2023年初のウォーキング
名古屋市の各区に設定されている史跡散策路のひとつ
南区の東海道周辺めぐりを歩きました
①七所神社
祭神に日本武尊、素戔嗚尊他、七柱を祀っていることから七所神社といわれています
天慶3年(940年)平将門降伏祈願のため熱田の宮の神々を勧請したとのこと
通勤で国道渋滞時の逃げ道として神社の前を通りますが、そのような由緒ある神社とは知りませんでした
②粕畑貝塚跡
縄文早期末(約7000年前)の貝塚跡
奥に見える『クスリ』はいつも会社の福利厚生消耗品を購入するドラッグストアです
③笠寺一里塚
慶長9年(1604年)徳川幕府が主要街道を整備したとき、一里ごとに塚を築き木を植えて道標としました
名古屋市内に残存する唯一のもので、かつては一対の塚で道を隔てた南側に大正時代まで残っていたそうです
④東光院
笠覆寺十二坊のひとつとして創建
本堂は江戸中期の建立だそうです
⑤泉増院
ここも笠覆寺十二坊のひとつとして創建
⑥笠覆寺(笠寺観音)
尾張四観音(笠寺観音、龍泉寺観音、荒子観音、甚目寺観音)のひとつで節分会にはたいそう賑わいます
⑦富部神社
創建は定かではなく慶長8年(1603年)清洲城主松平忠吉が西方にあった祠を現在地に移し慶長11年(1606年)本殿他を建てたと伝えられています
本殿:桃山様式を伝え国の重要文化財に指定されています
享保12年(1727年)作の高砂車山車:名古屋市指定有形民俗文化財に指定されています
戸部新左衛門の碑
戸部新左衛門政直は戦国時代に活躍した人物です。今川領の西端、織田領の最前線に建つ戸部城の城主で今川義元の娘婿でしたが、織田信長の計略にかかり、三河吉田(豊橋)で義元に殺害されました
その霊を祀るため、城跡に碑が建てられましたが、後にこの場所に移されました
⑧呼続公園
近隣住民の憩いの場です
冬枯れの曽池
一帯は縄文晩期から中世までの曽池遺跡とのこと
漁に関する出土品が多くあることから海が近かったことがわかります
帰宅してから調べて分かったのですが織田と今川の領土境界線にあたる道のようなものがあるらしいです
次の目的地に向かう途中
動物供養で有名な長楽寺の裏手に多くの石像が建てられていました
中国の文人みたいですけど何でしょうか?
⑨湯浴地蔵(鉄地蔵)
鎌倉時代のころに鋳造されたと伝えられている鉄地蔵
高さ2.3mの珍しい坐像で湯浴とは人々が湯を浴びせ祈願したことに由来しています
地蔵院に安置されていてお姿を拝むことは出来ませんでした
こういう道案内
今まであちこちで目にしていたのですが史跡散策路の案内なのに初めて気づきました(汗)
⑩黄竜寺
創建応仁2年(1468年)
菅原道真の真筆画像が所蔵されているそうです
⑪鎌倉街道
鎌倉幕府ができて京から鎌倉へ通じる道が開かれました
鎌倉時代の人々がこの道を東へ西へ移動したのですねえ
東海道より道幅が狭いのはたまたまでしょうか
⑫年魚市潟勝景跡(白毫寺)
創建元亀2年(1571年)
道標の場所から鎌倉街道を西へ150mほどの場所にあり
江戸期には松尾芭蕉や小堀遠州らが度々訪れているそうです
昔、あゆち潟、知多の浦を望む勝景の地であり万葉歌人などが歌を詠んだところ
「あゆち」が「あいち」に転じ県名の語源となったのは愛知県民なら知っておきたいところですね
源頼朝が京へのぼる途中、ここに休んだので桟敷山ともいわれています
年魚市潟勝景碑
万葉歌碑
⑬熊野三社松巨島
鎌倉街道から東海道へ戻ります
永禄年間(1558年~70年)に山崎城城主佐久間信盛が守護神とした社を寛永4年(1627年)に山崎村の氏神としてこの地に移しました
松巨島とは熱田方面から眺めるとこの一帯が松の大きな島に見えたことからこの地名になったということです
⑭山崎城跡(安泰寺)
織田家家臣であった佐久間信盛が信長に追放された後、廃城になりました
山崎城のお堀だったところを現在は名鉄名古屋本線が通っています
ゴールは名鉄名古屋本線呼続駅
自宅まで歩く予定でしたが、自分に甘いワタクシは名鉄電車に乗ることにしたのでした
縄文時代から中世、近世まで
史跡散策を楽しみながらのウォーキング
身体が軽くなったと感じるのは気のせいかな(*^^)v
色んな遺蹟があって昔は東海道を通る人で賑わったでしょうね。そんなのを思い浮かべて歩くのも良いですね。
分かりやすい説明、参考になりました。
普段、何気に素通りしている所も由縁を知ると見方が変わります。
たいぴろさん、七所神社をご存知とは驚きです。
知らなかったのは私だけか…(笑)
大河ドラマ「どうする家康」熱がすごいですね~。
笠寺観音で家康人質交換の碑を見てこなかったのが悔やまれます。