26日の記事のコメント欄で、周さんから再び以下のような質問が来ましたので、ここで回答します。
(ちなみに、昨日は転んで、顔が晴れ上がり、片目がふさがり、ぼんやり過ごしました。遅くなりました。お許しください。)
先生、第三項理論と物語論の違いは、「語り-語られる」相関関係を問題にするだけではなく、その相関のメタレベルで捉えるとおっしゃいました。
つまり、第三項理論は既存の「語り-語られる」相関(プロット)を捉えるだけではなく、何故このような相関関係になっているか(メタプロット)を更に問題化すると理解してよろしいでしょうか。
教えていただければと思います。
よろしくお願い致します。
周さん、
語る行為を問題にするのですから、ナラトロジーの理論家たちこそ何故そのような相関関係にならなければならないかを考えてきたのです。しかし、それはなお、〈語り―語られる〉枠内にあります。バルトの用語で言えば、彼らは「容認可能な複数性」を想定しているのです。
〈第三項〉論はそれとはもはや、原理的に異なった地平、同じくバルトの用語で言えば、「還元不可能な複数性」に立っています。
バルトはともかく、私は何故客体そのもの、第三項は捉えられないと考えたのか、
その学問的根拠はソシュールの言語論に基づくからです。こうしたことはこれまで『日本文学』に限らず、何度も、何度も論じてきました。2001年教育出版の『文学の力×教育の力 理論編』の本には実に詳しくこれを論じたのです。
その書物では、今思えば、読書行為が教育科学研究会に限らず、当時の文部省も同じ、時代の強固な偏見である世界の実体論を斥け、読書行為は「還元不可能な複数性」にならざるを得ないことを詳しく論じたのです。
いまだに左翼思想を信じ、文科省と対立しているのはナンセンス、
以来、今日の『日本文学』八月号まで、執拗に毎回のほど、〈第三項〉の根拠について触れてきました。
「読むこと」の学問の基盤と考えるからです。
文学作品を「読むこと」は〈第三項〉の世界観にならざるを得ません。
周さんはじめ、日文協の国語教育部会の人たちは〈第三項〉論が上滑りして、これを他の学会に向かって、拡張されています。難波さんが田中チルドレンと言って、批判しているのはこのことです。
従って、これまでに幾度も拙稿で書いてきましたことですから、これ以上、繰り返したくない思いがしますが、敢て、を述べておきます。
ナラトロジーは「還元不可能な複数性」の観念に辿り着いていません。
私は、今回の八月号の拙稿の図「地下二階」を問題化しています。
〈第三項〉論はナラトロジーのその外部をも問題化して、始まります。
リアリズムを捉えるとともに、そこから超越した領域を問題化しま。実は、小説の神髄は逍遥のそれでは決定的にダメで、鷗外の「小説論」でなければ、神髄を穿つことは出来ないと私は感がています。
リアリズムの通用する〈わたしのなかの他者〉と対になった、了解不能の《他者》が〈第三項〉です。
これは八月号の拙稿の図二の「地下二階」に〈語り手〉を措定します。
そこから作中に現れたそれぞれの人物のパースペクティブ、世界観を捉えます。
すると、それぞれは多次元空間にあることが露わになります。
ナラトロジーはこれがありません。
何故か。
ナラトロジーでは、従来の人類発生、有史以来の世界観に立っていたからです。
主体の捉えた客体の外部には客観的現実が実在するとの観念のイデオロギーを信じ込んでいたからです。
今もこれは圧倒的に続いています。ブログを読んで下さる方もほとんど、客観的現実を実体と信じていると思われます。私が八月号の拙稿を書き、難波さんがマルクス・ガブリエルの『なぜ世界はないのか』を持ち出した所以です。ガブリエルの言う「世界はない」というのは、「世界」とは抽象的な全体性のこと、それは人類の思考する観念でしかないから、すなわち、それをもっと明確に言えば、そもそも客観的的現実は幻想だから、これが根拠です。
そこで、その翌日、昨日のコメント、
ナラトロジーは地上一・二階を問題にするか、それとも地下一階も問題にするのか、
これはもはやあり得ない質問、
