〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

コメントにお答えします

2020-12-30 10:11:25 | 日記
12/28の記事に古守さんから、コメント欄に以下のような質問を頂きました。
コメント欄でお答えしまたので、重複しますが、重要な質問なので、記事に取りあげて、
多くの方の目にも触れるようにしたいと思います。

12/20の甲府での文学講座ありがとうございました。
『城の崎にて』と『猫を棄てる』『一人称単数』『あるひあるとき』、これらが漱石・鴎外の小説と、作品の構造(小説の原理)や世界観を同じにするというお話に圧倒されながら、あっという間に過ぎた2時間でした。

作品に登場する「私」は、自身が意識する「私」と意識を超えた“向こう”(地下二階)の反「私」の両方を抱えていて、反「私」は罪の問題を持っているとのことでした。
反「私」という言葉は11月の講座(『一人称単数』)の時に初めて伺い、今回の講座でも話され、もっと詳しくお聞きしたかったところですが、「私」の中にありながら、「私」の意識を超えて存在する「私」の分身と考えてよいのでしょうか。「了解不能の他者」と同じでしょうか。

「私」が消える(透明になる)ことで、反「私」が現われるということ。
それを承知して語っているのが〈機能としての語り手〉であるということ。
そして、〈機能としての語り手〉という仕掛けの中で、生物の定めである「カルネアデスの板」を超える死生観(命の価値)を描こうとするのが〈近代小説〉の神髄ということ。
難解できちんと理解できていませんが、以上のことが深く印象に残りました。

『一人称単数』で「私」に「恥を知りなさい」と言う女性は、反「私」を知っている存在ということになると思いますが、反「私」を知っているのは〈機能としての語り手〉ですから、彼女は〈機能としての語り手〉の回し者(分身)???
自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。お許しください。
来年も勉強し続けていきます。3月発行の都留文科大学院の紀要、
1月以降の講座でのお話を楽しみにしています。どうぞよろしくお願いいたします。


       ※         ※        ※

以下が私のお返事です。

古守さんのコメント、拝読しました。

20日は私の捉えている村上春樹の世界についてお話させていただきました。
村上のエッセイの『猫を棄てる』を小説で物語ると『一人称単数』になります。
『一人称単数』は小説でありながら、小説論を語っていると解釈しました。
村上春樹の小説の唯一の基準は猫も人間もナデナデしあって、温かさを分け合うことです。
つまり、生きとし生けるものが互いに意識・無意識を超えて、共有し合う、
これをコアにして語られていると考えます。過激に過ぎるような小説論ですが、
それは命の根源を抉っているからだと考えます。

もともと自分、「私」とは反「私」を抱えて、「私」を成しています。
そこで、来年3月に発行される都留文科大学の「大学院紀要」には、
「私」が反「私」を含んで「私」なるものを成しているので、
それを示すために「私」と区別して『私』と二重鍵カッコにしました。
『私』はそもそも反「私」と合体して、矛盾を内包した力学の中にあるのが『私』なのです。
(さらに言えば、「私」と言う存在は大宇宙の偶然の偶然で一瞬現象した存在ですよね。)

だからこうなります。
『一人称単数』の第三段落の箇所、『私』がバーのカウンターにひとりで座って、
目の前の鏡の中の自分を見た時、『私』はその反「私」を内包している鏡の中の自分に、
お前は誰だと問われるのです。無意識のことですが、
『私』が本来反「私」を含んでいるからです。

つまり、古守さんの言われる通り、『私』はそもそも「了解不能の他者」、
永劫の沈黙を抱えている、この「了解不能の他者」を内包しているのです。
それを『わたし』は自覚していませんが、無意識にはそれを抱えていますから、
『私』が『私』自身に向き合わされる場面になった時、鏡の中の自分の像が『私』に向かって、
言い換えると、無意識の自分が意識的な自分に向かって、おまえは誰だと詰め寄るのです。

作品全体は作中に直接生身で登場する『私』を『私』と語る〈機能としての語り手〉が
これを語っています。
この〈機能としての語り手〉はその後、見知らぬ五十代の女性を登場させ、
『私』のこの矛盾を暴き出します。
すると、無意識が意識化され、『私』のその意識した世界はかつてとは全く異なり、
反「私」を含んだ、不条理の世界でした。これが『一人称単数』の末尾、
カオナシの男女が歩いている世界です。この小説の物語はそこで終わっています。
あの五十代の女性はむろん、〈機能としての語り手〉によって、語られているのですから、
作品全体は全てそうですが、『私』に眠っている無意識を意識化し、
それがカオナシが横行する不条理であることを見せつけるのです。

『猫を棄てる』はそこを「白い子猫」に成り代わって、高い松の上から、
「死について」考えながら、地上を見直すのです。
そうすると、自分にとって、それまで見えない地上の世界とともに地上が
二重になって見えてきます。
目に見えない世界は、いわば、『一人称単数』の末尾のカオナシが横行する
不条理の世界なのであり、『一人称単数』の〈機能としての語り手〉は末尾、
リスナーをここに連れて行っています。

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