスーパーダッシュ小説新人賞に投稿してきた。二作応募となると、違う下読み委員に読んでもらうためにも、やはり投稿時期はずらしたほうがいいと思うので。
 今回の投稿作、そしてこの賞は本命中の本命だ。ここからデビューしたいという意味の本命ではなく(もちろん集英社だけに、ここからデビューしたいという気持ちは強く持っているが)、通る可能性が一番高いという意味での本命だ。でんでん虫を背負った一番人気の選手として、投稿作には期待を裏切ることなくがんばってもらいたい。
 本命選手だけに、この作品にこけられてしまうとあとがつらい。三次ぐらいまでは最低でも行ってもらわないと、執筆のモチベーションが維持できるか怪しい。とりあえず第一関門、12月の一次選考発表を首を長くして待つことにする。
 この賞、以前の編集長のコラム(公式ホームページ上)で希望者には評価シートを返すようなことをいっていたが、立ち消えになってしまったようだ。これは残念。応募開始時から設定していなければ不公平だからということだろうか? 次回の募集に期待する(来年までワナビを続けていたくはないが……)。

新人賞、乱立模様

2005-09-17 | 新人賞
 このところ、新たな新人賞がどんどん乱立している。すでに応募した日本ラブストーリー大賞もそのひとつだ。ほかには角川書店の野生時代青春文学大賞、日本経済新聞社の日経小説大賞、メディアファクトリーのダ・ヴィンチ文学賞、ポプラ社の小説大賞。ライトノベル系では、ソフトバンクのGA文庫小説募集、徳間書店のトクマ・ノベルズEdgeシリーズ新人作品募集、ジャイブのキャラクター大賞カラフル文庫小説部門など。プロが応募できたり、賞金がなかったりして、厳密には新人賞とはいえないものもあるが、デビューの足がかりとして同等に考えていいだろう。
 これだけ新人賞が増えてくると、自分にあった投稿先がないなどといういいわけは、もう効かない。どこにも受け入れてもらえなければ、それは単に実力不足。他人がお金を払って読むに値する小説にはなっていないということだ。MF文庫Jに「当文庫の読者層とは合わない」と拒絶された小説も、きっと想定読者にあう投稿先があるはずだ。その見極めが難しい。
 そのMF文庫Jに「むしろ児童小説的な作品」と指摘されてから、自分のかなりの作品がそうではないかと考えるようになった。自分が小説を書き始めた原点がL.M.モンゴメリにあるので、自然とそうなっているのかもしれない。ただ、毒気も性描写も暴力もないが、モンゴメリの作品同様大人でも楽しめるものを書いている自負はある。
 そういった自分の作品の傾向と、各賞が求めるものを照らし合わせたとき、新しい新人賞では、ポプラ社小説大賞と、ジャイブキャラクター大賞がいいのではないかと思うに至った。ポプラ社はもともと児童文学の最大手で、この新しい賞も「10代も大人も夢中になれる」とうたっている。自分が書く、一般向けに近いものがあうように思う。ジャイブのほうは、ライトノベルだが他社より対象年齢が低い。「小学4、5年生から中学生」となっている。暴力描写や、間接的とはいえ性的な描写にあふれている主要ライトノベルよりは、自分にあっていそうだ。
 新人賞が乱立するのは、ワナビとしてはうれしいことだろう。自分の作風に因らずに、デビューできるチャンスがある。好況ではない出版界が新人賞を乱立するのは、編集側も何が売れるかわからないからだと思う。とにかく数打って、当たりを待つ。それはつまり、はずれだったら即捨てるということにもなるだろう。デビューの難易度は下がっても、生き残りの難易度は上がる。いくら新人賞が増えたところで、小説家志望が乗り越えなければならない壁の高さは、実は変わっていないのかもしれない。