素朴なリアリズムも「地下一階」の無意識は問題にしています。そもそもリアリズムを問題化することが「地上一・二階」の新たな意味付けであると同時に、「地下一階」を抉り出そうとするのです。
近代文学研究において、いや、近代文学研究に限らず、そもそも、近代という時代、モダンは意識を基に無意識をも問題にしてきました。「近代的自我」=「まことの我」を追究し、発見、確立しようとし、社会が、時代が、国家がこれを許さない、これとの闘いと思考してきた、「近代的自我の覚醒と挫折」の図式をベースにしていたのです。
無意識だったものを意識化、真実を手に入れようとしてきたのてす。
ポストモダンの際、ナラトロジーが登場したのですが、「地下一階」までを問題にするのは当たりまえ、で問題外と言ってよいのですが、
しかし、私が周さんを尊敬するのは、逆にその素朴に過ぎる質問をされるところにあります。私の周りはこの逆で自分で分かっていると信じ、〈第三項〉理論の指導者としてふるまいます。
それに反して、周さんはその逆、周さんや第三項の指導者の皆さんに向けて、このブログはあります。
周さん、ありがとう。
つまり、実は「地下一階」を問題化することが難問なのです。だから、周さんの疑問はあり得ない質問かに見えて、本当は極めて重要、例えば、『舞姫』の太田豊太郎は母の遺書を無意識に封じて、母の許さぬエリスと同棲生活することを可能にし、母の代理として登場した相沢謙吉に対し、「姑く」この相澤の言に従って、留保する形を取ります。地下一階と向き合いきれないのです。
周さんのお嬢さんの富士子ちゃんは小学校の四年生位ですか。「客観的現実はもうそう」と張り紙をなさって私のメールを待っているとのこと、中国の張先生のお嬢さんも同年齢位、同じような反応をなさると聞いています。鳥肌が立つ想いをします。
(ちなみに、昨日は転んで、顔が晴れ上がり、片目がふさがり、ぼんやり過ごしました。遅くなりました。お許しください。)
先生、第三項理論と物語論の違いは、「語り-語られる」相関関係を問題にするだけではなく、その相関のメタレベルで捉えるとおっしゃいました。
つまり、第三項理論は既存の「語り-語られる」相関(プロット)を捉えるだけではなく、何故このような相関関係になっているか(メタプロット)を更に問題化すると理解してよろしいでしょうか。
教えていただければと思います。
よろしくお願い致します。
周さん、
語る行為を問題にするのですから、ナラトロジーの理論家たちこそ何故そのような相関関係にならなければならないかを考えてきたのです。しかし、それはなお、〈語り―語られる〉枠内にあります。バルトの用語で言えば、彼らは「容認可能な複数性」を想定しているのです。
〈第三項〉論はそれとはもはや、原理的に異なった地平、同じくバルトの用語で言えば、「還元不可能な複数性」に立っています。
バルトはともかく、私は何故客体そのもの、第三項は捉えられないと考えたのか、
その学問的根拠はソシュールの言語論に基づくからです。こうしたことはこれまで『日本文学』に限らず、何度も、何度も論じてきました。2001年教育出版の『文学の力×教育の力 理論編』の本には実に詳しくこれを論じたのです。
その書物では、今思えば、読書行為が教育科学研究会に限らず、当時の文部省も同じ、時代の強固な偏見である世界の実体論を斥け、読書行為は「還元不可能な複数性」にならざるを得ないことを詳しく論じたのです。
いまだに左翼思想を信じ、文科省と対立しているのはナンセンス、
以来、今日の『日本文学』八月号まで、執拗に毎回のほど、〈第三項〉の根拠について触れてきました。
「読むこと」の学問の基盤と考えるからです。
文学作品を「読むこと」は〈第三項〉の世界観にならざるを得ません。
周さんはじめ、日文協の国語教育部会の人たちは〈第三項〉論が上滑りして、これを他の学会に向かって、拡張されています。難波さんが田中チルドレンと言って、批判しているのはこのことです。
従って、これまでに幾度も拙稿で書いてきましたことですから、これ以上、繰り返したくない思いがしますが、敢て、を述べておきます。
ナラトロジーは「還元不可能な複数性」の観念に辿り着いていません。
私は、今回の八月号の拙稿の図「地下二階」を問題化しています。
