〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

コメントにお答えします

2018-08-29 17:44:04 | 日記
以下のコメントにこちらで応答します。

まず24日の『走れメロス』に関する記事への山本さんのコメント

「この作品は発表以来、「心」という領域と作品の構造の問題が見過ごされている」という言葉で、『少年の日の思い出』と同じであるということの意味を理解したように思います。「このままここにいたい」というメロスの言葉は自身で打ち消し出立しています。けれどだから帳消しになるというように考えるその「心」こそ〈語り手〉が問題にできなかったところだったのだと。

 山本さんは昨年の大会、『少年の日の思い出』の構造を解き明かし、見事でした。
少年の「僕」は教師の子供で優等生のエーミールの大切な標本にしている蝶を盗み、母に叱られ、それを返しに行く際、壊していたためエミールの厳しい侮蔑に晒され、結局自身の大切な標本を自ら密かに破壊するしかなかったのです。
 自責の想いは行き所を失い、鬱屈した自閉的な人間性を作り上げ、大人になっていました。

 ここから「僕」の話を聴いた主人の「私」はこの「僕」を聴き手に「僕」の物語を「僕」に向かって、語り直します。それによって、「僕」の全くそれまで気付かなかった「僕」の「罪」、傷つけられていたと思っていた「僕」が逆に如何にエーミールを傷つけていたかに気づかせるのです。すなわち、「僕」は「僕」のしてきた「罪」を「私」から聞かされることで、「僕」自らの内なる姿、「心」が明らかになり、「僕」自身が何者であったかが見えてきます。これによって、「僕」は「僕」自身に向き合い、自身の「心」の扉を開くのです。これが私、田中実の、この作品の〈読み〉の基本です。

 「僕」はこれまで自身の傷ついた「心」の重荷を背負って鬱屈し、自閉的に生きざるを得なかったのですが、主人の「私」は「僕」を罪の場に誘うことで、逆に内なる開放の扉を開けます。
 これを考えることと、小学校教材の安房直子作『きつねの窓』の「ぼく」に親を殺された子ぎつねの「心」の問題を考えることとは、決して別ではありません。前者はエーミールを傷付けていた、後者は親狐を殺された子ぎつねを深く、深く傷つけていた、子ぎつねは自分の母親を直接殺した鉄砲をもらい受け、代りになめこをあげるという高徳の僧の如き振る舞いをしていますが、「ぼく」はその後の読者同様、それに全く気づきません。これが安定教材として採用され続けながら、日本の国語教育界は子ぎつねの「心」を全く、顧みません。「心」という領域をどう考えているのでしょうか。
 そして、中学教材「走れメロス」です。前回申し上げた通り、メロスは二度、セリヌンティウスを裏切りながら、王も民衆も、いえいえ、肝心要の「語り手」がこれを問題にしていないのです。
 行為、行動で人を、約束を裏切るのではない、「心」で姦淫することが姦淫すること、イエス・キリストの教えは行為のみならず、心で思うことの肝要さを教えてくれました。
 太宰なら、『斜陽』でこれを凄まじく生きていました。『走れメロス』が失敗作であることを顕わにするためには、近代小説というジャンル、御話を語る物語文学とは異なるジャンル論、その前提の世界観、こうした原理論が必要ですね。
 長くなりましたから、今日はここで一応やめておきます。

 周さんから頂いたコメントついてはまた明日お答えします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 再び周さんの質問に答えます | トップ | 周さんの質問に答えます »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事