どんどん延びていく新作

2005-09-13 | 小説執筆
 新作はちょうど300枚まで進んだ。これからの展開(プロット)を紙に整理して書きだしてみたが、どうもあと100枚では終わりそうにない。要所以外をカットして、時間を飛ばしていけば収まらないことはないと思うが、それでは自分の小説の持ち味が消えてしまうと思う。奇抜なストーリーで魅せるのならともかく、自分の場合、ちょっとした気持ちの動きとか、キャラクター同士の心の通じあいとかを、それほど奇抜ではないできごとの中で書いていくので、途中を端折ると深みも味も消えてしまう。もちろんラスト近くでは、二段落ちに近い、思いもよらぬ、息もつかせぬ展開を考えているが、やはりそれは、そこまでの日常の書きこみによって、キャラクターが生きた人間として読者に伝わっていてこそ活きてくる。
 ということで、目標枚数をあっさりと500枚に変更することにした。あと200枚書くとすると、推敲時間も考慮に入れれば、10/25締め切りの集英社スーパーダッシュ小説大賞はちょっと無理。スーパーダッシュは、MF文庫Jにカテゴリーエラーとされた自信作のリベンジだけにすることにした。MFよりもスーパーダッシュのほうが、集英社だけに文章や深みを重視しているように思う。あと、ほかの男子向けライトノベルよりも、一歩女子向けに近い位置にあるような気がする。前身のスーパーファンタジー文庫は完全に男女共用だったわけだし。自分の書くものは、女の子に毛嫌いされるようなあからさまな男子向け萌え要素なんて皆無だ(また、女子向けのBL風味の萌えもまったくない)。だから、女の子が読んでも不思議ではないレーベルのほうが有利だと思う。スーパーダッシュなら、少なくともカテゴリーエラーで門前払いを受けることはないだろう。
 完成してから考えればいいのだが、新作の行き先は、枚数からいって小説すばる新人賞、エンターブレインえんため大賞、あとは来年のスーパーダッシュといったあたりになると思う。その前にほかの小説で賞を取って、受賞後第1作となるのが理想なのはいうまでもないが。
 新作の現在の進行スピードは、1日5枚から10枚ぐらい。乗ったときで15枚といったところだ。1時間に3、4枚書くことができるが、だからといって1日10時間やれば40枚になるかというと、そうはいかない。書く作業はすごくエナジー(元発音を無視したいい方での「エネルギー」)を使う。ろくに体を動かしていなくても、書くだけでお腹も減ってくる。集中力もいる。エナジーも集中力も、そう何時間も持続するものではない。だから特に用事がない日でも、午前と午後に1時間半ぐらいずつ書いて終わってしまう。
 また、書くネタ的にもこのあたりが1日の限度だと思う。実際にパソコンに向かっている時間だけが小説に充てている時間ではない。ほかのことをしていても、下手をすれば寝ているときにも、執筆期間には意識的、または無意識に書いている小説のことを考えている。この考慮時間が非常に重要だ。考慮時間を置かずにずっとパソコンに向かっていたところで、いいものは書けないし、書くことも尽きてくる。
 その思考だが、ほかのことをしながら考えていると、論理立てができていないのでどうしても断片的になる。また、鶏ではないが、三歩歩くと忘れてしまうという感じでちょっとした思いつきにすぎないものも多い。だから常に身近なところにメモ用紙とペンを置いて、思いつくままにキーワードでも、簡単な展開でも書いておく。これがパソコンに向かったときに強力な武器となり、スムースに執筆が進むことになる。
 新作の執筆中は、このように常に小説世界に心がいっていることになる。しかも自分で好んでつくった世界だ。居心地が悪いわけがない。下手をすれば、現実社会なんて二の次になるぐらいだ。これだから書くのをやめられないのだと思う。やめると虚無感に襲われてしまう。もしかするとそれが嫌で、いま書いている新作の長さがどんどん延びていってるのかもしれない。もっと長く小説の中の世界にいたい、キャラたちと一緒にいたいと思って……。
 きれいごとはいわない。これは現実逃避そのものだ。書くことには、自己表現だとか、社会への警鐘だとか、そういうより高い意義も含んでいるのかもしれないが、現実逃避が最初に来ることは、自分の場合否めない。小説書きという逃避先を知ってしまったことは、果たして不幸なことなのか、それとも幸せなことなのか?

