気づくまでに50年かかった間違い?

2012-07-24 22:02:44 | 時事関連
2013年3月16日に東急東横線と東京メトロ副都心線の直通運転がスタートし、都心を貫通する新たなルートが誕生します!

東急の渋谷駅が現在の頭端式(櫛形)ホームから現在副都心線が折り返している地下ホームに移り、ここが東急と地下鉄の境界となります。

本改正により、東横線内を特急、地下鉄線内を急行として運行される列車が登場し、横浜 - 新宿三丁目間は最速32分で結ばれるとされています。また、輸送力が増強され、特急・急行系は一部を除き10両編成で運行されます。

ここまでは各所で伝えられている通りですので、これ以上詳しくは触れません。むしろ、今回注目したいのは、華々しい新ルート開業の一方でひっそりと役目を終える「もうひとつの都心直通ルート」こと日比谷線直通系統です。

日比谷線直通系統の廃止は、もともと朝夕を除けば30分に1本と、本数自体が少なかったためというのもあるのですが、いちばんの原因は、「20m・4ドア」の本線とは異なる、「18m・3ドア」という専用サイズの車輛を必要としたこと。

…これだけ言うと、なんだか東急が東京メトロ(旧営団)に無理やり合わせさせられているようにも聞こえるのですが、実態はその真逆。むしろ当時の営団が東急に合わせたためにこんなことになったのです。

日比谷線の(初期区間の)開業は1962年。当初より東武線・東急線との相互直通運転を前提として計画され、営団としては初めて「架空電車線方式」(注1)を採用しました。続いて、車体サイズと編成の両数が問題になったのですが、東武が「運輸省規格車輛」(注2)を大量に受け入れて「20m・4ドア」の大型車の導入を進めていた一方、東急では大型車の導入が遅れており、当時最大だったものでも「18m・3ドア」でした。

乗り入れ先会社から2つの異なるサイズを提示された営団。さてどうしたか。用地取得を容易にして早期に路線を開業させたいとの思惑もあり、結果的には東急の「小さい車体」を相互直通規格として採用し、東武の提示した「大きい車体」は退けられました。

…ところが、「小さい車体」を提示した当の東急は、1969年に導入した8000系から、「大きい車体」に宗派替え。それまでの「小さい車体」の電車を、15年程度で、日比谷線直通系統を残してすべて「大きい車体」に置き換えてしまったのです。

結果として、主唱者からも見放された「小さい車体」は、東急・東武双方において、「池多摩線」を除けば日比谷線直通固有の標準規格として存続し、1990年前後に両社が旧型車置き換えのために導入したものを最後に、本線における「小さい車体」の車輛の導入は基本的に中止されます。輸送力不足、停車位置や乗車目標が揃わない、一部区間への乗り入れが制限されるなど、「小さい車体」の存在はそれぞれにおいて悩みの種となっていきました。

そして、「東横特急」デビューを機に、東急側は日比谷線直通系統を基本的に重んじなくなり、これ以降朝夕を除き30分サイクルで運行されることになりました。2008年には日吉まで延伸された目黒線の引き上げ線を確保するために、日中の日吉折り返しをすべて菊名まで延長。運転区間延長といえば響きはいいですが、実態は「日比谷線は邪魔っけだから菊名で折り返してね。」ということ。名誉なことでもなんでもなかったのです。本当ならすぐにでもやめたかったのでしょうが、一応それなりの利用実績があり、相互直通運転の廃止は国土交通省の許可が必要で、手続き、交渉等々がいろいろと面倒だったので、結果的に「何でもいいから折り返せるところまで走る」ことになったのでしょう。
(実際に綱島→菊名まで乗ったことがありますが、夕方の混み始める時間帯でも余裕で座れました 笑)

で、ついに最後通牒、というわけです。いや、最後通牒なんてものじゃない。むしろ、50年前にはあれほど声高に「小さい車体」を主張しながら、結果として自らそれを見捨てたという先見性のなさを、認めたくないだけなのかもしれません。実際のところ、本音は「気づくのが遅すぎた!」というものでしょう。

ちょっとした出来事ひとつで、あれほどもてはやされたものも、一転してお荷物に成り下がってしまう…一方、逆もまたあり…ということなのでしょうね。

(注1)架空電車線方式…車体の上に電線を張って、そこから電気を取る方式。
(注2)運輸省規格車輛…戦後の車輛不足を補うために、各民間鉄道会社に国(運輸省)が提示した鉄道車両の標準規格。基本的に20m・4ドア・箱型・木造という部分は共通ですが、台車の履き替え、車幅など、多少のアレンジは容認されていました。いわゆる「えび茶色の国電」のイメージと思っていただければよろしいかと思います。

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