みらいやの小説創作・新人賞挑戦日記

講談社児童文学新人賞にて最終選考まで行った「みらいや」の新人賞挑戦日記。「駆け出し作家の執筆日記」に変わる日は近いのか?

選評に思う

2006-09-29 | 新人賞
 講談社児童文学新人賞の、最終選考の選評が発表された。落選なのだからいいことはあまり書かれないのだろうが、初めてのことでもあり、何をいわれるのか期待しながら読んでいった。
 五人の先生の選評をすべて読んでまず思ったことは、やはり読む人によって持たれる印象はさまざまなんだなということだった。ひとりか、せいぜいふたりの下読み委員による一次選考の結果など、これならばらついて当然だ。一度や二度の落選でその作品をお蔵入りさせてしまうのはナンセンスということになる。禁止されていなければ、落選確定後に、どんどん他賞に再応募すべきだ。新人賞の選考には、運の要素もかなりあると実感した。
 具体的に自作に向けられた選評は、「ストーリーに山が欲しい」、「物語としての山場もあり、読ませることは読ませた」と選考委員によって逆のことをいわれたりもしているが、どれも納得のいくものだった。山場のことも、どういう点で山がほしいのか、どういう場面を一応山場と取ってくれたのか、大体見当がつく。世界観が曖昧と取られるのもわかるし、心理描写がもっとほしいというのもわかる。物語設定が類型的と取られるのも、いたしかたないと思う。
 ただ自分では、上にあげたようなことはこの小説の核心ではないと感じる。たとえいわれたことをすべて直したとしても、受賞するとは思えない。逆に、編集部選考の段階で落とされてしまう気さえする。
 何が核心か? さすがはトップで長く活躍されている先生だ。石井直人先生がそこを見抜いて突いている。
「ミストバレーという架空の町を自転車で走り抜ける女の子をイメージすること自体が作者の楽しみなのかもしれない。貧富の差や差別、父親探しなど、シリアスな題材が出てくるけれど、それは物語の主線ではないように思った」
 まさにそうなのだ。自分の作品は、読者に深いテーマを考えさせたり、波乱万丈なストーリーを楽しんでもらったりするものではない。本を読んでいる間だけでも現実を忘れ、主人公と一緒になって物語世界を心穏やかに楽しんでもらえればいい。極言すれば、現実逃避のツールだ。
 それが受け入れられるかどうか、商業出版として成り立つほどの数の読者がそういったものを求めているかどうかが、自分の小説が世間に出て行くかどうかのわかれ目になる。
 きっとそういったことを編集部で読み取ってくれたからこその最終候補だろうし、最終選考でもわかってくれる先生がいた。自分が小説に求めるものなんて、簡単に変えられはしないし、書く意義にもつながることなので変える気もない。石井先生にいわれている「作者の楽しみ」が「読者の楽しみ」にもなるように、精進していくだけだ。

持ちこみへの道

2006-09-20 | 新人賞
 最終選考会翌日、あらためてお礼のメールを講談社のWさんに送った。その際に、かなりずうずうしいかもしれないが質問もつけさせてもらった。第一に、落選した作品を講談社から出版してもらう可能性はあるのか、ないのか? 第二に、ほかの作品を、賞を通さずに直に編集部に送って読んでもらうことは可能なのか?
 こんな不躾なメールにもかかわらず、すぐに丁寧な返事をいただく。それは、ある程度予想はしていたが、すべて不可というものだった。どんなに改稿したとしても落選作の出版の可能性はない。持ちこみも受けつけていない。新人は新人賞に応募してもらう。
 次回の新人賞に向けて、アドバイスぐらいもらえる賞もあるようだが、ここは最終に残ったからといって特別扱いは何もないらしい。まさに、受賞しなければ最終落選も一次落選も同じということだ。
 ライトノベルとは違う厳しい現実をあらためて悟る。だからといって、せっかく最終までいった作品をこのまま永眠させてしまうのは、惜しいし悔しい。
 そこで児童文学に強い出版社を調べて、何社かに持ちこみを依頼してみることにした。講談社児童文学新人賞の最終候補作であることを述べて、いかようにも改稿に応じるとし、持ちこみを受け付けてもらえるかどうかをまずメールで尋ねた。編集部のメールアドレスを載せている会社は少ないが、販売部の連絡先は大体どこのホームページにも載っている。編集部にまわしてくれるように頼んでメールした。
 だが、そこでも厳しい現実を知る。ある社は、持ちこみは受け付けていないという文書を返してきた。最終うんぬんはまったく考慮に入れられていない。返事があるのはまだましで、完全に無視、ひと言の断り文句すら返してくれない出版社も複数あった。
 諦めかける。児童出版社の書籍案内を見ていると、日本の新人なんて必要としていないんじゃないかとすら思えてくる。世界の不朽の名作が山ほどあって、新作にしても翻訳物が幅を効かせている。日本の創作児童文学、しかも賞すら獲っていない新人の作品など入っていく隙はない。茨の道すらないようだった。出版社にしたって、売れるかどうかわからないリスクの高い新人作品を使ってまで、日本の児童文学を発展させていく気概なんてないのだろう。不朽の名作や、海外で評価されている本の翻訳なら、リスクは少ない。ある程度数字が読める。
 やる気もなくなりかけ、スーパーダッシュ向けの新作の推敲に専念しようと決めかけたとき、最後にもう一社だけ、だめもとで問い合わせてみた。すると、最初は通常の持ちこみ(投稿原稿)案内として随時受け付けているというメールが返ってきた。その翌日、担当編集者名入りで、あらためて「郵送してくだされば編集部で拝見する」というメールが送られてくる。ついてきた担当者間で交わされた引用文からすると、最終ということを考慮してのメールらしい。
 やっとのことで持ちこみへの道がひらけた。永眠、もしくはホームページの肥やしとなってしまう前に、もう一度日の目に出るための審判を仰ぐことができる。
 そうしてこの、気概のある偕成社さんに原稿を郵送することにした。