〈第三項〉論はナラトロジーのその外部をも問題化して、始まります。
リアリズムを捉えるとともに、そこから超越した領域を問題化しま。実は、小説の神髄は逍遥のそれでは決定的にダメで、鷗外の「小説論」でなければ、神髄を穿つことは出来ないと私は感がています。
リアリズムの通用する〈わたしのなかの他者〉と対になった、了解不能の《他者》が〈第三項〉です。
これは八月号の拙稿の図二の「地下二階」に〈語り手〉を措定します。
そこから作中に現れたそれぞれの人物のパースペクティブ、世界観を捉えます。
すると、それぞれは多次元空間にあることが露わになります。
ナラトロジーはこれがありません。
何故か。
ナラトロジーでは、従来の人類発生、有史以来の世界観に立っていたからです。
主体の捉えた客体の外部には客観的現実が実在するとの観念のイデオロギーを信じ込んでいたからです。
今もこれは圧倒的に続いています。ブログを読んで下さる方もほとんど、客観的現実を実体と信じていると思われます。私が八月号の拙稿を書き、難波さんがマルクス・ガブリエルの『なぜ世界はないのか』を持ち出した所以です。ガブリエルの言う「世界はない」というのは、「世界」とは抽象的な全体性のこと、それは人類の思考する観念でしかないから、すなわち、それをもっと明確に言えば、そもそも客観的的現実は幻想だから、これが根拠です。
そこで、その翌日、昨日のコメント、
ナラトロジーは地上一・二階を問題にするか、それとも地下一階も問題にするのか、
これはもはやあり得ない質問、
素朴なリアリズムも「地下一階」の無意識は問題にしています。そもそもリアリズムを問題化することが「地上一・二階」の新たな意味付けであると同時に、「地下一階」を抉り出そうとするのです。
近代文学研究において、いや、近代文学研究に限らず、そもそも、近代という時代、モダンは意識を基に無意識をも問題にしてきました。「近代的自我」=「まことの我」を追究し、発見、確立しようとし、社会が、時代が、国家がこれを許さない、これとの闘いと思考してきた、「近代的自我の覚醒と挫折」の図式をベースにしていたのです。
無意識だったものを意識化、真実を手に入れようとしてきたのてす。
ポストモダンの際、ナラトロジーが登場したのですが、「地下一階」までを問題にするのは当たりまえ、で問題外と言ってよいのですが、
しかし、私が周さんを尊敬するのは、逆にその素朴に過ぎる質問をされるところにあります。私の周りはこの逆で自分で分かっていると信じ、〈第三項〉理論の指導者としてふるまいます。
それに反して、周さんはその逆、周さんや第三項の指導者の皆さんに向けて、このブログはあります。
周さん、ありがとう。
つまり、実は「地下一階」を問題化することが難問なのです。だから、周さんの疑問はあり得ない質問かに見えて、本当は極めて重要、例えば、『舞姫』の太田豊太郎は母の遺書を無意識に封じて、母の許さぬエリスと同棲生活することを可能にし、母の代理として登場した相沢謙吉に対し、「姑く」この相澤の言に従って、留保する形を取ります。地下一階と向き合いきれないのです。
周さんのお嬢さんの富士子ちゃんは小学校の四年生位ですか。「客観的現実はもうそう」と張り紙をなさって私のメールを待っているとのこと、中国の張先生のお嬢さんも同年齢位、同じような反応をなさると聞いています。鳥肌が立つ想いをします。
①地下二階を顕にするには、地下一階を囲い込み切る必要があります。この言い方は正しいでしょうか。
②しかし、地下一階を囲い込みきったかどうか、誰にも分からないのではないないでしょうか。
③ナラトロジーは、地下一階までを問題にしますが、地下二階の認識を持っていないから、地下一階を囲い込みきれないでしょうか。
しかし、ナラトロジーは地下一階を囲い込みきれないことが論証できても、そう論証できた側の読みは地下一階を囲い込みきったとは言えないのではないでしょうか。
つまり、作品分析を通して、それぞれの登場人物の地下一階を囲い込みきることによって、地下二階を顕にすることは不可能ではないでしょうか。
以上、再度教えていただければと思います。よろしくお願い致します。