〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

講座のお知らせ

2021-03-17 09:12:57 | 日記
 朴木の会の望月さんから、いつものように、以下の案内をブログに掲載するよう依頼がありました。
 なお、『なめとこ山の熊』に関しては以前、モルテザ・バグダディさんの依頼で考え、
 お話したことがありますが、今度は望月さんの要望でこれを取り上げます。


テーマ    宮澤賢治『なめとこ山の熊』―近代小説の神髄―
講師      田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時      2021年3月20日(土)午後1時半から午後3時
参加方法    zoomによるリモート参加
申込締切    2021年3月19日(金)22時まで

参加をご希望の方は、お名前、所属をご記入のうえ、下記のアドレスに申し込んでください。
申し込まれた方には折り返しメールでご案内します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com  (担当 望月)

主催   朴木(ほおのき)の会



周さんからの質問

2021-03-17 08:51:39 | 日記
前回(3/12)の記事のコメント欄で周さんと丸山さんからご質問を頂き、
それにお答えしましたが、周さんからさらにメールでご質問を頂いたので、
了解を得てこちらに掲載します。

『一人称単数』について、もう二点分からなくなっております。
自分で考えたいと思いますが、コメントに書いたことと関わるので、書かせていただきます。
 
「女」が「私」の無意識の罪を意識させたと先生がブログに書かれましたが、
何故「私」の「無意識の罪」であり、「反私」の「罪」ではないでしょうか。
ここが分からなくなりました。
 
単行本のP233の真ん中の段落には、「私はたぶん恐れていたのだと思う。
実際の私ではない私が、三年前に……」

ここを読むと、「私」の無意識ではなく、「私ではない私」がその罪を犯したと
「私」が考えていると思いますが。

もっと遡って言うと、「私」が家から出かける前に感じた「後ろめたさ」と、
その後、鏡を見た時の感覚と合わせて考えると、最初の「後ろめたさ」も、
「無意識の罪意識」ではなく、「私ではない私」の「罪」を感じた故に生まれた
感触ではないでしょうか。

ここも分からなくなっていて、考えております。

                        
これに対する私の回答は、以下の通りです。

地下二階という概念は、個人の物ではありません。
以前書いた図を思い出してごらんなさい。


すると、周さんからは次のような質問が来ました。

「反私」=了解不能の他者=第三項であれば、「反私」は「地下二階」の領域だということに
なりませんか。
私の午後のメールの質問は、「私」が抱いた罪意識、および「女」が暴いた「私」の罪は、
無意識の領域の罪ではなく、「反私」の罪ではないかということです。



これに対する私の回答は、以下の通りです。

周さんの言う、おぞましさは反「私」のなしたことなのだから、それは「私」の罪ではなく、
反「私」の罪ではないか、というのはロジック、それが通用しないレベルがこの小説です。
そこにこの小説の複雑さがあります。

     鍵は  『私』=「私」+反「私」でしたよね。


おぞましい行為は反「私」がなしました。それはそのその通り、
ところが、この反「私」は「地下二階」にあり、
この存在を意識はしても、「私」には捉えられません。
了解不能の領域です。
そうした領域のことは当人には理解できないこと、
「私」にはそれは自身の外部、〈向こう〉の領域にあって、
「私」はその存在を意識しているが、理解できない謎としてあるのです。
だから、この謎に衝突して、末尾の世界に突き落とされます。
突き落としたのは謎の女、〈機能としての語り手〉に派遣された女です。

振り返りましょう。
「私」はバーの大きな鏡に映った自分の姿を見て、
「もしそれが私自身でないとしたら―いったい誰なのだろう?」と問いかけます。
このとき既にすでに、「私」は謎の存在、反「私」を受け入れています。
この疑問に囚われているから、
鏡の自分の像に誰だと問うのです。
すると、何が起こるか、
そのことを突き付ける役割を担って、鏡に映っていた女が「私」の隣に座ります。
その時、「私」はもう『私』だったのです。

女は自分のことを恥知らずと断定します。
女の言う三年前の水辺でのおぞましいことは全く身に憶えがない、
「私」のしたことではありません。
しかし、それは反「私」のしでかしたこと、となれば、「私」ではなくとも、
『私』のしでかしたことだったのです。
そこで、バーを出ます。
すると、その結果、自分にとってそこは季節すら変わっている、
世界自体がこれまでの「私」にとってのそれとは変わっています。
「私」はもはや『私』になって、かつてとは異次元の時空にあります。
それまでの自分の観念、世界観が通用しない世界に生きるのです。
無論、〈機能としての語り手〉がここに連れ込んだのです。
このことをこの物語は語るお話です。

村上春樹は『一人称単数』という小説によって、自己とは何か、世界とは何かを問い、
こう語ったのです。

もう一度、繰り返しておきましょうね。

反「私」の犯したおぞましいことは、『私』のしたことであります。
「私」の外部の反「私」がなしたことでも、それは『私』がなしたこと、
『私』は自身の無意識の罪とこうして向き合うことが出来ます。

「私」はもう一人の「私」である反「私」がなしたと思っていますが、それはその通りですが、
そのもう一人もまた『私』そのもうひとりのもう一人の「私」と分け合って、
『私』を成していたのですね。


もう一言、『私』は宇宙とつながっています。反「私」を抱えていますから。
凄いでしょう。これが魂を響かせるのです。