講談社児童文学新人賞、最終候補に残る・その4(最終回)

2006-09-04 | 新人賞
 そうして迎えた、最終選考会当日の8月24日。事前にいわれていたのは日本時間19時ごろ、受賞者のみに電話連絡をするということだ。
 一応その1時間ぐらい前から、携帯電話を近くに置いておき、料理など家の中のことをする。そうして日本時間の18時30分ごろ、国際電話がかかってきた。かかってくるにしても、思ったより早い時間なのでドキッとする。
 かかってきたということは、少なくとも佳作には引っかかったのか? 心の準備もないまま、半信半疑で出る。そこで言われたのは「『霧の街のシャナン』なんですが、残念ながら選外ということに……」という、いかにも申し訳なさそうな言葉だった。
 そうそう甘くはないということだ。本来かけないはずなのに、海外だからか、わざわざ知らせてくれたのだ。担当のWさんには本当に感謝している。知らせてくれなければ、これからさらに1、2時間、悶々と電話を待って過ごさなければならなかった。きちんとお礼をいって電話を切る。
 一気に気が抜けた状態になる。その一方で、心の一部では冷静に落選を受けとめてもいた。落選が決まった直後だというのに、今後のことを考えたりもする。最初から、落選前提でプランを練っていた節もあった。
 とにかく、この選外通知の電話をもって、初めての最終選考体験は終わった。現実世界でこんなに気持ちが大きく動いたのは、何年ぶりだろうか? よろこびや期待、不安、そして落胆、奮起。残念ながらすんなりデビューということにはならなかったが、こんな経験をさせてもらっただけでも、講談社には感謝しなくてはいけない。そもそも、落としたのも選考委員の先生たちで、講談社ではないのだから。編集部選考では最後まで通っているのだというように前向きに考えて、これからも小説執筆に励んでいきたい。少なくとも、「自分の小説など、積極的にお金までだして読みたい人などいないのかもしれない」という不安は減った。一次落選が依然として多いものの、高い評価を示してくれるプロの編集者もいるということが確認できたのだから。

講談社児童文学新人賞、最終候補に残る・その3

2006-09-02 | 新人賞
 郵便による正式な書類は、5日後の7月31日に来た。契約している、空港郵便局の私書箱に入っていた。早速その場で記入して返信し、ノートPCをまた公衆電話に繋いで、返信した旨をWさんにメールで伝える。
 これで本当にやることは終わった。その後、電話もなければメールもない。選考会までこのまま放置なのだろう。受賞すれば8月24日の夜、また電話がかかってくるはずだが、逃せばもう何もコンタクトはないということのようだ。やけにあっさりしているように感じるが、最終候補すべてをデビューさせるような、勢いのあるライトノベルとは違うということだ。児童文学というのは、純文学並みに茨の道なのかもしれない。それでも半世紀近い歴史と、世間的な評価はある賞だ。ライトノベルとは違い、受賞すれば履歴書にも堂々と書けるだろう。
 その後、最終選考会の日をもんもと待つ間、過去の受賞作家や、最近の児童文学作品のことを、ネットカフェに行く度にいろいろ調べて見た。思っていたより、児童文学というものの幅がひろいことに気がつく。最近はヤングアダルトなどといういわれ方をする児童文学作品が売れているようだ。自分の作風は、ライトノベルよりもそのタイプにより近いのかもしれない。
 過去の受賞作のほうは、その一覧をあらためて見てみるとすごい賞なのかもしれないと思える。児童文学の新人賞では間違いなく最高峰の賞だ。最終に残ったというだけでも、かなり価値はあるのかもしれない。児童文学を出版する会社は、独自で新人賞を設けているところは数えるほどしかない。たとえ今回落ちたとしても、講談社の新人賞で最終に残ったといえば、持ちこみを受けつけてくれるところもあるのではないか? そして、うまくいけばどこかの出版社から……そんなふうに考えると、少しは気も楽になる。
(つづく)