日本ラブストーリー大賞2作目投稿

2005-09-06 | 新人賞
 コバルト・ノベル大賞の最終候補連絡時期をどうやらすぎてしまったようだ。もちろん自分には連絡はない。また落選だ。あとは予選結果の発表を待つだけとなるが、プロも応募できて即出版デビューとなるロマン大賞のほうで二次を通過していて、アマチュア限定ですぐには本にならないこのノベル大賞でそれ以下の成績なら、自分には短編や中編は向いていないということだろう。この結果次第で、今後力を入れて書いてくものを決めたいと思う。
 さて、9/15の締め切りも近いので、日本ラブストーリー大賞に2作目を投稿してきた。同じ賞に2作投稿というのはあまり得策ではないと思うが、タイプが全然違う作品だし、一回目ということで傾向も何もわからない状態なので2作送ってしまった。
 今回のものは道東を舞台にした、映画にしたらいい絵が撮れそうな話だが、現代性が求められているとすると少しつらい。携帯電話が出てこないのだ。
 原案を練ったのがかなり前の携帯がそんなに普及していないときで、自分自身も日本では携帯を使ったことはない。携帯でインターネットまでしてしまう感覚が、実感としてない。
 そもそも携帯は、物語の敵だと思う。文学史に残るような数々の名作でも、携帯がある世の中なら成立しない話が多いと思う。特に恋愛小説には、物語壊し以外の何物でもない。すれ違いとか、誤解とか、待ちぼうけとか、そういったものが自然に書けなくなる。携帯全盛期以降のドラマとかを見ていると、脚本家が無理をしているなあと思うものがたくさんある。ここぞというときにバッテリー切れになったり、圏外になったり、あるいは携帯を落とさせたりして、すれ違いを書いている。だがどれもすごく不自然でご都合主義に感じてしまう。あるドラマなど、冒頭でヒロインに、携帯のない数年前の過去を回想させて、そのまま最後まで現代に戻ってこずに終わらせるという荒技を見せていた。携帯を排除するためだけの冒頭シーンだったわけだ。
 自分の作品の多くは、現代日本が舞台ではなかったり、現代日本でも少しファンタジーの入った特異な空間を舞台としているので、端から携帯は黙殺している。ただ今回送ったものは、普通の現代日本が舞台の話なので、読者に違和感を感じさせてしまうかもしれない。重要な場面で、「なんで携帯使わないの?」とか思われてしまいそうだ。携帯を使われると、問題も何も起きず、あるいは起きた問題も簡単に解決して物語にならないというのに。
 映画化の際には、背景にさりげなく「1995年」あたりを示すようなものを入れてもらうということで、お茶を濁してもらえたらいいのだが、まあそれ以前に、作品のできで落とされてしまうのだろう。狸の皮の話は、痛いのでよしておこう。
 応募した二作のうち、どちらが予選を通るのか、それとも二作とも一次落ちしてしまうのか? あまり期待せずに結果を待ちたいと思う。

書く際のルール

2005-09-03 | 小説執筆
 新作は237枚まで進んだ。話が大きく動きつつある2章だけに、進み具合は速い。ただ、ここまで進んでも、まだまだ終わりが見えてこない。なんとか400枚以内には収めたいという感じになりつつある。調べてみると、エンターブレインのえんため大賞(ファミ通)が、次回から500枚まで。メディアワークスの電撃小説大賞が410枚まで。前述の集英社スーパーダッシュ小説大賞が700枚までということで、350枚にはそれほどこだわらなくてもいいかもしれない。出せなくなるのは、集英社のロマン大賞(コバルト)、MF文庫J、あとは角川書店のライトノベル各賞といったところだ。無理に文章を詰めたり、シーンをはしょったりせずに、書きたいことをすべて書き切ろうと思う。
 書く際には、自分なりに決めているルールがある。
 まず、会話を重ねるのは4つまで。5つになる前に、必ず地の文で会話の受けを入れる。口調だとか、話しながらの仕草だとか、話者の雰囲気だとか、会話を受けた主人公の気持ちだとか。こういうものを入れると、言葉に表れない裏の意味だとかを表現できて、会話が深くなる。文章がうまいといわれる宮部みゆきをいま参考に読んでいるが、宮部さんの作品にも地の文での会話の受けが頻繁に使われていて、会話だけがだらだら続くということが少ない。このルールは正しいと思う。
 次に一文を長くしないこと。できれば2行(40字)以内に切る。いくつもの事項を並列提示する場合で、文にねじれのないときは、この限りではないが、普通の文は短文を心がけている。何より読みやすいし、文法上の誤りも少なくなる。
 あとはただのこだわりの範疇に入るが、会話を「と」で受けない。会話と地の文を明確に区切るということだが、「と」受けは宮部さんでも多用していることだし、個人的な美学といったものにすぎないだろう。「と」受けをすると何か安っぽく見えて、会話を受ける地の文もお座なりになってしまう気がする。
 漢字は意識的にかなりひらいていたが、MF文庫Jの評価シートで漢字のひらきが児童文学っぽいと評されてから、迷っている。宮部さんなど、かなりひらがなが多く、自分よりむしろひらいているように思うのだが、それでも一般エンタメとして通用している。たとえば、「構う」「大抵」「大体」「多分」「大いに」「当たり前」「無駄」「無茶」「膝」「肘」あたりは、普通はひらかないものなのだろうか?
 迷ったり、ルールを決めたり、試行錯誤しながら執筆を続けている。