〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

「文学研究×国語教育の会」のこと

2021-08-09 21:26:00 | 日記
8月8日オンラインで、「文学研究×国語教育の会」(通称「架ける会」)
設立の会が催されました。
当日は60名から70名の参加者だったと聞いています。

この会は〈第三項〉理論を原理とした研究会ですが
この理論は主体と客体の相関を実体とする伝統的な旧来の世界観を脱却しようとして、
もう四半世紀以前の拙著『小説の力 新しい作品論のために』以来、
紆余曲折を経ながら提唱してきた世界観の原理です。

当日午前中は、あまんきみこの最新の戦争童話
(あまんさんはこれを「遺書」のつもりで書いたそうです)、
『あるひあるとき』を教育現場で取り上げての実践報告、
小学校は小西千紘さん、中学校は山本富美子さんでした。

その後、「『あるひあるとき』を中心に」というタイトルで、
会の代表である中村龍一さんを聞き手とする形を取りながら、
この作品の〈仕組み・仕掛け〉について、お話しました。

午後は周非さん、山下航正さん、古守やす子さん、
それぞれの会への期待と課題が発表された後、討議が行われました。
三人の発表はいずれも〈第三項〉の原理を踏まえたものでしたが、
その後の討議では、〈第三項〉の原理に反対する立場の発言も当然ですがありました。
唯物史観の世界観が相対化された後、1980年代から今日まで続く
「ポストモダン」から「ポスト真実」に至る時代の潮流の中では
そうした意見は必然と言うべきでしょう。

学校教育では教室で何らかの「正解」が要求されますが、
文学作品を「読む」国語教育は、「正解」があるのかないのか、
ないのなら、何でもありでよいのか、
文学研究の学会から文科省まで、この昏迷・苦闘の中にあります。
そのため、今は文学というジャンル自体が教育の場から
相対的に後退してしまっています。

そこで、〈第三項〉理論が要請されるのです。
文学作品を読む際、〈第三項〉理論においては、
「正解」があるとする世界観を否定しています。
と同時に、それぞれの読み手があらかじめ持っている思考・感情の枠組みによる解釈も
原理的に許しません。

我々が読んでいる文学作品の文章の、文字の羅列は、実は、
客観的に実体として実在する文学作品の文章ではないのです。
そこには文字という言語の隠れた秘密があります。
主体と客体ともう一つ、主体と客体の外部、
その〈向こう〉に永遠に沈黙し続ける、了解不能の「客体そのもの」という
〈第三項〉を考える必要があるのです。

文学作品を読む場合は、永遠に沈黙する、その〈第三項〉を
〈原文〉・オリジナルセンテンスと呼び、
我々が目で見ている文章を〈本文〉(ほんもん)・パーソナルセンテンスと
定義してきました。
〈本文〉は読み手の読書行為によって生成する文脈・コンテクストです。

わたくしはこうした世界観認識の転換を図って、
かつてキーワード集まで出版しましたが、当時、機はまだ全くと言ってよい程、
熟していませんでした。
今回の討議でも、旧来の実体論に基づく発言はありましたが、
その逆の、それを超える「超越」に関する発言もありました。
頼もしい限りです。

閉会の辞では、横山信幸氏が、
〈第三項〉の原理に関わることを言って下さって、
私としては大変ありがたく思いました。
しかし、討議の行方には不安を感じたので、敢えて、その閉会の辞の後、
〈第三項〉理論は方法論ではない、その方法論のもとになる原理、
伝統の「客観的現実」という世界観を転換した原理論であることを
強調しました。

これらのことはこのブログで折に触れて書いていきます。

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4 コメント

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多様性と「何でもあり」 (石川晴美)
2021-08-12 14:32:05
>文学作品を「読む」国語教育は、「正解」があるのかないのか、ないのなら、何でもありでよいのか、

会の中でこのテーマが話題になった時、正解がない(=多様性を認める)ということと、「何でもあり」を否定することとの関係性を、理論的にどう説明できるのかということが、私の中でうまく言語化できませんでしたが、今回、こちらの記事を拝読して理解が深まりました。

>文学作品を読む際、〈第三項〉理論においては、
「正解」があるとする世界観を否定しています。
と同時に、それぞれの読み手があらかじめ持っている思考・感情の枠組みによる解釈も原理的に許しません。

ここが大変難しいところだと感じましたし、また〈第三項〉理論の肝であるとも思いました。
返信する
石川さんへ (田中実)
2021-08-12 16:39:35
石川さん、
まさしく、〈第三項〉理論の「肝」の箇所に反応して下さり、ありがとう。
〈読み〉には「正解」はない、ならば、読み手が自分勝手に読める、読み手の自由・気ままにできる、そう考えがちですが、そういうものでもありません。
そう、客体としてあるはずの文学作品の文章は、実は、文字の羅列なのです。
文字は一定の形をした記号(インクの痕跡)です。これを読み手が文字という言語(ラング)として捉えることで、読書行為が始まりますが、この言語(ラング)として読むとは、読み手の一回性の行為、その都度自己完結している、これが読むことです。
すこし難しいかな。
もう一度、繰り返しましょう。
我々読者は客体の対象の文章の意味そのものを読んでいるのではなく、読み手の主体の内面にその都度現れた意味の連続・文脈(コンテクスト)を自身が読んでいるのです。つまり、毎回微妙に異なる文脈(コンテクスト)を読み手の主体が造り出して、これを自身が読んでいるのです。従って、「正解」はありません。が、それは自分勝手に読んでいるのでもありません。
ここには主体と客体の二項で済むのではない、永遠に誰にも捉えられない、〈第三項〉が隠れているからです。
客体そのもの、〈第三項〉は捉えた客体のその底に隠れているのです。これは永遠に捉えられないのですが、ないのではない、あるけど捉えられない、つまり、〈第三項〉は永遠に了解不能なのですが、これを踏まえて読書行為があるのです。読み手はこの捉えられない〈第三項〉に促され、自身の〈読み〉が瓦解・倒壊していきます。それらよって読み手の主体の再構築が促されるのです。
これを目指すことが、私の理想とする読み方です。こう考えています。

石川さん、これで分かりにくかったら、また改めて簡潔に書き直します。
遠慮なく、質問して下さいね。
返信する
Unknown (石川晴美)
2021-08-14 22:50:40
文学作品の文章を読むとき、読み手の主体は、「毎回微妙に異なる文脈(コンテクスト)を」「造り出して、これを自身が読んでいる」、だから読みは多様になるし、正解はない。にもかかわらず、読み手は勝手に読んでいるのではなく、作品の意思というべきものに導かれている。
そして、ぼんやりとした作品の意思は、隠れている第三項を意識的に捉えようとすることによって、立ち現われてくる、そんなふうにイメージしました。
返信する
石川さんへ (田中実)
2021-08-16 17:06:02
コメントありがとう。
 石川さんが反応してくれるのは、とてもありがたい。
 石川さん

大体理解して下さっています。但し、「作品の意思」ではなく、〈作品の意志〉としっかり書きましょう。
 〈作品の意志〉に読み手は身を委ね、これに拉致される、これが肝心です。意識を超えて無意識の自身を闇を〈作品の意志〉が読み手を見ず知らずの所に連れ出し、そこに置き去りにします。
〈作品の意志〉は読み手も書き手も拉致しますからね。
 これが文学作品の醍醐味です。
返信する

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